彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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語らない予兆6

 花中達が戻ってきた露天風呂は、昨晩以上の『大賑わい』であった。

 空から燦々と降り注ぐ陽により、露天風呂全体が明るく照らされている。湯船から漂う湯気は陽光を受け、白く煌めいていた。大変美しい光景で、昼間の温泉も乙なものだと思わせてくれる。

 が、肝心の湯が殆どない。

 正確に言うならば――――もう隙間がないのではないかと思うほど、湯船には大量の謎生物が浮いていた。推定ではあるが、この湯船だけで五百匹ぐらい居るかも知れない。

「ふーむ昨日よりも少し増えてませんか?」

「少しどころじゃないでしょぉが!? えっ、な、何コレ!?」

「おー。ここまで多いと普通にキモいなぁ」

 昨晩の事など殆ど覚えていないのか。十倍ほどの増量を『少し』と表現するフィアに、晴海がツッコミを入れた。加奈子は加奈子で、暢気な感想を述べている。フィアの頭の上にはミィも居たが、一匹と一人の言動に呆れるかのようにため息を吐いていた。

 花中もフィアと加奈子のおとぼけに苦笑いを浮かべつつも、湯船の様子を観察すべくそちらに目を向ける。

 謎生物 ― 未だ確定はしていないが何時までもこの呼び方をするのも難なので、とりあえず『しらせ様』という事にしてしまおうと花中は思う ― はぎゅうぎゅう詰めにも拘わらず、湯船から出ようともしていない様子だ。身動ぎ一つせず、大人しく湯船……があるか甚だ怪しい密度だが……に浸かっている。この調子ではお湯の排水口と吸水口、どちらも詰まっているだろう。

 仮に世界情勢が安定化し、人々に温泉を楽しむ余裕が出てきても、この状態が続くようでは旅館の再開など夢のまた夢だ。

「こ、こんな事に、なっているとは……」

 花中達と共に露天風呂までやってきた勇が茫然自失になるのも、仕方ない事だろう。『しらせ様』駆除に反対していた彼も、この惨状を目の当たりにしたら流石に気持ちがぐらぐらと揺らぐようだ。

 正直昨今の怪物騒動が数年かそこらで終わるとは、花中には到底思えないが……しかし希望という道しるべがなければ、人は明日へと向かって歩いていけない。或いは絶望という岸壁が待ち構えている事を知らねば、考えなしに歩き続けて落ちてしまう。

 必要なのは、理解する事だ。 

「あの、旦那さん。この温泉の、お湯が入ってくる場所って、何処ですか?」

「えっ、あ、ああ。はい。それなら、あそこの岩の下なのですが……」

 花中からの問いに、勇は少し取り乱しつつ指差しで答える。

 勇が示した露天風呂の一角には、大きな岩の集まりがあった。縦五十センチ横二メートルほどの岩が六つ重なって、一つの塊を作っている。初めてこの露天風呂を訪れた時にもあった大岩だ。景観のための代物かと思っていたが、どうやら給水口も兼ねていたらしい。

 普段ならお湯が岩の所から出てくるところが観察出来たのだろう。が、今はひしめく『しらせ様』が邪魔で見えない。勇が嘘を吐いているとは微塵も思わないが、言葉だけではいまいち確信出来なかった。

「岩の下に、ですね? 網とかは、されているのですか?」

「ええ。岩で覆っているとはいえ、何かの拍子に崩れたり、子供が入り込んでしまう危険はありますからね。なので鉄網を設置しているのですが……」

「まぁ、十中八九壊されてるわよね。あの生物パワーはなさそうだけど、何十匹も集まれば簡素な鉄網ぐらいは破れるでしょ」

 勇の情報に、ミリオンが己の推測を語る。花中も同意見だ。というより、他に侵入ポイントが思い付かない。

 『しらせ様』には足がない。翼もない。

 だから歩いて入り込む事も、飛んでくる事も考え辛い。それに対して泳いでなら……流線形から程遠いあの身体なので左程得意ではなさそうだが、少なくとも身体の構造上不可能ではないように思えた。

 そう。彼等は温泉と共に地上へ進出しているというのが、花中の考えだ。

 恐らく彼等の生息地は地下、それも源泉があるような場所である。普段はその源泉内で暮らしており、何かの拍子に地上に出てしまう個体がいるのだろう。源泉内となれば人の立ち入りも困難であり、故に未確認生物が潜んでいても不思議ではない。

 ……一匹二匹出てくる程度なら、ちょっとした偶然で話も終わりだろうが。しかしこれほどの数となると、地下で何かしらの異変が起きていると考えられる。

 思い返せば『しらせ様』が伝えるとされる異変は、地震や崖崩れ、地盤沈下など、地下にまつわるものばかり。そうした異変の前兆が真っ先に現れるのは、地下深くである事も多いだろう。成程、だから彼等は『しらせ様』なのだと、花中は思った。

 しかし今回の彼等からの()()()()()は未だ未解明。それにこれを話したところで、『しらせ様』を退治しようとする町人達は納得するまい。あくまでこれは、未だ花中の推論に過ぎないだから。

 物証が必要だ。そして物証を得るためには……

「あの、すみません。あの大岩の下にある、給水口のメンテナンスは、普段、どのように、しているのですか?」

「半年に一度、岩を退かしてからの掃除を行っています。実はあの岩、人工物なのであまり重くないのですよ……重さは百五十キロほどで、男が四人も集まれば問題なく持ち運べます。昔働いていた力自慢の若い衆なら、二人で全部やってくれましたよ」

「成程。なら、普通に退かさないと、ダメなのか……すみません。もしかしたら、ちょっと、あの岩を壊したり、床とか傷付けてしまうかも、ですけど、大丈夫ですか?」

「へ? え、ええ、まぁ、少しなら……」

「ありがとうございます。えと、フィアちゃん。ちょっとあの岩、退かしてくれる?」

「お任せあれ」

 呆ける勇からの『了解』を得て、花中はフィアに指示を出す。ようやく自分の出番かとわざとらしく力瘤を作ったフィアは、意気揚々とした足取りで露天風呂の一角にある大岩へと向かった。

 大岩に辿り着いたフィアは、おもむろに岩の一つに平手をぺたりと付ける。凡そ物を掴む触り方ではないが、フィアには水を操る能力があるのだ。花中にその原理はさっぱり分からないが、多分表面張力だとかなんだとかを活用し、フィアは平手と岩を()()()()()()()のだと予想する。

「ほいっと」

 そしてフィアは難なく、自分よりも一回り大きな岩を持ち上げてしまった。

 勇は声を上げなかった。上げなかったが、あんぐりと大口を開け、目をギョッと見開いている。漫画なら、今頃目が飛び出し、口から心臓が出ているだろう。何しろ勇の申告通りなら、重量百五十キロの巨物をフィアは片手で掴み上げているのだから。

 されどフィアにとってこんなのは、炉端の石ころを摘まみ上げるようなもの。自慢する事もなく、ぽいっと無造作に岩を投げ捨てる。捨てられた岩は石造りの床を砕き、地面を揺らして、その重さが勇の言葉通りあるのだと物語った。

「ちょ、フィアちゃん! 退かす時はもっと丁寧にやって!?」

「んぁ? あーっとこれはうっかり。随分と軽い石だったのでつい投げてしまいましたよ」

 花中が注意すると、フィアは悪びれもせずに肩を竦めた。二つ目の岩も軽々と持ち上げ、今度は先程よりは幾分丁寧に……でも地面に着く前に手放したので、やはりズドンという音と震動はあったが……置く。

 そうして簡単に六つの岩を退かしたフィアは、岩のあった場所を覗き込んで顔を顰めた。

「むぅ。詰まってますねぇ」

 フィアからの報告を聞き、やはり、と思いつつ花中はフィアの下へと駆け寄る。

 フィアが覗き込んでいる場所を、一緒になって覗き込めば――――床にぽかりと開いた直系三十センチほどの穴 ― 間違いなく湯の吸水口だ ― にぴったりと嵌まる、湯船を埋め尽くしている他の個体よりも一回りぐらい大きな『しらせ様』が居た。

 大きな『しらせ様』は口をパクパクさせていて、死んではいない様子。しかしちょっと辛そうに見える……のは人である花中の勝手な思い込みか。

 いずれにせよ、穴を塞ぐ『しらせ様』は退かさねばならない。花中が目指すのは、この穴の奥なのだから。

「フィアちゃん、この穴、ちょっと広げられる?」

「ふふん造作もありませんよ」

 胸を張って答えると、フィアは己の髪をざわざわと鳴らしながら蠢かせ、髪を『しらせ様』が詰まる穴へと伸ばす。

 穴へと伸ばされた髪は、穴の周囲に等間隔に配置された。それは人の目には配置されたようにしか見えないが、花中の脳裏には具体的なイメージが過ぎる。

 フィアの髪もまた能力により操られる水だ。伸ばした先から能力によって制御されている水を這わせ、穴全体に浸透させているに違いない。例えるなら、吸水口である穴の内側に網を張ったようなもの。

 加えてこの網は、フィアの力により自在に広げられる。

 大地に開いた穴を、さながら両手を突っ込んで押し広げるかのように、フィアは水によって拡大させようとしているのだ。そしてフィアにはそれを成し遂げるに足る、強大なパワーが宿っている。

「ほーいっと」

 なんとも気軽な一言と共に、フィアは指を軽く振るう。

 ただそれだけの仕草で、大地に開けられた穴は呆気なく押し広げられた。無論拡大された皺寄せとして、周りの大地を大きく歪めるという副作用を伴って。

 石造りの床が一部浮かび上がり、湯船もその形を変形させる。露天風呂を囲う柵も傾き、その震動は勇や晴海達の身体も揺らした。

 そして肝心の吸水口は、詰まる前の穴よりも二~三倍ほど大きくなった。

 ここまで広がれば、詰まっていた『しらせ様』がどれだけ大きくても関係ない。溢れ出す湯と共に、『しらせ様』も外へと飛び出す。

 しかも一匹二匹ではなく、何十、何百も。

「きゃあっ!? えっ、ま、まだこんなに居たの!?」

「まだまだ居ましたよ。この近くだけで数千匹は居るんじゃないですか?」

 驚く花中に、フィアは更に驚きの情報を付け加える。温泉に出ている数だけでも数百は居そうなのに、更にこの十倍以上の数が潜んでいるとは、流石に予想も出来なかった。

 一体、この穴の奥にはどれだけの『しらせ様』が潜んでいるのか。最早見当も付かない。

「フィアちゃん、穴の奥に行きたいから、水で包んでくれる?」

「了解でーす」

 花中のお願いを受け、フィアは手から出した水で花中を包み込む。フィアお得意の水球だ。花中が息をするためのスペースが確保されているので、これなら水中で窒息する事もない。

「よっしゃあっ! 私も行くぞー!」

「あたしも行く。何が起きてるか、知りたいし」

 花中が出発の準備を終えたのを見て、加奈子と晴海もフィアの下にやってくる。フィアの能力ならば、花中以外も水球に包む事など造作もない。それに何が起きているか分からぬ今、フィアの傍に居る方が何かと安全だろう……様々な理由から花中がこくりと頷けば、フィアは二人も水球で包んでくれる。

 包まれていない人間はあと一人。

 フィアが片手で岩を持ち上げ、更には水球を作り出したのを見て後退りした、勇だけだ。

「あら。あなたは行かないの?」

「えっ、あ……い、いや……本当に、人間じゃないんだって、驚いて……その……」

 ミリオンに問われ、勇はしどろもどろになりながら言葉を濁らせる。

 勇には公民館から旅館までの帰り道で、フィア達が人間でない事、超常的な力を有する事を花中は説明していた。とはいえ実際にその力を見なければ、ぱっと見ただの美少女であるフィア達が『化け物』とは信じられまい。

 勿論歩きながらでも、例えば『身体』を変形させたり、超人的身体能力を見せるなりの証明方法はあったが……下手に見せてパニックになられても面倒なので、旅館に来るまで見せるチャンスがなかった。勇の今の反応を見るに、結果的には杞憂だったようだが。

 ともあれそうした理由から困惑しているのであろう勇を、ミリオンはじぃっと見つめ……不意にくすりと笑った。

「あら。さかなちゃんが怖くて、腰が抜けちゃったのかしら? 可愛いところもあるのね」

 次いで、この状況では煽りにしか聞こえない言葉を呟く。

 困惑していた表情を引き攣らせた勇は、わざとらしく胸を張る。

「い、いえ! 大丈夫です。少し驚いただけですから」

「そう? 無理はしなくて良いのよ。調査報告はしてあげるから」

「……自分の旅館で起きている事を自分の目で知らないようでは、責任者としてあまりに不甲斐ない。それに私は、自席でふんぞり返りながら、子供を矢面に立たせる大人にはなりたくありませんから」

「ふぅん。すごく、人間らしい考え方ね」

 感心しているのか、馬鹿にしているのか。どちらとも付かないミリオンの言葉に、勇は曇りない笑みで答える。

 やがて勇は駆け、花中達を水球で包んだフィアの下にやってきた。「自分も連れていってください」と彼が伝えると、フィアは勇の気持ちなどろくに考えていない早さで「良いですよ」と答え、彼を水球で包み込んだ。

 全ての人間がフィアの水球の中へと入り、今度こそ準備は万端。

「では花中さんもう出発してもよろしいですね?」

「うん。フィアちゃん、行こう」

 花中の指示を受け、フィアは『しらせ様』が出てきた穴に跳び込んだ。フィアに引っ張られる形で、水球に包まれた花中達も穴の中へと入る。

 穴の中は、とても暗かった。太陽の光が届かないのだから当たり前なのだが……底知れぬ暗闇が何処までも続いているという『事実』が、花中の身体をぶるりと震わせる。

 しかし暗闇を恐れぬフィアはどんどん前に、花中の気持ちなどお構いなしにかなりのスピードで進んでいく。暗闇の中では周りの景色など見えないが、身体に掛かる慣性から、自分達が穴の奥へと進んでいる事が花中にも感じられた。

 今の感覚を例えるなら、巨大なヘビの体内を進むかのよう。

 おぞましい感覚だ。しかしこんなのはただの錯覚に過ぎない。花中は顔を横に振り、不安を頭の中から追い出す。深く深呼吸もして、胸の中で執拗に渦巻くものを吐き捨てようとする。

「花中さん開けた場所に出ましたよ」

 フィアの声が聞こえてきたのは、なんとか気持ちを切り替えた直後の事だった。

 開けた場所、と言われたが、周りは相変わらず真っ暗で何も見えない。フィアは能力で水を操れるので、それで把握出来るかも知れないが……花中達人間に、この暗闇を見通す術はなかった。

 何か周囲を把握する術はないものか。そう考えていると、ふと花中の目に眩い『光』が当たる。

 思わず目を閉じた花中は、少しずつ慣れてきたので瞼を上げ……見えたのは、ミリオンの笑顔。

 花中達を追って、ミリオンも温泉の給水口に跳び込んできたようだ。彼女は水球に包まれていないようだが、ミリオンの正体は呼吸などしていないウイルスである。水中どころか宇宙空間すらへっちゃらであろう彼女の身を心配する必要はない。

 そんなミリオンの指先は、煌々と光り輝いていた。

 高温による発光現象を利用した照明だ。これならば周囲を照らし、人間である花中でも穴の奥深くを調査出来る。ミリオンに感謝を伝えようと、花中は口を開いた。

「う、うおぁっ!? な、なんだこりゃ!?」

 直後、突然上がった勇の大声で、礼の言葉は引っ込んでしまったが。

 そして勇が大声を上げた理由により、花中の喉の奥まで引っ込んだ言葉はいよいよ消えてしまう。

 ミリオンが放つ光により照らされた周囲……そこには、無数の『しらせ様』が泳いでいたのだ。いや、無数の、という言葉すらも生温い。数が多過ぎて、遠くの景色が見えないほどだ。何千どころか何万、何十万という数がこの辺りに生息していると窺い知れる。

 圧倒的な大群。地上に現れた何十万という数すらも、『しらせ様』にとっては氷山の一角に過ぎないのだと花中は理解した。

「す、すげぇー! めっちゃいっぱいいる!」

「こ、これは流石に、多くない……?」

 あまりの数に加奈子ははしゃぎ、晴海は怯えたように声を震わせる。花中は、丁度その中間ぐらいの気持ちだろうか。生命の神秘への興奮と、地の底に蠢く未知への恐怖が、生物好きかつ臆病な花中の頭を染め上げた。

 しかしながらフィアは『しらせ様』の大群にあまり興味がないのか、「もっと下りますねー」と一言伝えて水底目指し進み始めた。ミリオンも肩は竦めつつ、フィアの後を追うように泳ぐ。二匹とも『しらせ様』への反応は薄い。生物の豊富さに感嘆や恐怖を覚えるのは、人間的な発想なのかも知れない。

 やがてフィアとミリオンは、水底に辿り着いた。着地の瞬間、ふわりと白い粉のようなものが底から舞い上がる。恐らくはデトリタス……有機物の粒子だ。此処には『しらせ様』がたくさん棲み着いている。彼等はやがて死に、水底に落ちてくるだろう。そうした死骸が分解される過程で大量のデトリタスが生じ、水底を覆い尽くしていてもなんら不思議はない。

 そしてこうしたデトリタスの層を形成するのは、バクテリアや甲殻類などの小動物達。

 じっと観察してみるとデトリタスが時折もこもこと動き、その中から体長二センチぐらいの、エビらしき生物が顔を出す瞬間に遭遇した。もこもことした動きはあちこちで見られ、付近に相当数のエビが生息していると窺い知れる。

「おっ。丁度小腹が空いていたところなんですよパクッ」

 ……野生動物(フィア)にとっては、生態系の神秘よりも食い気らしいが。エビは逃げる間もなくフィアに食べられ――――眉間に皺が寄ったフィアの顔が、神秘の味を物語っていた。

「……フィアちゃん。それ、美味しい?」

「……腐った味がします」

「まぁ、温泉の中に暮らしている、生き物だしね」

 身の中に硫黄系の化合物が含まれているのかも知れない。フィアは噛み砕いたエビをぺっぺっと吐き出し、渋い顔を少しだけ和らげた。

 『しらせ様』にとっても、エビ達は食べ物ではないらしい。デトリタス付近を泳ぐ個体も多いが、エビ達には見向きもしていなかった。『しらせ様』は小さな口をパクパクと動かしているが、ただそれだけ。エビを捕らえようとする個体すら一匹も見当たらない。尤も口が小さ過ぎて、大きなエビはそもそも入りそうにないのだが。

 思い返せば、ミリオンが『しらせ様』には歯がないと語っていた。エビは小さなものだが、甲殻類の一種。軟甲綱なんて名前の分類に属しているが、頑強な殻を持つフジツボなど他の甲殻類と比べて柔らかいという意味であり、その身に纏う殻は十分な強度がある。発達した歯、或いは代替する器官がなければ食べられないだろう。

 加えて『しらせ様』の数が膨大過ぎる。デトリタスを食べているであろうエビの資源量は、『しらせ様』の死骸の供給量未満でしかない。エビの子供を食べるにしても、莫大な数の『しらせ様』を養うのは不可能。『しらせ様』はもっと別の、それでいて豊富な餌を食べている筈だ。

「……………」

「おじちゃん、どしたの? なんかそわそわしてるけど?」

 考え込む花中だったが、ふと加奈子の声が聞こえ、振り向く。そこには水球の中で、一人不安げに辺りを見回している勇の姿があった。普通に彼等の話し声が聞こえるのは、フィアが水に伝わる音を上手く中継してくれているからだろう。

 加奈子に指摘され勇はハッとしたように目を見開き、曲がっていた背筋を伸ばす。しかしながらそわそわした動きは止まらず、やはり挙動不審なまま。

「い、いや……何か、大きな動物とか居るんじゃないかと思って、警戒していたんだ」

 やがて少し恥ずかしそうに、自らの不安の正体を明かす。

 ミリオンに照らされているとはいえ、遠く彼方まで見えている訳ではない。加えて『しらせ様』が多過ぎて、数メートル先すら満足に見えないのが実情だ。

 そして『しらせ様』は、その全体的に弱々しい姿からして如何にも『喰われる側』の生物であるように見える。大きな捕食者がこの水中の何処かに潜んでいる……という考えは、あながち臆病風に吹かれたとも言い難いものである。

 しかし勇の心配は無用なものだと花中は思っていた。

「ふふんご安心を。この私に掛かればどんな生物だろうがイチコロです。まぁ少なくとも半径数キロにそんな生物の姿はなさそうですが」

「みたいねぇ。私も特になんの気配も感じないし」

 理由の一つは、此処にフィアとミリオンが居るから。並の怪物では彼女達を倒すどころか、苦戦すらさせられない。ましてやフィアの『水を操る』能力は水生生物に対し絶対的なアドバンテージとなる。この地の生態系がどのようなものかは未解明だが、十中八九彼女達に敵う怪物は存在しない。

 そして花中は、そもそもそんな大型捕食者なんてこの環境には棲み着いていないと考えていた。

「多分、ですけど、そういう生物は、いないと思います」

「……理由を訊いても?」

「『しらせ様』の生息密度が、高過ぎます。こんなに『餌』が豊富なら、捕食者は、簡単に増えて、どんどん食べて、『しらせ様』は減っていく、筈です」

「『しらせ様』の繁殖力が高いかも知れないじゃないですか」

「そうですね。その可能性は、否定出来ません。でも、もう一つ、理由はあります……彼等が、あまりに無防備、だからです」

 もしも『しらせ様』が喰われる側であるなら、捕まった時に逃げようとするだろう。どんなに無力なイモムシでも捕まればのたうつなり身を丸めるなりするし、植物すら食べられた傷口からねばねばした液を出したりする。そうしたちっぽけな防御反応でも、多少は天敵対策となるからだ。百万分の一の確率でも生き残りやすくなるのならそれは子孫を残す上で好都合であり、運良く生き延びた個体がより多くの次世代を残し、世界に広まっていく。

 しかし『しらせ様』は捕まろうともろくな身動ぎすらせず、おまけに針や殻などの器官も見当たらない。

 こうした生物は、得てして外敵のいない環境に適応した種だ。アホウドリは外敵がいない島で子育てするがために人を恐れず、ニュージーランドの飛べない鳥達も強力な捕食者がいないため『飛ぶ』という防衛能力を退化させてしまった。何故なら敵がいない中で強力な自衛手段を持っていても、それを生成するのに費やしたエネルギーが無駄になるからだ。むしろこれらのエネルギーを繁殖や成長に回した方が、同種(ライバル)相手に有利に立ち回れる。

 彼等の生息する地下温泉という隔絶した環境は、外敵が侵入し難い場所といえよう。『しらせ様』が天敵への対策を退化させたとしても、花中にはむしろ自然な適応であるように思えた。

「……そう、ですか。そうだと、良いのですが」

 花中の説明に、勇は納得しきれていないながらも、頷いた。自分の、そして親戚(加奈子)の安全に関わる事なのだから、慎重なぐらいで丁度良い。それに所詮はただの憶測である。一人ぐらい周りを警戒してくれる人がいた方が良い。花中はこれ以上、勇を説得しようとはしなかった。

 さて、『しらせ様』やその近辺に危険がないと思われるのは良い事だ。

 しかし今回確かめたいのは、この地の安全ではなく、此処で何が起きているのかである。此処には『しらせ様』がたくさん泳いでいるが、勇から聞いた話曰く『しらせ様』は早々お目に掛かれる生物ではない。町人もこの生物が『しらせ様』かどうかで紛糾しているぐらいなので、勇一人が疎いという事でもない筈。

 もしも平時から視界を埋め尽くすほどの大群が温泉の直下に潜んでいたならば、もっと頻繁に外へと溢れ、目撃されている筈だ。恐らくこの場所は、『しらせ様』の本来の生息地ではない。デトリタス層が出来ているので、それなりには紛れ込んでいるかも知れないが……いや、或いはこのデトリタスも『しらせ様』の生息地から供給されたという可能性もある。判断材料としては些か弱い。

「(もっと奥に行かないとダメ? ううん、もしかしたら此処に『しらせ様』を集める物質とかがあるかも。先に周辺に落ちているものを片っ端から集めてもらおう。それで変な物が落ちていたら、旦那さんに見てもらって、あと水流も調べてもらわないとダメかな……)」

 調査方針を頭の中で組み立て、纏めるや花中はこくりと頷く。

「フィアちゃん、あのね、この温泉の周辺に、何か変なものがあったら、集めてくれる? 本当に、なんでも良いから。あと、水の流れも、知りたいの」

「そのような事でしたら造作もありません。さくっと済ませますよ」

 お願いすればフィアは快諾。早速能力を使おうとしてか、すいっと手を伸ばして

「……ん?」

 何かに気付いたように、ぽつりと呟いた。

 一体何を感じ取ったのだろう? 花中の抱いた疑問は、しかしそれを問う前に明らかとなった。

 世界が、揺れ始めるという形で。

「……地震?」

 ぽつりと、晴海が独りごちる。

 その言葉を裏付けるかの如く、周囲の揺れは激しさを増していく!

 大きな地震だった。フィアもミリオンも、『しらせ様』も動じていないが、人間達にとっては立派な大震災。右往左往する花中の目には、同じく右往左往する加奈子や晴海、勇の姿が映る。

「ふぃ、フィアちゃん!? あ、あ、あの、えと」

「ご安心ください花中さん。この程度の揺れなど私の力の前ではないも同然というやつです」

 動揺する花中であったが、フィアは自慢げに胸を張って宥めてくる。確かに、原水爆すら通じぬフィアからすれば、大地の揺れなど大したものではないだろう。少し、花中の心は落ち着きを取り戻す。

「それよりもあそこがちょっと危なそうです。なんか出てこようとしています」

 その落ち着きを掻き乱したのは、フィアの一言だったが。

 指差された場所を、花中は反射的に見遣る。そこは特段他と変わりない、デトリタスに覆われたただの地面

 否、違う。

 フィアが指し示した地面だけが、周りより少し隆起していた。大量のデトリタスに覆われていて分かり辛いが、間違いない。それも隆起はあたかも呼吸するかのように、ゆっくりとだが定期的に上下している。

 なんだか分からない。けれども確かに()()()

 本能的にそれを感知した、刹那、隆起していた地面が一際大きく盛り上がる! その盛り上がりは最早下がる事はなく、延々と膨らみ続け……やがて弾けた!

 飛び散る大地の欠片。デトリタスが雲のように舞い上がる。

 しかしそれらを一瞬で吹き散らすほどの『流れ』が、弾け飛んだ事で出来た大地の大穴から溢れ出す。流れは透明なものであったが、まるで蜃気楼のような揺らめきを持ち、故に目視による観察が出来た。高さは数十メートルほどにもなり、岩やらなんやらも全て浮かび上がらせている。

「……あれは……?」

 揺らめきの正体を考えようとする花中だったが、その思考は妨げられた。

 『しらせ様』達が、一斉に『流れ』の方へと振り向いたがために。

 ぞわりと、悪寒が花中の背筋を駆けていく。今までただ泳ぐだけだった、捕まろうともなんの抵抗も見せなかった生物が、自発的な行動を起こしたのだ。

 真意を探ろうとする花中は、『しらせ様』をじっと見つめる。やがて『しらせ様』は次の行動を花中に見せてくれた。

 突撃するように、溢れ出す流れに向かうという行動だ。

 まるでそれこそが待ち望んでいたものだとばかりに、周囲を泳ぐ何十万もの『しらせ様』は流れへ向かって泳ぐ。大地を吹き飛ばすほどのパワーがある流れだ。小さくて貧弱な『しらせ様』は呆気なく流れに押し戻されてしまう。

 しかし『しらせ様』は諦めない。押し寄せる個体の数も増え続けるばかり。

 すると形勢が逆転する。流れは延々と噴き出していたが、その勢いは時間と共に失われていった。対して『しらせ様』の数は増え続ける一方。集結した大群は、前に居る仲間などお構いなしに前へと進もうとし、結果最前線に立つ仲間を文字通り後押しする。

 少しずつだが前へと進んだ『しらせ様』達は、やがて流れが噴き出す穴へと入り込む。

 『しらせ様』が入り込んだ影響か、それとも丁度勢いが失われたのか。流れは花中の目では見えないほど弱まった。こうなればいよいよ『しらせ様』の動きを妨げるものはない。何百何千という『しらせ様』が穴へと入り、次いで何万何十万という数が押し寄せる。

 時間にして十分か、或いはそれ以上か。

 気付けば周りから、『しらせ様』は一匹も居なくなっていた。どうやら全員が流れに突入してしまったらしい。当の流れは、溜まっていた分を全て吐き出したのか、すっかり勢いを失っている。今ではぽかりと空いた穴から微かな揺らめきが、一メートルほどの高さまで伸びているだけだ。

 状況は大きく変化した。あまりの変化に付いていけず、花中はその場にへたり込んでしまう。呆然としているのは花中だけでなく、晴海も加奈子も勇も同じだった。

 今の光景はなんだったのだろう。

 何故『しらせ様』は流れに向かって泳ぎだしたのか。

 あの流れの正体はなんなのか。

 謎を解き明かすための調査だったのに、更なる謎が積み上がる。正直、頭の中がぐるんぐるんと回転しているような気持ちだ。謎が多過ぎて頭のキャパシティをオーバーし、気持ちが悪くなってくる。

 しかし謎は真実への道しるべだ。解き明かせば新たな情報となり、答えへと導いてくれる。これはチャンスなのだと前向きに考え、謎解きに挑むとしよう。

 決意を胸に、花中は立ち上がる。幸いにして『流れ』によって様々なものが舞い上がった。穴の奥からやってきた、新たな『情報』もあるかも知れない。

 地震も既に収まっているため、調査に支障はない。もしくは先程の『流れ』こそが地震の原因なのか。いずれにせよ調べねば真偽不明のままだ。

「……フィアちゃん。辺りを探って。さっきと同じで、なんでも良いから、集めてほしいの」

「りょーかいでーす」

 花中の二度目のお願いも、フィアは快く受け入れる。水中での調査という人間ならば多大な労力を必要とする作業も、フィアの力ならばむしろ地上よりも楽というもの。

 かくして集められた無数の『なんでもかんでも』を前にして、花中達人間が表情を強張らせたのは、この五分後の事であった。




生態系(目に見える生物二種のみ)
実際問題、長期間生態系が成立する最小単位ってどのぐらいの大きさなんですかね? 絶海の孤島でも魚とか海鳥とか関与してるし……

次回は9/27(金)投稿予定です。

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