彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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大桐玲奈の襲来10

 フィアに見下ろされた栄が真っ先に感じたのは、得体の知れない恐怖感だった。

 ぞわりと身体が震える。全身の細胞がざわめく。この感覚の正体は一体なんなのか。理性では見当も付かなかったが、栄の本能はある一つの例えを思い付く。

 これは、まるでヘビに睨まれたカエルのような――――

「ぐ、ぅああああああああああっ!」

 脳裏を過ぎる本能の警告。理性がそれを知覚する前に、栄は行動を起こしていた。

 腕は未だフィアに掴まれたまま。軟体化は起こせず、殴ったところでフィアは恐らく揺らがない。ならば脱出方法はただ一つ。

 掴まれた部分より上で、腕を引き千切る。

 栄は渾身の力で身を退いた。痛みがあろうと構わず、全力で後退。腕の細胞が悲鳴を上げた。置いていくな、止めてくれ……その叫びは、自分の『協力者』達の声のように栄は感じてしまう。

 それでも栄は身を下げ続けた。

 腕の細胞同士が離れ離れとなり、悲鳴が痛みとなって全身を駆け巡る。戻りたいという腕の細胞の意思表示を、腕以外の全身の細胞が捻じ伏せた。総意の前に、小さな民意は押し潰される。

 やがて右腕は二の腕の真ん中辺りで引き千切られ、激痛と共に栄は自由を取り戻す。

 取り戻した自由に喜ぶ事もなく、栄は跳び退いた。フィアから一気に十メートルは距離を置き、着地時に大地を小さく揺らす。痛みは既にない。体勢を立て直し、栄はフィアと向き合う。

「おや逃げてしまいましたか。追い駆けっこはあまり好きではないのですがね」

 フィアは栄の置き土産である右腕を、無造作に投げ捨てた。腕はずしんと音を鳴らし、地面の上に横たわる。

 フィアを鋭い眼差しで睨み付けながら、栄は思考を巡らせる。

 軟体化を起こせなくなった理由は、推測ではあるが一つ浮かんだ。フィアの能力……水を操る力で、血液を操作されたのだろう。

 フィアに水を操る能力がある事は、『標本奪取作戦』時に見せた行動や玲奈との問答、それと『事前調査』から栄も知っていた。血液といえども成分的にはほぼ水である。操れたとしてもおかしくはない。

 もしこの考えが正しければ、その気になればフィアは栄の全細胞を操れるという事である。向こうが遊ぶ気でなければ、とっくに死んでいてもおかしくなかったのだと気付き、寒気を覚えた。しかし分かってしまえば対策を練る事は可能だ。

 栄は右腕を再生させながら、新たな肉体の改良を全身に施す。血流に触れられてはならない。全身の表面を甲殻類のような殻へと変化させ、筋肉は殻の内側、血管は筋肉の内側へと寄せ集める。甲殻のような細胞は角質化……死んだ細胞によって得られたもの。この細胞の軟体化はもう出来ないが、いざとなれば分解・再吸収によって回収出来る。引き千切った腕についても同じだ。戦闘時に余裕があれば回収しようと、頭の隅で考えておく。

 瞬きほどの刹那で、栄は新たな形態への変身を完了させる。その見た目は、まるで全身を鎧で覆った西洋騎士。とはいえ髪や顔立ちなど女性的なものはしかと残している。

 名付けるなら、姫騎士形態か。

「……行きます!」

 防御を固めた栄は、フィア目掛けて突撃した!

 防御を固めたとはいえ、軽量化も忘れてはいない。エネルギーが身体に馴染んできた事で、力も大きく増幅している。結果、栄の突撃速度は音速の数十倍に達していた。

 数多の人間を取り込み、莫大な重量を伴った身体による超音速突進。文字通り隕石級の破壊力を有するそれは、フィアと激突した瞬間巨大な破壊力を生み出す。

 この時生じたエネルギー量は、広島型原爆のそれに相当する。おまけに突き出した拳に力を集めた、一点集中の攻撃だ。単位面積当たりのエネルギーとなれば水爆にも値するだろう。人間ならば、いや、生半可な怪物ならば当たった瞬間に蒸発してもおかしくない威力。

 だが、フィアは堪えない。

 『水』で出来ている身体は、水爆級の拳を平然と受け止めた。衝突時に発生する熱量だけで表面が数千度まで加熱してもおかしくないのに、その身は凹み一つ確認出来ず、眉一つ満足に動かす事が出来ていない。フィアは未だ獰猛で、楽しげな笑みを浮かべている。

「ふんっ!」

 そして反撃。大股開きの足から繰り出された乱雑な蹴りだ。力は入っているかも知れないが、技術的にはいい加減で、効果的とは言い難い放ち方。

 されどこの蹴り一発で、栄の身体は彼方まで吹っ飛ばされた!

「ごぶっ!? が、は……!」

 クレーターの縁まで飛ばされ、激しく身を打ち付けた栄は苦悶の声を漏らす。大地は新たな衝撃に耐えきれず、第二のクレーターを形成した。

 自分の渾身の突撃を上回る雑キック。甲殻化が幸いした。もしも防御を固めていなければ、今の一撃で全身がバラバラになっていてもおかしくない。

「おやおやまだ十秒しか経ってませんよ? あまりにもつまらないとこのまま殺しますがよろしいですか? まぁ最後には殺しますけど」

 これほどの威力の一撃を出しながら、フィアは拍子抜けしたように肩を竦めていた。

 強過ぎる。

 そろそろ勝てるという自分の見込みが、如何に甘かったかと思い知らされる。先程取り込んだ五百人分のエネルギーは今や完全に身体と馴染んだが、全く勝てる気がしない。

 もっと『協力者』が必要だ。もっとたくさんの、もっともっともっと……

 だが、この辺りに協力してくれる人間はいない。粗方自分が吸い尽くしたし、激戦によってそこかしこにクレーターが出来ている有り様ではとうに皆逃げ出しているだろう。外から人がやってくる可能性も低い。

 遠くまで行かねばならないが……果たしてフィアは、今からそれを許してくれるのか?

「おっと逃げようとしても無駄ですよ。ここで逃がすと花中さんがガッカリするかも知れませんからね」

 どうやら、無理そうだ。

 栄が現状の厳しさを理解した、瞬間、彼女の身体は『何か』に引っ張られた! 突然の事に驚く間もなく栄の身体は倒れ、滑るように引きずられていく。

 足に何かが絡みついている。

 見えない『何か』 ― 恐らく糸のような代物 ― によってフィアの方へと引き寄せられている……自分の身に起きた状況をそのように判断した栄は、爪を伸ばして足下で振った。試した事はないので確証はないが、感覚的には鉄さえも切り刻める切れ味を誇る爪。これで拘束を破る算段だ。

 とはいえ肝心の『何か』はまったく見えない代物。一回目、二回目は空振りで終わる。フィアも近くになった三回目、爪はようやく異物感を感じ取った

 瞬間、金属的な音を鳴らして、栄の爪は切断された。

「――――は? な、ごぶっ!?」

 自らの身体の一部に起きた異変。されどそれの意味するところを理解する前に、フィアのすぐ傍まで引っ張られた栄に衝撃が伝わった。フィアの振り下ろした拳が、栄の顔面に叩き込まれたのだ。

 フィアは馬乗りにもならず、背筋を伸ばして立ったまま。腕だけを不自然に伸ばして栄を殴っている。なんとも力が入らなそうな姿勢なのに、その威力は栄の体当たりすら生温く思えるほど。栄の後頭部が地面に叩き付けられる度、クレーターが深くなる。

 フィアの拳は甲殻化した表皮すらも砕き、栄の体細胞全体にダメージが広がった。数発殴られた段階で、既に顔面の甲殻はボロボロだ。このままではいずれ砕かれ、内組織に手が届く。或いは血管が傷付き、血液が流出するだろう。

 そうなればフィアの能力により、何時殺されてもおかしくない。

 逃げ出さなければならない。多少の『犠牲』が出たとしても。

「ぬぐああああああっ!」

 栄が選んだ脱出方法は、体表にある甲殻を脱ぎ捨てる事だった。

 頭部に出来た破損を利用し、甲殻下にある中身だけを外部へと飛び出させる。にゅるにゅるとした中身はクレーターの上を滑るように移動し、地べたを這いずりながらフィアから少しでも離れようとした。

「おっと逃がしませんよ」

 当然フィアはすぐさま手を伸ばし、栄を取り押さえようとする。しかし栄とて無策で逃げているのではない。軟体化しつつも、今の表皮はゴムのように弾性のある代物。突き立てられようが殴られようが、簡単には体液との接触を許さない。

 どうにか攻撃を耐えながら、栄は体勢を立て直す。栄と向き合うフィアだが、接近する足を止めようとはしない。当然だ、こちらの攻撃は全く通じていないのだから止まる理由がない。

 ここで逃げねば捕まる。全身を一気に活性化させ、力を研ぎ澄ます。高まっていく力に身を委ね――――栄は跳躍した。

 フィアの頭上を跳び越える形で。

 適切に、それでいてこちらを見ずに返されるカウンター……いくらなんでも怪し過ぎた。恐らく周りに何かしらのセンサーがあると気付いた栄は、フィアの上を通り抜けるように跳んだのだ。

 思惑通りフィアは栄の方を見向きもせず、栄は超音速でフィアの真上十数メートルの高さを跳び越える

 筈だったのに。

「ふんっ!」

 フィアが声を上げるや、栄は自分の足に何かが巻き付くのを感知した。不味い、と思った時には手遅れだ。力強く引き寄せられ、大地に叩き付けられる。

 痛い。だがそれよりも困惑が頭の中を満たす。

 何故、フィアは自分の動きに気付いた? 頭の上にもセンサーがあったのか? だとしても先の動きは、カウンター時よりも鋭かったような……

「私の上を跳び越えるとは間抜けですねぇ。私これでも頭上の気配には敏感なんですから」

 混乱する栄に、フィアは胸を張りながら答えを教えた。尤も、その言葉は栄を一層動揺させる。

 センサーによる反応ではなかった。

 勝っていると信じていたスピードさえも、フィアの気配察知能力が上回る時がある……物言いからして恐らく頭上限定であろうが、それでも栄の自信を砕くには十分だった。跳び越えて逃げるという選択肢が、完全に潰されてしまったのだから。

 パワーでは勝てない。

 防御力でも勝ち目がない。

 スピードさえも負ける時がある。

 突き付けられる圧倒的劣勢。立ち上がった栄の足は、ガタガタと震えていた。対するフィアは黄金に煌めく髪を掻き上げながら、悠々と歩み寄ってくる。

 最早勝る可能性があるとすれば、自らの頭脳のみ。

 栄は考える。全身に満ちるエネルギーを脳へと振り分け、神経細胞を活性化させた。高速化した思考で情報を分析し、目まぐるしく視線を動かして周囲の景色を解析する。状況打開のヒントが、危機から脱するためのアイテムが、何かないか探し求めて――――

 ついにフィアが、目の前までやってきた。

「こ……のおおおおおおおおおおおっ!」

 栄が取った行動は、破れかぶれで拳のラッシュを叩き込む事。

 超音速の拳が、一秒に何十発と叩き込まれる。打ち付ける場所は広範囲ではなく、正確に胸部中心。一点集中で打ち込まれた箇所は猛烈な熱を持ち、やがて分子レベルの崩壊を引き起こす筈。一か八か、起死回生の反撃だ。

 だが、目論見が現実になる前にフィアが動いてしまう。

「温い」

 ただ一言と共に放たれた、一発の拳。

 その一撃は正確に栄の腹を捉え、容赦なく打ち込まれる。接近してからの数秒で喰らわせた二百発オーバーにもなる拳の力の総量を、易々と乗り越えてくる破滅的攻撃。腹を包み込む強靱な筋肉が呆気なく千切れ、その筋肉に守られている内臓が音を立てて潰れていく。栄の口からは血が溢れ、全身の細胞が流れ込む衝撃で損傷していった。

 故に栄は、笑った。

 本来なら見えていない筈の刹那に出した栄の笑みを、野生の本能が捉えたのか。フィアの眉間に微かな皺が寄る。しかしもう手遅れだ。

 栄の身体は、猛烈な速さで彼方へと飛んでいったのだから。

 あっという間に遠くなるフィアの顔が、『舌打ち』するかのように歪んだのを栄の動体視力は見逃さなかった。今更こちらの仕掛けた罠に気付いたのかと、栄は愉悦混じりの笑みを返す。

 栄は殴られる間際、己の表皮を弾力のあるものに変えていた。

 それは防御という面で見れば、ないよりマシな程度の代物。打撃に耐えるだけなら高密度の筋肉か、硬質化した外殻の方が数百倍適している。しかし弾力のある身体は、受け止めたエネルギーを『動力』へと変換するのに最適だった。

 フィアはこちらとの戦闘を遊びだと思っている。故にやられたら取り敢えずやり返す。こちらが何を企んでいようと踏みにじれると信じているのだから。その驕りを利用させてもらったのだ。

 フィアが放った拳により与えられたエネルギー量は、栄の筋力を大きく凌駕していた。お陰で移動は超音速を突破し、フィアとの距離を一瞬で開けてくれる。それでも運動エネルギーは未だ尽きず、戦いにより出来上がった巨大クレーターの縁をも跳び越え……

 ついに栄は戦場から遠く離れた――――人々が安全のため、敢えて動かず待機していた地区の高層ビルの壁面に激突した。ぶつかった際の衝撃で、ビルの壁面が爆発したように吹き飛ぶ。無数の瓦礫が地上へと落ち、ただ道路を歩いていただけの人々に降り注いだ。

「きゃああああああああっ!?」

「な、なんだぁっ!?」

 そしてビルの中の人々は、室内に爆風が如く勢いで吹き荒れる粉塵に見舞われた。

 粉塵の中には壁面の一部だったコンクリート片も混ざり、それが弾丸のように飛んでくる。小さければ身体に刺さり、大きければ骨をも砕く。不運にも壁面近くに居た人々は、手痛い怪我を負う事となった。

 尤も、怪我で済めばマシだったのだが。

 ビルに居る人間達は知らない。この粉塵の中に『人喰い』の怪物が潜んでいる事など……気付いたところで、もう間に合わない。

 混乱が治まる前に、粉塵の中から大量の肉塊が溢れ出した。

 肉塊はさながら津波のように押し寄せ、中の人々を文字通り飲み込んでいく。彼等が栄だった肉塊と混ざり合うのに、瞬きほどの時間も掛からない。男も女も、子供も老人も、あらゆる人間が悲鳴一つ上げる間もなく消えていく。

 存分に人間を堪能した栄は、しかし肉塊を集めようとはしない。それどころかどんどん、際限なくその身体を広げていく。

 ついにはビルから溢れ出し、道路へと流れ出す。無論そこに居る人々を避けるような真似はしない。降り注ぐ肉塊は、何も知らない人々をまたしても飲み込む。更には力強く動き、別のビルへと張り付いた。

 後はその繰り返しだ。

 次々と人が飲まれ、栄と一つになっていく。ビルへ逃げ込もうが、車に入ろうが、自我を持つ肉塊はその後を執拗に追い駆けた。命乞いも勇気も関係なく、肉塊は何もかも飲み込んでいく。

 人間達に抗う力はない。『数千人』の行列を個人で止められる訳がないのだから。

 そして。

「……うーん。花中さんになんと説明したものか」

 のんびりとした足取りでフィアがやってきた頃には、全てが終わっていた。

 無人と化した無数のビル。鉄くずとなった車。花びらのように舞う衣服。

 その中心に、栄らしき生物は立っていた。

 最早その姿に、栄の面影はない。全身は滑らかな青白い筋肉に覆われ、身長は百七十センチを超えている。背中からトゲのような背ビレを二本生やし、手足の爪は鋭く伸びていた。

 何より変化していたのはその顔立ち。女性のような柔らかな髪を持ち、穏やかな表情を浮かべていたが、栄のそれとは明らかに異なる。例えるならあらゆる人間の顔写真を重ね合わせた結果、個々の特徴が消えてしまったような顔だ。肉体も、女性なのか男性なのか、子供なのか大人なのかよく分からない。

 それは外見だけでなく、内面についても言えた。その肉体に宿るのは、()()()()()()人分の記憶が混ざり合って出来た、よく分からない精神体。人間と呼ぶにはあまりに複雑怪奇で、あまりに無個性。喜怒哀楽の基準すら混ざり、溶けて、失われていた。最早何があると喜び、何をされたら怒り、何が起きれば哀しみ、何をしたら楽しいのか、当人にすら答えられない。

 そんな存在と化した栄でも、フィアと向き合うと思うところはある。

 コイツは敵であり、倒さねばならないと。

 即ちそれは人類の総意。そしてその願いを叶えるための力は、今、ようやく手に入った。

「――――オオオオオオオオオッ!」

 咆哮一つ。次いで跳躍。

 肉薄したフィアの身体に、栄は正面から渾身の拳を叩き込む。 

「ぬぅっ……!?」

 その一撃はフィアを()()()()

 瞬間、フィアを貫通した衝撃が、背後のビルを薙ぎ倒す! フィアも大きく身を仰け反らせ、栄を睨み付けてきた。

 それがどうしたとばかりに栄は背後に回るや、フィアの後頭部を殴り付ける。今度は前のめりになったフィアは、素早く足を前に出して踏み留まった。

「小癪なっ!」

 直後に大地を蹴り、フィアは栄に体当たりを喰らわせる。

 パンチとは比較にならない質量の一撃……だが、今の栄を揺さぶるにはあまりにも弱々しい。

 直立不動のまま、栄はビンタのようにフィアの頬を叩く。

 ただそれだけで、フィアの身体は大地に打ち付けられてしまった。

「がふぁっ!? こ……の人間風情が……!」

「調子に乗り過ぎたわね。ここまで力の差が付く前に私を殺していれば、あなたにも勝機があったのに」

 哀れむような言葉。そこに感情など殆どなかったが、フィアは明らかにカチンと来ていた。ざわざわと髪を鳴らし、全身に殺気を纏う。

「人間風情が小賢しいっ! 叩き潰して――――」

 そして怒気を孕んだ雄叫びを上げ、展開する数百の『糸』と水触手。どれも怪物の一匹二匹簡単に屠れるだけの力がある、フィアの本気の攻撃だ。

 フィアは容赦なく、己の持つ力を栄に差し向ける。すると栄は両手に拳を作り素早く放った

 瞬間、何もかもが砕け散る。

 『糸』も水触手も、栄に傷一つ付ける事も出来ずに粉砕されたのだ。

「……あら?」

 あまりにも呆気なく全てを壊され、フィアはキョトンとした。尤も、その時間はごく僅かだ。

 すぐ後に栄の猛攻が、フィアの『身体』に何百と打ち込まれたのだから。

 ……………

 ………

 …

「……呆気ないものですね」

 ぽつりと、栄は独りごちる。

 彼女の周囲は、廃墟と化していた。クレーターこそ出来ていないが、周りのビルは倒れて瓦礫の山を形成している。大量の人間を吸収して得られたパワーは、流石の栄もコントロールが難しい。一点集中の攻撃をしたつもりだが、余波が大きく漏れ出てしまった。今後の成長課題であり、しかし解決すれば一層大きな飛躍が期待出来るだろう。

 そしてそれほどの大破壊をしてしまった手には今、頭を掴まれた状態でぶらぶらと揺れるフィアの姿があった。力なく揺れる様は一見して死体のようだが、しかしこの『身体』が能力で出来ている以上、まだフィアが生きている証である。

 されどフィアの身体は、栄の手を振り払おうとはしない。持ち上げられ、風に任せて揺れるだけ。

 抵抗の意思も、力も、残っていないようだった。

「最初に戦ったミュータントが、あなたみたいに隙だらけで調子に乗ったタイプで良かったですよ。常に警戒し、最善を尽くすタイプだったなら、私はもうやられていたでしょうから」

 淡々と、栄はフィアに語り掛ける。返事や反応は期待していない。

 そもそもこの話し掛け自体、栄は殆ど意識をしていなかった。口調が栄のそれであるのは、混ざり合った人格の中心に『夢路栄』がいたからに過ぎない。無意識の海にたゆたう、夢路栄の一部が語らせた程度のものだ。

 だから栄はフィアからの返事を待たずに、次の行動へと移る。

 フィアの頭を掴むのとは逆の手に握り拳を作った。血流を巡らせ、エネルギーを充填。力を滾らせる。

 そのパワーの大きさたるや、フィアを殴り倒した『ビンタ』とは比較にならないほど。如何にフィアの身体が頑強でも、一撃で粉砕してもおかしくない。余波で生身が潰れるに違いない。仮に一発目を耐えたところで無駄だ。何百発何千発も叩き込むまで。

 そして人格の廃れた栄に、躊躇いも愉悦もない。

「それじゃあ、さようなら」

 事務的な言葉と共に、栄はフルパワーの拳をフィアに叩き付けた。

 一撃が巨大隕石クラスの拳。指向性のある打撃故、衝撃波は真っ直ぐ飛んでいき、宇宙空間まで振るわせる。しかし一発ではフィアの『身体』は砕けなかったので、更にもう一発。それでも駄目ならもう一発。

 壊れるまで止める気はない。

 何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 ――――殴り付けて、違和感を覚える。

 何故この身体は、壊れない?

「いやぁ良い感じに遊べましたねぇ」

 疑問に思う栄の耳に、暢気な言葉が届く。

 もう聞き飽きた声。二度と聞こえないようにしたつもりの声。

 それが自分が掴んでいる『身体』から聞こえてきた事に、ぞわりとした感情を栄は覚えた。

「まさか負けるとは思いませんでした。ちょっと手を抜き過ぎましたか。最近の人間は凄いんですねぇ今度から人間だからといってあまり見下さないようにしましょう」

「……………」

 喋り始めたフィアを、栄は無言で殴る。

 今度は、その身体は揺れない。

 何度殴っても、フィアは微動だにしなくなっていた。

「……ん?」

「いやぁ実際ヤバかったですよ。ちょっと油断し過ぎて危うく殺されるところだったとかミリオンの奴が知ったら何時までもネタにして弄られそうです」

「えっ? あれ?」

「余力はあるのでまだ遊んでも良いですけど確かにあなたの言う通りあまりやり過ぎてもっと強くなると流石に面倒ですからね……そろそろ終わらせますか。あっそうそういくら殴ってもその程度の力じゃもう無駄ですよ。今は水分子をがっちり掴んでいますから」

 困惑する栄だったが、フィアはお構いなしに自慢話を続ける。栄は戸惑いながら殴り続け、ふと、フィアの話が脳裏を掠めた。

 水分子をがっちり掴んだ?

 言っている事の意味がよく分からない。水分子を掴んで、どうするというのか。まさか掴んだ状態で固定している筈もない――――

「……固定?」

 ぽつりと、栄は呟いた。途端、目前にやってきた勝利にさえも無感情を貫いていた顔が一気に青ざめる。

 物質の破損とは、基本的には加えられた力により分子や原子の並び方が崩れたという事である。また桁違いのエネルギーを注げば、分子を破壊する事も出来るだろう。なんにせよ、相応のエネルギーがあれば物体を破壊出来る。

 では何かがガッチリと固定していて、分子の配列や形が崩れないようにしたならどうなるか?

 そう、もしもフィアの言葉が事実なら。

 なんらかの特殊な力により分子が固定されたなら、その分子から成り立つ構造物……即ち物体は、途方もない耐性を得る。ダイヤモンドや炭化タングステンなど比較にならない。分子そのものが、謎の力で固められているのだから。熱も、衝撃も、分子の破壊をもたらさない。力による固定を取り除くか、或いは固定する力そのものを上回らなければ、物体はその構造を完璧に保ち続ける。

 名付けるならそのものずばり分子固定。ただの水では成し遂げられない、科学知識を無視した頑強さが得られる可能性すらある能力だ。そしてその防御を発揮している間なら、どれだけの攻撃を加えられようともダメージは通らず、フィアは悠々と自分のやりたい事に没頭出来る。

 栄が気付いた時、フィアがにたりと笑った。手遅れだと悟ったところで、もう遅い。

 掴んでいたフィアの身体が、ずしりと重くなる。

 その重さに僅かながら驚いた瞬間を狙い、フィアは自分の頭部を掴んでいる栄の腕を握ってきた。

「っ!? しまっ……ぐっ……!」

 ギリギリと走る痛みに、栄は思わずフィアの頭から手を離す。自由を取り戻したフィアは、されど栄の腕から手は離さない。むしろじわじわと握る強さを増し、その腕を締め上げてくる。

 無論されるがままでいるつもりはない。栄は素早く腕を軟体化させ、今度は自分がフィアの腕を掴もうとする……が、合わせるようにフィアも腕をどろりと溶かした。『身体』が水で出来ているのだ、このぐらいの芸当は朝飯前である。

 自らと同じ技を使われ、優勢を取れる筈もない。形を取り戻した時掴んでいたのは腕ではなく、フィアの掌。まるで仲良し女子のように掌同士を合わせた格好だ。実態は己の怪力をぶつけ、相手の手を潰そうとする生々しい死闘だが。

 その死闘は最初、栄が優位に立っていた。腕にパワーを集中させ、少しずつ握り締めていたフィアの手を押し返していたのだから。しかし徐々に押し返すスピードは遅くなり、やがて止まる。

 止まってからは、ぴくりとも動かない。どれだけエネルギーを回しても、ぴったり合わせた力で押し返してくるがために。

「ぐ、く、ぐううううううう……!」

「ふむふむこのぐらいで力が拮抗しますか。あなた予想以上に軟弱ですねぇ」

「な、ん……!?」

「血流の密度からあなたの大体の体重が分かります。ざっと千四百トンに満たないぐらいですかね?」

 苦悶の表情を浮かべる栄に、フィアは気怠げに尋ねてくる。その言葉は栄の表情を一層歪ませた。

 何しろ、当たっているのだ。

 これまでに吸収した二万三千十九人の総質量は、約千三百七十トン。そこから生み出された戦闘力が、フィアを追い詰めていた。

 フィアはこの質量を見抜いた。栄の強力なパワーが体重に比例する事も察しただろう。

 そしてそのフィアは今、ゆっくりとだが()()()()()()()

「私の重量を教えてあげましょうか。あなたと初めて出会った時は約五トン。そして今はざっと十三トン……これでもあなたの百分の一未満です」

「……っ!?」

「つまりあなた私の百分の一の力で粋がっていた訳ですよ。これが貧弱じゃないならなんなんですかね?」

 煽るようにフィアは尋ね、栄はそれに何も言い返せない。

 少しずつだが重くなるに連れて、握り返してくるフィアの握力は増大しているのだから。栄が力をどれだけ振り絞っても、重たくなるフィアはその力をぴったりと合わせてきた。極めて正確に、まるでおちょくるように。

 そもそも何故フィアの重さは時間と共に増しているのか。

 答えは明白だ。注意深く見れば、フィアの頭にある髪が伸び、数本が地面に突き刺さっている。土中水分を吸い上げているのだろう。今は冬場、それも戦いがあるまでコンクリートとアスファルトに覆われていた土は酷く乾燥しているように見えるが、奥深くには十分に湿った土がある筈だ。更に地下を通っている上下水管が戦いの震動で破損して、地中に大量の水をぶちまけているに違いない。

 それら全ての水の量が、たった十数トンなんて事はあり得るのか? ――――どう楽観的に考えても、答えはNoだ。

「さぁてあなたの軟弱ぶりも分かりましたしそろそろ潰して差し上げますよ」

 導き出した栄の答えを肯定するように、フィアの重さが一気に増大した。

 途端、今まで拮抗していた押し合いが終わる。

 栄の手首はあっさりと押され、捻じ曲げられた。反射的に込めた力は、されどフィアの手首をぴくりとも動かさない。アリが巨石相手に噛み付くような、途方もない強靱さ……これが分子固定の副産物であると気付けても、栄には今更どうにも出来ない。

 軟体化して抜け出そうともしたが、気付けば全身の細胞が拘束されていた。二万三千十九人分のエネルギーから形成した外皮を、フィアの能力はあっさりと浸透したのだ。今や足を動かすどころか、唇一つ震わせる事が出来ない有り様。

 フィアがゆっくりと、大きく足を上げたところも、ただただ眺める事しか出来ない。

 放たれたキックは、栄の肉体を一瞬で超音速まで加速させた。

「ごぼぁっ……!?」

 瓦礫の山に叩き付けられ、栄は呻きを上げる。同時に、身体の自由が戻った。手が離れた事でフィアの能力の『範囲外』に出られたのだ。口だけでなく四肢もちゃんと動く。

 逃げるしかない。逃げて、もっと多くの『協力者』を得れば、きっとこの怪物を倒せる筈だ。

 そうとも、自分が吸収した人数はたったの二万三千十九ぽっち。対してこの国の人口は何人だ? 世界人口は? まだまだ幾らでも存在する。二万人で駄目なら二十万人、それでも駄目なら二百万人、これすら駄目なら……幾らでも、際限なくこの力は高められるのだ。力の制御や自我の混濁など問題は山積みだが、フィアを倒すにはこれしかない。

 希望を見出す栄だったが、その前に迫り来るフィアをどうにかしなければならない。思考を巡らせる栄を前にして、フィアは呆れるように肩を竦めた。

「やれやれまだ諦めませんか。大方もっと人間を喰えば強くなれるとか考えているんでしょ? 無駄な足掻きですねぇ」

「……っ。無駄かどうかは、やってみないと分かりませんよ……」

 考えを読まれた ― しかし二度も同じ手でパワーアップしたのだから想定されていて当然でもある ― 栄は不敵な笑みを返す。フィアはますます面倒臭げな表情を浮かべ、困ったように首を横に振る。

 それからハッとしたように目を見開き、ポンッと手を叩いた。名案を閃いたと言わんばかりに。

「おおそうです。分からないならここで確かめれば良いんですね」

「……? どういう、事で」

「あなたどれぐらいの数の人間を食べられるのですか?」

「は?」

「要するにあとどれだけ強くなれるのかという事です。ちなみに私はですねうーんそうですねぇ」

 突然始まった問答。一体何がしたいのか分からず、栄は呆けてしまう。とはいえ脱出策の一つも浮かんでいない現状、時間を与えてくれるのはありがたい。遠慮なく思案に耽る。

 勿論フィアから訊かれた事に答えねば、苛立ったフィアに嬲り殺しにされる可能性はあるだろう。しかし当のフィアは、自分が投げ掛けた質問の答えを待たずに考え込んでいた。極めて身勝手な話し方だが、栄からすれば有り難い。

 栄が念のため耳を傾ける中、フィアは腕を組んでじっと考え込む。やがて考えるのが面倒になったのか、実にやる気のない表情を浮かべた。

「ざっと三億トンの水を操れます。最近色々な力を使ったお陰でちょっとパワーアップしたみたいですからね」

 そしてフィアは極めて適当な物言いで、そのように告げる。

 自分の考えに没頭しつつも話に耳を傾けていた栄は、脳に跳び込んできた言葉を受けて呆けたように目を丸くする。次いで全身をガタガタと震わせ、青白くなっていた顔面を一層真っ青にした。

 今、この星にいる人類の数は?

 推定だが、ざっと七十億人を超えている。今年は怪物の大量発生や内乱などが多発したので多少は減少したかも知れないが、それでもまだ総人口に大きな変化はないというのが一般的な見方だ。

 そんな世界人口七十億を全て一つに纏めても、推定総重量は精々四億二千万トンを超える程度でしかない。無論これは膨大な質量だ。今、この身に宿る力の一万八千倍以上である。しかし人の身から外れた力であるがため、大きくなるほどコントロールが難しい。たった二万人分の力すら制御しきれないのに、その一万八千倍の力をどうやって操るのかなんて想像も出来ない。持て余すのが目に見えている。

 対してフィアは、三億トンの水を操れるという。 

 数値的には下回るが、全人類の質量に匹敵する大きさ。おまけにフィア『単身』での力であり、恐らく制御の問題はないか、あっても致命的なものではない。加えて水分子固定による絶対的防御、血流操作による細胞破壊が可能な能力、予知能力染みた気配察知……科学知識を置いてきぼりにするおぞましい力の数々まである。

 百倍の戦力差を有してもひっくり返せない出鱈目な能力。それを上回る戦力差をも許さない桁違いの出力。何もかもが『人類』を上回る。

 突き付けられた一言。その一言で栄は全てを理解してしまう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という現実を。

「ひっ!? ひっ……!」

 引き攣った声を上げ、栄はその場にへたり込む。人智を凌駕する思考速度で為すのは逃走経路の捜索。怪物をも凌駕する力で為すのは不様な後退り。

 その悪足掻きすら、真の怪物が一歩踏み出すだけで、恐怖から止まってしまう。

「ふぅーんそれがあなたの答えという事で良いんですかね……なら逃げても仕方ないって分かりますよねぇ?」

 ねっとりと尋ねられ、栄は何も言い返せない。

 殺される。何をしても、何もしなくても、無残に、一方的に。

 脳裏を過ぎる死の確信。全身の細胞が悲鳴を上げ、嘆き、悲しみ……弛緩した身体は、老廃物である尿を垂れ流した。最早肉体は抵抗すら諦め、震えすら起こさない。

 やがて震えない身体は、精神的理由だけでなく肉体的理由からも動かなくなる。フィアから伸びてきた一本の細い『糸』が腕に刺さった、途端、全身が石になったかのように硬直した。フィアが血液と自身の操る水を接触させ、支配下に置いたのだ。

「はいそれじゃあ全身一発で粉砕してあげますよ」

 宣言通り、栄を一発で粉々にするために。

 血液を通じて能力が全身に行き渡っているのなら、細胞単位での破壊など造作もあるまい。フィアは広げた手を前に出すと、少しずつ、握るように閉じていく。併せて、栄の全身に圧が掛かる。

 フィアが掌を完全に閉じた瞬間。それが自分の最期なのだと察した。

 言葉が喉まで昇ってくる。けれども声帯が震える事すらフィアは許してくれない。息が出来ない。されどフィアは苦しむ栄に情けなど掛けてくれない。

 じんわりと潤んできた瞳は、真っ先に締め付けられるような痛みに襲われて――――

「その戦い、待ったぁっ!」

 自分でもフィアでもない声に、栄は遠退きかけていた我を取り戻した。

 目は動かせない。記憶だって曖昧である。しかし栄は、彼女を思い出した。

 大桐玲奈。

 かつて『自分』の上司だったその人が、この戦場にやってきたのだ。

「……花中さんのお母さんですか。なんですか? 私そろそろコイツを殺そうと思うのですが」

「ちょ、待って! 殺さないで! いや、殺す事になるかもだけど、でも今は待って! お願い! その子と話をさせて!」

「……………まぁそこまで頼むなら構いませんが」

 フィアの手は開かれた、刹那栄の身を襲っていた拘束は解かれる。息が出来る。身体を動かせる。喜怒哀楽が薄れた身体に、生の喜びが満たされた。

 同時に、圧倒的生命体への恐怖も心の隙間を埋め尽くす。

 自分が、人類がどれほど力を尽くしても敵わない怪物。しかもこんな化け物が大桐家にはもう一体、町の公園には更にもう一体居た。世界中を探したらあとどれだけ潜んでいるか、想像も付かない。フィアが足下にも及ばないぐらい強い奴だって、たくさんいるかも知れない。

 勝てる訳がない。自分のした事は、全くの無駄だった。

 なら。

 自分の内側に渦巻く二万三千十九人の人々の想いを、自分はどうしたら……

「栄、あなたのした事は許されるものじゃないわ」

 俯く栄に、玲奈が声を掛ける。顔を上げれば、すぐ傍までやってきていた玲奈の顔が目に映る。

 手を伸ばせば、栄は玲奈に触れる事が出来るだろう。一秒と掛からず、その身を吸収出来る。そんなのは玲奈も分かっている筈だ。

 なのに玲奈は、栄と向き合うとその場にしゃがみ込んだ。腰が抜けたままの栄と、目を合わせるために。

「だけど、あなたが人間のためを思っていたのは分かる。わたしはあなたのやり方に賛同出来ないけど、もしかしたら本当にあなたの選んだ方法が正しいかも知れない」

「……………」

「だからそれを、一緒に確かめさせてくれない? あなたが得た力を含めて、私達は解明しなければならないから」

 玲奈の言葉に、栄は一瞬目を見開いた。それからすぐに目を伏せ、口を噤む。

 是非とも協力させてください。

 答えるなら、これが『正解』だろう。玲奈は明らかに自分を助けるため、玲奈達の組織に捕まる事を勧めている。危機を脱するためにも、ここは玲奈の言葉に乗るべきだ……理性では、そう考えられる。

 けれども、それを言うつもりになれない。

 言いたい言葉はこんなものではない。自分が本当に言いたい事は……湧き上がる想いに突き動かされ、栄は考える。考えて、考えて。無意識に喉元に衝動が込み上がり、

「死にたくない、です」

 ぽそりと、この言葉が出てきた。

 これが、『自分』の本心

 人類のため? ああ、そうだろうとも。自分だって人類なのだから。

 突き詰めれば、これが全ての始まりなのだ。自分が死にたくないから、自分が怪物に殺されたくないから、自分が助かりたいから、自分を守りたいから……『人類』の代わりに『自分』を置いたところで、なんの違和感もない。

 だから人類のためでも解体なんかされたくない。人類のためにフィアと戦う事ももうしたくない。死にたくないのだから。

 これは夢路栄の心なのか、取り込んできた人間達の最期の想いなのか。それすら栄にはよく分からない。だが、『自分』の正直な想いがこれだ。他の言葉はない。

「ごめ、んなさい、ごめんなさい……」

 溢れ出した嗚咽と謝罪の言葉が、無意識に栄の口から溢れ出る。玲奈は栄の背中を、素手で優しく撫でた。

「……そういう事だから、殺すのは止めてもらえるかしら?」

 それから玲奈は、フィアに物怖じせずに頼み込む。

 しかし栄は諦めていた。自分は大勢の人間を吸収し、その力を際限なく高めていける。フィアのフルパワーは圧倒的だが、それが出せない状態なら勝機はあるかも知れない。質量差という『ハンデ』付きとはいえ、一度は負けを認めているのだ。

 加えてフィアは人間である花中の友達だ。大切な人間(友達)を襲う自分の生存を許すなんて、どうお気楽に考えてもあり得ない。 

 見逃してもらえる筈が、ない。

「良いですよ別に」

 そう思っていた栄の耳に、フィアの無慈悲で無感情な宣告が耳に入る。当然だと想いながら栄は小さく項垂れて、

「「え?」」

 危うく勘違いするところだった栄は、キョトンとした声を漏らした。同じくキョトンとした玲奈と声が重なり、互いの顔を見合う。

 不思議そうにしている栄達を見て、フィアも不思議そうに首を傾げた。

「どうしましたか?」

「え? ……え、いや……あの、助けてくれるの、ですか?」

「ええ。構いませんよ」

「……なんで?」

「なんでって私としては別にあなたをわざわざ殺す理由がありませんから。花中さんからあなたを捕まえるか殺すかしてほしいと頼まれたから来ただけですしそれだってどっちかと言えば捕まえる方を優先してほしいみたいでしたからね。抵抗するなら兎も角大人しく捕まるなら殺しませんよ」

「……えっと……つまり……」

 友達がそう希望したから、そっちを選ぶだけ。

 あまりにも身勝手な理由に、問うた栄のみならず玲奈も呆ける。するとフィアは人間達の前で胸を張った。堂々たる姿だが、威圧感のようなものは感じられない。

 代わりに、満足した子供のような微笑ましさがある。

 そこから発せられる言葉が真面目なものである筈もない。

「まぁあなたとの『遊び』は中々刺激的でしたからね。一回ぽっきりで終わらせるのも勿体ないですしそこまで言うのなら見逃してあげましょう。今度はもっと鍛えてからくるんですよー」

 フィアは自分を殺そうとした栄を、お気楽に許した。

「は、はは……あははは」

 栄の口から漏れ出る、乾いた笑い。

 これが笑わずにいられるか。つまるところフィアにとって此度の戦いは、何処までいこうと遊びでしかないのである。例え人類からすれば、己の生存を賭けた死闘であろうとも。

 本当に恐ろしい生き物には、『全力』すら出させる事が出来ないのだと分かったのだから……




自我も尊厳も命も、何もかも捨てても勝てない相手。その相手に人間が滅ぼされないのは、力の差があり過ぎて興味を持たれていないから。
うん。こういう世界観大好き。

次回は明日投稿予定です。

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