彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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地獄の魔物9

 腹部。

 基本的にどんな生物においても、この場所が他のどんな場所より強いという事はあまりない。内臓がたくさん詰まっていて、骨もなく、皮膚は柔らかい事が多いからだ。

 ムスペルにおいても、それは変わらぬだろう。常に伏した体勢である奴の腹部を攻撃するのは一苦労だが、もしも一発喰らわせられたなら、側面とは比較にならないほど大きなダメージを与えられる筈である。

 が、しかし。

「いや、それは弱点と呼べるの? 当たり前の話じゃない」

 花中達の下に広がる絨毯状のミリオンが言うように、取り立てて有効な弱点とは花中にも思えなかった。

 そもそもフィア達とムスペルの力は羽虫と人間、或いはそれ以上に開いている。この世に羽虫の体当たりを腹に受け、痛みから藻掻き苦しむ人間などいない。フィア達が殴ったところで、ムスペルが身動ぎするのかすら怪しいものだ。

 正直そんな風に思ってしまう花中だったが、ミリオンに窘められた晴海は怯まない。むしろますます興奮し、叫ぶように語る。

「そうじゃない! そうじゃないの!」

「そうじゃないって、じゃあなんなのよ」

「アイツ、フィアが繰り出したお腹への攻撃に物凄く過敏に反応してたじゃない! もしお腹を攻撃されて平気なら、あんなすぐに伏せないわよ!」

「……まぁ、そうかもだけど」

「それにミリオンがロシアで戦ったムスペルも、ミリオンの攻撃を伏せて受けたでしょ! アイツらにとって、お腹は本当に致命的な器官なんじゃない!?」

「……マジ?」

 晴海の意見に、ミリオンは少し戸惑ったような声を漏らす。花中も動揺しながら、ムスペルの方へと振り返る。

 フィアの攻撃を前にして伏せた事で、腹ではなく頭から鉄拳を受けたムスペルは……まるで苛立ちを露わにするかのように、顎をガタガタと震わせていた。悔しさと怒りが、遥か数十キロ離れた位置から眺める花中にも伝わってくるほどに。

 花中はその姿を見つめながら考える。

 ムスペルの姿はアシカのようである。だから花中は、ムスペルは溶岩の中を泳ぎ回る生物だと思っていた。あの身体なら、液体内をすいすいと進むのに適していると考えたが故に。

 しかし別の見方をしてみればどうだ? あのアシカのような形態……地べたに伏せる事で()()()()()()()()()()()()()()()()()()ではないか。

 或いは地殻の最深部、地球で最も深い場所……星の中心核に接するための形態という可能性もある。超高温ながら圧力により固体となっている核に腹を付け、そこから熱などのエネルギーを吸い上げるのだ。もしこの想像が正しければ、ムスペルの腹には他の生物よりも多くの、そして重要な臓器が集結している筈である。迅速に処理しなければ、折角取り込んだ熱が拡散し、無駄になってしまうからだ。それに皮膚が厚いと熱の通りが悪くなり、吸収する上で不適応なので、他の部位よりもかなり薄くなっていると考えられる。

 無論いくら弱点でも、人間が用いる兵器でどうにかなる脆さではあるまい。肥大化した脳が詰まっている人間の頭に、小さなアリが噛み付いたところで無意味なのと同じである。しかしある程度の、防御を抜けるだけのパワーがある相手……例えば同種、或いは捕食者に腹部を攻撃されれば、とても大きなリスクとなるだろう。結果腹への攻撃に敏感な個体ほど生存率は高くなり、防御反応が発展。段々と本能に刻まれていく。

 一度本能として組み込まれれば、最早ムスペル自身にも抑えられない。どんな攻撃だろうと、例えその攻撃から身を守る特殊な術があろうと、()()()()()腹を守ろうとしてしまう。あたかも上空の気配であれば実際の脅威度に拘わらず反応してしまう、フィアのように。

 ……考えれば考えるほど、腹こそがムスペルの弱点だという晴海の意見が説得力を持つ。そしてミュータント化しているあのムスペル相手でも、フィア達ならどうにか仰け反らせるぐらいの打撃は与えられていた。

 だとすれば、腹への攻撃は本当に有効な手段かも知れない。

「……OK、がむしゃらに殴るよりはマシそうね。とりあえずさかなちゃんと猫ちゃんには伝えておくわ。でもあまり期待しないでね」

 ミリオンも納得したのだろう、晴海にそう告げた。動きは見えないが、目に見えないほど小さな個体を幾つか飛ばしたと思われる。間もなくフィア達にもこの情報は伝えられるだろう。

 しかしこれで一安心とはいくまい。。

【……ふっはははははははは! そーいう事ですかァ! じゃあさっさとぶちかましてやりましょうか!】

「ふっしゃあああっ!」

 花中は息を飲んで見守る中、フィアが咆哮と共に動き出し、自身を固めていたキューブを易々と砕いたミィも雄々しく叫ぶ。

 二匹は同時にムスペルへと突撃する。フィアはさながら突進する横綱のような低姿勢、ミィも溶岩の海を駆けて低い位置を確保。どちらも伏せているムスペルの腹を狙っていた。

 非常に分かりやすい動きだ。ミュータント化により人間並の知性を獲得している筈のムスペルならば、フィア達の狙いを即座に理解したに違いない。歯噛みし、忌々しさを隠そうともしない事からも明らかだ。

 されど悔しさは、すぐに消え失せた。

 知的だからこそムスペルは理解しているのだ。迫り来る超生命体二匹すらも、自分にとって脅威たり得ない事を。

【バルルォオオオオオオオオオオンッ!】

 ムスペルが吼えた瞬間、大地から無数の槍が出現した!

 槍は半透明な、先程フィア達に喰らわせたのと同じもの。フィアの『身体』をも貫く強烈な攻撃の前振りに、生身であるミィの足が僅かに鈍る。

 対するフィアは自分の『身体』が貫かれようとも、一部が砕けようとも構わず前進。二匹の足並みは乱れ、先にムスペルに到達したのはフィアだった。どっしりとした構えでムスペルとぶつかり合い、その両腕をムスペルの『ヒレ』の付け根へと伸ばす。一番持ちやすそうなところを掴み、強引にひっくり返すつもりなのだ。

 だが、ムスペルはこれを許さない。

 突如として虚空より現れたキューブが、フィアの腕を固めたのだ。無論水で出来た偽物の『身体』にとって、腕に何かが纏わり付いてもダメージとはならない。だが手の指を四角い塊で固められてしまったら、ヒレの根元を掴む事など叶わない。

【ぬぅ! 小癪なごっ!?】

 文字通り手を塞がれたフィアに、ムスペルは強烈な頭突きをお見舞いする! 何百万トンもあるフィアの身体が浮き上がり、十数キロ彼方に突き飛ばされた。落下と同時に溶岩の飛沫が上がり、大津波が巻き起こる。

 ムスペルは出遅れたミィに視線を向けた。体長三メートルを超える猛獣姿であるとはいえ、ムスペルから見れば虫けらのような小ささのミィだが……ムスペルは逃がすつもりなどないようだ。

「うげ、ちょ、ま、ッ!?」

 慌てふためくミィは、即座にその場から後退。今まで彼女の居た場所にキューブが次々と出現する。

 瞬き一回分でも反応が遅れれば、またしてもミィはキューブの中に閉じ込められただろう。ミィのパワーならば破れない事もないようだが、しかし幾つものキューブを()()()出現させられたらどうなるか……ミィもそれを察したからこそ逃げたに違いない。

 接近を試みるも、数秒と経たずに離れざるを得なかったフィアとミィ。ムスペルをひっくり返そうとする彼女達は、ムスペルに接近しなければどうにもならないというのに。

 対するムスペルは、距離が開いていても関係ない。

 虚空より生成した『槍』を飛ばせば、射程の問題は解決するのだから。

【バルッ! ルオオオォンッ!】

 ムスペルは尾を振るい、空中に生み出した『槍』を殴り付ける! 打撃を受けた槍は超音速で飛び、フィアの頭を狙う!

 フィアは勿論これを防御――――しようとした腕は無数のキューブで固められて動けない。猶予があれば腕を新たに生やす事も可能だが、そんな時間はなく、『槍』はフィアの頭を貫いた!

【この程度ォ!】

 されどフィアにとって頭など作り物。新たに作り出した腕で『槍』を掴み、顔面から引き抜く。次いでその『槍』を返してやろうとばかりにムスペルに向けて構えた

 直後、『槍』が爆発した!

【ぬぐぅ!? これは……!】

 爆風を至近距離で受け、フィアは作り物の『身体』を大きく仰け反らせた。『槍』を掴んでいた手は吹き飛び、跡形も残っていない。

 どうやらムスペルは、『槍』を生み出すだけでなく消失させる事も自由自在のようだ。物質の創造と破壊を行う様は、神の所行を見ているような気持ちにさせられる。畏怖の念が沸き、彼方で見守る人間達に絶望的な感情を抱かせた。

 だが、ケダモノは神など信じず。

 目の前に立つモノもまた己と同じケダモノであると理解し、怯まず立ち向かう。

【まだまだァァァァァッ!】

「やられっぱなしと、思うなァ!」

 フィアとミィは再度ムスペルに突撃を始めた。

 ……三匹の ― 正確にはミリオンも居る筈なので四匹なのだが肉眼では見えない ― 戦いを観察し、花中はやはりと感じる。

 晴海が予想した通り、ムスペルにとって腹は相当致命的な弱点らしい。奴はフィア達を攻撃するよりも、彼女達からの攻撃を防ぐ事に注力しているように見えた。

 その際役立つのが、あの魔法染みた力だ。虚空より現れてフィア達の身動きを封じるキューブ、何処からか出現する巨大な『槍』……いずれも無から有を生み出しているとしか思えない芸当である。あの力に阻まれてフィアもミリオンも思うようにムスペルに近付けず、未だ腹部への攻撃を行えない。

 なんとかしてあの力を封じるか、或いは無効化する術を見付けねばならない。だがあの力は一体どんな原理で発現している? いや、そもそもあのキューブや『槍』は何で出来ているのだろうか。

「ミリオンさん! あの、フィアちゃん達を襲ってる、槍とか、四角いものとかが、何で出来ているか、分かりますか?」

 それを解析出来る者はミリオンぐらいだ。花中はミリオンに尋ね、足下に広がるミリオンは考え込むようにしばし沈黙を挟んでから、落ち着いた口調で答える。

「……主成分は窒素よ。というか窒素だけしかないわね」

 ただしあまりにも予想外の答えに、花中は一瞬呆けてしまったが。

「窒素、ですか? ……えっ、窒素?」

「ええ、原子番号七番のそいつよ。あの四角い塊と槍っぽいものは、どちらも純粋な窒素の塊。一体何処から出してるんだか」

 人の姿を取っていたなら、今頃肩でも竦めているのだろうか。そんな姿が脳裏を過ぎる言葉遣いでミリオンは説明し、花中は一層戸惑う。

 窒素は、確かに地球では有り触れた物質だ。しかしながらその性質に何か特別なものがある訳でもなく、ましてや単体の塊が頑丈だという事もない。

 一体どうしてムスペルは、窒素の塊なんかを作り出しているのだろうか? そもそも何処から窒素を……

「えっ、それってつまりアイツは空気を操っているって事?」

 花中が考えていると、晴海からそのような質問が飛んできた。自分の思考に没頭していた花中は一瞬キョトンとなり、遅れて晴海の言葉を理解した後も戸惑いから少し口の動きが鈍ってしまう。

「……えっと、何故、空気を操れるって、考えに?」

「え? いや、だって窒素って空気に八十パーセントも含まれてるでしょ? それをこう、ぎゅっと集めて塊にしたんじゃない?」

「まぁ、原材料は空気かもね。でも窒素ってマイナス二百十度まで下げないと固体にならないわよ」

 晴海の意見に、ミリオンは化学的な観点から答える。ミリオンが語るように窒素の凝固点はマイナス二百十度。この圧倒的低温まで下げなければ固体の窒素は誕生しない。

 ムスペルの口から放つ振動波は大地を溶解させていたが、あれは粒子に振動という名の大きな運動量を持たせる……熱エネルギーを与える事で為し得ている。つまりは加熱だ。固体窒素を生み出すためには低温、つまり粒子が持つ運動量を奪う必要がある訳で

「(……あれ?)」

 そこまで考えて、ふと花中は思う。

 ムスペルの力は大地のみならずあらゆるものを……金属どころか生物すらも……溶解させた。特に人が溶かされるなんて、あれほど恐ろしい光景は他にあるまい。

 しかし、これはおかしくないだろうか?

 例えばヘリコプターが鉄で出来ているとした場合、融点は約千八百度となる。ではこの千八百度という高温に人間が晒された場合、その人間は溶けてしまうのか?

 否である。人間の肉を形作るタンパク質は七十度で変性し……ほんの数百度で()()()()()()。燃えるとはつまりタンパク質中の窒素や炭素が化学反応を起こし、二酸化炭素や水などの『気体』に変わる過程だ。つまり千八百度もの高熱を受ければ、人間は溶けずに蒸発する。

 にも拘わらず花中は、ヘリコプターと人間が同時に溶ける瞬間を目の当たりにした。やはりアレは見たという思い込みで、本当はただの見間違い? そうかも知れない。だが違う可能性も出てきた。

 例えばそれこそがムスペルの『能力』。

 沸点も融点も異なる物質を同時に溶かす……その現象を文字通りのものと解釈する。ありのまま理解すれば良い。ミュータントの力とはそれほど理不尽なのだから。

 そう考えればなんと簡単なの話だろうか。沸点も融点もムスペルの力の前では関係ないのだ。

「物質の『状態』を操る能力……!」

 それらを全て無視して、意のままに操る能力なのだから。

「状態って、気体とか、液体とか?」

「はい! そうだとすれば、説明出来ます。あの槍みたいなものは、窒素を固体へと変化させて、作り出したものだとしたら……!」

「……成程。本当にそうだとしたら、あの魔法染みた攻撃については説明出来るわね」

「途中から、ミィさんの攻撃に、耐えられるように、なったのも、自身の身体を、固体の状態として、固定する事で、強度を、増したのかも、知れません」

「ヤバいわねぇ。何がヤバいって、あの槍とか四角いものを作り出す時の素振りからして、力を発動するのになんかビームみたいなのを当てたり、身体で触ったりする必要すらないって感じなのよね」

「ちょ、それってつまりアイツがその気になれば、その瞬間蒸発させられたり、溶かされてもおかしくないって事!? 流石に無敵過ぎるでしょそれ!?」

「ええ、問答無用に無敵の能力ね。相手していたのが私達じゃなかったら、如何にミュータントでもそれこそ瞬殺だったかも」

 飄々と語るミリオンに、花中は同意を示すために頷く。

 フィアは昨年の戦いにより、水分子を『固定』する力を身に付けた。ミィは抵抗をなくす……つまりは外部からの力を受け流す能力を備えた。そしてミリオンは熱を操るという、粒子の運動量そのものを支配する能力を手に入れた。

 三匹とも、粒子の運動量変化にそれなりの耐性を獲得していたのだ。もしもこの力がなければ、三匹とも呆気なく気化なり液化なりさせられていたかも知れない。これまでの戦いによる経験が、彼女達に活路を開いたのだ。

 ――――そう納得したいところであるが。

「(それだけで、本当に耐えられる……?)」

 花中は疑問に思う。

 ムスペルのサイズからして、フィア達よりも力は遙かに大きい筈。如何に三対一とはいえ、本来ならフィア達など虫けら扱い出来るに違いない。事実先月の『破局噴火』の際、恐らく地下に潜んでいたであろうムスペルは、フィアの『糸』を易々と消滅させている。数億度にもなる核の炎にも耐える水を、なんの苦労もなく、だ。

 わざわざ大気を固体に変化させ、物質的な攻撃で叩き潰そうとしているのは何故? この程度の力で十分だから? しかし何時まで遊ぶつもりなのか?

 違和感を覚える花中。その疑問の答えを教えてくれたのは――――『星』であった。

 突如、花中の背後から爆音が響いたのである。

「うひゃうっ!? え、何が……」

 驚いた花中は思わず飛び跳ね、無意識に背後へと振り返る。晴海も同じく振り返り、共に音がした方を見ていた。

 直後、花中達の前に真っ赤に輝く噴水が現れる。

 ……何故赤い噴水が?

 混乱する花中は、噴水をじっと見つめる。見つめて、それが溶岩であるとようやく気付いた。ムスペルの力がこの辺りまで及び始めたのか。足場となってくれているミリオンならば溶岩の直撃にも耐えてくれるだろうが、少し距離を取った方が良さそうである。

 そんな花中の考えを嘲笑うかの如く。

 地平線の彼方……ムスペルを中心に広がる溶岩の海が及んでいない地点からも、溶岩の噴水が噴き上がった。

「……えっ……?」

 花中の思考が止まる。何が起きているのか、理解するのを拒むように。

「はなちゃん、ヤバいわ。さっき避難所で情報収集していた『私』が飛んできたんだけど、どうやら世界中で、ムスペルと関係なく溶岩の噴出が起きてるみたい」

 されどその理解をミリオンが強いてくる。

「せ、世界中!? どういう事よ!?」

「そのままの意味。人の居る居ないに関係なく、あちこちで溶岩が噴き出しているのよ。丸ごと吹き飛んだ町も少なくないし、山が砕け散ったところもある。地震も至る所で起きてるわ」

 声が出なかった花中を代弁するかのように狼狽える晴海に、なんて事もないかのようにミリオンは説明した。されどミリオンの口調は普段よりも少し早口で、焦りの感情を花中は感じ取る。

 そうだ、晴海が言っていたではないか。ムスペルは戦い以外のところにエネルギーを費やしているのではないかと。

 花中はそれを、ムスペル周辺に広がる溶岩を形成するためだと思っていた。なんという甘い見立てなのだろう。この程度の範囲を溶岩に沈めるなど、ミリオンにも出来そうではないか。ムスペルならば、もっともっと広い範囲に力を及ぼせる筈である。

 例えば星全体。

 規模が大き過ぎる? いや、ムスペルの力を思えばむしろ相応しい。星の全てが相手となれば如何にムスペルでも苦戦を強いられるのだ。自分達は星相手に苦労しているムスペルに、ちょっかいを出していただけに過ぎない。

 そうした邪魔を乗り越え、ついにムスペルの力は星全体に行き渡った。

 これから何が起きるのか? それはミリオンが語った通りの事だろう。世界中で溶岩が噴出している。人の暮らす地も、野生の王国も関係なく、マグマの海に沈んでいく。花中達が目の当たりにした、温泉街のように。

 全てが溶岩に埋め尽くされた世界。それは地上の生命にとっては地獄以外の何物でもない。されどムスペル達にとっては、故郷と同じ心地良い世界。

 花中は甘く見ていた。ムスペルは遊び半分で地上に来たのではない。少なくともミュータント化した個体に関していえば、地上への『侵出』を本気で考えていたのだ。

「……時間は、なさそうですね」

「ないわね。下手をすれば三十分もしないで星の表面全てがどろどろに溶けるかも」

「そ、そんな!? どうしたら良いのよ!?」

「どうもこうも……」

「……やる事は一つです」

 三十分以内に、星をも生まれ変わらせる生命体をこてんぱんにやっつける。

 自分達が生き残るためには、最早この手しか残されていないのだ。

「ミリオンさん! フィアちゃん達に、連絡! 周りの空気を、なんとか退かして、真空状態にして、ください! それで、ムスペルが繰り出している、キューブや槍の攻撃を、無効化出来る筈です!」

「なんとまぁ無茶を簡単に言ってくれるわね……でもそれしかないか」

 花中の策を受け、ミリオンは渋々ながら受け入れる。

 数秒後、ムスペルが繰り出すキューブ……大気中の窒素を固体化させたもので足止めされていたフィアがぴくりと動いた。ミリオンの『伝言』が届いたのだろう。

 花中としても無茶な策だとは思う。自分達の周りにある大気を退かし、ムスペルの周辺を真空状態にする……現代科学ではどうやっても無理な事だ。全てが溶岩に沈み、障害物も何もなくなったこの場で空気を吸ったところで、周りから同じだけの量が流れ込むだけである。

 だが、フィアは笑った。

【そういう事ならお任せあれ!】

 そして自信満々な雄叫びを上げるや、大きくその両腕を広げる!

 直後その両腕の先より、多量の水が放出された!

 水はムスペルの下へは向かわない。ムスペルを取り囲むように、左右に広がっていく。水は半径数キロ程度の輪を作ると、今度は上を目指すように伸びていく。頭上で伸びてきた水同士が癒合すれば、フィア達を取り囲む水のドームが完成だ。透き通った水の膜は人間の視界を遮る事もなく、その中に居るフィア達の姿を花中達に今も見せてくれている。

 自身を包囲する水に、ムスペルも警戒心を露わにした。【バルオォンッ!】と一声吼えてみたのは、水を気化させようとして能力の一部を使ったのか。

 されどフィアの能力の支配下にある水は、ムスペルの声を受けても変化しない。

 ムスペルは悔しそうに顎を揺れ動かす。本来のパワーであれば、フィアが如何に水分子を固定したところで、ムスペルは易々と水を気体へと変化させただろう。しかしどうやら未だにその力の大半は、星全体に行き渡らせているらしい。フィアの能力を打ち破るには少々出力不足のようだ。

 これは朗報だ。今も星全体に力を割いているという事は、その力を止めれば地球表面を襲う異変はすぐにでも止まる筈である。少なくともまだ手遅れではない。

 無論、あくまでも『今』の時点の話だ。あと数分で、最早手放しでも問題ない状態に移行する可能性はある。

 その状態になるまで耐えれば、ムスペルの勝利は確定だ。

【バルルオオオオオオオオオォンッ!】

 ムスペルは咆哮を上げ、応えるように虚空から無数の『槍』が形成された。窒素を固体化させて作り出した、自然の法則に従わない超常の武器。

 ムスペルは身体をしならせ、『槍』をヒレで殴り飛ばす! 『槍』が目指す先はフィア――――ではなく、自身を取り囲む水のドーム。

 知的であるが故に展開された水のドームの意図……外部の空気が流れ込むのを防ぐつもりだという事は、すぐに見抜いたようだ。穴を開けるつもりなのだろう。能力により固体化した窒素がどれほどの強度かは不明だが、ムスペルの身体がミィの打撃を耐えるようになるのだ。フィアの展開した水のドームがどれだけ分厚くとも、『槍』の方が負けるという事はあり得ない。

 だから『槍』が届いたら、ドームは簡単に無力化させられてしまう。

「はぁああああっ!」

 それを防ぐのがミィの役目だ。彼女は音速すら置き去りにする超スピードで駆け、ドームに迫る『槍』に追い付く。

「どっりゃあぁっ!」

 そして『槍』を蹴り付け、ドームの壁から遠ざけた! 蹴りつける先は勿論、ムスペル!

 『槍』は自身の驚異的堅さが災いしてミィの蹴りでも砕けず、超音速にてムスペルの下へと返された!

【ッ! バルルルォオンッ!】

 ムスペルはすかさず声を上げ、『槍』を爆散……気化させる。危うく自身を貫くところだった一撃に安堵、なんてものはしない。ムスペルは全身を震わせ、怒りを燃え上がらせていく。

 次いで視線を、溶岩の上で待機するミィに差し向ける。

 最初に潰すべきはミィだと理解したのだ。ムスペルの標的となったミィは僅かに後退りしたが、恐怖心を見せたところでムスペルは満足などしてくれない。

【バルルォオオオオオオォンッ!】

 猛り狂うムスペルは、ミィを固定化した窒素で閉じ込めようとした……のだろう。

 だが、何も起こらない。

【……? バルオオオオオオオオオオンッ! バルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 何度も何度も、ミィを睨みながら吼えるムスペル。されどミィの周りでは何も起こらない。

 何故か? ムスペルはその巨体故に気付けないかも知れない。ミリオンの力で拡大した映像を見ている花中達でも、よく目を懲らさねば見落としてしまうところだった。

 ミィではなくフィアの足下の溶岩が、黒く固まっている事を。

 その黒い塊の上に透明な液体と、()()()()がある事も。

「……液体窒素と、液体酸素。冷却、出来ましたね」

「ええ。案外どうにでもなったわね」

 彼方からムスペルの狼狽を見ていた花中は安堵し、足場となっているミリオンはくすくすと楽しげな笑いを漏らす。

 透明な液体は液体窒素。青い液体は液体酸素。

 いずれもミリオンが『冷却』により作り出したものだ。例え姿は見えずとも、ドームの中には無数のミリオンが潜んでいる。熱を操る彼女達にとって、温度を冷ます事など造作もない。大気の主成分である窒素と酸素を凝固点まで冷まし、液体へと変化させたのである。こうして大気から二大分子を取り除き、ムスペルの能力を『物理的』に封じたのだ。

 無論大気の九十九パーセントを取り除けばほぼ真空状態。生半可な生物なら窒息し、死に至る環境である。気温……ほぼ真空状態なので『気体』なんてないが……も大きく下がるだろう。ムスペルが能力により特大の窒素槍を(周辺の気圧)作り出した(を下げた)際、花中達が体感した寒さと息苦しさに襲われるのだ。そうした環境変化からミリオンの行動に気付き、なんらかの妨害に打って出る事も、他の生物ならあり得た。

 されどムスペルは地殻深くに生息する生物。元より大気などない環境に暮らすムスペル達は空気呼吸をしていない筈であり、真空状態への急激な変化にも気付けないと花中は踏んでいた。加えて最低でも一千度以上、恐らくは核付近という六千度を超える高温環境下で暮らしていたムスペルにとって、高々数百度の温度変化など微々たるものだ。世界がマイナス百度を下回ろうと、その外皮は何も感じまい。

 故にムスペルは、自分の周りから大気が失われた事に気付けなかった。或いは今もよく分かっていないのかも知れない。困惑したように後退りする姿が、奴の狼狽を物語る。

 大きな、そして逃せば次があるか分からないチャンス。

【ヌゥオオオオオオオオオオオッ!】

 フィアは躊躇いなく、ムスペルに突撃する!

 猛然と迫り来るフィアの姿に、ムスペルは驚いたのか。【バルルオオオオオオォンッ!】と大きな咆哮を上げた。が、何も起こらない。周りに空気はないのだから。

 ムスペルは圧倒的に強い。恐らく地殻でも敵なしだ。

 故にミュータント化したムスペルには、実戦経験と呼べるものがなかったに違いない。格下との戦いばかりでは戦闘の感覚も鈍ってしまう。鈍ったところでなんの問題もないから、改善しようという意思すら持てない。

 だからムスペルは動けなかったのだろう。

 数多のミュータントと、時には遙か格上と戦ってきたフィアの、勇猛果敢な突撃を前にして。

【グルァアッ!】

【バルッ!?】

 フィアはムスペルのヒレの付け根を、ついに掴んだ! ムスペルはのたうつように暴れるが、フィアは決して離さない!

「加勢するよ!」

 フィアがムスペルに組み付いたのを見るや、ミィもムスペルに駆け寄る。狙うはムスペルの喉元付近。溶岩に接していて隙間のない腹には潜り込めずとも、僅かに浮いた顎の下には入れる。

 そこでミィは、強烈なキックをムスペルの顎に喰らわせた!

 下から上に突き上げるような、強烈な一撃。彼女の地をも砕く攻撃はムスペルに上向きの力を与え、フィアの行為を手助けしていた。

 続けて虚空より、黒い靄が現れる。

 ミリオンだ。今までフィアとミィの守りに入っていたミリオンも、いよいよ攻勢に出たのだ。ムスペルの背面に回り込んだ靄は、百メートルはあろうかという人の手の形となり、ムスペルを掴む。そして地響きのような轟音を上げながら、少しずつ浮上しようとしていた。

 三体の超生命体が、力を合わせてムスペルをひっくり返さんとする。腹が弱点であるムスペルは明らかに動揺を見せた。抵抗するように暴れるが、されど三匹の力を受けた身体は少しずつ反り返っていく。

 このままひっくり返せば、勝てる。

 勝利を確信した花中の顔に笑みが浮かぶ。傍に立つ晴海からも期待を抱いた雰囲気が感じられ、同じ気持ちなのだと分かった。これで地上の生命は、人類は生存が許されるのだと。

 甘かった。

 ムスペルもまた生物。如何に実戦経験がなくとも、いや、ないからこそ大きな成長の可能性があるというのに。

「……あれ……?」

 最初に『変化』に気付いたのは、晴海だった。遅れて花中も違和感を覚える。

 ムスペルの動きが止まっていた。

 フィア達は今も力を込めている。決して手を弛めていない事は、唸るような彼女達の声が聞こえてくるので間違いない。むしろあと一歩だからこそ、彼女達は一気に畳み掛けようとフルパワーを出している筈だ。

 なのに、どうしてムスペルは動かない?

 いや、それどころか……少しずつ体勢を立て直しているのは何故?

【花中さん! 不味いです! コイツ……()()()()()()()()()()()()()()()()()身体を固定しました! 地面も固体になっていて動かせません!】

 疑問の答えはフィアの、何十キロ彼方にまで届く大声が教えてくれた。身体の芯がビリビリと震えてくるほどの声量で、一字一句の全てが花中の脳に叩き込まれる。

 だが、花中の理性がそれを理解するには、相応の時間が必要だった。

 ヒレを伸ばした? 一体なんの事だ?

 花中は『望遠鏡』を覗き込み、ムスペルの姿を観察。フィアが言っていたようにムスペルのヒレは地面に突き刺さり、その地面は赤く輝いた岩石という形で固体化していた。

 そしてヒレは、確かにフィアが言っていたように()()()()()

 見間違いではない。明らかに戦う前よりもヒレが伸びていたのである。一体どうして? まさか伸縮自在なのか? 様々な考えが脳裏を過ぎる。

 答えは、ムスペルの『変化』が教えてくれた。

 ムスペルの背中から、突如として無数の『触手』が生えてきたのだ。否、よく見れば触手というより……液体だ。体液らしきものがうねうねと動いていたのである。

 体液はやがて地面にまで伸び、染み込むように入り込んで――――瞬時に固まる。固まった時にはもう立派な肉であり、あたかも最初からそのような触手が生えていたかのようにムスペルの肉体と一体化していた。

 花中は理解した。理解したが故に、一気に血の気が引いていく。

 ムスペルは自分の身体を液化させたのだ。状態を変化させる事で、本来固体である筈の肉体を自由に変形させた。物質の状態変化を、これまで攻撃にのみ使っていた力を、自らの肉体に使用したのである。様々な形に変化した肉体を地面に穿ち、足場を固定してフィア達の怪力に耐えるつもりなのだろう。

 これは不味い。時間を掛ければムスペルの『作業』は終わり、フィア達に全力を向けられるようになる。そうなればもう勝ち目なんてない。

 全身を液化してフィアの拘束から抜け出さないところからして、全身に能力を行き渡らせる事までは出来ないのだろう。あくまで急場凌ぎなのか、練習が足りないのか、肉体的制約か……しかし現状でもフィア達の攻勢を耐えるには十分。

【ぬぐ……ぐぎ……ぎぎぎぎぎ……!】

「があああああっ! ああああああッ!」

 フィアが苦しげに唸り、ミィが大きく吼え、ミリオンは無言のまま引っ張る。ドームの中は真空に近い状態であるが、それでも声が聞こえてくるという事は、僅かに残った希ガスや二酸化炭素だけでも耳に届くような大声だという事を意味する。三匹は全身全霊で挑んでいる筈だ。

 だがムスペルは微動だにしない。それどころかゆっくりと、上向きになった姿勢を伏せた状態に近付けていた。

 完全に伏せられてしまったら、ムスペルは自分の身体と大地を接着し、より強固な守りを築くだろう。こうなったらもう二度と持ち上げられない。それはつまり自分達の敗北を、地上の崩壊を意味している。

 そしてフィア達が一向に押し返せないという事は、どうやら地上の崩壊は避けられそうにない。

「……そん、な」

 がくんと、腰が砕けたかのように晴海がへたり込む。立ち上がる気配もなく、しばしぼんやりとした表情を浮かべ……へらへらと笑い出した。目には涙が浮かんでいるというのに。

 ムスペルを止める事はどうやら無理らしい。このまま地上の生命は滅び去るのだろう……なのに、悲しいとか、怖いとか、無念だとか、花中の胸中にそんな気持ちは不思議と出てこなかった。最初から無理だとは思っていたし、自分の所為だとも思わない。ただただムスペルが不条理なほど強かったというだけの事。その強さで生息域を広げたという、実に野性的な出来事に他ならないのだから。

 人の心はとうの昔に勝利を諦めている。今の晴海と同じように。

 ――――だから此処に居る自分を立たせているのは、人の心ではない。

 勝ち目がない? そんなのは分かっている。自然の摂理? きっとそうなのだろう。では、一つ問うとしよう。

 ()()()()()()()

 勝ち目があるから戦いを挑んだのではない。自然の摂理を正そうだなんて頭にも上っていない。ムスペルを止めようとした理由は、もっとシンプル。

 まだ自分が死にたくないからだ。

「……上がって……」

 ぽつりと、言葉が漏れ出る。

 自分に出来る事なんて何もない。無力でちっぽけな人間に過ぎないのだから。

 だけど何もせずにはいられない。

「上がって……!」

 また呟く。先程よりも大きな声で。

 自分に出来るのは祈る事だけ。祈って何かが変わるとは思わない。それでも祈らずにはいられない。

【ぬぅうああああああああぁァァ……!】

 今でもフィアは唸りを上げ、伏せようとするムスペルを食い止めている。一歩も退かず、力を抜く気配などない。少しずつムスペルが体勢を立て直している事は、奴をひっくり返そうとしているフィア達が一番知っているのに。

 まだフィア達は諦めていないのだ。どんなに敵が強大でも、僅かな希望すらなくとも……彼女達もまた、まだ死ぬつもりはない。死ぬにしてもムスペルにやられるような死に方など望んでいない!

 自分だけが先に諦めるなんて、そんな甘えた事出来るものか。最後まで、フィア達と共にムスペルと向き合う!

「上がれ……上がれ……!」

「大桐、さん……? え、大桐さん、どうしたの!?」

 何故か晴海が声を掛けてくる。だけど今はそんな事に気を回してなんていられない。

「上がれ……上がれ……上がれ……!」

 ただただ願う。願う事しか出来ない。願い、願って、願い続けて――――

 不意に、ムスペルの身体が、少しだけ上向いた。

【……バル?】

 最初に反応したのはムスペル。首を傾げるように頭を傾け、ポカンとしたようにしばし呆ける。

 そして真っ先に狼狽えたのもまた、ムスペルだった。

【バ、バルルオオオオオンッ!? バルォオオオオオオオオオオオオンッ!】

【ぬぐっ! ぎ……ぐぎぎぎぎ……!】

 動揺するムスペルに、フィアは更に力を込める! 少しずつ、少しずつだが、ムスペルの身体が大きく反り返っていく!

 祈りが通じた? 想いが届いた?

 馬鹿馬鹿しい。そんな事はあり得ない。これはフィア達の「生きたい」という情動が為し得たもの。生命の本能が起こした『脅威』。

 自分はそれに便乗しているだけ……自覚しながらも花中は笑う。希望が見えたのだ。笑顔を我慢するなんて出来っこない。

【バル!? バルルル……バッ……!?】

 藻掻き、のたうち、ムスペルは暴れる。腕を突き刺した大地が持ち上がり、地上から離れれば、最早ムスペルの身体を繋ぎ止めるものはない。

 これで最後。

【上がれええええええええええええっ!】

「上がれええええええええええええっ!」

 全力の生存本能を、渾身の祈りを、一匹と一人は叫びとして発し――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ムスペルの身体が大きく浮かび上がるのを、花中達は目の当たりにするのであった。

 

 

 




晴海は見てしまった!
次回、その正体が明らかに!(謎の引き)

次回は明日投稿予定です。

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