彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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語らない予兆4

「きゃあっ!? な、な、何これぇ!?」

「わーぉ、なんか可愛いのがいっぱいいるー!」

 謎生物に包囲されていると花中が気付くのに続き、晴海と加奈子も声を上げた。

 声に反応して花中が振り向けば、じゃれ合いの結果か裸のまま互いに抱き合っている二人の周りにも、たくさんの謎生物が浮かんでいた。晴海は未知の生物に恐怖を感じている様子だが、加奈子は殆ど無警戒。

 晴海から離れた加奈子は、謎生物の一匹に近付く。そろりそろり……と言葉に出しているので当人としては忍び寄っているつもりなのだろうが、真っ正面から、お湯を波立たせながら近付いてこっそりも何もあるまい。

「てやーっ! ゲットだぜ!」

 しかし威勢良く伸ばされた加奈子の手を謎生物は避けず、加奈子はあっさりと謎生物を捕まえた。両手で高々と掲げられた謎生物は、特段抵抗も見せず、大人しくしている。

「ちょ、加奈子!? 何やってんのよ!?」

「可愛いから捕まえてみた!」

「可愛くてもなんだか分かんない生き物を素手で触るんじゃないの! 大体いくら可愛くても、その……か、怪物かも知れないでしょ!?」

「えー……怪物かなぁ。怪物だとしても、安全な子っぽいけど」

 晴海は狼狽えながらも加奈子を窘めるが、加奈子の方は納得いかないようだ。掲げていた謎生物を顔の辺りまで下ろし、つぶらな瞳の付いた丸い顔と向き合う。謎生物はただただ加奈子と向き合った。

 晴海の懸念は至極尤もなものである。どんな生物にも様々な雑菌が付いているし、見え難いだけで小さな棘などを持っている可能性はあるのだ。迂闊に触った場所に棘があり、それが毒針だった……なんて事は決して大袈裟な話ではない。先程自分も似たような事をしたので花中には加奈子を非難出来ないが、晴海の意見にこくこくと頷いてしまう。

 そして怪物という可能性。

 当たり前の話だが、怪物側に「誰が見ても怪物だと分かるほどおどろおどろしい姿をしている」なんてルールは存在しない。あくまで野生生物である以上、彼等の形態は進化によって得られた、その地の暮らしに適した結果に過ぎないのだ。可愛いというのは人間が勝手に抱くイメージであり、そこに『根拠』なんてない。パンダやクマは大変可愛いが、近付けば人間など簡単に殺されてしまうように、可愛い = 安全とは限らないのである。

 しかし今回の謎生物がクマのように危険かといえば……加奈子と同じように、花中にもそうは思えない。

「もし危険だったら、今頃フィアちゃんとミリきちがみんなバラバラのぐちゃぐちゃにしてるんじゃない?」

 怯える晴海に対して加奈子が言ったように、本当に危ない生物なら、フィア達が野放しにしている筈がないのだ。

 晴海がフィアの方へと振り返り、花中もフィアを見遣る。温泉に肩まで浸かり、周りに浮かぶ謎生物には目もくれないフィアは、その場で肩を竦めながら答えた。

「まぁそうですね。多分危険はないかと。というか私はてっきり花中さんはこの生き物を観察しに行ったのかと思っていたのですが」

「あの時、もう気付いていたんだ……触っても、平気そうな感じ?」

「さてそれはどうでしょう。弱っちい感じの生き物ですし凶暴性もなさそうなので見るだけなら安全だとは思いますが。もしかすると毒針とかはあるかも知れませんねー私なら平気でしょうが人間でも大丈夫かは知りません」

「うげ。そうなの?」

「やっぱり危ないかも知れないじゃない! ほら、早く逃がす!」

 フィアがあっけらかんと語る危険性を受け、晴海は再び加奈子に命じる。流石の加奈子も毒針は怖いようで、恐る恐る謎生物を温泉に戻した。戻された謎生物は怒り狂う素振りもなく、ぷかぷかと温泉に浮いている。

「と、とりあえず、お湯から出ましょう。変な汁……は多分出てないと、思いますけど、ぶつかった時に、棘とか刺さるかも、知れませんから」

「う、うん。そうね、そうした方が良いわよね……」

「だねー」

 花中の提案に、晴海と加奈子も同意。人間三人は温泉から一時出て、後に続いてフィアとミリオン ― と彼女の頭上で酔い潰れているミィ ― も温泉から出た。

「さて、はなちゃん。これからどうする?」

「……とりあえず、小田さんのおじさんに、連絡はしましょう。小田さん、お願い出来ますか?」

「あいよー」

 ミリオンから問われ、花中は自分の考えを答えつつ、加奈子に勇への連絡を頼む。加奈子は右手で敬礼しながら答え、そそくさと温泉から出ていった。

 女湯なので来るのは勇ではなく彼の妻 ― 早紀と呼ばれていた女性だ ― の方かも知れないが、なんにせよ旅館の関係者にはこれで伝わるだろう。とはいえ勇や早紀が偶々浴場の近くに居ない限り、彼等が此処を訪れるまで少し時間が掛かる筈だ。

 その時間を、花中は謎生物の観察に使う事とした。

「フィアちゃん。一匹、近くまで引っ張ってきてくれる? あ、殺したら、駄目だからね」

「良いですよ」

 フィアにお願いをすれば、フィアは髪の毛を数本伸ばし、近くに居た謎生物に巻き付ける。

 髪に縛られた謎生物は、やはり抵抗する事なく、花中の立つ湯船の縁まで引っ張られた。縁に立つ花中は湯船に浮かぶ謎生物を見下ろし、思考を巡らせる。

 この生物の正体はなんだろうか。

 見た目的には、クジラ類に近いようにも思える。しかし現在知られているクジラ類の中で、最小とされている種であるスナメリでも体長一・五メートルを超える。体長五十センチというのは、クジラの仲間としては些か小さ過ぎないだろうか?

 花中的には、大きさについてはあまり不思議に思わなかった。身体の大きさなんてものは進化によって幾らでも変わる。例えばピグミーと呼ばれる人種は、大人であっても身長百五十センチ未満にしかならない。孤島や密林などの隔絶した環境に適応した結果とされているが、彼等が『一般人』と血縁的に分岐したのはほんの数万年前とされている。生物とは、その程度の時間でも急速に進化(変化)するものなのだ。

 この謎生物がクジラの一種だとしても、現在の一般的なクジラ類から数百万年前に分岐し、生息地が小さなものに有利な環境であるなら、ここまで小型化してもおかしくはない。或いは誕生初期の ― 四千万年ほど前の ― クジラ類はあまり大きくない、精々カワウソ程度の大きさであったと考えられている点を加味すれば、彼等は原始的なクジラ類から分岐し、その後殆ど大きさを変えていない種だという可能性もあるだろう。

 勿論これはあくまで花中の推論であり、真相解明には専門家による研究が必要だ。もしかしたら見た目がクジラっぽいだけの魚かも知れないし、水中に適応したネズミやイヌの仲間かも知れない。生物の進化は多様であり、『あり得ない』なんてものはないのだ。正確な知見を得るには解剖や遺伝子解析が必要だろう。一体どんな進化を重ねてきたのか、実に好奇心がそそられる。

 ……未知の生命体に対し、生物好きな花中はいくらでも考察を続けられる。が、こんなのは後でもじっくり楽しめる事。ちょっとした暇潰しにでもすれば良い。

 それよりも早急に、今すぐ考えるべき事柄がある。

「(なんでこの子達、温泉に出てきたんだろう?)」

 彼等の出現理由だ。何故温泉に、しかも何十匹という大群で現れたのか。いや、そもそも彼等は元々何処に暮らしていたのだろう?

 生息地を特定するなら、形態から予測するのが一番だ。生物というのは環境に適応し、姿形や生態を変化させるものなのだから。そしてこの謎生物の見た目は、かなり特徴的である。

 白い肌、小さな目、つるつるとした身体。

 特徴的な姿というのは、それだけ彼等の生息環境が『人間と違う』事を意味する。そして彼等の姿は、一般的には人間が寄り付かないある種の環境に生息する生物とよく似ていた。進化というのは割と気紛れなので、必ずしも当て嵌まるものではないが、大凡の傾向はあるのだ。

 恐らく彼等の住処は……

「ね、ねぇ、大桐さん……」

 考え込んでいると、晴海がおどおどとした声で話し掛けてきた。

 花中は一旦思考を打ち切り、晴海の方へと振り返る。そしてギョッとした。晴海の顔が、すっかり青ざめていたからだ。身体もガタガタと震え、落ち着かない様子で右往左往している。

 尋常でない、という言い方は大仰かも知れないが、明らかに体調を悪くしている様子だ。思えば今の自分達はタオル一枚巻いただけの状態なので、身体を冷やしてしまったかも……とも思ったが、それを差し引いても酷い状態である。何か別の原因がありそうだった。

「え、あ。ど、どうしたの、ですか?」

「ご、ごめん。あの、やっぱりあたし、その生き物怖くて……も、もう、温泉の外、出ても良い……?」

 心配になって尋ねれば、晴海はすっかり弱々しくなった震え声で答える。

 しまった、と花中は思った。

 自分は人智を超えた生命体……それこそ人類どころか地球を滅ぼしかねないようなものにも……と幾度も出会っている。正直温泉に現れた謎生物達が一匹で何万もの人間を殺せる化け物だとしても、「それは大変だ。なんとかしないと」ぐらいにしか思わないだろう。温泉から出て行った加奈子も、持ち前の能天気さと昨年の『死なない生物』との出会いにより、異常な生物への精神的耐性が出来ている筈だ。

 しかし晴海は本当にただの一般人である。彼女が出会った超生命体は、フィア達のように人語を話せて尚且つ『友好的』な存在のみ。人間を何億人も殺せるような怪物との接触経験なんてなく、未知の生命体に慣れている筈がない。

 ましてや怪物による人類社会の崩壊が現実味を帯びてきた、或いは最早『確定』している昨今。正体不明の生物を恐れるな、という方が無理な話なのだ。臆病な自分が左程恐怖していないからと、晴海のケアを忘れてしまうとは。あまりにも気遣いの出来ていない自分が恥ずかしく、花中は猛省する。

「す、すみません、気が回らず……わたしは、大丈夫ですので、部屋に戻って、休んでいてください。何かあったら、すぐ知らせますから」

「う、うん。本当に、ごめんなさい」

「気にしないでください。えと、ミリオンさん。立花さんを、部屋まで、送ってもらえますか?」

「ええ、構わないわよ。そろそろこの子もどっかに置いておきたくなったし」

 花中が頼めば、ミリオンは自らの頭の上で相変わらずぐったりしているミィを指差しながら答える。

 ミリオンは晴海の手を握り、その背中を優しく押す。晴海は促されるまま、けれども脱衣所へ戻る間際申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて、温泉から出ていった。

 そんな晴海と入れ替わるように、今度は加奈子が戻ってきたので、花中はちょっと驚いた。加奈子は花中の顔を見ると、パッと花咲くような笑顔を見せる。

「大桐さーん。とりあえずおじさんに連絡しておいたよー。今、脱衣所の外で待ってるから、着替えが済んだら呼んでだって」

「あ、はい。分かりました」

「あと、晴ちゃんが気分悪そうにしてたけど、なんかあった?」

「……すみません。わたしの方で、気配りが足りず……」

「あ、メンタル的な話? じゃあ大丈夫だね。晴ちゃん、打たれ弱いけど回復は早めだし」

 花中の言葉から、晴海が不調になった原因を察したのか。しかし加奈子は花中を責める事もなく、にししと笑顔を見せる。

 晴海なら大丈夫だと信じているのだろう。花中も晴海の友達として、そう思う事にした。

 さて。ぼうっとしてもいられない。

 脱衣所の外で勇が待っているのだ。自分が着替えねば、勇は何時までも女湯に入ってこられない。それに異常気象真っ只中の六月とはいえ、夜ともなれば流石に冷えてくる。

 風邪を引く前に、待たせないために、迅速に対応するために。

 幾つもの理由から、花中は駆け足で脱衣所へと向かうのだった。

 ……………

 ………

 …

「こいつは、『しらせ様』か?」

 女湯に足を踏み入れ、数秒ほど凝視した後――――勇は驚き、唖然とした様子でぽつりと呟いた。

 パジャマへと着替え、勇と共に女湯へと戻った花中は勇の言葉に首を傾げる。花中の傍に立つフィアと、晴海とミィを送り届けた後戻ってきたミリオンも、勇の方に視線を向けた。

「しらせ、様? えと、それは一体……」

「……この辺りに伝えられている神様の名前です。昔、私の曾祖父が見たと言っていましたが、まさか本当に居たとは……いや、本当に『しらせ様』かは分かりませんけど、でも白くて艶やかな、丸い魚という言い伝え通りの見た目で……」

 花中の問いに、勇は本当に驚いた様子で答える。彼の言葉遣いはなんとも歯切れが悪く、その視線はあちこち泳いでいた。

 どうやらこの謎生物は、『しらせ様』という神様らしい。

 勿論本物の神様ではあるまい。現代よりも生物学的知見が少なかった時代では、生物達に様々な『オカルト的価値』が付与された。例えば遺伝子疾患の一つであるアルビノのヘビは、白蛇として日本では縁起物や神の使いとされている。中国ではコウモリは福を招く動物とされたし、マダガスカル島に生息するアイアイは悪魔の使いとして忌み嫌われているなど、世界的に見て珍しい話ではない。

 『しらせ様』もそうした生物の一種なのだろう。

「……あの、二つほど、尋ねても、よろしいですか?」

「ん? ああ、良いですよ。私に答えられる事でしたら」

「ありがとうございます。えと、じゃあ、一つ目の質問です。この生物は、この辺りでは、よく見られるもの、なのですか?」

「いや、そんなものでは……ないと思いますが」

 一つ目の質問に、勇は少し口ごもったように答える。

 ハッキリとしない物言いに、フィアが訝しむような眼差しを送った。

「なーんか歯切れの悪い言い方ですねぇ。なんか隠してます?」

「隠すという訳ではないのですが……『しらせ様』は、昔からこの地域では誰それが見た、という話があるのです。ただどれも祖父や曾祖父が見たという話ばかりで、所謂お伽噺と言いますか、その、私自身が見たのはこれが初めてで……」

「ふーん。そういうものですか」

 勇のしどろもどろな説明に、フィアはあっさりと納得する。恐らく深く考えるのが面倒になり、そのまま信じる事にしたのだろう。

 花中も、勇が嘘を吐いているとは思わない。彼の歯切れの悪さは、産まれて初めて遭遇する謎生物への不安と、伝承上の存在を目の当たりにした事による困惑が原因だろう。ましてや自分が管理する温泉にたくさん現れたとなれば尚更である。

 この地の住人にとっても、この生物は有り触れたものではない。これは大事な情報である。花中はしかと記憶しておく。

 一つ目の質問は終わった。花中は二つ目の質問をぶつける。

「では、二つ目の質問です……『しらせ様』というのは、どんな神さまなのですか?」

 花中は出来るだけハッキリと伝える。何故なら花中的には、一つ目よりも大事な質問だからだ。

 そして勇は、僅かに目を逸らした。身体も強張っている。まるで答えを拒むように。

 その反応の理由は、大方見当が付く。『しらせ様』を見た直後の勇は、喜びよりも困惑や動揺が大きかったように思える。無論謎生物が湯船に何十と浮かんでいるのは、大変不気味な光景だろうが……勇は謎生物が『しらせ様』だとすぐに連想していた。もしも『しらせ様』が白蛇のような縁起物なら、少なからず喜んだり、頬が緩むのではないだろうか。しかし勇はただただ困惑し、花中が尋ねると目まで逸らした。

 十中八九、彼等は不吉な生物なのだろう。

 花中が胸のうちに抱いていた推測を、勇も察したのか。強張っていた身体から力を抜き、ため息のような吐息に続けて花中の問いに答えた。

「……『しらせ様』自体は、よい神様と聞いています。人を災いから守るため、災いが訪れる事を『知らせ』てくれる神様である、と」

「成程、だから『しらせ様』と呼ぶ訳ね。じゃあ災いの方も、そのうち来るんでしょうね」

 勇の説明から、ミリオンがつらつらと己の考えを述べる。勇は静かに頷き、ミリオンの意見を肯定した。

「ちなみにどんな災いが来るのかしら?」

「色々です。村の半分を飲み込むような土砂崩れが起きたとか、村全体が落ちるような地盤沈下が起きたとか。私の曾祖父は、地震があるのを教えてくれたと言っていました。お陰でみんなが助かったと、幼かった頃の私によく言っていましたよ」

「いまいち災害の内容に一貫性がないわねぇ。でもまぁ、言い伝えなんてそんなものかしら」

「結局どういう事なんです? ただのお伽噺という事ですか? それとも本当に何かがあると知らせに来ているのですか?」

「さぁて、どっちかしら。多少大袈裟に言われたり、あれもこれもと追加されたりはしたかもだけど、完全に出鱈目とは言いきれないわね」

 首を傾げるフィアに、ミリオンは降参だとばかりに肩を竦める。フィアはますます顔を顰め、真偽不明の話をどう理解すれば良いのか悩んでいる様子。花中としても、勇の話だけでは判断が出来ない。

 災害というのは甚大な被害を出すものだけに、しっかりとした形で伝えられている事が多いものだ。例を挙げるなら石碑の置いてある場所まで津波が来たとか、何日間噴火が続いたとか……そうしたものは「所詮言い伝え」と馬鹿にはされず、貴重な歴史的資料として扱われる。『災害伝承』として、日本でも総務省がデータを集めているほど重要なものだ。

 『しらせ様』の伝承も、何かを伝えるためのものだという可能性は十分にある。人目に付かないだけでこの地では一般的な生物なら、例えば大地震の引き金となるような前震によって慌てて住処から逃げ出してきた……という事も起こり得るだろう。

 しかし土砂崩れも地盤沈下も地震も、全て『しらせ様』が予知したというのは些か範囲が広過ぎる。あり得ないとは言わないが、幾つかの伝承が混ざっているのかも知れない。仮に全部本当だとしても、これでは何を警戒すれば良いのやら。

 強いて結論を出すなら、何かあるかも知れないという警戒心を抱くべき、というところか。

「……真偽や、何が起きるかは、分かりません。ただ、警察とかには、連絡した方が、良いと思います。もしかすると、なんらかの怪物が出現する、予兆とも、考えられます。専門家の調査が、必要です」

「確かに、そうですね。今すぐ警察に連絡しましょう。念のため役所の知り合いにも、話はしておきます」

 花中の提案を勇はすんなりと受け入れ、連絡するためか一旦脱衣所へと戻る。

 花中はしばしその場に立ち、それから漂う謎生物を眺めた。謎生物は今もぷかぷかと暢気に湯船に浮いていて、その無防備な姿からは危険性なんて感じられない。仲間同士ケンカする様子もなく、大人しい気性なのが窺い知れる。

 恐らく、彼等自身は本当に無害な存在なのだろう。伝承でも「災いを教えてくれる神様」となっているので、謎生物に襲われて死んだという人はいない筈だ。

 しかし……

「うーん、大丈夫かなぁ……」

 無意識に考え込んでいると、何時の間にか勇が露天風呂に戻ってきた。花中はハッと我に返り、振り返る。

 勇の顔は、何やら難しいものとなっていた。

 しかし不快感だとか怒りを感じさせるものではない。困惑し、自分の体験したものをどう理解すべきなのか分からない、という様子だ。

 何があったのだろうか。自分の思考を一旦打ち切り、花中は勇に尋ねる。

「あの、どうかしましたか? もしかして、警察との話で何か、トラブルが?」

「ん? あ、いえ。大した事ではありませんよ。警察も来るそうです。ただ……」

「ただ?」

「……二時間待ちとの事でして」

 勇の答えに、花中はキョトンとしてしまう。

 二時間待ち?

 五分で来い、とまでは言わないが、二時間というのは少し時間が掛かり過ぎのように思える。この町には警察が極端に少ないのだろうか? 或いは旅館から遠く離れたところに派出所がある? 食べ物を求めて田舎への急激な人口移動が進む昨今、警察官までも居なくなる事があり得ないとは言いきれない。言いきれないが、どうにも引っ掛かる。

 二時間待ち。まるで混雑しているアトラクションや美容院で聞くような言葉だ。それらは一人の客を捌くのに大体どれだけ掛かるか、ある程度定まっているがために時間を算出出来る。勿論変なお客さんがいるとこの計算は途端に狂う訳だが、大概は当たるものだ。

 さて、警察が二時間待ちと言っている。

 まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そこから逆算したかのように。

「……まさか、ね」

 否定の言葉を呟き、理性的に花中は否定しようとする。

 けれども、本能は全く別の考えを支持していて。

「後の事は私に任せてください。こんな形で旅行を台なしにしてしまい、申し訳ありませんでした」

 その考えも、勇の謝罪により一度頭の隅へと退けられる。

「あ、いえ。気にしないで、ください。生き物が現れたのは、きっと、この旅館の所為じゃないですし……あの生き物達も、悪いものじゃないのなら、非難するのも、可哀想ですし」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、わたし達は、部屋に戻りますね」

 ぺこりと頭を下げ、花中は露天風呂を後にする。ミリオンとフィアも花中に続き、風呂場から出た。

 何かがおかしいという、違和感を抱きながら……

 

 

 

「ん……んんん……」

 小さな声を漏らしながら、目覚めた花中は顔を上げた。薄目を開け、枕元にある自分のスマホを手に取り、画面を点ける。

 六時四十二分。

 それなりに早い時間帯だ。割と寝坊助な花中は普段、この時間に目を覚ます事は殆どない。何故今日はこんな早くに起きたのか? 寝起きで上手く働かない頭でも、少し考えれば答えを導き出せた。

 花中は昨夜から、旅館の一室に泊まっている。八人部屋の和室で、かなり広々としたものだ。本当ならここでパジャマパーティーを始める予定だったのだが、生憎晴海が精神的理由から体調を崩してダウン。ぐったりしている友の傍では加奈子も流石に馬鹿騒ぎはせず、その日はすぐに寝る事となった。夜九時頃の事である。

 かくしてたっぷりと睡眠を取り、迎えたこの時間帯。ベランダへと通じる大きなガラス戸 ― 寝る前に障子を締めきるのを忘れて、少し隙間が空いていた ― を通って差し込む朝日が、一番窓際の布団に寝ていた花中の瞼を刺激したのだ。

 理由は分かった。そうして頭を働かせていると、眠気も飛んでしまった。二度寝をしても良いのかも知れないが、折角の旅行を寝て潰すのは勿体ない気がする。

 花中は両手を布団に付いて、ぐぐぐと寝起きで固い身体を起こす。大きく伸びをすれば全身に血が巡り、強張っていた筋肉が解れていった。頭も冴え渡ってくる。

 次いでキョロキョロ周りを見れば、自分の布団のすぐ隣で寝ているフィアの姿が見えた。『作り物』の身体は寝息なんて立てず、初めて見る人には人形か、或いは死体のように思えるだろう。普通ならば仰天する姿も花中にとっては見慣れたもの。穏やかな寝姿に笑みが零れる。

「おはよう。今日は珍しく早起きね」

 そうして目覚めた花中に、落ち着きある言葉が掛けられる。

 ミリオンだった。彼女は部屋の隅にある椅子に腰掛けた、優雅な姿勢で花中を見ていた。その膝の上には寝ている黒猫ことミィが居て、まるで貴族の令嬢のような気品を感じさせた。しかしながら着ている黒い浴衣と憂鬱げな表情を併せると、『未亡人』ぽく見える……というのはミリオンにとって褒め言葉かも知れないが。

「おはよう、ございます……んんんー……」

「よく眠れたかしら?」

「あ、はい。たっぷり眠れました。ミリオンさんは、一人で退屈じゃ、ありませんでしたか?」

「そうでもなかったわよ。二時ぐらいまでは小田ちゃんがトランプの相手してくれたし、その前から酔いが覚めてた猫ちゃんが、五時ぐらいまでは話し相手になってくれたからね。暇だったのは、実質一時間ちょっとぐらいかしら?」

 ミリオンが指差す先には、うつ伏せになって寝ている加奈子の姿があった。両腕を前へと突き出し、ぐったりと布団の上に倒れる姿は死体のよう。こちらはフィアと違い胸部が上下しているので、随分と()()()()()死体であるが。

 花中と晴海が寝た後、二人を起こさないよう静かに加奈子は夜更かししていた訳だ。確かに如何にも『今時』な女子高生である彼女が九時に寝るというのは、らしくないと思っていたが……こっそり取っていた『らしい』行動に、花中はくすりと笑みが零れた。

 加奈子の隣には晴海が寝ていて、こちらは仰向けに、静かに寝ている。精神的疲労から花中よりも早く寝付いたと思われる晴海であるが、未だ深い寝息を吐いており、起きる気配はない。相当疲れていたのだと花中は思う。

 そしてミリオンの膝上に乗っているミィは……よくよく見たら、物凄い不細工な顔になっていた。薄目が開いているし、頬がぶにっと歪んでいて、開いた口から舌がはみ出ている。その不細工さに気付いた瞬間、花中は思わず噴き出しそうになった。不細工なのに可愛いというのは、動物の特権である。

「ぷくくくく……」

 なんとか笑いを堪えようとしたが、口からは漏れ出る空気は止まらない。眠気は声と共に外へと出て、どんどん頭の中はスッキリとしていった。

「すっかり起きたみたいね。それじゃあ良い事を教えてあげる。今、あっちで面白い事が起きてるわよ」

 笑いで目覚めた花中に、ミリオンは指を差しながらそう伝えてくる。

 ミリオンが指し示した先にあるのは、この和室のベランダへと通じるガラス戸。今も燦々と輝く朝日が入り込んでいる場所だ。

 記憶が確かなら、あのガラス戸の先にあるベランダからは、旅館の玄関口とは反対側の景色が見えた筈。森の中に建つこの旅館だが、裏には温泉の排水が流れ込んでいる川がある。緑に覆われた山と合わさり作られる風景は、昼間や夜に見ても美しいと思えるものだった。眩くて透き通った朝日の下となれば、さぞ幻想的なものとなるに違いない。

 ……「綺麗な景色」というのなら分かるが、面白い事とはなんであろうか? 疑問、というより不安な気持ちが過ぎるが、見なければミリオンの言いたい事は分からない。それに『何か』があると言われたなら、無視して一日過ごすなんて事も出来ない。花中はとびきり臆病で、ちょっとした事ですぐ不安になってしまうのだ。正体が分からないなんて怖くて仕方ない。

「そんなビビらなくても平気よ。大したものじゃないし、むしろ可愛いぐらいだから」

「可愛い、ですか?」

「ええ。少なくとも私は好みよ、あんな感じのやつ」

 怯える花中を宥めるミリオンだが、花中はますます困惑する。しかし同時に、好奇心もむくむくと沸き立ってきた。

 正体不明のものを確認するのは怖い。でも可愛いものなら見てみたい。心の中のせめぎ合いに勝利したのは、『可愛いは正義(乙女心)』の方だった。

 花中はそろりそろりと、寝ている友達を起こさぬよう忍び足でガラス戸まで向かう。半開きの障子は閉じ、差し込む朝日が晴海達の顔に当たらぬよう別のガラス戸を開けた。カラカラと独特な音が鳴るそれを自分の身体が通れるだけ動かし、花中は隙間を潜るようにしてベランダへと出る。

 完璧、とまでは言わないが、思いの外静かに動けたと花中は満足する。これなら友達を起こさずに済んだ筈だ。なんだか潜入ミッション中のスパイみたい……などと無意識に子供染みた感想を抱き、ちょっと恥ずかしくなる。

 顔を横に振り、恥ずかしさを追い払う。次いで花中はベランダに設置された、転落防止用の柵まで歩み寄った。

 そこからの景色は絶景だ。

 視界いっぱいに広がる山、その頂上から顔を覗かせる朝日。降り注ぐ光を受け、山を覆う森の木々の葉がキラキラと宝石のように輝いている。朝の爽やかな風が吹き抜け、葉擦れの音が世界を満たしていた。

 そこに混ざるのは、ざぁざぁという川の音。大自然の息吹が感じられ、とても清々しい気持ちになる。清流の流れが聞こえるのはベランダの下の方から。きっと朝日を浴びて美しく煌めいているであろう川を見ようと、花中は少し身を乗り出し、ベランダの下を覗き込んだ。

 視界を埋め尽くしたのは、皮を剥いたばかりの桃のような赤みがかった白色だった。

「……はぇ?」

 キョトンとなり、花中は首を傾げる。

 幅は五メートルほど、長さは……視界の端から端まで。それぐらい大きな川が桃の色一色に染まっていた。嫌な色ではない。むしろ雪のような純白よりも温かみがあり、ちょっと優しい気持ちにさせてくれるような色合いだと思う。

 けれどもこれは、川の色ではない。

 なんだこれは――――花中は無意識に凝視した。まじまじと見たので、その優しい色合いがうぞうぞと蠢いている事に気付いてしまう。途端に背筋が冷たくなり、仰け反った勢いのままひっくり返る。

 転んだ拍子に大きな音を立ててしまった。寝ている友達を起こしてしまったかも知れない。だが、今の花中はそんな事を気にする余裕などなかった。ベランダの柵を掴み、力の入らない腰を無理矢理立たせ、もう一度川がある筈の場所を覗き込む。

 二度目の確認をしても、川はやはり桃の実のような優しい白さに満ちていた。うぞうぞ、うぞうぞと蠢き、それが無数の『何か』の集まりであると物語る。

 またしても背筋が凍る。けれども今度は倒れず、花中は勇気を振り絞って蠢く何かを凝視した。

 努力の甲斐もあって、正体はすぐに分かった。

 『しらせ様』だ。

 無数の『しらせ様』が、川を埋め尽くしているのだ。温泉に現れた数なんて比較にならない。何千、何万……数えるのが馬鹿らしくなる。視界内の川全てを埋め尽くすほどの、圧倒的大群だ。

 そしてそれは、丁度ベランダの真下にある温泉の排水溝から、お湯と共に次々と川へ吐き出されていて。

「な、なんですかこれえええええええっ!?」

 明らかな異常事態に、友達を起こすまいとしていた花中は、山彦が聞こえてくるほどの大絶叫を上げてしまうのだった。




戦いは数だよ! なお、謎生物に戦う気はない模様。
ちなみに私は伝承で語られている生物とか大好きです。呉爾羅とか(今更)

次回は明日投稿予定です。

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