彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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大桐玲奈の襲来4

 学校から帰ってきた花中を出迎えたのは、暖かさと優しさがある、甘い香りだった。

 一瞬、花中は玄関で呆けたように固まる。その匂いが知らないものだったから、ではない。とてもよく覚えている、懐かしい香りだ。

 しかし何故この匂いが?

 一瞬考え込もうとして、即座に思い出す。そうだ、昨日からママが帰ってきているのだ。ならこの香りは――――

 考えを纏めた時、花中の身体はもう駆け出していた。靴を脱ぎ捨て、ドタドタと廊下を駆ける。共に帰ってきたフィアがキョトンとした眼差しで自分の背中を見つめ、ミリオンが楽しげにくすくすと笑っていたが、花中は気付いてもいない。沸き立つ衝動のままリビングに押し入り、

「ママっ!」

 キッチンに顔を出すのと同時に、愛しい家族の名を呼んだ。

 キッチンに居たのは、玲奈だった。

 玲奈は今、少し年季の入ったエプロンを身に着け、コンロの上に置かれた鍋の前に立っていた。鍋の中にはオタマが入っており、玲奈は小皿を口に付けている。どうやら味見の最中だったらしい。

 花中の帰宅を知り、玲奈はにっこりと微笑みながら「おかえり」と伝えてくる。慌てて花中も「ただいま」と答えた。次いで恥ずかしがるように、花中は物陰に身を隠してしまう。

「あ、あの……今日の晩ごはん、ママが作って、くれてるの……?」

 そしておどおどと、そう尋ねた。

 見れば答えは明らかなのに、つい訊いてしまった。何故ならこの三年間、食事は自分で作るのが普通だったから。友達が作ってくれた事もあったが、あくまで時々。それにそういう時は、事前に教えてもらっていた。

 当然のように、自分じゃない誰かが、自分のための食事を作ってくれている。それが嬉しくて、なんだか不思議な感じもして。

「ええ、勿論。今日はクリームシチューよ」

 玲奈は満面の笑みを浮かべながら答え、思っていた通りの、何より期待していた通りの回答に、花中は跳ねるぐらい喜んだ。

「やった! ママのクリームシチュー大好き!」

「ふふ、やっぱり花中はこれがお気に入りよねぇ。自分から料理をする時は魚とか野菜料理ばかりなのに、ママが帰ってきたら何時もこれをねだるんだから」

「えへへへへ。だって美味しいんだもん」

 ギュッと母の身体に抱き付き、喜びを表現する花中……の背中に、なんだか鋭い視線が突き刺さる。

 反射的に振り返ると、物陰からフィアが嫉妬塗れの眼差しでこちらを見つめていた。彼女の傍にはミリオンが立っていて、嫉妬に狂うフィアを呆れた目で見下ろしている。

「ぐぎぎぎぎぎぎ……おのれぇぇ……!」

「相変わらず嫉妬深いわねぇ。登下校中、ずっと一緒だったじゃない」

「今も一緒が良いんです! 出来る事なら一秒たりとも離れないぐらい!」

「気持ちは分からないでもないけどね。私もあの人とはそうありたかったし」

 極めて私的な ― とても野生生物らしい ― 感情を向けられ、花中は友達に寂しい想いをさせてしまったと少し反省。お陰で嬉しさに満ちていた頭が、少しだけ冷静さを取り戻す。

 そうして落ち着きを取り戻した頭は、一つの疑問を覚えた。

「あれ? ママ、そういえばシチューの材料はどこで用意したの?」

 冷蔵庫の中には今、シチューの材料はないという点だ。

 実のところ、今日の午前中にミリオンが買い物に行ってくれている。しかしその食材達は今もミリオンが持っていた。十二月も半ばを越え、外の気温が冷蔵庫並になってきたので急いでしまわなくても良いというのもあるが……花中は、玲奈にフィア達の正体を隠している。そのため平日の昼間に帰宅するという、『不審』な行動を取らせたくなかった。ミリオンは「気にしなくても良いと思うけどねー」と言っていたが、念には念を入れた方が良いというのが花中の考えだ。

 ミリオンの買ってきた食材がなければ、大桐家の冷蔵庫にあるのは無数のジャガイモと調味料ぐらいなもの。クリームシチューを作るのに必要な、牛乳や牛肉、ニンジンやタマネギ等はない。ルーもなかった筈である。

「うっふっふー、実は栄に買ってきてもらったの。大変だったみたいよ、何処行っても食材がなかったーって言ってたから」

 その疑問の答えを、玲奈はすぐに教えてくれた。成程、と納得するのと同時に、花中は栄が味わった苦労を想像して苦笑い。高いだけならまだしも、そもそも商品が置かれていない方が多い昨今。よくぞシチューに使う様々な食材達を見付けてきたものだと、栄に感心と感謝を覚えた。

 なのでお礼を言おうと思ったのだが、栄の姿はリビングにはない。帰ってきた時に「おかえりなさい」などの声も聞こえなかったが、家の中には居ないのだろうか?

「あれ? 夢路さんは?」

「書斎の方で仕事を任せてる。研究所にレポートを送ってもらってるわ」

 疑問を言葉にすれば、母は書斎がある方角をちらりと見ながら教えてくれる。この場にいない理由が分かればそれで十分。じゃあ後でお礼を言おうと思えば、この話はこれで終わりだ。

「さぁ、後は煮込めば完成ね。晩ごはんの時間までまだあるから、そうね、学校での事を話してくれないかしら?」

 それよりも今は、母が自分と話したがっている。

「うんっ! えっとね、今日は学校の友達とね……」

 抱いていた疑問を頭の隅へと押しやった花中は、満面の笑みを浮かべて玲奈とのお喋りに夢中となる。ついでに玲奈の手を掴み、リビングまで引っ張った。玲奈はくすりと笑いながら、小学生並に弱い娘の力に大人しく引っ張られていく。

 花中は今、玲奈だけを見ていた。

 故に聞き逃す。嫉妬深い友達が、何時の間にか歯ぎしりを止めていた事を。あまつさえ見逃す。自分本位な友達が、母とべたべたしている事を無視するように『何処か』を眺めている姿さえも。

「……どう思います?」

「別にどうも。勝手にさせておけば? 家の中なら兎も角、外を飛び回る虫けらを気にするなんて馬鹿らしい話だし」

「ですね」

 そして二匹の言葉も花中の耳には届かず。

 ただただ今は、六日後にはいなくなってしまう母親との思い出だけが欲しいのだから……

 ……………

 ………

 …

 大桐玲奈はそこそこ料理が下手である。

 いや、正確には凝った料理が苦手と言うべきか。切るだけ、煮るだけ、焼くだけ……などのシンプルな調理方法であれば人並には美味しく作れる。しかし細かな味付けや、寝かせるだの一煮立ちさせるだのという『一工夫』が入ると、途端に大雑把な性格が足を引っ張り、食べられなくはないが微妙な物を作り上げてしまうのだ。

 焼き肉や焼き魚は美味しく作れる ― 生態観察の技術の応用か、食材の目利きはべらぼうに上手いので、むしろシンプルな料理ほど美味である ― ので、幸いにして花中の味覚が歪む事はなかったが……母親として流石にそれは不味いと思ったのか。色々な料理にチャレンジし、少しずつ上手に出来るレシピを増やしていた。

 その中の一つが、クリームシチュー。

「うへ、えへへ。美味しい♪」

 久方ぶりに味わう母の味に、今夜の花中はとろんとろんに頬を弛めながら夕飯を堪能していた。

 娘の幸せに満ちた顔を見て、花中の向かい側のテーブル席に座る玲奈も蕩けたような笑みを浮かべる。

「喜んでもらえて良かったわ。久しぶりに作ったから、ちゃんと作れるかちょっと不安だったのよねぇ。キッチンも色々新調されてて、勝手も分からないし」

「あれ? 玲奈さんがいない間にキッチン新しくなったのですか? 確かに、あまり古くないとは思いましたけど」

「なんか色々あって我が家って二~三度倒壊しかけたらしいわよ。花中からのエアメールにそうあったから。幸い私の部屋は無傷で、標本達は無事だったみたいだけど」

「……危ないところでしたね、色々と」

 隣に座る栄の言葉に「全く以てその通りで」と玲奈は同意を示す。確かによくあの部屋の標本が一つも駄目にならなかったものだと、花中も心の中で同意した。一応埃が積もらない程度には花中が掃除し、本や標本が崩れないよう整えてはいたのだが……爆発やら銃撃やらの難を逃れたのは、ある意味奇跡的である。

「ま、なんにせよ上手く出来て良かったわ。出来ればミリオンさんにも食べてもらいたかったけど……」

「そういえば、ミリオンさんはどちらに? 家にはいないみたいですけど」

「えっと、なんか、ちょっと用事がある、とか言って、外出しました」

 栄の疑問に、花中は当人から聞いていた用事を答える。が、答えながら花中は微かに首を傾げてしまった。

 用事とは、なんだろうか?

 今からほんの数十分前……夕食の直前にミリオンは「用事がある」とだけ言うと、そそくさと姿を消してしまった。詳細を訊く暇などなく、あったところで母との交流が最優先だったので尋ねなかっただろう。しかし今になって疑問が頭にこびり付いてきた。

 その疑問を振り払うように、花中は頭を左右に振りかぶる。今は家族との楽しい団らん中。難しい事は全部後回しだ。どうしても気になるのなら、ミリオンが帰ってきてから訊けば良い。

「明日は一緒に食べられるか、誘ってみるね。そうだ、ミリオンさんといえば、去年ミリオンさんの料理を食べたんだけどね」

 ミリオンの事を話題にしながら、花中は新たな話題を振る。玲奈はそれに相槌を返しながら聞き、笑い、花中の話を楽しんでくれた。

 楽しい会話は途切れない。何時までも何時までも、何処までも何処までも続いていく。

「むっすぅー……」

 そんな人間達の満ち足りたやり取りを、恨みがましい目で見ている動物が一匹。

 フィアである。フィアはもりもりと肉 ― 何かの蛹を潰して固めたものらしい ― を食べながら、あからさまに不機嫌になっていた。

 幸せ絶頂状態の花中は気付いていないが、玲奈の隣に座る栄はフィアの顔を正面から見ている。フィアの不機嫌顔を見て、どうにかしなければと思ったのだろうか。やや狼狽えた様子で、フィアに声を掛けた。

「あ、あの! フィアさんは、クリームシチューを食べないのですか? 美味しいですよ」

「ん? くりーむしちゅーですか? 要りませんよ私には食べられないものなので」

「え? あ、アレルギーとかですかね?」

「アレルギーとかじゃなくて単純に食べられないんですよ。お腹壊しちゃいますし下手したら死ぬかも」

「死……死!?」

 思っていたよりも重大な理由に、栄は目を丸くする。玲奈もこれには驚いたのか、フィアの方に視線を向けた。そして玲奈もフィアに話を振る。

「それは大変そうねぇ。普段何食べてるの?」

「私が自前で取ってきたものを食べてます。昨日あなた方にあげた肉とかですね」

「ああ、アレは本当に美味しかったわねぇ。今まで食べた事がない味で、尚且つ今まで食べた中で一番美味しかったわ。栄はどう思う?」

「ええ、私も同じ意見です。また食べたいです!」

「そうですか。まぁ気が向いたらそのうち獲ってきますよ」

 二人に褒められて、フィアは淡々と答える。世辞でもなんでもなく、本当に気が向いたら行くのだろう。

「どうですか花中さん。今度暇な時一緒に狩りに行きますか?」

「うんっ。良いよ」

 次いで花中に狩りのお誘いをし、花中はこれを快諾する。期待している母のため、とびきり美味しい部位を選ばないと……と考えている事を伝えたらきっとフィアは拗ねてしまうので、花中は自らの口を閉ざして想いを閉じ込めておいた。

 尤もその口からはくすくすと、笑い声が漏れ出てしまうのだが。

 フィア達と一緒の夕飯は、とても楽しいものだった。家族との夕飯も同じぐらい楽しかった。だけど今日の、友達と家族が一緒の夕飯は、もっともっと楽しい。楽し過ぎて、自分を上手く抑えられないぐらい。

 この幸せは、六日後には終わりの時が来る。勿論母が仕事に戻ってしまうというだけの話で、また帰ってきてくれた時に感じられるものだ。それでも、花中は願わずにはいられない。

 何時までも、この幸せが続きますようにと――――

 されど、『終わり』は花中の祈りを踏みにじる。

「……ちっ。無粋な連中ですね」

 不意に、フィアがそんな言葉を独りごちる。

 その言葉には明らかな苛立ちと、明確な敵意がこもっていた。かれこれ一年半以上共に暮らしてきた花中に、隠しもしないフィアの内心を察せられない筈もない。されど楽しい食事の最中に呟かれたあまりにも場違いな感情に、平和に浸りたい理性が理解を拒む。

「ん? どうしたの?」

 故に花中よりも、玲奈の方がフィアの呟きに反応するのが早かった。尤もフィアは忌々しげな眼差しで遠くを見つめるだけで、玲奈の問いに答えようともしない。

 基本、花中以外の人間には殆ど無関心とはいえ、話し掛けられたなら答えるのがフィアである。それを無視する時は、無駄話に思考を割きたくない時。

 即ち、何かしらの脅威を察知した時だ。

「フィアちゃん……? あの、どう、したの……?」

 花中が尋ねても、フィアは何も答えない。じっとしていて動きもしない。まるでそれは、タイミングを計るかのよう。

「ああ全く面倒臭い」

 そしてぽつりと漏らした言葉は、諦めたかのように気怠げ。

 フィアは一体、何を気にしているのか? ――――答えは、すぐに明らかとなる。

 大桐家のリビングにある窓が、突如一斉に割れるという形で。

「きゃあっ!?」

「な、なな、なん……!?」

 悲鳴を上げる花中と、慌てふためく栄。どちらも、不意の物音に対してごく一般的な反応と言えよう。

 されど玲奈とフィアは違う。

 玲奈はなんの躊躇もなく、窓ガラスが割れた音を聞き付けるやテーブルを跳び越えた。拍子にシチュー入りの皿を蹴飛ばし、半分も残っていない中身をひっくり返したが、玲奈は気にも留めない。一瞬にして花中の傍までやってくるや、愛娘の身体を抱き締めながら割れた窓を凝視する。

 そしてフィアは、花中と玲奈を覆うように()()()を展開した。

 フィアの能力によるものだ――――何度もフィアの力を見てきた花中はそれを察し、故に突然の『怪奇現象』を理解しようと目を丸くする玲奈や栄よりも、強い驚きを覚えた。確かにフィアは自らの能力が人間にバレる事を恐れていないが、しかし無闇に力を見せ付ける事だってしない。

 能力を使うからには、何かしらの『危機』が迫っているという事。

 その危機とはきっと、ガラスを割って室内に侵入してきた『私服姿の男達』なのだと花中は察した。

 現れた男は全部で五人。庭へと通じるガラス戸だけでなく、小窓なども粉砕してリビングに入り込んできた。男と呼べたのは、彼等がフルフェイスのヘルメットのような、顔を隠す物を着けていなかったがため。彼等の顔立ちはアジア系のように見えたが、中には中東系の顔立ちもあった。年頃は三~四十代。身体付きは全員屈強で、身体能力の高さを窺わせた。

 一瞬にして侵入者の情報を花中は認識する。尤も、認識したところで動けるかどうかは別問題。

 男達が手に持つ物体……銃器の先が自分の方を向けば、それだけで頭の中は真っ白になってしまった。

「ひっ……!?」

「っ!」

 悲鳴を上げる花中を、玲奈は強く抱き締める。例えどんな災厄からも、娘だけは守らんとするように。

 そんな花中達に銃口を向けたまま、男達はなんの容赦もなく銃の引き金を引く。パパパパパッ、と軽薄な音が部屋の中を満たした

「ええい五月蝿いっ」

 のも束の間、フィアはその指先を男達に向けた。

 直後、パンッ、と何かが弾けるような音が五回鳴り響く。

 すると男達は、仰け反るようにして次々と倒れていった。倒れた後はピクリともせず、そのまま床に寝転がる。銃撃を仕掛けてきた男達は、ものの数秒で黙らされた。

 あまりにも呆気なく無力化され、事の顛末に気付いた玲奈も驚くより呆けた様子。というより、何が起きたのかも分かっていないに違いない……花中ですら、フィアが『水弾丸』で男達の頭を撃ち抜いた ― とはいえ床に血溜まりも出来ていないので、衝撃で頭を揺さぶっただけだろうが ― ぐらいしか分からないのだから。

 しかし花中達を包んでいた水の膜が解かれた以上、少なくともフィアは男達の事をもう脅威だとは思っていないらしい。

「さぁてお邪魔虫は退治しましたし晩ごはんを再開するとしましょうかね」

 でなければ、如何に能天気なフィアでもこうは言うまい。とはいえその言葉に納得出来るのは花中だけ。

「いやいや!? なんですか!? なんなんですか今のは!?」

 栄のように答えを求めてしまうのは、極めて自然な反応だろう。

 しかしフィアからすれば何もかも終わった訳なのだから、栄が何を気にしているのか理解出来ない。肉の塊を齧りながら、フィアはキョトンとしていた。

「? 何か気になる事でも?」

「気になるも何も、こ、この人達誰なんですか!? いきなり、銃で撃ってきて……そ、それにさっきの水! アレもいきなり現れて、玲奈さんと花中ちゃんを包んで……!」

「この人間達については私も知りませんよ。水の膜については花中さんを守るために私がやりました」

「な、え、えっ?」

 あまりにもあっさり、隠す素振りもなく自分の仕業だと打ち明けたからか。栄は怯んだように身を仰け反らせる。ついでに花中も「あ、栄さん、フィアちゃんの水球に入れてもらえなかったんだ」と今更分かり震えた。恐らく面倒臭いだとか忘れていただとかの理由で、なのだろう。あの銃撃で栄が無傷だったのは、なんとも幸運な話である。

 なんにせよフィアの能力を見られてしまった今、なんの説明もしない訳にはいくまい。どう話せば良いか、花中は考え込もうとする。

「栄、今はそこを気にする時じゃないわ」

 その苦労を一時保留に出来たのは、玲奈のこの一言のお陰だった。

「で、でも、玲奈さん!?」

「フィアちゃん。あなたには水を、なんらかの方法で操る力があるって事で良いのかしら?」

「ええそうですよ」

「じゃあ、今は追及する必要なんてないわ。もしもフィアちゃんがあの水を操っていた訳じゃないならちゃんと出所を調べないとだけど、フィアちゃんがやったのならなんの問題もない。まだちょっとしか付き合っていないけど、でもこの子が悪い子じゃないのは栄も分かるわよね? だったら詳細は後で良くないかしら?」

 玲奈に宥められ、栄は口を噤んだ。出会って一日しか経っていない自分の友達を、そこまで信用してくれた……嬉しさから花中は少しだけ口許を弛める。

「それに、今はコイツらの調査が最優先事項よ」

 ただし笑みを浮かべていられたのは、母の極めて真っ当な意見を聞くまでの話だ。

 私服姿の男達は、未だ倒れたまま。動き出す気配はない、が、もしかするとこちらの油断を探っているのかも知れない。迂闊に近付くのは勿論、放置するのも危険である。

「あの、フィアちゃん。あの人達、縛っちゃって、くれる?」

「りょーかいでーす」

 花中はフィアに頼み、水触手で身動きを封じてもらう。ついでに銃をへし折り、服の中に隠されていたという刃物も粉砕してもらった。これで背中から撃たれる心配はない。一安心し、花中は一息吐いた。

 玲奈も男達が無力化されたのを確認し、安堵したのだろう。僅かに警戒心を弛め、今まで抱き締めていた花中からほんの少し離れた。

「……花中。念のために訊くけど、こんな奴等に絡まれる心当たりはないわよね?」

 次いで、本当に念のためといった様子で尋ねてくる。

「うん、ないよ。一応」

「そうよね……えっ、一応?」

「あ、うん。えっと、なくはないけど……みんなフィアちゃんがどれだけ強いか知ってるから、返り討ちに遭うと分かって攻め込んでくるとは思えないし」

「そ、そうなの……え、何。私達が留守にしている間に、うちの子なんかとんでもない事に巻き込まれてるの……?」

 だからこそ、花中(愛娘)からの返答に戸惑いを覚えるのだろうが。頭を抱えながらぶつぶつと呟く姿を見ると、心配させてしまったと花中は少々申し訳ない気持ちになる。

 されどここは正直に話さねばなるまい。

 両親が海外出張中の三年、正確にはフィアと出会ってからの一年半の間、花中は様々な組織と遭遇してきた。世界の支配者、米軍、DCE、製薬会社アスクレピオス……時には協力する事もあったが、割と彼等の為す事を引っ掻き回し、邪魔してきたという自覚はある。個々の事例は決着が付いても、その内面まで一区切り付いたとは言えない。襲撃を受ける可能性は十分にあった。

 可能性がある以上、それはないと否定する事は判断の誤りを生む。真実を見極めるには、フェイクの情報が混ざっていてはならない。

 ……母に何かしらの心当たりがあるようなら尚更だ。先の訊き方から、玲奈には襲撃される『当て』があるように花中には感じられたのである。

「……分かった。それについても、後で詳しく訊くからね?」

「うん、分かった。ちゃんと話す」

「良い子。さて、だとするとコイツらは本当に『奴等』なのか……フィアちゃんは何か心当たりがない?」

「さぁ? さっぱり分かりませんね」

 玲奈からの問いに、フィアは首を傾げながら即答する。花中からすれば予想通りの答えであり、あまり落胆はしない。だよねー、と思いながら力の抜けた笑みを浮かべた。

「分からないならコイツらの仲間に訊けば良いんじゃないですかね? なんかあっちにたくさん集まってるみたいですし」

 まるで些末事であるかのように、フィアが何処かを指差しながらこう答えるまでは。

 花中は背筋が凍るような、強い恐怖を覚えた。銃を持った正体不明の輩が家の周りに居ると聞かされたのだ。不安にならない訳がない。

 しかし玲奈と栄は違った。

 フィアの指が示す方角に目を向けた途端、二人の顔付きが険しくなる。その先にあるものに心当たりがあり、同時に同じ答えに辿り着いたかのように。

 ただし二人の動きには差があった。玲奈は明らかに考え込み、思考を巡らせていた。最善手が何かを探るための思索であると、娘である花中の目には映る。

「わ、私、ボックスを確保します!」

 対して栄は、考え込む前に動き出していた。

 感情に従ったかのような、間髪入れない行動。危険な集団が近くに居る最中の行動としてはあまりに短絡的だ。

「――――待ちなさい!」

 玲奈も花中と同じように思ったのだろう。すぐに栄を呼び止める……が、栄は振りきるように走り去ってしまう。

 玲奈は花中から跳び退くように離れ、栄の後を追う。花中もフィアにお願いし、お姫様抱っこの状態で玲奈達を追い駆けた。

 栄が向かう先は玲奈の書斎。扉を蹴破るようにして突入していく。玲奈と花中達も数秒後には続けて書斎へと入る。

 栄は、部屋に置かれていた小さな白い箱を持っていた。箱を持った状態で――――背後に立つ、私服姿の男に短銃を突き付けられていた。

「栄っ!」

「れ、れい、玲奈さん……!」

 ガチガチと顎を震わせ、目に涙を浮かべながら怯える栄。背後の男はニヤリと、凶暴な笑みを浮かべた。

 ごくりと、花中は息を飲む。

 フィアに頼んで男を攻撃し、倒してもらうか? 男は三十代前半ぐらいの若さで、推定身長百八十センチ以上の身体は格闘家のように屈強な筋肉に覆われている。しかしフィアからすれば、人間という時点で羽虫のようなもの。倒してもらうだけならなんの苦労もない。

 しかし男は短銃の引き金に指を掛けていた。銃の引き金がどれだけ重いものかは分からないが、指先の力だけで押せてしまう程度の代物だ。フィアのスピードならば人間の反応速度を上回る攻撃など造作もないが、ダメージを受けた拍子に指が動いて、パンッ……なんて事もあり得る。

 動くにはまだ早い。花中はぐっと押し黙り、花中からのお願いもないのでフィアも動かない。

 唯一、玲奈だけが一歩踏み出す。

「探す手間が省けたわ……あなた達の目的は何?」

「既に察しが付いているんだろう? 俺はあまり気が長い方じゃないんだ。七面倒な問答をする気はない」

「……OK、分かった。暗証番号は77317757よ。カードキー認証は必要ないから、そのままボタンを押しなさい」

 玲奈は両手を上げながら、八桁の数字を口早に告げる。男は栄を小突き、栄は泣きながら頷くとその手にある箱を弄る。カチカチと音が鳴っている事から、何かしらのボタン操作をしているらしい。

 やがて九回目のボタン操作 ― 恐らくは決定ボタンか ― を終えると、カチャン、と箱から鍵が外れるような音が鳴った。すると箱の蓋が自然と開き、栄はその中身を震えたような手で取り出す。

 現れたのは一つの、標本。

 小さな針先に白い紙が貼り付けられており、その先に標本らしき虫が乗っていた。サイズが小さ過ぎる事と、栄から少し離れた位置というのもあって、花中にはそれがどんな虫なのか全く分からない。

 しかし、何故だろう。

 その虫の『死骸』が、途方もなく恐ろしいもののような気がするのは……

「念のために訊くわ。それがどんなものか分かってる? もしもただなんとなくとか、私達が回収してるからとか、そんな理由で欲しがっているのなら、今すぐそいつを箱の中に戻した方が良い。これはお願いじゃないわ、忠告よ」

 花中が怯える最中、玲奈は男に語り掛けていた。言葉遣いと口調から、娘である花中には分かる。母は本当に、忠告としてその言葉を告げていた。

 母は何を知っている? あの小さな、何が付いているかもよく分からない標本は一体なんだ? この男の目的を知れば、少しは答えに近付けるのか?

 花中の脳裏に、無数の疑問が過ぎる。少しでも疑問を解消したく、花中は無意識に男の言葉に意識を集中させた。

 故に、花中の思考は一旦止まる。

「ええ、勿論分かっていますよ。あなたに教わりましたから」

 何故なら答えたのは、()()()()だったから。

 次の瞬間、襲い掛かるは息も止まるほどの寒気。

 フィアはつまらなそうに鼻を鳴らすだけで、淡々と現実を受け入れている様子だが、花中にはとても出来ない。玲奈もその顔を真っ青にしていた……人一倍臆病な花中よりも、ずっと色濃く。否定するように唇を震わせ、後退りする。

 まるでそんな人間達の信頼を嘲笑うように。

 獰猛で、醜悪で、我欲に塗れた……人の持つあらゆる悪意を詰め込んだような、微笑みをそいつは浮かべた。

()()はちゃんと目的を持って、コイツの奪取を企てました。あまり見くびらないでくださいね?」

 そしてそのようなおぞましい笑みを浮かべながら、頭から銃口を退かされた栄は、平然と答えるのだった。




裏切りは人類の嗜み。

次回は7/13(土)投稿予定です。

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