彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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語らない予兆3

 扉を開けた瞬間、強い硫黄の匂いが鼻をくすぐる。

 漂う熱が顔に吹き付けてきた。屋根のない露天であると聞いていたが、風がなかったためある程度の湯気は溜まっていたのだろう。視界が白く染まり、あまり遠くまで見通せない。

 とはいえ数秒も経てば湯気は晴れ、扉の先に広がる景色が姿を現す。

 石造りの床が一面に広がり、自宅の浴槽とは違う高級感を感じさせた。周りは高さ三メートルほどある木の板で囲まれており、周囲からの視線を遮っている。一角には大きな岩が山積みになっていたが、景観のための飾りだろうか。岩のすぐ隣にある縦横十メートルほどの四角い凹みには、なみなみとお湯が張られていた。

 部屋の隅の一つには木製の小さな椅子が五つ置かれており、傍には近代的なシャワーヘッドがこれまた五つ並んでいる。シャワーヘッドの根元にはシャンプーや石鹸、プラスチック製の桶が置かれていた。

 そして椅子やシャンプーなどの『小物』は、全てが整然と並んでいる。床には水溜まりなどなく、湯気によって僅かに湿るだけ。少なくとも今日は、まだ此処を誰も使っていないのだという確かな証だ。

 その『初めて』を頂ける事が、ちょっと贅沢に思える。

「ふわぁ……温泉だぁ……!」

 そうして込み上がった嬉しさに後押しされ、一番乗りした花中は思わず声に出してしまった。

 此処が、加奈子の叔父が営む旅館の温泉だ。

 この辺りの地域の温泉は、どれも天然物だという。産出される湯量は非常に豊富で、循環器を用いていないそうだ。所謂源泉掛け流しである。この形式は空気に触れる前のお湯であるため劣化が進んでおらず、また消毒剤などを投じない場合が多いため、温泉本来の魅力を堪能出来る。足を踏み入れた瞬間に感じた硫黄臭からして ― 勿論加奈子の叔父がそんな事をするとはこれっぽっちも思っていないが ― 看板に偽りはないだろう。

 こんな贅沢な温泉を、自分達が一番乗りしただけでなく、独占出来るのだ。興奮せずにはいられない。

「いやぁ久しぶりの温泉ですねぇ。前に来たのは何時でしたっけ?」

「一年の夏休みの時だから、まだ二年は経ってないわね。あれから色々あって、気分的には十年ぶりぐらいな感じもするけど」

「しかもあの時は、ミリオン以外全員ぶっ倒れて危うく死にかけたからねー」

 花中に続き、続々とフィア達も温泉に入ってくる。晴海とミリオンはバスタオルを身体に巻いていたが、フィアはタオル一枚持たない全裸だ。ミィは猫の姿のままフィアの頭に乗っているため、当然真っ裸である。ちなみに動物(ペット)は本来温泉には入れないそうだが、今回は旅館の主である勇から特別にOKが出ているので問題はなかった。貸しきりの特権である。

 なお、身体を洗わずに温泉へと跳び込む許可は出ていない。

「ひゃっほぉー!」

 出ていないが、石造りでよく滑るであろう床を一片の躊躇いもなく全力疾走する加奈子を止められる人間はいなかった。花中と晴海が「あっ」という声を漏らした時、加奈子の裸体は跳躍により湯船の真上に到達している。

 どぼんっ! と大きな音と共に水柱が上がり、たくさんの温泉が辺りに飛び散った。拡散したお湯からは溶け込んでいる多種多様な物質が空気に移り、周囲の香りが著しく増す。ギリギリ良い匂いで収まっていたものが、ちょっとキツいものとなってしまう。

「……正直人間はこの臭いの何が良いんですかね」

「ぶっちゃけ腐ったものの臭いだよね」

 人間でもやや辛い臭いに、動物二匹から苦情が出た。天然温泉における『硫黄の臭い』は、正確には硫黄ではなく硫化水素によるものとされている。そして硫化水素は非常に危険なガスであり、ある程度の濃さのものを吸い込めばたちまち死に至る猛毒だ。

 無論こうした源泉を用いる温泉宿では万が一にも人に被害が出ないよう、硫化水素の濃度を基準以下に抑える管理が行われている。だからこそ人間は暢気に温泉を楽しめる訳だが、野生動物二匹からすれば微量とはいえわざわざ毒に身を浸して喜んでいるようなもの。理解不能になるのも仕方ない。

 ……さて、動物達の天然温泉に対するイメージも分かったところで。

「かぁーなぁーこぉー! またアンタは同じ馬鹿を繰り返してぇ!」

 晴海が加奈子に向けて叱咤を飛ばした。

 しかしながら叱られた加奈子はまるで堪えず、堂々とした仁王立ちで晴海と向き合う。ぽよよんと胸が揺れ、産まれたままの姿を花中達に見せた。

「わははー、最後なんだから目いっぱい楽しまないとねー」

「楽しみ方にもマナーがあるっつってんの! というか少しは恥じらいを持ちなさい!」

「別に友達なんだから良いじゃん。誰も見てないし」

「友達でも裸は見せ合わんでしょ!」

 ツッコミを入れられ、加奈子はむすっと唇を尖らせる。叱られた事より、裸の付き合いを拒否された事の方が不満げだ。

 そんな加奈子の姿が如何にも子供っぽくて、花中はくすりと笑みを零す。

「おっ。大桐さん笑ったなぁ? これでも喰らえぃっ!」

 すると加奈子は目聡くこれを見付け、両手で掬った温泉を投げ付けてきた。

 気付いた時にはもう遅く、花中の顔に温泉が掛かる。源泉の熱さと臭いに花中は顔を無意識に顰め、ぷるぷると横に振って水気を飛ばす。

 顔面から染みいる熱さと香りで意識は覚醒し、むくむくと好戦的な気持ちが込み上がる。自然と頬が緩み、花中はふにゃっと笑った。

 勿論普段ならば加奈子の『はしたない』行動を花中は真似たりしない。しかし今回は特別だ。花中達は最後にして唯一の客であり、温泉をたっぷり満喫する事こそが旅館を喜ばせる行い。他の客もいないから大騒ぎしても迷惑にはならないし、加奈子は温泉をこれでもかというほど楽しんでいるだけ。

 無論機材を破損させたり汚したりするのは、如何に最後にして唯一の客でも絶対に許されない所行だが……叔父と旅館を想って此度の温泉旅行を企画した加奈子が、そんな『愚行』をするとも思えない。賑やかにはしても、誰かを傷付けたりしないのが加奈子という少女だ。

 以上二つの観点から、『止める』理由は何処にもない。そして花中には、加奈子に復讐するに足る恨みがある。

 あの美味しくて、濃厚で、もしかしなくても二度と食べられないであろうキノコ(種名不明)を奪ったというしょうもない(許しがたい)恨みが。

 挑発に乗らない理由ゼロ。やらねばならない理由がひとつ。

 心の天秤は容易に傾いた。

「やりましたねー……わたしも、お返しします!」

「よっしゃー! 来いやぁ!」

「ちょ、大桐さんまで!?」

 花中は加奈子への宣戦布告をし、加奈子は両手両足を広げた戦闘態勢に移行。自分側だと思っていたであろう花中の離反に、晴海が困惑の顔を見せる。

 友人二人の反応にニヤリと笑みを浮かべ、花中は――――まずはシャワーヘッドの前へと駆け寄った。

「……あれ?」

「……あら?」

 呆ける加奈子と晴海を尻目に、花中はシャワーのノズルを回し、頭からお湯を浴びる。次いでスポンジにボディーソープを染み込ませ、ごしごしと身体を洗った。花中的にはかなーり大急ぎで、実態はなんだかもたもたしているような動きで、頭と身体を綺麗にしていく。

 最後にシャワーを一浴び。顔の水を手で拭い、しっかりノズルを回してシャワーの湯を止めた花中は、頭にタオルを乗せた後再び大急ぎ ― あくまで花中としては ― で加奈子の待つ湯船へ向かう。湯船の縁に辿り着いたらゆっくりと足を湯に入れ、つんと来る熱さに耐えながら徐々に全身を浸けていった。そうして一旦身体を湯の温度に慣らし、それから立ち上がった花中は、片手に持ったタオルで身体の前面を隠しつつ加奈子と向き合う。

「て、てやーっ!」

 そして片手で掬い上げたお湯を、加奈子目掛けて投げた。

 加奈子までの距離は、ざっと三メートル。花中が渾身の力で投げたお湯は、てんで加奈子とは違う方向に、二メートルも飛ばずに落ちた。

 数秒の沈黙が挟まれた後、加奈子と晴海が優しく微笑む。

「うん、大桐さんらしくて良いと思うよ」

「そのままの大桐さんでいてね」

 加奈子と晴海の言葉の意味はよく分からなかったが、馬鹿にされている事だけは花中も理解した。

「む、むきぃー!」

「ふはははははは! 届かん! 届かんぞー!」

 怒りに任せて掬ったお湯を投げる花中だったが、どれも加奈子には届かない。対して加奈子は悠々とお湯を片手で掬い、しなやかな動きで投げ……拳ほどの大きさがある水の塊が花中の顔面に命中。

「わ、わぶっ!? や、わ、あぎゃぶっ」

 驚き、仰け反った花中は、そのまま湯船の中でひっくり返ってしまった。小さな水飛沫が辺りに飛び散る。

「これはメラではない。メラゾーマだ!」

「それじゃ意味全然違うでしょーが。どんだけ必死なのよ」

 一発で返り討ちになった花中に、加奈子が胸を張りながら煽る。その煽りに晴海は呆れながら、花中と加奈子が遊んでいる間に身体を洗っていた彼女もまた湯船に浸かった。

「ちなみに晴ちゃんはどっちの味方?」

 やってきた晴海に加奈子は問う。

 何を訊いてんだか、とばかりに晴海は肩を竦める。

「偶には趣向を変えて、今回はアンタの味方をしようかしら。大桐さんの味方ばかりするのも飽きたし」

「た、立花しゃんっ!?」

 そしてあっさりと、劣勢にある花中を裏切った。

 このままでは不味い。極めて貧弱かつノーコンな花中には、二人を返り討ちにする力なんてないのだ。浮かれていてこの事を完全に失念していた花中は、湯船の中で今更右往左往してしまう。

 だが、諦めはしない。

 確かに花中には力がない。しかし花中の『友達』は別だ。彼女達ならば……

「はふぅー……良いお湯ねぇ……あ、はなちゃん頑張ってねー。それなりに応援してるから」

「えっ」

 そう期待して花中が第一に視線を向けたミリオンは、温泉を堪能するのに忙しい様子。

「あたしも今日はパス。観戦させてもらうねー」

「えっ」

 次いで視線を向けたミィにも、お願いする前に断られた。

「ふはははははっ! ご安心を花中さん! こんな雑魚共の力など借りずともこの私の手に掛かればそこの二人など瞬きする間もなく粉砕してみせましょう!」

 唯一フィアだけが、こちらから頼む前に味方に付くと言ってくれる。

 言ってくれるが、彼女は勝負事に対する力加減が下手だ。間違いなく、容赦なく晴海と加奈子を叩き潰す。これでは遊びにならない。

 加えて物を大切にするといえ価値観も乏しい。死人は出ないと思うが、多分、色々なものが破壊されるだろう。それはNGだ。

「あ、うん……えと、大丈夫、だよ」

 大変申し訳ないが、花中はフィアの申し出を断るしかなかった。「えぇー?」と小首を傾げるフィアは大変可愛らしいが、騙されてはいけない。彼女は生粋の怪物(モンスター)であるのだから。

 ――――さて。

 フィア、ミリオン、ミィの助けは借りられない。そして加奈子と晴海はチームを組んだ。

 状況は一対二。加えて『一』の方は『二』の方の片方にすら勝てないほど弱い。

「……あ、あの、降参って……」

「「認めてません」」

 物は試しと降伏してみるが、却下された。それはそうだろう、まだ戦って(遊んで)すらいないのだから。

「え、や、みゃ、みゃーっ!?」

 花中に出来るのは、情けない悲鳴を上げながら逃げる事だけで。

 加奈子と晴海の攻勢が始まれば、花中は為す術もなく全身びしょ濡れとなるのであった。

 ……………

 ………

 …

「あふぃー……楽しかったー」

「ほんとねー……」

「楽しかったですぅー……」

 湯船に肩まで浸かり、とろんとろんに蕩けながら、加奈子と晴海と加奈子は温泉を満喫する。

 お湯掛け合戦は一分で決着が付いた。無論花中のボロ負け。ひっくり返り、お湯の中で危うく溺れるところを助けられるという有り様である。実に情けないやられ方だが……楽しかったので、良しとした。

 そうして花中が降参すると、今度は加奈子と晴海の対戦が勃発。花中は裏切り者である晴海を懲らしめるべく加奈子側として参戦したところ、加奈子の無茶に振り回されて連携が乱れてしまう。その隙を突いた晴海にプロレス技を掛けられ、加奈子と花中は撃破された。

 更に復帰後三度目として始まった ― というより加奈子が仕掛けた ― 加奈子と晴海のじゃれ合いに、今度の花中は晴海側として参戦するも、花中を気遣って動きの鈍った晴海を加奈子が捕らえ、くすぐり攻撃で晴海を屈服させる。無論一人になった花中に加奈子をどうこう出来ず、あっさりとくすぐり攻撃にやられてしまった。

 そうしてたっぷり遊んで疲れた三人は今、こうしてのんびり温泉を楽しんでいる。

「(あれ? わたしの参加した側、ことごとく負けてない?)」

 ひょっとして自分はとんでもない疫病神なのでは……気付きたくない事実を知り、花中は赤らんだ頬を青くした。見た目以上に弱っちいのは自覚していたし、足を引っ張ってばかりなのも分かっていたが、『戦績』という現実になって突き付けられるとダメージが大きい。

「花中さんどうしましたかー?」

 ぷるぷる奮えていると、フィアが温泉の中を泳ぎながら近付いてきた。どうやらこんな『しょうもない』事でまた顔が暗くなっていたらしい。

「あ、ううん。なんでもないよ。その……わたし、弱いなぁって、へこたれてただけだから」

「あー確かに花中さんどーしようもないぐらい弱いですよね。立花さん達と遊んでる時もボコボコにやられてましたし」

「ぐふっ」

 面と向かって指摘され、花中は呻く。それについては紛う事なき事実なので、文句など一つたりとも出てこない。

 代わりに出てくるのは、自己嫌悪の言葉だ。

「うぅ……やっぱりわたし、弱いよね……もうちょっと、なんというか、強くなりたいかな」

「花中さんったら人間のくせにまた図に乗った事言ってますねぇ。花中さんはそーいうところ含めて可愛いと思いますからそのままで良いと思いますよ? 少なくとも私は今の花中さんが好きですし。まぁ体力はもう少し付けた方が良いとは思いますけどね」

 フィアはそう言いながら花中に抱き付く。『作り物』とはいえ美少女の裸体、おまけに「好き」と言われながら近付かれたら、花中でなくともドキリとするだろう。思わず身動ぎし、けれども逃げるほどではないので、最後は大人しく抱き付かれる。

 もうちょっと強くなりたいという気持ちはまだあるけれど、こんな自分を好きだと言ってくれるのなら……別にこのままでも良いかなと、花中は思う。顔を上げてフィアと向き合い、にへへと笑い合った。

 と、丁度そうしてフィアを見上げたがためにふと気付く。

 フィアの頭の上にミィの姿がないと。

「あれ? フィアちゃん、ミィさんは?」

「野良猫ですか? ミリオンがなんか飲んでるとか言ってそっちに移りました」

「飲んでる……?」

 何か飲み物でも持ってきたのだろうか?

 フィアに抱き付かれたままなので身動きが取れない花中は、首だけ伸ばしてミリオンを探す。見付けたミリオンは温泉の隅の方に寄り掛かった体勢で居て、確かにちびちびと何かを飲んでいた。

 ミリオンの頭の上には、ぐでっとした体勢で寝転ぶミィの姿がある。腕やら尻尾やらをゆらゆら動かしており、体調が悪いという訳ではなさそうだが、どうにも何時ものハキハキした雰囲気がない。

 そして何かを飲んでいるミリオンの傍には、温泉に浮かせたお盆があり、そのお盆の上には『徳利(とっくり)』が置かれていた。

 これだけ情報が揃えば答えは明白だ。ミリオンは――――お酒を飲んでいる。

「おぉっ、ミリきちがお酒飲んでるー」

 花中が気付いたのと同じくして、加奈子もミリオンの飲酒を発見した。

 ミリオンは手にしたお猪口を掲げ、「あなたのおじさんがくれたものよ」と答える。お猪口を柔らかな唇に付け、ゆっくりと飲んでいく様はなんとも上品で魅惑的。見た目麗しい彼女が裸体でお酒を嗜む姿は、『エッチ』という下世話な印象を通り越し、絵になるという言葉がピッタリだ。

 花中は思わず見惚れてしまったが、加奈子はわくわくした様子で動き出す。温泉の中をカエルのようにすいーっと泳ぎ、ミリオンのすぐ傍まで近付いた。

「ミリきち! そのお酒分けておくれ!」

「却下」

 次いでなんの躊躇もなくお酒をねだり、ミリオンに一瞬で切り捨てられる。

 加奈子は「えー」と不満の声を漏らすが、ミリオンは気にも留めない。手にしたお猪口にお酒を注ぎ、見せ付けるように、優雅に飲酒を楽しんでいる。

 しかし加奈子は諦めず、お盆の側から離れようともしない。

「良いじゃん、ちょっとぐらい分けてくれてもー。減るもんじゃなしー」

「普通に減るから。大体お酒の味も分からないような子供に、この日本酒は渡せないわねぇ」

「ミリきち、味覚ないんじゃなかったっけ?」

「味覚はないけど、アルコールは検知出来るわよ。エンベロープにびしびし突き刺さる感覚が堪らないわぁ」

「えんべ? 何それ」

 目をパチクリさせる加奈子。エンベロープとは一部のウイルスにて確認されている、ゲノムなどを覆っている膜状構造の事だ。ちなみに破れると中身が出てしまうので、ウイルスは不活性化 = 死に至る。

 人間など比にならないほど退廃的な飲酒に、遠くで聞いていただけの花中は苦笑い。しかしながらエンベロープを知らない加奈子はミリオンの飲酒の意味など分からないまま、そのお盆に手を伸ばしてパチンと叩かれていた。

「けちー」

「ケチで結構」

「というか、ミィちゃんは飲んでるじゃん」

「流石にこの子の素早さは私でも止められなかったわ。酒の回りも早過ぎるけど」

「みゃみゃみゃみゃみゃー、おしゃけれよってみらかっからぁ、ちょーっとけつりゅうろかあやつっへみまひはー」

 ミリオンが視線を上に向ければ、ミィは呂律の回っていない言葉を返す。

 恐らくは「お酒で酔ってみたかったから、ちょっと血流とか操ってみた」と言いたいのだろう。ミィは人間なら一呼吸で即死するような毒ガスをも無力化する、驚異的な解毒力の持ち主。ただのアルコールをどれだけ飲んだところで無策では酔えないが故に、自分の能力を用いてわざと酔ったらしい……ぐでんぐでんになっているのは、加減を間違えたという事か。

 人間には手も足も出ないようなミュータントでも、己自身の過ちとなればピンチに陥るようだ。ある意味微笑ましくて、ちょっと心配で……理性が崩壊して暴れないかと花中は少し不安になる。とはいえミリオンならば、へべれけな猫の一匹ぐらいはどうとでもしてくれるだろう。

 加奈子についても、よもやミュータントの隙を突いてお酒を奪えるとも思えない。未成年飲酒という『法律違反』もミリオンならば防いでくれる筈だ。

 ……それにしても。

「花中さん花中さん。一つ質問があるのですな」

「ん。なぁに?」

「確か人間は二十歳にならないとお酒を飲んではいけないと法律で決められているのでしたよね」

「うん、そうだよ」

 抱き付いたまま尋ねてくるフィアに、花中はもたれ掛かりながら答える。人間社会のルールに殆ど興味がないフィアでも、二年近い人間社会生活でこのぐらいの法律は覚えていた。

「小田さんも懲りませんねぇ。それともわざとなんですかね?」

 故にフィアは疑念を抱く。

「わざとなんじゃないかなぁ、多分」

 そしてその疑念に、花中は自分なりの意見を述べる。

 加奈子は気付かない。自らの背後に忍び寄るものに。いや、別にそれは忍び寄っていないのだが、ミリオンのお酒にばかり目が向いている加奈子は恐らく全く気付いていない。

「というか、なんで小田ちゃんはそんなにお酒飲みたがってんのよ」

「興味があるから!」

「ゲートウェイドラッグに手を出す時の典型例ね」

 気付いていないから、堂々と法律違反の理由が『興味本位』だと答えられるのだろうか。いや、きっとわざとに違いないと花中は思う。

 でなければ、いくらなんでも間抜けが過ぎるというものだ。

 此処には、幾度となく自身を折檻してきた晴海が居るというのに。

「かぁーなぁーこぉぉぉぉー……!」

 怒りを燃えたぎらせ、晴海が加奈子に接近。晴海の声を聞くや加奈子は振り返り、ビクリと身体を震わせた。

「このお馬鹿ぁ! 未成年飲酒しようとしてんじゃないわよ!」

 そんな加奈子の脳天目掛け、晴海は鉄拳を放つ! 決して人間の領域から外れていない、年相応の少女らしい速さ。しかし同じく年相応の身体能力しかない加奈子に当てるには十分。

「ぎゃぶっ!?」

 加奈子は呻きとも悲鳴とも取れる声を上げ、温泉の中にぶっ倒れた。

 恐らくは手加減なしの一撃。相当痛いに違いない。とはいえ所詮は人間の、ただの女子高生が放った鉄拳である。

 加奈子はちょっとよろめきながらもすぐに立ち上がり……びしょ濡れになった顔がニヤッと笑う。

「やったなぁ! とぉりゃあっ!」

 そして元気よく跳び掛かりながら両手を伸ばし――――

 むにゅんと、晴海のそこそこ膨らんだ胸を握り締めた。

「ぴゃああっ!? どどど何処触って」

「あれ? なんか縮んでない? ちゃんとご飯食べてる?」

「縮んどらんわ無礼者っ!」

 揉んでくる加奈子の頭に二発目のゲンコツ。しかし恥ずかしさから上手く打てなかったのか、それとも執念故か、今度の加奈子は倒れない。

 それどころか胸から外した手を、晴海のお尻に回して掴んだ! 挙句もにもにと揉みしだく!

「あ、お尻は大きくなってるかも」

「ぎゃーっ!? 気にしてる事をアンタはぁ!?」

「ええやないかええやないか」

「良くないわ! はぁーなぁーせぇーっ!」

 殴るのを止め、晴海は押し退けるように両手で加奈子の頭を掴んだ。が、加奈子はビクともしない。一体加奈子のそのパワーは何処から出ているのか。晴海はすっかり表情を強張らせ、形勢逆転を物語っていた。

 晴海からすれば、身体をぺたぺた触ってくる加奈子から逃れるのに必死なのだろうが……傍から見ると、少々過激なスキンシップをしているだけである。

 仲良し大好きな花中には羨ましい光景だ。無意識に、花中は二人の方へ身を乗り出す。

「んー? 花中さんもしかしてあちらに行きたいのですか?」

 そうした無意識の行動をフィアに指摘されて自覚し、花中は火照った顔を更に赤くした。けれども胸の奥の衝動は消えず、こくんと頷く。

 自分から離れようとする花中に、フィアは一瞬不愉快そうに目を細めた……が、特段抵抗する事もなく、花中を抱き締めていた腕を広げた。

 自由になった花中はフィアと向き合い、笑みを浮かべ、ぺこりと一礼。お湯の中を小走りで進み、加奈子と晴海の下に向かい――――

 こつんと、花中の脇腹辺りを何かが突いた。

「あ、すみませ……」

 反射的に、花中は謝ろうとした。お湯の中を駆けるという少々子供染みた行動により、『誰か』に迷惑を掛けてしまったかと思って。

 しかし声を出してすぐに気付く。

 フィアは今し方自分を見送った。晴海と加奈子はこれから向かう先に居て、ミリオンはそんな晴海達を眺めている。ミィはミリオンの頭の上でへべれけ状態だ。

 じゃあ。

 ()()、自分の脇腹を小突いたのだろう? この温泉は今、自分達の貸しきりとなっているのに。

 分からない。分からないが、得体の知れない気配を感じる。ぞわぞわとした悪寒を背筋に感じながら、花中はゆっくり恐る恐る自身の脇腹付近を見遣り、

 白くて丸くてぷにっとした、なんかよく分からないものを見た。

「……ん……ん?」

 ある意味予想通り得体の知れない、けれども思っていたよりは怖くないものを、花中は思わず凝視する。

 大きさは、ざっと全長五十センチぐらい。中々の大きさだがぷかぷかとお湯に浮いているので、体重は案外軽いのかも知れない。見た目を一言で例えるなら、デフォルメしたクジラ、だろうか。体長の半分はある頭らしき部分は膨らんだ風船のようにまん丸で、二つの小さな瞳が両端に嵌まっている。頭よりも細くなっている胴体部分には大きな胸ビレが二つあり、尾ビレはそれこそクジラに似た形のものを上下にゆっくりと振っていた。

 肌の色は白だが、雪のような純白ではなく、かといって『白饅頭』のように青みがかった不気味なものでもない。ほんのりと赤らんだ、例えるなら皮を剥いたばかりの桃のよう。不気味さはなく、神秘さもない、とても親しみやすい色合いである。

 人の好みは千差万別なので、一概にどう思われるとは断言し辛いが……少なくとも花中的には、とても『カワイイ』生き物だと思った。所謂キモかわ系だ。多分、加奈子はとても気に入るだろう。

 しかし。

「……何、これ?」

 なんという種類なのか、さっぱり分からない。

 今まで見た事もない動物だ。果たしてこいつはなんなのだろうか? 恐怖より好奇心が勝り、花中は謎生物に歩み寄る。

 だが、それを調べる事は叶わない。

 花中の小さなお尻を、ぷにっと触るものが現れる。花中は驚きから飛び跳ね、慌てて振り向けば……そこには目の前に居るのと同種らしき謎生物が浮かんでいた。

 それも二匹。

 いや、二匹どころではない。視界の端に一匹、また一匹、更に一匹……たくさん、何十匹も居るではないか。

 気付けば、温泉を埋め尽くさんばかりに謎生物が浮いている。

「な、な、な、何これぇぇぇぇぇっ!?」

 花中の悲鳴が、温泉内に響き渡るのだった。




現れました、今回の謎生物。
無害そうな輩ですが果たして?

次回は9/20(金)投稿予定です。

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