彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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大桐玲奈の襲来8

 おどろおどろしい言葉を発する怪物。

 その正体がかつてはただの人間だったと知れば、大抵の人間は多少なりと動揺を覚えるだろう。だが、その『怪物』を取り囲む彼等は違う。

 彼等は知っている。この世界には、人間が数万年の月日を掛けて築き上げた栄華を、一夜にして瓦礫の山へと変えてしまう怪物がいると。森の奥深くに潜む怪物は見ただけで数多の生物の精神を狂わせ、海を泳ぐ怪物は地震の発生を司り、火山に暮らす怪物は噴火をもコントロールする。そしてそうした怪物が人の世に近付こうとした時、命を賭してでも止めるのが彼等の『役目』。

 人間の形をしているだけの怪物など、心を惑わすには到底足りない。弱々しい女性に暴力を振るうべきではない……そのような生温い心はとうに捨てているのだから。彼等の心を支えるのは、人間社会を、愛しき人々を守るという信念のみ。

 だから彼等は、栄の発した言葉に動揺などしない。

「総員、攻撃開始!」

 命令が発せられた瞬間、なんの躊躇いもなく数十人もの迷彩服姿の男達――――『ミネルヴァのフクロウ』が有する特殊部隊は栄への攻撃を始めた!

 最初に繰り出されたのは、大きな筒から放たれたネット。音速で撃ち出されたそれは栄の傍で開くや、彼女の腕と胴体部分に纏わり付く。

「おっと、まずは身動きを封じるつもりですか。しかし既に多くの『協力者』を得た私に、こんなも、の……?」

 栄はネットが絡まっても慌てる事なく、獲得した身体能力で引き千切ろうとする。が、ネットはビクともしない。段々と栄の顔が強張り、より一層の力を込めるが、やはりネットは破れなかった。

 当然である。そのネットはコスタリカの山岳地帯に生息する、大蜘蛛が生成する糸の構造を参考にして作られた。本物の強度を再現する事は未だ叶っていないが、贋作に過ぎないこのネットでも、現在軌道エレベータを支える素材の最有力候補であるカーボンナノチューブ ― 同じ太さの鋼鉄の二十倍もの強度を有する ― の三倍以上頑丈だ。自分よりも大きな怪物をも捕食するための武器は、栄にも有効だった。

 栄は何度か腕を振り回して脱出を試みたが、ネットはどうやっても千切れない。しかし自身の力ではどうにもならないと悟ったであろう栄は、すぐに笑みを取り戻す。

 無理に拘束を破る必要はない。彼女は己の体細胞の結合を弛め、液体のように振る舞えるのだから。どろりと溶けた身体は平然とネットの隙間を抜け、外側で実体化する。

 そんな栄の身体を、三本の『槍』が貫いた!

「ごぶっ……!? これ、は……がふっ!」

 困惑した栄の身体に、更に三本の槍が貫通。血肉が飛び散った。

 軟体化により身体の強度が足りず、ダメージを受けてしまう。拘束からは抜け出したので、身体の頑強さを戻す栄だったが……今度は頭に槍が突き刺さる。

 これもまた特殊部隊の武装であり、研究してきた怪物から得られたもの。戦車すら貫く針を放つ植物……そこから着想を得て開発されたものだ。銃弾すら弾く栄の肉体であっても、この槍の貫通力には敵わない。細胞間結合が弛んだ副作用により脳への一撃も栄にとっては致命傷にならないが、傷付けば出血と再生を強いられる。それは着実に、栄の体力を奪うものだった。

 『人間』の攻勢はまだ止まらない。続けてお見舞いされるのは、グレネードランチャーと呼ばれる擲弾(てきだん) ― 簡単にいえば銃で撃つ爆弾 ― を飛ばす武器。しかし此度飛ばすものはただの擲弾ではない。

 放たれた擲弾は栄の傍で破裂するや、青白い粉塵を撒き散らす。煙幕のように広がるそれは、着実に栄の身体を蝕む。

 栄の表皮が、凍結を始めたのだ。

「ぅ、ぐ……これ、は……!?」

「知ってる? とある国の砂漠には、冷凍ガスで敵を攻撃する虫がいるの。外敵である怪物の子から逃れるための進化だけど、このガスはその成分を解析し、量産化したものよ。数少ない、完璧な模倣を成し遂げた技術の一つ」

 凍り付く身体に戸惑う栄に、玲奈は距離を取りつつ疑問の答えを教える。細胞結合を弛めて軟体化するのであれば、その結合を無理矢理固めてしまえば良い。極めて強引な思考から今回採用された攻撃は、思惑通りの効果を発揮した。

「こんな、ただの、氷なんか、に……!」

「アンタは、一つになれば人類は怪物の脅威を乗り越えられると思っていたみたいだけど……生憎、その程度じゃ駄目だったみたいね。ガスは兎も角、他は本物の足下にようやく及んだぐらいの性能しかないのに」

「そんな、筈……人間は、この程度じゃ……!」

「ええ、人間はこの程度の事で負けはしない。私もそう信じているわ。でも、その力は協力によって得られるもの。あなたみたいに、エネルギー源にしただけじゃ得られないものよ」

「ぐ、ふぐ、ぅう……!」

 言い返そうとするが、栄の身体はどんどん凍り付き、動きは鈍くなる。眼球も凍結し、恐らくまともに前は見えていない。常人ならば絶望し、諦めて寒さに身を委ねるだろう。

「ま、だ……まだぁ……!」

 しかしこれで動かなくなるほど、栄の諦めは良くないようだ。凍り付く身体をパキパキと鳴らしながら、少しずつ前へと歩く。

 恐るべき執念。

 先程まで話していた玲奈には分かる。栄を突き動かすのは、人類を守るという使命だ。例えそれが狂気によって支えられるものであっても、栄は本気で人間のために行動している。全ての人間を守るために、全ての人間を喰らい尽くすつもりだ。

 だからこそ、止めさせたい。

 それが正気だった頃の栄を知る玲奈の、せめてもの手向けだった。

「……拘束してください」

「はい。そうします」

 玲奈がぽつりと頼めば、近くに居た男の一人が返事をする。特殊部隊のメンバー達は、玲奈から指示を受ける立場ではない。むしろ玲奈の方が彼等からの指示を受ける側である。

 それでも玲奈の言葉に応えるかのように、特殊部隊は栄への攻撃を再開した。

 冷凍ガスが充満し、ろくな身動きが取れない栄に次々と槍が突き刺さる。貫通した槍によって開いた傷口からは血が溢れ、冷凍ガスの影響で即座に凍り付いた。内臓が傷付いた事による出血か、吐き出した血が凍って栄の口を塞ぐ。鼻血さえも凍ってしまい、鼻を詰まらせる。

 人の身なら死に至る傷。されど栄はまだ止まらない。

 ならばと今度はネットが栄の足下へと放たれた。ネットは射出された勢いによりぐるりと絡みつき、まるでロープのように巻き付く。凍り付く身体に意識を全て持っていかれたのか、栄は足が縛られているのに前進しようとした。当然上手く歩けず、それでいてネットを千切るほどのパワーもない。蹴躓き、栄は転んでしまう。

 ついに膝を突いた栄だが、特殊部隊は容赦などしない。すぐさま新たなネットにより身動きを封じ、槍を撃ち込んで手足を地面に固定。更に念入りに冷凍ガスを噴射した。栄の動きは目に見えて衰え、強張っていく。

「ご、の、てぃ……」

 激情を乗せた唸りさえも、最早掠れ声にしか聞こえない。

 数分も経てば、栄の形をしたものは氷付けになっていた。

 今や夜の公園に置かれた奇怪なオブジェ。栄は微動だにせず、呼吸すら止まっているように見える。特殊部隊のメンバーの一部は恐る恐る歩み寄り、槍を数発撃ち込み、念入りに冷凍ガスを噴霧した。ネットを何重にも掛け、栄の姿は殆ど見えなくなる。

 この場に居る者達が安堵の息を吐いたのは、そこまで徹底的に身動きを封じてからだった。特殊部隊のメンバーは栄の監視を行う者と周辺の片付けを始める者に別れ、腰を抜かした男性研究者の救助も行われる。完全に緊張が解けた訳ではないが、幾らかリラックスした雰囲気だ。

「拘束完了。戦闘による被害なし」

 栄とずっと向き合っていた玲奈に特殊部隊の一人が報告してきたのも、このタイミングだ。

 玲奈は大きな息を吐き、ずっと栄に向けていた視線を男 ― この部隊の責任者だ ― へと移す。

「……ありがとうございます。素晴らしい仕事でした」

「博士の時間稼ぎのお陰です。危険を顧みず、アレの意識をご自身に向けさせていたお陰で、我々は十分な準備が出来ました」

「あれぐらいどうという事もありません。百五十秒間、翼長三十五メートルの猛禽類の巣に身を隠している方がヤバかったですよ」

「ははっ。噂通り、とんでもない経験をしていらっしゃるようだ」

 隊員の男は楽しげに笑い、玲奈も笑い返す。

 勿論問題はまだ解決していない。栄の『処理』をどうするか、という問題がある。危険生物を抹消しようした拍子に活性化……なんて事は、『ミネルヴァのフクロウ』やその他組織でも珍しくない事例だ。怪物とはそれほどまでにしぶといのである。下手に刺激するのは危険といえよう。

 いっその事南極の永久凍土にでも埋めてしまう、というのが一番安全だろうか。とはいえ昨今は怪物の活動が活性化している。南極の怪物が活性化した拍子に起きた地殻変動、或いは気候変動などで南極の永久凍土が溶けてしまう可能性もゼロではない。深海も似たようなものだ。ならば月にでも投棄してしまうべきか。しかし月にはあの異星生命体が――――

 そんな風に、玲奈は『片付け方』を考え始めていた。

 まだ、終わっていないのに。

【そっかぁ……こうなれば良いのかぁ】

 くぐもった声が公園内に響いた。

 全員が、反射的に振り返る。何処へ?

 ――――氷付けにされた、栄の方だ。

 ネットで覆われ、氷付けになっていた ― 今でも冷凍ガスを噴霧させ続けられている ― 栄の身体が、もぞもぞと動いている。最初はよく見なければ分からないぐらい微かなものだったのに、ほんの十数秒もすれば誰の目にも明らかなほど激しく動いていた。

 特殊部隊もすぐに動く。冷凍ガスの量を倍に増やし、ネットを更に何重にも掛けた。体力を削るために槍も撃ち込む。

 だが、栄の動きは止まらない。

「くそっ! なんで止まらねぇ! マイナス二百度にはなってる筈だぞ!?」

【私の身には、五十八人の力が宿っている。こんなものじゃあ、まだまだ足りない……まだまだ、まだまだぁ】

 隊員の一人が漏らした悪態に、くぐもった栄の声は律儀に応える。動きは治まるどころか一層激しくなり、ゆっくりと立ち上がってしまう。

 氷付けになったのに、何故動ける?

 栄が動き出した事へのショックを抑え付け、何故動けるのかを玲奈は考える。答えはすぐに分かった。

 栄の方から、パキパキと音がなっている。

 栄は、表皮を砕きながら動いているのだ。内部さえ無事なら構わないというのか。しかし何故今になって動き始めたのか? 最初から動けるのなら、そうすれば良かった筈……

 違和感を覚える玲奈の前で、特殊部隊は槍による攻撃を続ける。理由はどうあれ、ひとまず大人しくさせようという判断だ。これが吉と出るか凶と出るかは分からないが、放置していても復活は確定的。兎にも角にもやるしかない。

 尤も、此度の槍は栄に刺さらず、その場で落ちてしまうのだが。

「しゃ、射撃通じません!」

「馬鹿な!? どういう事だ!? ついさっきまで効いていたのに……!」

 動揺する隊員達。されど玲奈の脳裏に、ふと一つの可能性が過ぎった。

 栄の身の内側には、これまで取り込んできた何十もの人間達の『エネルギー』が渦巻いている。しかし人の身のままでは、そのエネルギーをフル活用するのは難しいだろう。先程までの栄は例えるなら、ロケットエンジンを積んだ軽自動車のようなもの。馬力そのものは上がるので圧倒的な力を発揮出来るが、けれども決して効率的な形態ではないため思ったほど性能は上がらない状態だ。

 なら、その形を変えてしまえば?

 ロケットエンジンに相応しい流線型と翼を持ったらどうなる? 不要なタイヤを捨て、頑強なボディへと作り替えれば? ……もっと速くなる。もっと強くなれる。

 勿論それは所謂肉体改造で、常人ならば相応の努力と時間を強いられ、それでも限度があるもの。されど今の栄は寄生蜂の影響により細胞の結合が緩い。自らの意思で結合を弛め、並べ替え、配列を変換する事など造作もない。

 彼女の身体に制限などない。取り込んだ力の大きさに身を任せ、それを活かすための形に変化させられる。

 もしも今、彼女の身体が作り替えられているとした場合……一体、どれほどのものが生まれ出る?

 五十人以上の人間が()()()()()()()()()()時のパワーとは、どれほどのものなのか。

「ま、不味い! 全員待避して――――」

 過ぎった最悪の事態に、玲奈は反射的に叫んでいた。だが、もう遅い。

 玲奈の警告が隊員達に届く前に、ネットと氷が弾け飛んだのだから。

 砕け散った氷とネットの破片が、紙吹雪のように周囲を舞う。あたかも祝福するかの如く……ほんのついさっきまで膝を折った姿勢で拘束されていたのに、今は舞い散る欠片の中心に立つ栄を。

 いや、あれは本当に栄なのだろうか?

 一瞬玲奈は疑問を抱いてしまう。恐らく特殊部隊の隊員達も同じだ。何しろ栄の見た目は、大きく変貌していたのだから。

 服は氷とネットを砕いた際、一緒に吹き飛ばしたのか。その身は一糸纏わぬものである。肌は青白く、白人のそれをもっと病的にしたような色合い。鱗のような、或いは甲殻にも似た、硬質化した部分が肌表面を覆っていた。

 頭には髪が残っていたが、それも硬質化しているのだろうか。不自然な形で固まり、角のようになっている。顔立ちは栄のままであったが、瞳から白眼部分は消え、他の多くの動物と同じく黒目で埋まっていた。光悦とした笑みは同性である玲奈すら魅了しかねるほど妖艶で、『生物』としての差をありありと感じさせる。

「……成長には試練が必要、と。成程、確かに『これ』と比べれば、日々の努力というのがちっぽけに思えますね」

 栄はぽつりと、独りごちるように語った。

 瞬間、栄の姿が消えた。

「……はっ!?」

 文字通り栄の姿が見えなくなり、玲奈は動揺してしまう。が、栄の存在はすぐに感じられた。

 自らの背後から、であったが。

 玲奈は即座に振り返る。直感通りそこには栄が居て……そして彼女は、その手で一人の隊員の顔面を掴んでいた。

 栄は玲奈の方へと振り返り、心底嬉しそうに微笑む。

 直後、玲奈は特殊部隊の隊員を手から吸収した。刹那の出来事だ。瞬きした時には、もう隊員の痕跡を示すものは服しか残っていない。玲奈はこれ見よがしにげっぷをし、ぽんぽんと自らの腹を叩く。

 ぞわりと、玲奈は震えた。

 何故栄が背後に居るのか? 答えは簡単だ。()()()()()()()()()()()()()()()()、ただそれだけである。栄は変態を行う事で、これまで以上の身体能力を獲得したのだろう。玲奈が予感した通りに。

 しかしいくらなんでも強過ぎる。

 見えないほどの速さで動き回る相手など、どうすれば良いのか。否、それだけではない。拘束中(変態途中)の段階ですら撃ち込もうとした槍を弾き返した事から、肉体の強度も著しく向上している。ネットを粉砕した事からして、パワーも大きく向上した筈だ。怪物由来の技術すら粉砕した栄は、最早怪物という範疇をも超えようとしている。

 怪物を打ち倒すほどの力を持った人間を、人類はなんと呼んできたか。無論玲奈も知っている。知っているからこそ栄をそう呼びたくはなくて、けれども彼女に最も相応しい言葉は他に思い付かない。

 故に、声にする。

英雄(ヒーロー)……どう見ても悪役(ヴィラン)の癖に」

 せめてもの反抗は、悪態混じりの言葉を後ろに付けるぐらい。

 それすらも、栄が気にした素振りすら見せないようでは、ただの強がりでしかなかった。

「なんとでもお呼びください。私は、全ての人間を守るため、全ての人間と一つになります。呼び名など、その時には全て意味をなくします……人間とは、私の事を指すようになるのですから」

 栄は見回す。この場に居る隊員数十人を、集まってきた人間達を、自分が救いたい者達を。

 やる事は、決まっていた。

「――――総員退きゃ」

 部隊長である男が声を上げた、時には何もかもが手遅れだった。

 栄は瞬間移動かと思うような速さで駆け、部隊長の男の顔を手で触れる。生身が露出しているのがそこだけだからだ……故に人体が顔面からずるりと溶け、栄の手に吸い込まれていく絵面が繰り広げられる。

 冒涜的な光景には、部隊長が半ばしか伝えられなかった『指示』を代弁する効果があった。隊員達は即座に背を向け、部隊長が下そうとした退却命令を遂行しようとする。しかし栄はそれを許さない。人類では視認不可能な速さで駆け、隊員達を一人、また一人と吸収していく。

 無論特殊部隊とてやられたままではない。その手にある武器で果敢に挑み、仲間を逃がそうとした者もいた。だが変態直前ですら通じなかった武器。そこから更に数人の人間を吸収した栄に効果がある筈もない。槍は跳ね返され、ネットはそこらの蜘蛛の巣のように千切られ、冷凍ガスによる凍結は歩みを鈍らせる事すら出来ない。

 隊員達は一人として逃げる事も出来ず、次々と栄に取り込まれていく。何十人も居た隊員達は、あっという間に疎らとなり、やがて姿が見えなくなる。

 最後の一人は、武器を構える暇すらなく栄に吸い込まれ――――栄は満足げに自らの唇を指でなぞった。

「さてと。残りは玲奈さんだけですね」

 そしてただ一人残された玲奈の方へと振り返る。

 玲奈は唇を噛み締め、栄を睨み付けた。そのぐらいしか、今の自分に出来る抵抗はないと分かっていたが故に。

 これまでにも、玲奈は様々な怪物と対峙してきた。

 中には襲い掛かってくる種もいたが、彼等をやり過ごす事は出来た。何しろ怪物達には人間を襲う特別な理由なんてない。たまたま餌だと思った、イライラしていた、縄張りに入ってほしくなかった……このような、彼等のちょっとした『癪』に触ってしまったのが原因だ。だから何故襲い掛かってくるか分かれば、やり過ごす術は見付けられた。

 だが、栄は違う。彼女は人間を助けるために、人間を襲うのだ。命乞いも逃走も無意味。生き残るためには、倒すしかない。倒せないなら、喰われるしかない。

「(何か案はない!? 背後から鈍器で一発、なんて通じる訳ない。なら目潰し? 躱されるに決まってる! というか視界を潰したぐらいでどーにかなる強さじゃないでしょうが! 何か、何か……!)」

 必死に思考を巡らせるも、何一つろくな案が浮かばない。怪物由来の兵器すら通じなくなった肉体が、更なる『エネルギー』を取り込んだのだ。この場に集結した特殊部隊隊員は総勢約五十人。栄が語ったこれまでに取り込んできた人数とほぼ同等である。単純計算で、今の栄の戦闘能力は拘束脱出時の倍。一人でどうこう出来るものじゃない。

 それでも玲奈は諦めずに考えたが、栄は容赦なく、じりじりと躙り寄る。

「安心してください。痛くはないですよ……そういう記憶は、ありませんから」

 そして宣告するのと同時に、栄はその身を大きく前のめりに傾けた。

 玲奈は、咄嗟に腕を身体の前で構えた。顔面から吸収されれば即死だが、腕からなら致命的な部分まで距離がある。吸収速度からして誤差程度でしかないが、その誤差が生死を分けるかも知れない……自分の生死は分けなくても、娘の命を守るきっかけにはなるかも知れない。

 どんな時でも考え付く最善を尽くす。それが自分の生き方であり、死に様だと玲奈は決めていた。

 だから玲奈は足掻く。最期の時まで、どんな絶望が迫ろうとも諦めずに。

 ――――結果的に、その足掻きは無駄に終わったが。

 目にも留まらぬ速さで駆けた……であろう栄は玲奈のすぐ近くで止まり、伸ばした腕が触れてくる事はなかったのだから。

「……え?」

「ぬ、ぐ、うぐ……?」

 困惑する玲奈だったが、栄は更に戸惑っている様子だった。なんとか玲奈に触れようと腕を伸ばすが、身体は前に進まない。

 それどころかずるずると後ろに()()()()()()()()始末。

 ついには前傾姿勢すらも正され、栄の身体は無理矢理垂直に立たされた。

 背後にて栄の首根っこを片手で掴んでいた、金髪碧眼の美少女――――フィアの手によって。

「あ、あなた、は……なんで此処に……!?」

「いやはやギリギリでしたねーいやぁ良かった危うく花中さんをガッカリさせてしまうところでしたよいえね野良猫がうちに来ましてなんか人間が襲われてたーとか話してきましてそれで花中さんがあなたの事が心配になりやっぱりママを助けてほしいと私に頼んできたのですよなので助けに来ました花中さんにちゃーんと感謝するんですよ?」

 思わず尋ねた玲奈、の言葉を無視して、フィアは自分が話したい事を話したいようにべらべらと喋る。相手に理解してほしいという気持ちが全くない、一方的な言葉に玲奈はキョトンとしてしまう。

「ぐ、ぎ……こ、この化け物――――」

 そして栄はこの隙を突こうとしてか、玲奈に向けていた手をフィアへと振り上げた

 直後、栄の姿が消える。

 高速移動か。玲奈は反射的にそう思った……すぐにその考えが間違いであると分かった。

「ぐぎあごがあぁあっ!?」

 醜い悲鳴と大地が削れる爆音が、彼方から轟いたのだから。

 音がした方を見れば、公園の木々が何本も薙ぎ倒され、大地が抉れて一本の道が出来上がっていた。道は彼方まで続き、街灯の明かりが届かないため奥は暗闇で満たされていたが……恐らく公園外まで続いている。

 常識的には考えられない。されど本能が現実を正確に理解する。

 これは、痕跡だ。

 片腕を気怠げに上げているフィアが、栄を殴り飛ばした際の『余波』で出来たものであると。

「あっそうそう言い忘れていました。あなた……あー名前は忘れましたが兎に角あなたについても一応お願いを聞いてます」

 呆然とする玲奈を無視して、フィアは自分が殴り飛ばした栄に向けて話し掛ける。栄からの返事はないが、元より待ってもいないのだろう。暢気に、気儘に、なんの躊躇いもなく、フィアは告げる。

「大人しく捕まるならそれで良し。抵抗するのならば殺して構わないとの事でした。どうします?」

 『英雄』に対して降伏勧告を。

 ――――作り上げられた『道』の奥から、影がやってくる。

 栄だった。見たところ怪我はないが、今までずっと浮かべていた笑みはすっかり消えている。フィアから十メートルほど離れた位置で立ち止まるや、敵意を露わにした鋭い眼光でフィアを睨み付けていた。

 そんな栄の手には、若い女性が掴まれている。服装からして公園の外を歩いていただけの、一般人だろう。女性の顔と栄の手は癒着しており、細胞レベルで結合していた。女性は自分の身に起きた事が理解出来ていない様子で、恐怖と驚愕の入り交じった表情を浮かべながらジタバタと手足を暴れさせている。尤も、玲奈が女性の顔を認識した次の瞬間には、栄はその女性を完全に吸収してしまったが。半狂乱の抵抗は無駄に終わった。

 栄の手による一般人の犠牲が、あの女性以外にも出ている事は既に明らかとなっている。栄が一般人にも容赦しない事は分かっていた。けれども目の前で何も知らない人間が犠牲となり、玲奈は苦々しく顔を歪める。

 対するフィアは、暢気に肩を竦めるだけ。犠牲となった女性の事など気にも留めていない。

「おやおやまだやる気ですか。花中さんとしては捕まってくれる方を希望していましたので出来ればさっさと諦めてくれませんかね? 私としてもその方が面倒がなくて助かりますし」

「生憎、化け物にひれ伏すつもりはありません。それに、あなたはもう勝っているつもりのようですが……それは誤りです」

 フィアはあくまで自分の都合から降伏を勧めるが、栄は真っ向から拒絶した――――直後、栄の身体に新たな変化が生じる。

 四肢や胴体が一瞬膨れ上がるや、収縮した。太さは変化が起きる前と大差ないが、素人目にも分かるぐらい密度が増している。表皮を覆う鱗は更なる光沢を放ち、青白い身体はほんのりと発光していた。

 全身の肉体が、一瞬にして改良されている。濃密な筋肉量から放たれる威圧感は、身の丈数百メートルもの巨大生物を前にしたかのような絶望感を玲奈に与えた。

 取り込んだ特殊部隊の隊員達や先程の一般人のエネルギーを、身体に()()()()()のか。あれがネットと冷凍ガスで拘束されていた栄に起きたのと同じ事象だとすれば、今の栄は更なる大幅パワーアップを遂げた筈だ。今や怪物という枠すら超えている可能性がある。現代文明すら破滅させかねない生命を超えた脅威……人類の手に負えるものではない。彼女が語る全人類を一つに纏めるという野望が、いよいよ現実味を帯びてきた。

 なのに、どうしてだろうか。

 玲奈には、栄がフィアに勝利するイメージが全く湧かなかった。

「あん? 気合いでも入れ直しましたか? あんまりしゃかりきになられても面倒なんですけどねぇ」

 強大化した栄を前にして、フィアは能天気に頭を掻く。なんの警戒心もない姿を、隙だと思ったのか。栄はその身を傾けた

 瞬間フィアに肉薄した栄は、その顔面に蹴りを喰らわせる!

 蹴った、と遠目で見ていた玲奈が認識した後に、暴風が辺りに吹き荒れた。この風が栄の蹴りの余波だとすれば、栄の脚力は今や生半可な軍事兵器では足下にも及ばない水準の筈。怪物以上の力を持つという推測が、確からしいと思えてくる。

 が、フィアは堪えない。

 直撃を受けた筈の顔面は、蹴られる前と比べ一ミリも動いていなかった。

「ふんっ」

 挙句フィアは栄の足を掴むや大きくその手を振り上げ、栄を大地に叩き付ける!

 生じたものは、台風が如く爆風。

 衝撃波で周りの木々がへし折れ、玲奈の身体は突き飛ばされた。栄を中心にした土が舞い上がってクレーターが出来上がる。怪物の生態を応用した槍さえも弾く肉体が、メキメキと無残な音を鳴らす。

「ごばっ!? が……」

「あまり手間を掛けさせないでほしいですねぇ」

 呻く栄を、フィアは容赦なく蹴る。百人近い人間を取り込んだ身体は、呆気なく吹っ飛んだ。

 ボールのように数メートルと跳ねた身体を素早く立て直して着地し、栄はどうにかフィアと向き合うが……ガタガタと身体が震え、その場で膝を突く。明確なダメージを受けている。内臓を貫通されようと、表面を凍結されようと、容易く再起した肉体が悲鳴を上げている証拠だった。

 栄は愕然とした表情を浮かべ、フィアを睨む。フィアは気にも留めず、栄に歩み寄る。まるで部屋に入ってきたカメムシでも退治するかのような気軽さで。

「なんなんですか……一体、なんなんですかあなたは!? 私は、私の身体には、百十九人もの人間が……!」

「んー? おっとそういえばちゃんとした自己紹介をしていませんでしたね。訊かれたからには答えるとしましょう。随分前に花中さんに禁止されましたけど見てない時ならバレませんよね」

 あまりにも一方的な暴虐への怒りか、栄はフィアを問い詰めた。するとフィアはにこにこと、楽しむように笑う。

 そしてフィアは己の頭をぱっくりと割った。

 文字通り、縦に割って見せた。しかし血は出てこない。内臓だって見えない。断面は透明な液体……つまるところ水で満たされ、ぷるんとゼリーのように波打つばかり。

 やがて水の中から出てきたのは、一匹の魚。

 魚は笑う。例え表情筋などなくとも。

 魚は嗤う。例え人間ほどの知恵や文化がなくとも。

 魚は告げる。

「私はフナですよ。たかが人間風情がこの私に勝てると思わない事ですね」

 自らが怪物などではなく、そんじょそこらにいる生き物である事を……




フィア登場です。
頼もしいやら、却って恐ろしいやら。

次回は7/26(金)投稿予定です。

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