彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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孤独な猫達9

 キャスパリーグの力は圧倒的だ。

 一度大地を蹴れば、その身はどんな生物にも捉えられない神速へと達する。腕を振るえば余波だけで並の生物は粉砕され、直撃を受ければ山をも砕ける。肉体はそんな桁違いの力を受け止めるだけの頑強さを誇り、感覚は自らのスピードに対応出来るほど鋭敏。純粋故に、シンプルに全てを凌駕する。

 どんな敵を前にしようと、本気を出すまでもない。彼が撫でれば、それだけで獅子すらその首をもがれる。

 どんな脅威が迫ろうと、向き合う必要もない。彼が適当に腕を振れば、巨像すらボロ雑巾と化す。

 その彼が――――正面を見据え、咆哮を上げていた。

「ぐ、ぬぅおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 身を捩りながら、キャスパリーグは腕を引っ込める。そこに何があるのか、彼の眼にも見えない。だが、伸ばしていた腕の皮が一枚()()()のを、確かに感じた。腕を引っ込めなければ、そのまま腕の肉を引き裂かれ、切断されていただろう。

 だが、引っ込めただけではまだ終わらない。見えない『何か』は、キャスパリーグ目掛けて飛んできているのだから。

 キャスパリーグは引っ込めた腕をすかさず振り上げ、『何か』に向けて力いっぱい下ろす。超絶の速さで振り下ろされた手刀は『何か』を容赦なく叩き斬った

 瞬間、爆発するように『何か』は弾け、大量の水が辺りに撒き散らされる!

 キャスパリーグに迫っていたのは、無色透明な『糸』だった。大量の水が目視不可能な細さまで圧縮され、土中の微細な鉱物を含んだ状態で高速流動……電動ノコギリの刃のように、触れた物を切断する凶器。肉を切り裂き、対象を容赦なく切断する残虐な攻撃方法だ。

 それを撃退したキャスパリーグであったが、彼の咆哮はまだ終わらない。これまでの動きは全て刹那の出来事。

 その一瞬が終われば、撒き散らされた水を切り裂いて無数の『糸』が迫ってくる!

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 振り上げ、振り下ろし、捩じり、叩き潰す――――ありとあらゆる動きを用い、キャスパリーグは迫りくる大量の『糸』を打ち破る。瞬きする間に何十本もの『糸』が押し寄せてきたが、キャスパリーグはその全てを迎撃。『糸』は切られた瞬間爆散し、キャスパリーグの周りは荒れ狂う海原の如く大量の水で溢れていた。

 それが益々彼を窮地に追いやる。

 まき散らされた水の幕の中から、『糸』よりも巨大で、殴りかかるように振るわれる触手が現れたのだ。こちらも『糸』と同じく数十本単位で。触手に肉を切るような力はないが、しかし当たれば打撃を受けるのみならず、身体に纏わりついて動きを鈍らせる。そんな状態では満足に『糸』を迎撃出来ない。触手もまた打ち払わねばならぬ『攻撃』だ。

 押し寄せる無数の『糸』と触手。いくら神速に達しようとも拳は二つしかなく、押し寄せてくる大軍を蹴散らすには手数が足りない。『糸』と触手は途切れる事なく襲い掛かり、少しずつだがキャスパリーグとの距離を詰めてくる。

 ついには肘を身体に付けねば正確に手刀を打ち込めないほど『糸』と触手が迫り、

「こ、んのおっ!」

 彼は、今まで使っていなかった足を振り上げた。

 次の瞬間、周囲に暴風が吹き荒れる! 風は刃の如く『糸』を切り落とし、触手を横一線に真っ二つ。それらを粉砕しても尚暴風の勢いは収まらず、切断されたりへし折られたりで倒れていた無数の巨木がごろんごろんと音を立てて転がっていく。拳に比べれば大振りな一撃であるが、一瞬にして自分を取り囲む全てを粉砕してみせた。

 無論押し寄せる『糸』や触手がこれで途切れた訳ではない。既に地面からは新たに芽吹いた触手が、そして見えない『殺意』が現れている。だが、体勢を立て直すのに足る広さを確保し、猶予ももぎ取った。キャスパリーグの脚力と、そこから生じる速度を持ってすれば『糸』と触手の包囲網からなら脱出出来るだろう。

 『糸』と触手だけ、なら。

 一瞬……キャスパリーグにとっても一瞬、彼は顔を顰める。振り上げた足を中々下ろさない。しかし片足立ちの状態では体幹が不安定で身体に力が入らず、身動きだって鈍くなる。

 キャスパリーグは覚悟を決めるように、確かに素早いが、蹴り上げた時と比べれば明らかに迷いながら下ろし――――

 その足が地面に着いた次の瞬間、地面から何本もの半透明な槍が、キャスパリーグを貫かんと凄まじい速度で生えてくる!

 キャスパリーグはその槍を素早い身のこなしで躱すが、脇の皮が一部破れ僅かに赤らむ。血液こそ滴らないが、肉が透けて見える程度には深い傷跡。避けきれたとは言い難く、キャスパリーグの顔に皺が寄る。

 この槍が曲者だった。

 踏みつけた振動を感知して、槍は地面から生えてくる。しかも踏みつけた衝撃を利用しているのか、強く踏めば踏むほどに槍は高速で飛び出してくる。当然ながら素早く逃げるには力いっぱい地面を蹴るしかなく、よって素早く移動しようとすれば凄まじい速さの槍を避けながら進むしかない。

 不可視の『糸』による直前まで感知不可能な切断攻撃、触手による大質量打撃攻撃、自動的に出現する槍によるカウンター攻撃……一つ一つに対応する事は大して難しくはないが、それぞれが同時に迫ってくる事で採れる手が減り、処理しなければならない情報量が一気に増大している。今はまだ対応可能であるが、攻撃が苛烈さを増したら、体力の消耗が大きくなったら……

「はんふんふふんふんふんふーんはんふんふふんふんふんふーん」

 そんなキャスパリーグの懸念を嘲笑うように、辺りに上機嫌な鼻歌が響き渡る。

 ただでさえ命懸けの攻防の真っ最中――――ましてや『敵』の歌となれば、キャスパリーグが表情を顰めるのも当然。しかし、その顰め面で睨み付けてやる事も敵わない。

 何しろ相手はこの辺り一帯、キャスパリーグが奮戦した結果すっかり禿山と化した山頂付近には居ないのだから。

「おのれぇ……!」

「いやーミリオンの時と違って楽なものですぶっちゃけあの時一番大変だったのは沸点を二十倍に上げる事でしたからしかも結局蒸発……あれ? 分解でしたっけ? まぁなんかそんな感じになってしまったから循環もさせないといけませんでしたし。でも今回は適当に振り回せば良いですもんねー」

 苦悶を隠せないでいるキャスパリーグと違い、フィアの声には呑気な、余裕というよりもだらけた意思が露骨に表に出ている。自分の情報をペラペラと喋り、最早勝利を確信している。

 フィアのその認識は正しいだろう。必死になって攻撃を避けるだけのキャスパリーグと、だらだらしつつも一方的に攻撃しているフィア。このままの戦いを続けた場合、どちらが勝つかは明白だ。

 防ぐための力を僅かでも攻めに回せば、その分身体に傷を負う事になるだろうが――――このままではジリ貧な以上止むを得ない。守りから『攻め』に転じる事を決意したキャスパリーグの脳裏に、二つの選択肢が過ぎる。

 即ち肉を絶って骨を断つか、それとも肉を絶って逃げ出すか。

 望ましいのはダメージは覚悟の上でフィアを再起不能にし、能力を停止させてこの山に溜め込んでいるダムの水を解放させる、『肉を絶って骨を断つ』事だが……肝心のフィアが何処に居るのか分からない。近くには居ないようだが、遥か遠方からこちらを観測しているのか、それとも地中にでも潜んでいるのか。安全性や発見のし辛さ、そして攻撃の『雑さ』を考慮すれば、恐らく地下に潜んでいるのだろう。これは厄介だ。一体地下のどの辺りに居るのかなんて分からないし、探すために穴を掘っても途中で逃げられるのがオチ。そもそも『糸』や触手や槍が迫る中で、そんな悠長な事をしている余裕はない。

 やはり『山そのもの』と化した相手を『ただの動物』が倒すのは不可能。この場は一旦離れ、機を窺うか、諦めて別の町に移動するしかない。悔しいが、上手く逃げ果せたなら連中はもうこちらの逃亡先を知る事は出来ない。そうなれば後は好き放題出来る。

 目的はあくまで『人間』への復讐。生まれ故郷にして全ての始まりであるこの町にこだわらずとも、目的は達せられる。

「……っ」

 『現実的』な考えが頭を過ぎった、その一瞬キャスパリーグは表情を顰める。しかしその顰め面はすぐに終わり、戻ってきたのは戦いが始まる以前の、獰猛な捕食者の面構え。

 キャスパリーグの表情が変化したが、フィアの攻撃は特に変わりなし。地中に居るとすれば彼の細かな表情の変化など見える筈もない。

 気取られる事無くキャスパリーグはすっと息を吸い――――そして、『止まった』。

 迫りくる攻撃を迎撃するために、素早く振り上げていた腕の動きをキャスパリーグは止めた。代わりに片腕を大きく、身体を限界まで捩じって最大の振り幅を生み出す。

 無論、その間『糸』も水触手も迫りくる。特に『糸』は見えない分、何時自分に到達するか分からない。

 それでもキャスパリーグは腕を振り下ろさず、可能な限り身体を捩じり続け――――

 背中の皮がぷつりと切れた、

「オオラアァッ!」

 刹那、拳を正面目掛けて打ち放つ!

 それは動作だけで見れば、ただのパンチ。

 だがキャスパリーグが渾身の力を込めた事により、拳の速度は――――音速の五十倍を超えていた。

 拳の進行方向にあった大気は瞬時に圧縮され、脇から空気が流れ込むのが間に合わず真空の領域が発生。瞬間的に生じた気圧の変化は異常な気流を作り出し、圧縮された空気の解放に伴うインパクトを纏った暴風となって一直線に突き進む!

 さながら水平に伸びる竜巻の如く、キャスパリーグが生み出した暴風は直線状にある全てを砕く。転がる大木は勿論、『糸』も、水触手も、全てがバラバラに砕け散る。飛び散った水は暴風に巻き込まれ、共に彼方へと飛んでいく。

 そして暴風が過ぎ去った時、そこには何もない空間が出来上がっていた。

 当然だが何時までもこの空間は維持されない。新たに地面から水触手や『糸』が生えてくるだろうし、直線的な空白が出来た事にフィアが気付けばこちらの意図はすぐにばれてしまう。それに攻撃したのは正面に対してのみ。背後と側面は強めの風が吹いた程度で、今背中の肉を切っている『糸』はそのままキャスパリーグの胴体を切断しようとしている。許された時間は、刹那の瞬間。

 だが、どれほど僅かな時間でもキャスパリーグなら逃さない。自分の拳が作った道へと、キャスパリーグは踏み出した!

 大地を蹴るために足に力を込めた、瞬間から地面より鋭い半透明な槍が無数に伸びてくる。槍はキャスパリーグの頭部を目掛けているが狙いは非常に大雑把。あまりに大雑把過ぎて喉元や胸部目掛けて跳んでくる事もあり、機械的に避ける訳にはいかない。目視で全ての軌道を読み、理性的に全身を操る。

 しかしキャスパリーグの超越的な動体視力でも、自らの脚力から生み出された超スピードの槍を見極めながら避けるのは困難。時折槍に皮を裂かれ、傷を負ってしまう。それだけでなく僅かに残っていた『糸』の切っ先が身体を撫で、容赦なく肉を削っていく。全身が細かな切り傷で少しずつ抉れ、筋肉質な肉体に朱色が広がっていく。

 それでも、身体は着実に前へと進んでいた。

「(一メートル、二メートル、三メートル……!)」

 距離にすればほんの数メートルの移動。キャスパリーグからすれば何度も行く手を阻まれ、全力ではあるが疾走には至らない緩慢な走り。だが、他の生物からすれば全てが一瞬。瞬き一回分の刹那に全てが過ぎ去っている。

 抜け切れば、もう誰にも捕まえられない。

 あと二メートル、とキャスパリーグは目算する。今立っている場所から大体二メートル先で水触手は生えていた。『糸』も恐らくそこから生えている。槍はカウンターなので分からないが、『糸』や触手との連帯が恐ろしいのであり、槍だけならどうとでもなる。

 あと一メートル。地面から触手の先端が少し生えたのが見える。『糸』も恐らく生えてきている。今の『全力疾走』の中で『糸』や触手の対処は出来ない。しかし一旦でも立ち止まれば、最初からやり直し……しかも逃げようとした事がばれた状況で。もう一度同じ事を挑むチャンスは、恐らくフィアは与えてくれまい。

 最早突っ切るしかない。

 『糸』が皮を切る、槍が肌を削る。それでも少しずつ加速していき、やがて肉を抉る猛攻をも無視してキャスパリーグは自らが指定したライン目掛けて突っ走り――――

「抜け、たぁっ!」

 触手が生えてきていた、フィアが明確に認識しているだろう範囲をついに抜け、キャスパリーグは声を上げた。無論安全ラインは彼が勝手に設定したもの。念のため更に一メートル、二メートルと進んだが、『糸』が皮膚を切り裂く事はない。自動反撃である槍の猛攻も徐々にだが苛烈さを緩めている。

 間違いなく、フィアが設定した攻撃範囲を抜けた。

 後はこのまま麓を下り、山から出てしまえば良い。自然の権化、神に等しい力を持った相手だったが、逆に山からは出られない。町に入ればもう追ってこれず、こちらを認識する事も出来ない。

 まだフィアが支配している山の中なのだから、油断するには早過ぎる。しかし槍によるカウンターが何時まで続くかは分からないが、今の『鈍足』でも実時間にして五秒もあれば下山可能だ。長いようで、ほんの僅かに戸惑えば過ぎてしまう時間。このぐらいなら抜けられる!

 キャスパリーグは新たに飛び出した数本の槍を軽々と躱すと、更なる加速を得るべく落ち葉で覆われた地面を力いっぱい踏み付けた

 直後、キャスパリーグの身体がガクンッと傾く。

 傾けるつもりなど、なかったのに。

「(な、に……!?)」

 一瞬、キャスパリーグは頭の中が真っ白になる。

 足を踏み外したのか? いや、寸前の景色に段差は見当たらなかった。周囲は月明かりすらない夜の闇に包まれているが、猫の目を持つキャスパリーグにとっては見通せる闇。見落としはあり得ない。ならばあの透明な『糸』がこっそり仕掛けられていて、気付かずに足首を切り落とされたのか? それもない。ぼーっとしていたなら兎も角、地面から飛び出す槍を躱すため全身に意識を集中させていた。皮の一枚でも切られたらすぐに気付く。

 一体何が、何が、何が!?

 刹那の中を駆け巡る思考はどれも役に立たず……真理を見付けたのは、反射的に足元へと向いた眼球。

 自らの足が地面に沈んでいくのを見た、己の目だけ。

 その真実も脳に達した時には既に手遅れで――――自分が『落とし穴』に嵌ったと気付いたのは、身体が完全に地面の下に落ちてしまってからだった。落とし穴の中には水が貯まっており、ドボンっと間抜けな音を立てて腰の辺りまで浸かってしまう。

「な、なん、うぉっ!?」

 困惑するキャスパリーグだったが、追い打ちを掛けるように浸かっていた水が独りでにうねり出した。咄嗟に逃げようとするも、いくら力を込めても動く事が出来ない……身体が浮いていて、プカプカと漂っている状態だったのだ。踏み出すための大地がなければどんなに足に力を込めても前には進めない。何より何十トンもある自分の身が浮くなど、彼には()()()()()()()

 成す術もなくキャスパリーグは蠢く水に飲まれ、頭以外の全てを囚われてしまった。手足をバタつかせてみるが、浮いている足は空回りするだけで身動きが取れず、腕は重くねっとりとした水に纏わりつかれて全てを吹き飛ばすほどの速さを出せない。

 もがけどもがけど、消耗するのは自分の体力ばかり。やがてキャスパリーグを包み込んだ水はキノコが生えるように根元が伸び、地上にその姿を晒す。

 そして戸惑うキャスパリーグの目の前で、地面から半透明な何かが生えてきた。半透明な何かは二メートルほどの大きさまで伸びると、ぐにゃりと歪み、縮んだり伸びたりを繰り返しながら形を変え……一人の、金髪碧眼の美少女へと変貌する。高身長、豊満なボディ、自信満々な笑み。全てが、以前出会った時の姿と合致する。先程までのいい加減な姿形ではない。

 仮初でありながら誇るように自分の姿を見せたフィア。フィアは優雅に自分の髪を掻き上げ、鼻を鳴らして上機嫌さをアピールする。尤も、その視線はキャスパリーグの頭よりも微妙に上を向いていて、虚空を眺めていたが。

 フィアは虚空を見つめたまま、心底楽しそうに口を開いた。

「いやー危ない危ない。やっぱり保険を掛けておいて正解でしたねー」

「保険、だと……!?」

「如何に力で上回ろうと所詮あなたと妹は同一種族だという事です。あなた達の力は比類なき体重とそれを受け止める大地があってこそ発揮出来るもの。そのため重さが発動の確実性を保証する落とし穴は回避不能のトラップであり尚且つ水に浮かべてしまえばその怪力の大部分を無力化出来るのです。まぁあなた達の身体を浮かべられるほどの超高密度液体など私以外には用意出来ないでしょうけどねだからこそあなたもこのような罠は想定していなかったのでしょうし」

「く、そがぁぁぁ……!」

 悔しさと憤怒でキャスパリーグは顔を歪めるが、水球はいくら暴れようとも微動だしない。むしろ溺れているような動きは滑稽で、目の当たりにしたフィアはケタケタケタケタ、心底愉快そうに笑うだけ。あたかも、水槽の壁を登れないカブトムシを嘲笑うかのようだった。

「悔しがっているみたいですけど身動き出来なきゃ地団駄と変わりませんね。ああ惜しむらくは目が悪くてあなたの顔が見えない事でしょうか。というか顔の向きこっちで合ってますかね? 左右は水の位置で分かりますけど頭の高さはちょっと大雑把に予測するしかないので」

「ぐ……!」

「さぁてあなたと遊ぶのも飽きてきましたしそろそろお片付けといきましょうか。いやはや復讐なんてしょーもない事をやろうとしなければ長生き出来たでしょうに」

「お前に、何が分かる……俺が、俺達が人間に何をされたかも知らない癖に……!」

「知らないのだから分かる訳ないでしょう。生憎読心術は持ち合わせておりませんので」

 何を当たり前の事を、とでも言いたげにフィアは肩を竦める。その様にキャスパリーグは一瞬表情を強張らせると、次いで深く息を吐いた。

「……だったら教えてやろうか。俺と妹に人間が何をしたのか、どうして復讐しようと思ったのかを」

 それからフィアに向けて、忌々しげな物言いで提案してくる。

「うーん別にあなたの生い立ちなどあまり興味ないんですけどねぇ……ああいや待ってください。あの妹にも関わる話なのですか? それは聞いといた方が良いかも知れませんねぇ」

 うんうんと一人頷き、フィアは後ろ手を汲むとキャスパリーグの方を色のない瞳でじっと見る。キャスパリーグを包む水は相変わらず彼の動きを封じているが、絞めつけたり、削り取ろうとしたりする気配はない。

 どうやら、フィアは本当に話を聞こうとしているらしい。

 先程まで楽しげに殺そうとしていたのに、興味を惹かれたから後回し。気紛れな返答故に、すぐに心変わりするのではという不安はある。しかし動けない現状、僅かな時間稼ぎが出来るだけでも良しとするしかない。

 とりあえず、今すぐには殺されないだろう――――そう思ったキャスパリーグは、一旦身体から力を抜く。それから、こちらを()()()()()フィアの目をじっと見返しながら息を吸い込み、

「家族を殺されたんだよ。保健所に連れて行かれてな」

 彼は明瞭なる言葉で、こう告げたのだった。

 

 

 

「保健所……」

 訊き返す花中に、猫少女はこくんと頷いた。

 キャスパリーグが登り、フィアが潜んでいる山は今、ゾッとするほど静かになっていた。先程まで爆音や轟音を鳴らしていたのが嘘のよう。あの山で何が起きているのか、もう終わっているのか、何も分からない。尤も傍に立っているミリオンは全てを把握し、聞けば教えてくれるだろうが。

 しかし今は猫少女の話に集中したく、花中は山の事を一旦頭の中から切り捨てる。屈んだ姿勢のまま猫少女に歩み寄り、どんな小さな声も聞き逃すまいとする。

 猫少女も話を聞かせたいと思っているのだろう。顔は俯いていたが身体は花中と向き合い、ぽつりと、だけどハッキリとした言葉で話し始めた。

「あたし達のお母さんはね、生粋の野良猫で、ずっとたった一匹で生きてきた。あたし達を産んだ時も同じで、あたし達は、お父さんの顔も知らない。でもそれは猫なら珍しくもない事。だから多分、猫としては普通の家族だったと思う」

「……その、お母さんは、言葉とかは……」

「話せない。ただの野良だったから。一緒に産まれた他の兄弟も同じで、こんな風に喋れたり、力を持っていたのはあたしと兄さんだけだった。逆にあたし達は産まれてすぐに話せたし、頭も良かったし、今ほどじゃないけど力も強かった」

 自慢気な言葉とは裏腹に、言い方は自虐的で、複雑な想いを感じさせる。

 何があったのか……続きは気になるが、花中は出掛かった言葉を噛み殺す。今は、彼女のやりたいように話させてあげたかった。

 口を噤む花中が願ったように、猫少女はそのまま話を続ける。

「だから、母さんが持ってくる食べ物は他の猫と変わらなかった。生ゴミとか、それを漁っていたネズミ、公園で貰った餌とか、餌を貰ってるハトとか。何も食べられない日もあったし、カラスに攫われたり病気に掛かったりで死んだ兄弟もいたけど……でもカラスだって食べなきゃ死んじゃうし、病気は菌との戦いに負けたからだって、あたしと兄さんは知ってた。だからそれを怨む事はしなくて、あたし達は、それなりに幸せに暮らしていた」

 だけど――――そう言って挟まれた沈黙に、花中は息を飲む。猫少女が話す覚悟を決めたように、自分もまた受け止める覚悟を決めなければならないと、花中は自分に言い聞かせる。

「ある日、母さんと兄弟達が人間に捕まった。保健所に連れて行かれたの」

 それが、自分達の都合で命を弄ぶ種族の一員としての、最低限の責務だと思ったから。

「……逃げられ、なかったのですか」

「そもそも、逃げなかった。母さん達は人間に餌を貰っていて……人間の事を、信じていたから。だから檻の中に簡単に入って、兄弟達は簡単に捕まって、連れて行かれた」

「っ……!」

 花中は言葉を失う。

 猫達は最期まで信じていたに違いない。また餌を貰える、これで子供が飢えずに済む……そう信じていたのに、捕まり、命を奪われた。恐らく、ゴミを荒らすからとかの理由で。

 捕まえた人間に、騙すという気持ちはなかっただろう。それでも、『彼』が裏切られたと思うのも無理ない話だと、花中は思った。

「あたしと兄さんは、人間達が持っていた檻に気付いて逃げた。でも、あの時はまだ小さくて、兄弟達よりはずっと強いけど、人間に勝てるほどの力はなくて……助けられるぐらい強くなった時にはもう、誰も生きていなかった」

「……………」

「ごめん。これを言ったら怖がられるかもって思って、言えなかった」

 頭を下げて、猫少女は謝る。その姿が花中の胸を締め上げる。家族を奪ったのはわたし(人間)達なのに、怨まれても仕方ないのに。

 どうして、そこまで人間に味方をしてくれる?

「……どうして、そこまで人の味方を……っ!」

 思わず疑問が口から出て、ハッとなる。これではまるで尋問、正しく疑っているかのようではないか。慌てて撤回しようとした

 が、照れくさそうに笑う猫少女を見て、花中は毒気を抜かれてしまう。呆けた花中に、猫少女は嬉しそうに語った。

「ちょっと恥ずかしいんだけど……ご飯をくれる人間が居たんだ。おばあちゃんね。最近野良が捕まったって知ってたのかな。ごめんねって言いながら、ご飯をくれたの。兄さんは毒があるかも知れないから食べるなって言ってたけど、あの時のあたしはすごくお腹が空いてて……言い付けを破って食べちゃった。腐ってなくて、美味しいご飯だった」

「……………」

「まぁ、その後捕まえようとしてきたから逃げちゃったけど。今思うと多分、飼おうとしてくれたんだろうね……それでね、思ったの。悪い人間はいる。あたし達の事なんて都合の良いオモチャにしか思ってない奴もいる。でも、中にはあたし達を助けようとしてくれる人もいた。もしかしたら、人間は悪い奴ばかりじゃないかもって」

「……だから、お兄さんが、復讐を始めようとした時、人間を知ろうと、したのです、ね」

 問えば、こくんと猫少女は頷いた。

 ――――ナニが悪かったのだろうか。

 捕獲をした者か?

 その猫を殺処分した保健所か?

 餌を与えて猫の警戒心を失わせた人間か?

 野良猫を保護しなかった一般市民か?

 不用心に人間を信じた猫か?

 ……いや、きっとナニも悪くはない。

 ゴミを荒らされて黙っていろとは言えない。仕事に私情を挟めとは言えない。餓死しそうでも獣は見捨てろなんて言えない。生活を切り詰めてでも動物を保護しろなんて言えない。何人も信用するななんて言えない。

 誰もが自分の幸福のために動いていた。誰かを不幸にするとは思っていなかった。だけどみんなの気持ちがちょっとずつズレていて、そのズレが悲劇につながってしまった。

 そしてその悲劇を、悲劇だと受け取る者がいた。

 恐らくはそんな、『ただそれだけの事』だったのだろう。

「花中……あたし、どうしたら良かったのかな?」

 猫少女の問いに、花中は答えられない。誰が悪いかも分からないのに、どうしたら良いのかなんて分からない。誰も責められない。

 責められないのに。

「……どうしようもなかったのかな」

 どうして、こんなにも腹が立つのか。

「やだよ、やだよこんなの……兄さんまでいなくなっちゃうなんて……死んじゃうなんて、嫌……!」

 誰に対する怒りなのだろう。

 何も出来ない自分に対する怒りか。身勝手で悪びれもしない人類への怒りか。

「でも兄さんを止めないと、人間が殺される……そんなのも嫌っ!」

 無差別なキャスパリーグへの怒りか。無知だった母猫への怒りか。

「ねぇ、どうしたら良かったの……どうすれば、こんな事にならずに済んだの……」

 考えて、考えて……やっと気付く。

「どうして、こんな事になっちゃったの……!」

 怒りの対象が、目の前の猫少女である事に。

 ――――パンッ!

「……はなちゃん?」

 その音に、最初に反応したのはミリオンだった。猫少女は、何時までもぼうっとしていた。

 花中に、自分の両頬を叩くような勢いで掴まれたにも拘わらず。

「……かな、か……?」

「さっきから……どうしたら良かったとか、こんなの嫌だとか……挙句、どうしてこんな事に、なった……?」

「だ、だって、なんでこんな事になっちゃったのかなんて、分からなくて」

「なんで、もう全部終わった事にしているのですかっ!」

 花中が叫ぶように言葉をぶつけると、猫少女は逃げるように目を伏せる。しかしその目を逃すまいと、花中は猫少女の頬を掴む手に力を込め、離さない。

「まだ、終わっていません。まだあなたの、お兄さんは、生きてます。なのに、なんで諦めて、いるのですかっ。諦めたら本当に、終わりなのに!」

「だって、兄さんは復讐を止めてくれないんだよ!? 何を言っても聞いてくれない! だったらもう、殺すしかないじゃない! それとも花中は、たくさんの人間が死んでも良いって言うの!?」

「そんな事は、どうでも良いんです!」

 花中が言い放った言葉に、猫少女のみならずミリオンまでもが目を見開いた。

 勿論人間である花中にとって、人の生死はどうでも良くない。人間側の立場から言えば、どう足掻いても人の手で管理しきれないキャスパリーグは『処分』するしかない存在だ。彼とどうにか分かり合いたい花中としては受け入れ難いが、それでも人命が失われようとしているなら、人としてその判断を尊重する。

 だが、猫少女は猫だ。

 猫なのに、どうしてさっきから人の事を気に掛ける?

 どうして、たった一人の家族を諦めようとする!?

「人間を、守ろうとして、くれる事は、嬉しい、です。でも、あなたは猫です。だったら、猫の事を一番に考えたって……人間を、後回しにしたって、良いじゃないですか。猫なのだから、人間の意見なんて、聞かなくても、良いんです。わたし達が、『猫』の意見を……少なくとも、今までは、聞かなかったように」

「……花中は、それで良いの? もしかしたらたくさんの人間が死ぬかも知れないんだよ?」

「勿論、そんなのは嫌です。だけど、猫さんが苦しむのも、嫌なんです。だって……」

「だって?」

「だって、わたし達……もう、友達じゃ、ないですか」

 花中の言葉に、猫少女は大きく目を見開く。ポカンと口を開け、そのまま呆然としてしまう。

 尤も、その姿はあまり長く続かない――――向き合ってるうちに「ぇ、あの、と、友達、ですよね……? も、もし、もしかして、ちが、違い……」と瞳を潤ませながら段々と自信を喪失していく花中を見て、プッと吹き出してしまったのだから。笑われた花中はたくさんの涙を目に浮かべた。もう今にも泣き出して、ぴーぴー喚きそうぐらい。

「くくく……ああ、うん。ごめんごめん。馬鹿にしたんじゃないの。ただ、うん。面白かったから」

 笑いを飲み込んだ猫少女の言葉は、弁明だった。

「面白、かった……?」

「全く、アンタって本当に人間なの? 意地っ張りで、ワガママで、そのくせビビりで泣き虫。なのにあたしどころか、兄さんも怖がらない。しかもあたしの好きにやれ? もうさ、訳分かんなくて笑うしかないじゃん」

「は、はぁ……そうなの、ですか……?」

「そうだよ」

 釈然としない花中だったが、嬉しそうな猫少女を見ているうちに、気にしているのが馬鹿らしくなってくる。強張っていた頬が、にへっと緩む。

 花中と猫少女はしばし笑い合ったが、やがて猫少女がすっと立ち上がった。その表情に、先程までの悲愴さはもうない。

「人間が殺されるのは嫌。でも、兄さんが死ぬのも同じぐらい嫌っ。だから、もし兄さんが殺されそうになったら、あたしはそれを止める! 止めて、あたしが兄さんを説得する! 最初からそうすれば良かったんだ!」

 そして猫少女は、ハツラツとそう言い切ってみせた。

 猫少女の言葉を受け取り、花中はこくんと頷いた。やりたい事は見付かった。だったら後は、それを目指して突き進めば良い。

 まだ、手遅れにはなっていないのだから。

「感動的なところ水を差すようで悪いけど、あっち、そろそろ終わりそうよ」

 尤も、ミリオンのこの言葉がなければ本当に手遅れになっていたかも知れないが。

 花中と猫少女に緊張が走る。ミリオンには何かあった時のためにフィア達の『観測』を頼んでいた。さながら千里眼の如く離れた場所を観測出来るのも、無数のウィルスの集合体であり、そのウィルスを展開する事で広域を包み込めるミリオンだからこその芸当。例え彼方で起きた戦いでもミリオンにとっては至近距離の出来事。どんな小さな事柄も見逃さずに把握出来る。

 そんな彼女がもうすぐ終わりそうと言うのだ、焦るなという方が無理な話である。

「えっ!? あっちって……フィアちゃん、もう勝ったのですか!?」

「準備万端過ぎたわね。むしろよくここまで持ったと言うべきかしら。一方的過ぎてお兄さんの方も大きな怪我はしてないけど、このままじゃ窒息死確定ね」

「そんな……な、なんとか、止められませんか!?」

「無理。私の話をさかなちゃんが聞くとは思えない以上実力行使しかないけど、今の全力全開モードのさかなちゃんが相手じゃねぇ。自分の身を守るのは余裕だけど、猫ちゃんのお兄さんを助けるのは無理よ。手数が足りないわ」

 はなちゃん達にやられる前なら話は別だったんだけどー、と愚痴りながらミリオンはあっさりと白旗を上げる。あまりにも淡白な諦め方に文句の一つも言いたいが、事態が切迫している時ほど正確かつ迅速な判断が重要になる。むしろ速攻で諦めてくれた方がありがたい。

 それに、フィアを止めるだけなら策はある。

「猫さん! お兄さんの元に、行ってください!」

「え、で、でも、フィアは……」

「フィアちゃんは、わたし達で、なんとかします! だから先に行って……お兄さんを、助けてくださいっ!」

 花中の後押しに、猫少女は戸惑いながらも頷き山の方へと身体の向きを変える。そのまま屈伸をするように膝を深々と曲げた。

 しかしその膝はすぐには伸ばされず、猫少女はチラリと花中を見遣る。

「そうだ。一つ、言っときたい事があったんだ」

「? 言っておきたい事、ですか……?」

「うんっ」

 ニカッと、太陽のように微笑んだ猫少女はとても元気よく口を開き、

「あたしの名前はミィ。餌をくれたおばあちゃんが付けてくれた大切な名前だから、今度からそう呼んでねっ!」

 それだけ言った、瞬間、猫少女――――ミィの姿は消えた。

 次いで爆風が花中の身体を突き上げる。ちょっとだけ身体が浮いて……花中は咳き込んだが、苦しさはあまりなかった。

「……それで? どうするつもりなの? まさか猫ちゃんに後は全部任せるとか言わないわよね」

 咳き込む花中の背中を摩りながら、ミリオンがそう尋ねてくる。

 花中は喉を鳴らして呼吸を整え、ちょっぴりふてぶてしく微笑みながら答えてやった。

「どうも、こうも、そのつもりです。説得は、家族からのものが、一番効果的だと、思いますし。わたしがやっても、逆効果、でしょうから」

「呆れた。万一の時はどうするのよ」

「その時は、フィアちゃんも、ミリオンさんも、居ますから、なんとか出来るかなーって」

「……………」

 否定はしないミリオン。そう、フィアとミリオンが力を合わせれば、最悪の事態が起きても()()()()()()()筈だ。二匹には、或いは今なら一匹だけでも、それが可能な力がある。

 しかしそれは最後の手段。今はまだミィの事を、家族の絆を信じたい。

 その想いは口に出さなかったが、ミリオンに花中の気持ちは伝わったのか。大きなため息を吐いたので、少なくとも「呑気なものねぇ」とは思ったに違いなかった。

「……保険については納得したわ。でも、さかなちゃんをどうやって止めるつもり? さかなちゃんノリノリみたいだから、はなちゃんの言葉でも止まってくれる気がしないのだけど」

 ミリオンが今一番の懸念事項を訊いてくる。そう、ミィに任せると言っても、それはフィアがキャスパリーグ殺しを止めてくれなければ始まらない。いや、フィアの性格を考えれば、邪魔をしたミィを生かしておくとも思えない。そして今のフィアは、それが易々と実行出来る。

 どうにかしてフィアを止めて、ミィにバトンを渡させなければならない。

 しかし花中はそれこそ簡単だとばかりに堂々と背筋を伸ばし、

「どうもこうも、わたしに出来るのは、何時だって、お話だけです……ちょっと、意地悪しますけど、ね」

 それから緊迫感のない、悪戯っ子のような笑みを浮かべてみせるのだった。

 

 

 

「……これが、俺が人間に復讐を誓った理由だ」

 身の上話を終えると、キャスパリーグは深く息を吐いた。

 自分達が家族と共に幸せに暮らしていた事、その幸せを人間が壊した事、人間は自分達の気持ちを利用し、邪魔だからと平気で命を奪った事……キャスパリーグは全てを正直に話した。誇張や脚色なんて必要ない。ありのままを言葉にするだけで、彼の気持ちは十分に表現出来た。

 その全てをぶつけられ、フィアは頭を俯かせていた。

 深夜の森、俯いたフィアの顔は窺い知れない。しかし、俯いてしまう程度にはショックを受けたのだろう。

 復讐の動機を語った事に、打算の気持ちがなかったとは言わない。あわよくば味方に引き込めれば、それが無理でも動揺させて隙を作れれば……命を掴まれている現状、そんな考えが過ぎらない筈もない。

 だがそれ以上に、分かってほしかった。人間がどのような生き物か、自身が味方している『生物』が如何に醜いか知ってほしかった。

 そして、自分のような想いをする生き物が、少しでも減るなら……

「なぁ、何故人間の味方をする? 奴等は貪欲で、底なしに身勝手。自分達の幸福のためなら平気で命を奪う悪魔だ……どうして奴等に罰を与えない? 奴等を野放しにすれば、数多の命が弄ばれる! 今こそ奴等に、俺達の怒りを思い知らせるべきじゃないのかッ!?」

 畳み掛けるようにキャスパリーグは思いの丈をぶつける。俯いているフィアに、答えを求める。

 ……そして流れる、静寂。

 超常の獣達の闘争により、周囲には草一本すらない。地形も変わった。雨音も風もない完全な静寂が辺りに満ちる。

 その静寂が続いたのはほんの数秒だけだったが、何かを考えるには十分な時間。静寂はフィアが顔を上げた時の微かな音で破られ――――

「あ。話は終わりましたか? じゃあさっきの続きしますので」

 フィアはニッコリと微笑みながら、平然とそう言い放った。

 瞬間、キャスパリーグの身体を拘束している水の塊が収縮を始めた!

「ぐ、おぐぁ、あっ!?」

 予期せぬタイミングでの痛みに、キャスパリーグは呻きを上げた。強靭な肉体と骨も、無慈悲な圧迫の前にミシミシと悲鳴を上げる。肉を潰される痛みが全身を駆け回り、肺が圧迫されて息も辛い。

 脳裏を過ぎる、明確な死の予感。

 しかしキャスパリーグの心を乱したのは、そんな『瑣末事』なんかではない。

 本心をぶつけたにも関わらず、心底どうでも良さそうに振舞うフィアの態度だ。

「あふぁぁ……んーあまりに退屈でちょっとウトウトしちゃいましたよ」

「何故だ……どうして、平然としていられる!? 人間の非道を知っても尚、どうして人間に味方する!」

「別に人間に味方するつもりはないのですけどねぇ。でも私あなたの事嫌いですし」

「な、に……!?」

「ですからあなたの事が嫌いなんです。だから殺すのですけど?」

 ぞわりと、キャスパリーグの背中に悪寒が走る。

 母や兄弟達の事を罵倒されたなら、彼は怒りに打ち震える事が出来ただろう。境遇を聞いてウキウキとしていたなら邪悪と断じる事が出来ただろう。醜いところを聞かされても人間の味方をする信念があるのなら、分かり合えなくとも立場に対する理解は出来ただろう。

 だが、フィアの答えは『お前が嫌いだから』。

 侮辱も悪意も理解もない――――子供が嫌いな食べ物を遠くに弾くような気軽さで自身を殺そうとする考えを前に、キャスパリーグはフィアから逃げるように身動ぎしていた。

「お前は、何を言って……!?」

「私は私の好きなもの以外がどうなろうと構いませんが好きなものを壊すような奴はなんだろうと許しません。そして私は花中さんが大好きであなたは花中さんの安寧を脅かした。だから私はあなたが嫌い。殺す理由なんてそれだけで十分じゃないですか」

「な……!?」

 あまりにも身勝手で、周りを考えない一方的な理由にキャスパリーグは言葉を失う。否、身勝手なんて言葉でも言い表せない。

 最早彼女は、自分以外の存在を『生き物』と認めていない。

 キャスパリーグの生い立ちや境遇、人間の非道や醜悪さ。それらを聞いてもまるで意に介さず、ただただ自分の利益や好き嫌いしか関心にない。命の尊さを理解せず、不要だと思えば物のように切り捨てる事も厭わない……今まで傲慢の塊だと思っていた人間が小さく思えるほどの身勝手さ。

 しかもそれも自覚した上で、恥じるどころか隠そうともしない。まるで、そうである事が正しいと言わんばかりに。

「どうして、どうしてそこまで自分の都合で……!」

「どうして? 生き物なんてみんな自分の都合で動くものでしょうに……ところでもう話は終わりですよね? 終わりって事にしときますよ流石に面倒臭くなってきましたから」

 動揺するキャスパリーグだったが、フィアの方はもう話を聞くつもりもないらしい。フィアが静かに手を上げるのと共に、キャスパリーグを包み込んでいた水球が膨れ上がる。

「!? な、これは、ごぷっ!?」

 そしてそのまま、今まで空気中に出ていた彼の頭をすっぽりと包みこんでしまった。顔面を覆われ、無尽蔵にあった周囲の空気が一気にゼロとなる。口を開けても入ってくるのは水だけ。生きるのに不可欠な酸素が補給出来ない。酸欠に陥った身体が痛みという形で悲鳴を上げ、苦悶を表情に出さずにはいられない。

 今や声を出す事もままならないが、わざわざ訊くまでもない。フィアはこのまま自分を溺死させるつもりだと、キャスパリーグはすぐに理解した。

「――――! ――――ッッ!」

「いくら暴れても無駄ですよ。あなたの重量から計算し水の比重をコントロールしています。勿論動きや粘度抵抗の強さもこちらが制御済み。今のあなたは水に浸かった羽虫と変わらない。浮かび上がる事も沈む事も前に行く事も後ろに下がる事も許しません」

 脱出しようともがくキャスパリーグに、フィアは窘めるように告げてくる。確かに言うように、手足に纏わり付く水は異様に重く、どうにか掻き回しても胴体は何かに掴まれているかのように動かない。ただただ身体をくねらせ、もがき、苦しさの中無為に時間を過ごするだけ。

 もう、自力ではどうにもならない。それこそ水に落ちた羽虫のように。

 キャスパリーグのそんな姿を前にしてフィアが浮かべるのは、なんとも愉快そうな笑みだった。

「ちょこまかと動いて捕まえるのが中々大変でしたがこれで一段落ってところですかねぇ。ミリオンと比べればずっと楽でしたけど」

「ッ! ――――ッ! ッ!」

「しっかし妹から聞いた時も思いましたけど復讐だなんて馬鹿な事を考えたものですね。人間に殺された? それがなんだと言うのですか。人間に殺処分されるのも鳥に食われるのも病気で死ぬのも『何か』に殺されるという点では変わらない。いえそもそも殺されるのも事故や飢えで死ぬのも『死』である事には変わらない。なのに何故違いを見出そうとするのです?」

「――――ッ! ッッ!」

 何かを言おうとしてか、キャスパリーグの口から大きな泡が吐き出される。貴重な酸素を吐き出してでも伝えようとした何かの言葉。

 対するフィアの答えは、吹き出すような笑い一つ。

 あまりの滑稽さに我慢出来なかった……そう物語るような笑い方に次いでフィアが浮かべたのは相手を小馬鹿にした、勝ち誇った笑みだった。

「あなたは結局『自分達』を特別視したいだけでしょう? 人間に家族を惨たらしく殺された自分は悲劇のヒーローである……ってな具合に」

「……ッ……!」

「と如何にも分かったような事を言ってみましたが言い当てられた自信はないのですよねぇ」

 だって――――そう言うとフィアはキャスパリーグを包む水球の間近まで顔を近付け、

「あなたの話ってまるで人間が言う事みたいなんですもの」

 囁くように呟いた。

 声は、水球の中のキャスパリーグにも届いたのだろう。目を見開き、叫んでいた口をぽっかりと開け……肉親を目の前で失ったかのような、絶望に満ちた表情を、浮かべる。

 その時のキャスパリーグの表情を、水の動きで知れるフィアは何を感じたのか。

 ……相も変わらず勝ち誇った笑みを続けている以上、殆ど気に留めていないのだろう。

「自分達の死を特別視するだけでなく自分達は他者を思いやる心があるという態度。挙句他の生き物も自分達と同じ『理想』を持っている筈だという思い込み。どれもこれも人間と同じ……ように私には見える訳でして。正直私には『あなた』の考えが理解出来ませんよ。何分私は『フナ』ですから」

 鞭打つように、嬲るように、フィアは肩を竦めながら思った事を並び立てる。キャスパリーグは何かを言いたそうに口を開くが……声どころか、最早泡も出てこない。

「おっと無駄話が過ぎましたか。このままほっておいてもきっちりバイバイ出来るとは思いますが万一もあるかも知れませんし念のため止めを刺しておくとしましょうかね。そうですねぇ肺に入った水を使って内側からパーンッと……って全然水飲んでないし。仕方ありません潰しましょうかちょっと感触残りそうで気乗りしませんけど……はいきゅーっと」

 そしてフィアが前に突き出した掌を閉じるのと共に、水球はその体積を縮め

 バキンッと、大切なものが壊れるような音が森に響いた。

 ――――刹那、水球が『弾け飛ぶ』!

「……………!」

 今まで勝ち誇っていたフィアの表情が、驚きに変わる。

 弾け飛んだ水球からはキャスパリーグが吐き出され、地面にベシャリと音を立てて倒れる。次いで、ズドンッ! と身体を揺さぶる音と振動が辺りに広がった。

 水球から解放されたキャスパリーグは、左腕の肘を地面に付けて、どうにかこうにか身体を起こす。酸欠で顔が赤く色付き、涎をまき散らしながら咳き込んでいたが、呼吸はしている。

 酸欠からの回復も、咳も、いずれは安定するだろう。フィアからキャスパリーグの姿は見えていないとはいえ、水球の中から出てしまった事は山中に張り巡らせている水のセンサーによって捉えている。

 このままにしておけば、いずれ体力を回復し、逃げられてしまう。

 その可能性を間違いなく理解しているだろうフィアは――――しかし、動かない。弱ったキャスパリーグに『糸』を放つ事も、触手を叩きつける事もしない。

「……どういうつもりですか」

 やった事は、倒れたキャスパリーグが居る『方向』を真っ直ぐ見据えながら、ぼそりと呟いただけ。

 そしてその言葉と視線の行く先は、キャスパリーグではない。

 どす黒い怒りと殺意が剥き出しになった、敵意の言葉と贋作の視線の先に居るのは一匹の、人の形をした動物。

「さぁーて、これからどうしたものか……早くどうにかしてよ花中ぁ……」

 若干笑みを引き攣らせたもう一匹の黒猫が、フィアの前に立ち塞がるのだった。




本作は能力バトル小説です(今回やってる事:物量作戦VS怪力)

……まぁ、次回に比べればまだ能力バトルしてる方だし(ぇ)

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