彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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大桐玲奈の襲来5

 どういう事なのだろうか。

 突き付けられた光景を前にして、花中の頭は困惑一色に染まっていた。確かに昨日の今日出会ったばかりのため、夢路栄の人となりなんてよく知らない。けれども一緒の夕飯を二度も楽しんだ経験から、悪い人ではないと思っていた。

 なのに。

 どうして栄は今、大桐家を襲撃してきた男と、仲良く並んでいるのだろうか。

「……成程、最初からスパイだったと。まんまと騙されちゃったわね」

「そういう事です。こちらとしてもこんなに早く裏切る予定はなかったのですが、そこの怪物が想像以上に厄介と判断しまして。こうでもしないと目的を達せられないと考えました」

 ちらりと、栄が視線を向けた先に居たのはフィア。栄の視線に気付いたフィアは、しかし何が言いたいのだろうと訊きたげに首を傾げるのみ。

 どうやら栄のこの行動は、フィアの戦闘力を目にしての決断らしい。最初はフィアを倒して、その後自分達を『無力化』するつもりだったのだろうか。

 そしてその目的は、今、栄の手にある標本の奪取。

 何故そのようなものを求めるのか、手に入れて何をするつもりなのか……そんな事は花中には知る由もないし、何か大変な事情がある可能性だって否定は出来ない。しかし仕事の先輩である筈の母を裏切る真似に、強い怒りを覚えた。だからフィアに頼んで死なない程度にボコボコに――――

「おっと、花中ちゃんも黙っていてくれますか? もし一言でも喋ったなら、私はコイツを使()()()()

 そう思ったのも束の間、栄は花中にも警告を発してきた。お願いの言葉を発しようとした口を、花中は慌てて閉じる。

 コイツ、というのは彼女が手にした標本の事だろうか。使うというのがどういう意味かは分からないが、脅迫として使えるような代物なのだろう。母である玲奈が何も言わないところからして、ハッタリという訳でもなさそうだ。何が起きるか分からない以上、この警告を無視するのは愚策である。

 花中が黙りつつ考えを巡らせていると、栄は満足げに微笑んだ。嘲笑うような笑みを見せられ、花中は動けない事の悔しさもあって唇を噛み締める。フィアも顔を顰めた……が、ふん、と小さな鼻息を吐くだけ。特に動こうともしない。フィアからすれば栄が何をしようとも、自分と花中に直接的な『危害』を加えないのならどうでも良いのだから。

 花中の口を真っ先に閉じさせた辺り、恐らく栄はフィアのこのような性格を熟知している。しかし昨日から今日までの出来事だけでそれを読み取るのは難しい筈。

 だとすると栄は、前々から自分達の事を監視、或いは観察していたではないか?

「……どうしても、返してはくれないのかしら?」

「ええ。あなた達の手に渡っても厄介なだけだし、これは我々が責任を持って『処分』します」

 予想される事態に花中は顔を青くする中、玲奈は冷静に振る舞う。栄への問い掛けも冷静で、感情を押し殺したものだった。

「では、我々はこれで失礼しますね」

 それでも、いざ栄が自分達の前から去ろうとした時には、憤りの感情が表に出てきて。

「あら、そんなに急がなくても良いじゃない。目的もちゃーんとお話ししてほしいわ」

 されど虚空から淡々とした声が聞こえた時には、栄と揃って呆けた表情を浮かべた。

 次の瞬間、栄の背後に黒い靄が現れる。

 靄は段々と色濃くなり、人の形を作る。驚いた男が発砲するつもりか銃を構えた、直後に銃は爆発四散。破片が手に突き刺さり、男は悲鳴を上げながらひっくり返った。

 そんな叫びが五月蝿いとばかりに、靄は男を()()()()()。実体を感じさせない足に踏まれた男は、しかし今にも飛び出そうなほど目を見開き、呻き一つ漏らさずに気絶した。

 靄はやがてハッキリとした輪郭を纏い、栄の腕を掴んだ状態で人の姿を作る。言うまでもなく、その姿はミリオンであった。

「なっ!? き、さま……!?」

「はぁーい。私があなた達の事を知らないと思ってた? あまり嘗めないで欲しいわね。あなた達が一月前から町をうろちょろしていて、この家と私達について調べていたのも、ぜーんぶ知ってるんだから」

「う、くっ……!」

 身を捻り、どうにか拘束から脱しようとする栄だが、ミリオンの手は微動だにしない。フィアやミィほどの怪力はなくとも、彼女の力も人間とは比較にならないほど強いのだ。栄に脱出のチャンスはないだろう。

 しばらくすると栄は暴れるのを止め、諦めたように全身の力を抜く。ミリオンはそんな栄を見ても力は弛めず、拘束した事を誇るように笑みを浮かべた。

 あまりにも簡単に栄が拘束されて、玲奈は呆けたように目を丸くする。それでもすぐに我に返り、心から安堵したような息を吐いた。

「……ありがとう。助かったわ」

「いえいえ、どうもー。出来れば、コイツらがなんなのか、奪おうとしていたこの標本がなんなのかについても教えてくれると嬉しいわね。今後こういう事がないとも限らないし」

「それは……」

 ミリオンに問われた玲奈は、目線を逸らすようにして花中の方を見遣る。

 花中は、そんな玲奈の視線と向き合った。

 きっと仕事に関係する内容だから、話せない事もたくさんあるだろう。それを承知で、母親が危険な何かに関わっているとなれば、花中としては聞き捨てならない……確かに自分は大桐玲奈の娘であるが、同時に家族なのだ。家族の力になりたいと、心から想う。

 その想いが通じたのか、単に娘の眼力に負けたのか。玲奈は小さなため息を漏らすと、「分かったわ。話しましょう」と肯定の意思を示した。

 花中はごくりと息を飲み、玲奈の話に耳を傾ける。ミリオンとフィアも玲奈の顔を見ていた。一人と二匹の視線を受ける玲奈の口は中々開かないが、覚悟を決めたり話の整理をしたりしているのだと思い、花中は静かに待つ。

 やがて、ゆっくりとだが玲奈の口は開き――――

「ぃつッ!?」

 小さな悲鳴が、唐突に上がった。

 栄のものだった。結果的に話の邪魔をされ、花中と玲奈の親子は揃って栄に視線を向ける。

 暢気に見ている暇などないという事を知らずに。

「……まさか。ああでも、そうか、成程。だから回収する訳と」

 ミリオンがぶつぶつと、忌まわしげに呟く。分かっていれば防げたのにと言いたげな言葉だ。そしてミリオンは警戒心を跳ね上げた眼差しを栄に向ける。

 当の栄は、息を荒らげながら目を見開いていた。

 ビクビクと全身を痙攣させ、なんらかの発作でも起こしているかのよう。全身から汗が噴き出したのか、服がぐっしょりと濡れていた。瞳孔は伸縮を繰り返し、開け放しの口からはだらだらと涎が垂れ流される。

 そしてミリオンに掴まれている方の手に持っていた筈の標本を、床に落としていた。

 本来なら、『それ』は見た目通りの意味しか示さない。栄の身に何かしらの異変が起き、ついには折角手に入れた標本を落としてしまったのだ、と。

 されど花中は知っている。この世の生命が人間の理解を軽々と上回る事を。死すら生命を完全に止める事は出来ないのだと。

 なら、こうも考えられる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

「……小賢しいっ」

 ミリオンは万一に備えてか、拘束している栄の腕を掴み直した。

 途端、栄の身体がどろりと溶ける。

 文字通りの光景だった。まるで正体が軟体生物であったかのように、栄の身体は溶けて崩れ落ちる。

 ミリオンの拘束から抜け落ちた栄は、服や下着を置いて、肉体だったと思われる肌色の液体だけが素早く移動。書斎の窓目掛けて駆ける。その際仲間の男の左手を踏み付けたが、目もくれずに突き進む。

「ちっ! 焼き殺して……」

 ミリオンは素早く、栄だった軟体生物の方に手を伸ばした

 ……が、ミリオンが攻撃を仕掛けるよりも、栄が外へと逃げる方が早かった。ミリオンは忌々しげな目付きで栄が逃げ去った方をじっと見つめるも、やがて肩を竦める。

「……成程、ちょっと相性が悪いみたいね。やれやれ」

 ぽつりと独りごちた言葉は、確証と面倒さを感じさせた。

 どうやら栄は、逃げ果せたらしい。ミリオンのぼやきから推察するに ― 恐らく打つ手は幾らでもあるとしても ― 相性の悪さが原因のようだ。

 ミリオンが何を察したのか? 栄は一体どうしてしまったのか? どちらも知りたいというのが、花中の正直な気持ちだ。

 しかしそれよりも今は、母から話を聞きたい。

「……ママ」

「大丈夫。今更話を誤魔化そうなんて思っていないから。本当は花中がもっと大きくなったらって考えていたんだけど、どうやらもう十分大人になってたみたいだし」

 花中が目で訴えると、玲奈はすぐに意図を察してくれた。玲奈は花中の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。その手付きは愛しさを感じさせ、だけど何処か寂しげで……離した時は名残惜しむよう。

 それでも玲奈は花中と向き合えば、喜ぶように笑みを浮かべた。

 一瞬見せた喜び。されどその笑みはすぐに真剣な顔によって隠される。玲奈は自身の書斎の奥へと歩み、懐から取り出した手袋をはめてから栄が落とした標本を拾い上げた。それから開けられたままの箱にしまい直す。

「私が家に帰ってきたのは、この標本を持ち帰る事。理由の一つは、死んだ生物が生き返る事を知ったから」

「……それって、つまり……」

「そしてもう一つの理由は」

 戸惑う花中の問いに答えぬまま、玲奈は再び歩き出す。次に向かったのは、栄の仲間だと思われる男。

 ミリオンによって気絶させられた彼に、玲奈は見下ろすほど近寄る。

「この危険な生物が町中で復活したなら、大惨事を招く可能性があったからよ。栄がさっき披露した形態変異さえも、第一フェーズに過ぎないのだから」

 それから玲奈は恐ろしい事実を告げた。

 足下に倒れる男……気絶している彼の左手が、消失しているのを確認しながら――――

 

 

 

 夜の町を栄は裸で駆けていた。

 痩せていてあばらが浮いて見える身体は汗で湿り、それでも体温が高いのかほんのりと赤らんでいる。眼鏡は何処かで落としてしまい、裸眼になっていた。

 もしもこの姿を巡回中の警察にでも見付かったなら、女である事を差し引いても即座に捕まってしまうだろう。日本人としてあまりにも非常識な格好であるが、しかし栄はその事など気にも留めていなかった。それよりも気にすべき、恐ろしい問題があるのだから。

 自分の身体は、一体どうなってしまったのだろうか。

 あのミリオン(怪物)に拘束されていた最中、突如として指先に痛みを覚えた。痛み自体は大したものではない。少なくとも、実験室でネズミに齧られた時と比べれば断然マシだ。

 だが、その痛みを境に身体がおかしな事になっている。自分はただの人間なのだ。人間は脊椎動物で、身体の中に立派な骨がある。栄にも立派な骨があり、小学生の頃には骨折だって経験した。

 なのに、自分の身体が、まるで軟体動物のように溶けてしまった。

 信じられなかった。信じたくなかった。今は元の姿を取り戻せているが、何時またあんなアメーバのような形になるか分かったもんじゃない。おまけに今、十二月の夜空の下を全裸で走っているのに、あまり寒さを感じないでいる。こんなのは人間が持てる体質じゃない。いくらこの不気味な体質のお陰で助かったとしても、こんな、人間じゃない力なんて……

 混乱と否定の中、夜の町を逃げ回っていると、栄は何時の間にか緑に囲まれた場所にやってきていた。街灯などが乏しく辺りはとても暗いが、何故か物の輪郭がハッキリと見える。夜目が利くのだ。それは便利と言えば便利なのだが、今の栄には自分が変わってしまった事を突き付けられたようで、一層の動揺を誘う。

 なんとか冷静になろうと、栄は深呼吸を繰り返す。改めて辺りを見回し、此処が何処なのかを探った。小さな遊具や水飲み場がある。たくさんの木々が植えられ森のようになっている一角も見られた。どうやら自然公園の類らしい。

 この森の中なら、身を隠せるだろうか。もう何十分かすれば、標本回収のための部隊が到着する手筈となっている。仲間達の合流するまでの間、奴等に見付からなければなんとか――――

「おねーさん、どしたの?」

 そう考えていた最中、背後から声を掛けられた。

 栄はビクリと全身を震わせ、怯えながら振り向いた……ところ、そこに居たのは若い男達の集団だった。全員が二十代前半ぐらいで、数は五人。如何にも心配しているかのように声を掛けてきたが、その顔に浮かんでいる下心剥き出しの顔が彼等の本心を物語っていた。

 成程、確かに今の自分は全裸であり、多少は『食欲』をそそるかも知れない。外観は中の中、或いは中の下だとしても、一夜で使い捨てる分には許容範囲という事か……推察される男達の考えに反吐が出そうになる。話をするだけ時間の無駄だと判断し、栄は踵を返して男達に背を向けた。

 男達はそんな栄の行く手を遮るように、前へと回り込んでくる。

「ホラホラ。遠慮しないでさ」

「……していません」

「好意には甘えておこうぜ?」

「好意じゃなく、悪意を感じるからです」

「おー、手厳しいぃ」

 大袈裟に仰け反りながら、如何にもショックを受けたと言いたげに一人の若者が嘆く。仲間達はそれをゲラゲラと笑い、楽しみ、されど止めはしない。

「でもさぁ、そんな格好して出歩いてるって事は、ちょっとは期待してるんでしょ?」

 若者が自発的に止める事もなく、彼は栄の腕を掴んできた。

 当然栄は振り解こうとした。見知らぬ男と身体を重ねている暇などない。あの危険な怪物達から、一秒でも早く身を隠さねばならないのだ。

 でも、だからといって。

 若者の手を()()()()つもりなど微塵もなかったが。

「「は?」」

 目の前で生じた事象に、栄と若者の声が重なる。

 若者の手は、一部だけだが栄の手と一体化していた。それは皮膚がくっついたというだけではない。まるで結合双生児のような、完全な融合を果たしている。若者は無意識にか栄から離れようとするが、融合した手が栄から離れる事はない。

 それどころか、ずぶずぶと、若者の手は栄に取り込まれていく。

「ひ、ひぃいいいっ!? なん、なんだこれ!?」

「お、おい!? お前、何をして……」

 悲鳴を上げる若者と、問い詰めてくるその仲間達。だけどそんなのは栄こそ知りたい事だ。訳が分からない。

 同時に、胸から込み上がる『声』。

 聞いてはならない。人としての理性がそう警鐘を鳴らしている。されど胸の奥底にある衝動は、その声に耳を傾けようとしていた。理性が必死に耳を塞いでも、衝動は振りきるように『声』へと向かう。

 そして栄は聞いてしまう。何かが発する命令を。

 喰え、という言葉を。

「や、やだ、助け、げ、げ、げ、げ」

 栄と結合した男は声を震わせ、ガタガタと痙攣を始めた。その頬と身体はみるみる痩せこけ、目玉は陥没し、肌がくすんだ色へと変貌していく。骨が溶けたように、四肢がぐにゃぐにゃになった。

 時間にして一分も経っていない。その短い間に男の身体は、まるで中身の詰まっていないゴム人形のようにくたくたとなる。

 最後は蕎麦でも啜るように、ちゅるんと栄の手に吸い込まれた。若者の姿はもう、何処にも残っていない。彼の痕跡を物語るのは、綺麗に残された衣服やアクセサリーの類だけ。

 非常識な瞬間を目の当たりにした若者四人は、誰もが呆けたように棒立ちしていた。何が起きたか分からない、自分達は夢でも見ているのだろうか? そう言いたげな眼差しを栄に向けてくる。

 栄も同じだ。自分が何をしたのか、分からない。自分はただ手を振り解こうとしただけなのに、こんな、吸い尽くすような事をしようなんて考えてもいなかったのに。

 戸惑いで顔を青くし、カタカタと身体が震える……ところがどうした事か。不意に栄の震えは収まった。じっと己の手を見つめ、押し黙る。

 やがて栄は、笑った。

「……成程、成程。あの女が危険視する理由もよぉーく分かりました。確かに危険ですね……ですが、ああ、素晴らしい」

 ぶつぶつと栄は呟く。一人で頷き、納得する。自分の引き起こした事に嫌悪するどころか、喜ぶような笑みまで浮かべた。

 栄の不気味な姿に耐えられなかったのか。若者の一人が後退り

 した瞬間、栄の腕が伸びた。文字通り何メートルも。伸びた腕は後退りした若者の頭を掴み、若者は悲鳴を上げながらその身体をぐにゃぐにゃとした柔らかいものに変えていく。三十秒も経つと彼は栄の中へと吸い込まれ、一人目と同じく服だけを残す。

 二人が消えて、残りは三人。誰もが現実逃避を止めるしかない。三人はさながら打ち合わせでもしていたかのように、揃って栄に背を向けた。

 栄はそれを、見逃さない。

「光栄に思いなさい。あなた方のような屑でも、人類の存続に役立たせてあげますから」

 慈愛と優しさに満ちた微笑みを浮かべながら、彼女は男達に襲い掛かる!

「ぎゃあっ!?」

「ひぎっ!? い、が、べ……」

「ぼっ!? ご、おっ!?」

 右手を一人の後頭部に、左手を振り返った一人の顔面に、口を一人の後頭部に――――人外の跳躍力で男達に迫るや、栄は己の身体の一部を男達に接触させた。触れた身体は一瞬にして男達と癒着し、その身を溶かし、吸い込む。

 ものの数分で五人の男をその身に取り込んだ栄は、その外観を歪に膨らませたりはしていなかった。されど無変化という訳でもない。軟弱な学者らしい身体付きは、猫のようにしなやかな筋肉を纏うようになっていた。身長も伸び、百七十センチを超えている。顔立ちも引き締まり、彫刻のように整ったものへと変貌していた。

 一見すれば、彼女は栄のままである。しかしよくよく見れば他人にしか見えない……それほどの変化を、彼女は遂げていた。

「ふ、ふふ。ふふふふ……はははははっ! 凄いわ! これなら、これなら……!」

 栄は高笑いをし、喜びを表現する。彼女の声は人間のそれを凌駕し、町中に木霊した。見付かる事も恐れず、堂々と感情を露わにした。

 己の内側から溢れ出すパワーと喜びが、抑えられないが故に。

「いやー、とんでもないものを見ちゃったなぁ」

 尤もその盛大な歓喜は、ぼやくような小声によって阻まれたのだが。

 栄は跳ねるように、声がした方へと振り返る――――何時の間にやってきたのか、栄の背後には一人の小さな女の子が立っていた。

 少女の背丈は、大桐花中と大差ない。しかしあの華奢な小娘よりは筋肉質で、スポーツが得意そうに見える。服は長袖長ズボンではあるが、どれも秋口に着るようなもの。冬服として使うにはあまりにも薄いが、少女は特段寒さに震える素振りもない。髪は黒で、目立つものではない。顔立ちは正しく美少女のそれだが、非常識な美しさではなく、なんとなく親しみが感じられる。

 全く気になる点がないと言えば嘘になるが、一見した限りではそこらを歩いている、極々普通の美少女のようだ。

 しかし栄は見落とさなかった。少女のお尻から、猫の尻尾のようなものが生えている事を。

 コイツも、人間じゃない。

「どうしよっかなぁ。なんか放置するとヤバそうだけど、感じ的に人間っぽいし、人間を襲う分には人間の問題だしなぁ。さっきの奴等悪者っぽかったし。でもコイツ、正義のヒーローにも見えないからそのうち普通の人間も襲いそうだし……うーん」

 人間じゃない少女は一人勝手に悩んでいた。何を悩んでいるのかは定かではないが、栄にとってはどうでも良い。

 恐ろしい。

 身体の奥から、そんな警報が飛んでくる。理屈も何もない、けれども感情とも違う……未知の感覚に理性は戸惑いを覚えるが、しかし身体の方は準備を整えていく。何時でも逃げ出せるように、せめて命だけは守れるように。

 この感覚はなんなのか? 答えはすぐに明らかとなった。他ならぬ、この感覚の元凶である少女の言葉によって。

「うん。とりあえず捕まえて、花中のとこに届けようかな。難しい事は全部花中に任せちゃおうっと」

 ぽそりと、少女は呟く。

 この少女は花中の知り合いだったのだ。そして少女は自分を捕まえ、花中の下に連れて行こうとしている。

 論理的思考では導き出せなかった可能性。されど栄はそれを根拠なしに、なんとなく察していた。身体を満たす未知の感覚が教えてくれたのだ。ならばあの感覚の呼び名はただ一つ。

 本能だ。

 人間が文明を築くために捨て、衰えさせた野生の感覚。それが戻り、研ぎ澄まされた末の結論だった。そして目の前の少女に対して、本能は新たな判断を下す。

 コイツには勝てない、と。

「っ!」

「ありゃ?」

 栄は反射的にその場から全力で跳び退いた。少女はおどけたような声を漏らしたが、栄を追っては来ない。手こそ伸ばしていたが、すぐに引っ込めていた。

 恐らくは追うのを面倒臭がったのだろう。恐怖心や警戒心は感じられない……人間を吸収する場面を目撃したと思われるにも拘わらず。つまりあの少女にとって、その程度は脅威でもなんでもないという事だ。

 自分と少女の力関係にそれほどの差があると突き付けられ、栄は唇を噛み締めたが、安堵も抱く。この少女に勝てるイメージなど、まるで浮かんでこないのだから。積極的に手を出してこないのなら好都合である。

 栄は即座に背を向け、逃げ出した。少女は追ってこなかった。

 公園を脱出し、栄は夜の町を車よりも速く駆けた。宵闇を見通し、彼方を目指して走りながら考える。

 この町には、恐ろしい怪物が多過ぎる。

 もしもあの怪物の一体が暴れ出したらどうなる? いや、暴れた結果が大桐家の周りの惨状である事は調()()()()だ。この町は、既に怪物の脅威に見舞われている。

 この恐ろしい町で生き残るためには力が必要だ。今の自分など比較にならないほどの強い力が。

 そのために必要なのは――――

 ……………

 ………

 …

「んー。なんか面倒臭くて追わなかったけど、まずったかなぁ」

 公園で栄の背中を見送った少女ことミィは、さして後悔などしていない軽い口振りでそう独りごちた。

 ミィは一部始終を見ている。

 あの人間 ― 少なくともミィの本能はそう判断していた ― に何かしらの能力があるのは明らかだ。その能力で人間に危害を加えたところも目の当たりにしている。フィアほどではないが能天気な思考の持ち主であるミィでも、まさか襲われた若者達が(あの人間)の中からぽーんっと無傷で出てくる……とは思わない。間違いなく彼等は死んだ。

 ミィは人間が好きだ。人間の『嫌なところ』もたくさん学んだので昔ほどの情熱はないが、今でも無差別な虐殺を見過ごす事は出来ない。人間を襲う怪獣が現れたなら、自分がやっつけても良いと考えている。

 しかし猫を虐めるような人間を助けるような、無分別な優しさは持っていない。人間のため、人間を襲う『美味しい生き物』を絶滅させるつもりだってない。あくまで彼女の優しさは、自分が好きだからという理由で向けるものなのだ。

 つまるところ知らない人間同士のいざこざに首を突っ込むほど、人間を愛している訳ではない。

「……ま、花中には教えてやろうかな」

 それでもこうして花中(人間)に自分が見たものを伝える分、他のミュータントよりかなり世話焼きと言えよう。

 公園から跳び立ったミィは、町中へと消えた栄とは真逆の方向へと向かうのだった。




平和な時間は終わり。

次回は明日投稿予定です。

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