彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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輪廻拒絶9

「ギィオオオオオオオッ!? ギィ! ギイイイイイイイッ!?」

 苦しげなイノシシの断末魔が工場内、いや、町中に響き渡る。

 その苦悶の叫びは魔獣を彷彿とさせ、聞く者全てに恐怖心を植え付けるだろう。間近で聞いた加奈子も、その叫びが禍々しい……何か、この世のものとは違う存在のように思えてならない。

 同時に、とても苦しそうだとも。

 イノシシは今、タンクの『中』に居る筈だ。彼は倒れてきたタンクの下敷きとなり、その身の頑強さを思えば、タンクの外壁を突き破ってしまう事は十分あり得るのだから。今頃全身が廃液……強酸だか強アルカリだかの液体に浸り、肉を溶かされているに違いない。もしも痛覚があるなら、きっと気が狂うほどの痛みを感じる筈だ。

 このイノシシが、何故人里に現れたのかは分からない。世界中で出没している怪物の仕業か、それとも環境破壊の影響か、或いは偶々なのか……イノシシに訊いても、答えてはくれないだろう。もしかするとイノシシ自身、よく分かっていないかも知れない。

 間違いないのは、少なくともこんな苦しい『死に方』をするとは思っていなかった事だけだ。

「……加奈子、離れよう。これ以上は」

 田沼が離れるように促すが、加奈子は首を横に振った。自分の決断が彼の命を奪ったのだ。ただの感傷であるのは分かっているが、それでも最期まで見届けたい。

「ブギ、ギボ、ボゴ、ボボボボ……」

 イノシシの声はやがて聞こえなくなる。タンクから漏れ出て、月明かりに照らされた廃液の色に赤黒いものが混じるようになった。

 ……それからしばし待てど暮らせど、イノシシがタンクを粉砕し、中から現れる様子はない。

 加奈子は崩れるように、その場にへたり込んでしまった。

「あ、あれ? 足に、力が……」

「落ち着け。緊張が解けたんだろう、慌てるような事じゃない」

「あ、ああ、そっか。そうなんだ」

 自分が緊張している事すら忘れていた――――その事実がおかしくて、加奈子は引き攣った笑いが漏れ出てしまう。

 だけどその引き攣った笑いは、やがて本当の笑みへと変わった。そして笑みを浮かべたまま、大粒の涙が零れ始める。

「あ、あれ? なんで、私泣いてんの? あれ?」

「……加奈子」

 戸惑う加奈子を、田沼はそっと抱き締めてきた。一瞬ドキリとする加奈子は、やがて顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を漏らす。

 泣き出すのに、時間は掛からない。

 イノシシの雄叫びが消えた町に、今度は、か弱い少女の泣き声が響くのだった。

 ……………と、そのまま衝動的に泣き続けようとする加奈子だったが、そうもいかないと我に返る。イノシシの叫びは聞こえなくなったが、それは彼の『絶命』を意味しない。あのモンスターは脳みそをぐちゃぐちゃにされようとも復活する、正真正銘の怪物なのだから。もしかすると実はまだ生きていて、ダメージの大きさから復帰に時間が掛かっているだけかも知れない。『死体』が確認出来ない今、感情のまま泣き叫ぶのが正解かは分からないのだ。

 何より、

「あらあら、お邪魔だったかしら?」

 『友達』にこの姿を見られたらと思うと、途端に恥ずかしくなってきた。

 涙を拭うのも忘れて声がした方へと振り向けば、そこには何時の間に現れたのか、喪服のような色合いのワンピースを身に纏う少女……ミリオンの姿があった。

「っ!? ミリきち!?」

「はぁい、約束通りやってきたわよ」

「……誰だ?」

「えっと、友達、というか助っ人?」

「ええ、イノシシ退治に来ました」

 友達と紹介されたミリオンを、田沼は怪訝そうな眼差しで見つめる。彼からすればミリオンは初対面のみならず、不気味な廃工場に突如として現れた不審者だ。おまけに見た目は華奢で可憐な女性である。人食いイノシシどころか野良犬にすら勝てそうにない。田沼がミリオンの『イノシシ退治』発言を信用出来ず、警戒心を抱くのも無理ない事だ。それにミリきち、全体的に胡散臭いというか怪しいし……などと加奈子も思う。

 しかしミリオンが人間の視線を逐一気にしない事も、一応友人である加奈子は知っていた。ミリオンは嫋やかなような、そうでもないような、気味の悪い笑みを浮かべるばかり。

「ま、私を警戒するのならご自由に。それよりも……アレ、まだ生きてるわよ」

 そして加奈子達の後ろにある壁の穴――――廃液保管庫を指差しながら、淡々とそう述べた。

 瞬間、まるで爆弾でも起動したかのような、空気を震えさせる破裂音が轟く。

 突然の破裂音。勿論加奈子、その加奈子の傍に居る田沼も驚きで目を丸くした。されどこんな音ぐらいでは、最早彼女達は顔を青くなどしない。

 加奈子達を震え上がらせたのは、その音が自分達の背後から聞こえてきた点である。

「……いくら、なんでも……」

 加奈子はガチガチに強張りながら、無意識に背後を、廃液保管庫が見える大穴へと振り返る。

 そこには、一匹の白い獣が立っていた。

 加奈子は一目見た瞬間、こう思った。「なんて綺麗なんだろう」と。引き締まったボディは一部の無駄もなく、完璧な……そう、本能的に完璧であると察してしまうほどに整っていた。体毛を持たず、皮膚は血管が浮き出ている影響からかほんのりと青みがかっている。顔は特徴的な豚面なのに、神々しさすら感じられるほど凜々しい。赤く染まった瞳は心の全てを見透かすようで、それを不快に思う事すら出来ない。

 恐怖は感じない。嫌悪も、憎悪も、抱けない。負の感情が浄化され、消されていく。

 その獣が廃液漬けから復活した人食いイノシシである事は、明白だというのに。

「……ゴアアアアアオオオオオオオオオンッ!」

 発せられた咆哮は、荘厳な教会にある鐘のよう。

 イノシシは軽やかに跳び、加奈子達が立つ大穴まで一瞬で登ってきた。あまりにも簡単に登るものだから、加奈子は人食いイノシシが目の前にやってきても呆然としてしまう。田沼も呆けたように動かない。

 対するイノシシは、打ちのめされた人間達の気持ちなど気にも留めない。パキパキと全身の肉を鳴らし、その身に力を蓄える。

 そこまでイノシシが準備を終えて、加奈子はようやく我に返った。眼前の生命体がどれほど美しくても、その本質が人食いのモンスターである事も思い出す。しかし何もかもが遅い。

 イノシシは加奈子達目掛け走り出す。走り出したが、加奈子はその動きに反応出来ない。反応出来るような加速ではなかった。田沼もまた微動だにしない有り様。

 だから加奈子と田沼は、迫り来るイノシシを見つめるばかりで。

 ――――しかし二人の身体に、天国へと導くほどの衝撃がやってくる事はなかった。

「ほら、何をボケッとしてるのよ」

 呆れるような女性の声が、加奈子の()()()()聞こえてきたのだから。

 加奈子は無意識に、驚くように目を開ける。

 ミリオンは、瞬きする間もなく加奈子とイノシシの間に移動していた。それだけでも驚きだが、彼女は加奈子達に襲い掛かってきた人食いイノシシの牙を片手で掴み、その動きを止めていたのだ。

 これにはイノシシも驚いたのか、半狂乱になったように暴れる。しかし牙を掴むミリオンの手はビクともしない。進む事はおろか逃げる事も叶わず、イノシシはその場でジタバタと暴れる事しか出来ないでいる。激しく暴れるものだから周囲の床が粉砕され、飛び散り、破片が加奈子の頬を叩いた。

「……はっ!? え、な、なん、だ……!?」

「ふぅん、思ったよりも力はあるのね。とはいえこの程度じゃ暇潰しにもならないけど」

 ようやく田沼も我に返ると、ミリオンを見るや驚き、そのミリオンが止めているイノシシを見て更に驚く。ミリオンは田沼に嫋やかな微笑みを返すが、片手でイノシシを受け止める姿に可憐さなど微塵もない。意味不明な光景に、田沼は目を白黒させる。

 呆然とする人間二人であったが、捕まっているイノシシの方は必死だ。延々と暴れ、のたうち、なんとかミリオンの拘束から逃れようとする。コンクリート製の床を激しく蹴り上げる音は、まるで航空爆撃でもされているかのよう。

「流石に五月蝿いわねぇ。ちょっと静かになさいなっと」

 その暴れる音が耳障りだと告げるや、ミリオンは牙を掴んでいた手を開いた

 瞬間、平手打ちをお見舞いする!

 出鱈目な速さで繰り出された平手打ちは、イノシシの顔面からベキベキと不気味な音を奏で、イノシシの身体を吹っ飛ばした。まるでボールのように飛んでいく巨躯は、積み上げられた荷物を吹き飛ばし、備品倉庫の壁をも貫通。濛々と粉塵を巻き上がらせる。

 まるでバトル漫画のワンシーンのような、出鱈目ではちゃめちゃな光景。加奈子と田沼は目をひん向きながら呆けたように立ち尽くす。

 あれ? 助けに来てくれたのって、ミィちゃんだったっけ?

「み、ミリきち……だよね?」

「何よその質問。もしかして、今の怪力は猫ちゃんレベルとか思ってない? 失礼しちゃうわね、私はちゃんとした女の子なんだからあんな怪力野生動物と一緒にしないでよ」

「ちゃんとした女の子は、イノシシを平手でぶっ飛ばしたりはしないと思うんだけど?」

「あら、心はちゃんと女の子よ。それだけあれば十分でしょ?」

 加奈子のツッコミをさらりと流すミリオンだが、その視線は加奈子の方を向いていない。

 見つめる先は、自身が吹っ飛ばしたイノシシによって開けた大穴。

 その大穴の中から、まるで地響きのような重低音が鳴る。最早獣の雄叫びを超え、大地の唸りにも思えるその音は、徐々に近付いてきていた。ごくりと、傍に居る田沼が息を飲んだのを、加奈子の耳はしかと聞く。

 やがて大穴の中から、イノシシが顔を出す。

 化けの皮が剥がれた、とでも言うべきだろうか。先程まで神々しいとすら思えた姿は、既に変わり果てていた。血管がぼこぼこと浮き上がり、筋肉が膨張している。全身の骨格が変化したのか、肩や頭の周りが変形して鎧のように盛り上がっていた。相変わらず肌は青白く、目は赤いが、最早そのぐらいしか先程までの特徴はない。

 大きく開いた口にある舌も、まるで腕のように太く、それ故に不気味である。

 尤も――――その舌が弾丸のような速さで伸びてくるとは、思いもしなかったが。

「よっと」

 加奈子(人間)の目には映らぬ速さで飛来した舌を、ミリオンは易々と殴り返す。気付いた時には攻防が終わっており、加奈子は自分の身に起きた危険を後から察するも、背筋が凍るような現実味を感じられなかった。

 イノシシの舌は一旦縮むや再び加奈子の目に見えない ― しかし顔に当たる風圧から、間違いなく先程より速くなっていると分かる ― 速度で打ち出すも、ミリオンは簡単にそれを殴り返す。攻撃と防御は瞬きする間に何十と繰り返され、やがてイノシシは舌を口の中に戻した。

 やはり強くなっている。このままどんどん強くなれば、ミリオンさえも手に負えなくなるのではないか?

「み、ミリきち! 早く倒さないと……!」

「んー、面倒臭いわねぇ。そろそろ終わりそうだし、こっちから手を下すまでもないと思うのだけど」

「め、面倒臭いって、何言って……終わりそう?」

 まるでやる気を出さないミリオンに焦りを覚えたのも束の間、加奈子はミリオンの言葉に違和感を覚える。

 終わるとはなんの事だ? 倒すつもりもないのに何が終わる?

 脳裏を満たす疑問の言葉の数々。されどミリオンはその答えを語らない。

 語らずとも、答えは見れば分かるものだった。

「ギ、ギギ……ギ……」

 唐突に聞こえてくる、弱々しくも苦しそうな獣の鳴き声。

 イノシシの声だ。見れば先程まで弾丸並の速さで舌を繰り出していた彼は、何故か今はピクピクと痙攣するように震えている。赤かった目は段々と白く濁り始め、開けっ放しになった口から透明な涎が壊れた蛇口のように零れていた。

 そして膝を折り、力なく倒れ伏す。

 ……イノシシが動き出す気配はなかった。

「……え? し、死んだ?」

「いや、待て。その、寝てるだけかも知れない」

 困惑する加奈子に、田沼はあくまで警戒を促す。が、彼の言う事も少しおかしい。加奈子達という栄養満点な餌と、ミリオンという恐ろしい敵を前にして、どうしていきなり眠りこけるというのか。

 つまるところ人間達には訳が分からず混乱していたのだが、その様を見てミリオンがくすくすと笑う。人間を侮辱するようではなく、幼子が混乱している様を見て微笑ましく思うような笑い方だった。

「心配しなくても大丈夫よ。アレ、もう本当に死んでるから。蘇生の可能性もないわね」

「……どういう、事だ?」

「実際に見てきたら?」

 怪訝に思う田沼に、ミリオンはどうぞと言いたげにイノシシに手を向ける。

 田沼は一瞬の躊躇いを挟みつつ、こくりと頷き、動かなくなったイノシシに歩み寄り始めた。

 ミリオンが嘘を吐いている、とは加奈子も思わない。しかしミリオンは人間の命をかなり軽んじており、もしかすると『なんとなく』で言っているのではないか……そんな不安も脳裏を過ぎった。何より幾度も死を覆してきたこの怪物が、何もしていないのにいきなり死ぬなんて信じられない。

 田沼はイノシシの傍に立ち、調べ始める。目を見たり、身体を弄るように触ったり、口許に触れたり。これらの行為がどんな意図で行われているのか、これで何が判明するのか、加奈子にはよく分からない。ただ一秒でも良いから早く、何事もなく終わるよう加奈子は祈り続け――――

「……確かに、死んでる。多分、復活もしない」

 やがて田沼は、そう結論付けた。

 田沼の答えは、しかしこれでも加奈子の不安を拭いきる事は出来なかった。脳を破壊されても生き、腐った血で動いていた存在なのだ。どうして復活の可能性がないと言えるのか。

「な、なんで、生き返らないって、分かるの?」

「そりゃ、まぁ、こんな状態だからな」

 堪らず加奈子が尋ねると、田沼はイノシシの顔を掴む。

 それから力強くイノシシの面の皮を引っ張ると、ずにゅりと粘着質な音を鳴らしながら、イノシシの皮が顔から剥がれた。

 いきなりの、加えてショッキングな光景に、加奈子は「ぴゃあっ!?」と可愛らしい悲鳴を上げながら尻餅を撞く。あまりに乙女らしい驚き方だったからか、ミリオンと田沼は揃って笑い始めた。驚きや恐怖の感情はすぐに引いていき、加奈子の胸のうちを羞恥心が満たす。

「ど、どういう、事?」

 羞恥心を誤魔化すように、加奈子は田沼に説明を求める。田沼は、動かなくなったイノシシを撫でながら話した。

「腐り始めている。血だけじゃなくて、全身の筋肉がな。触ってみたが、何処も水みたいに溶けているようだ。肉体そのものが崩壊してるのだから、復活出来るとは思えない。万一ここから復活したところで、ろくな筋力は発揮出来んだろう……死なない怪物に人間の常識が通用すれば、の話だがな」

「そう、なんだ……」

 田沼の説明を受け、加奈子はようやく安心を抱けた。筋肉がどろどろに溶けているのなら、確かに復活しても恐ろしくなさそうだ。自分の拳でも勝てそうな気がする。

 しかし安心すると、今度は疑問がふつふつと沸き上がってくる。

「……それにしても、なんでいきなり死んだのかな? あと、どうして生き返るなんて事が出来たのかな?」

「それは流石に分からんな。大学の研究所で調べれば、何か分かるかも知れんが」

 加奈子の質問に、田沼は肩を竦めて降参する。もし田沼に分かるなら、とうに説明しているだろう。田沼に分からないのは予想通りだ。

「だから最初から言ったじゃない。人間でもそのうち倒せるって」

 加奈子が答えを期待したのは、イノシシの『敗北』を想定していたミリオンに対してだった。加奈子は既にこの答えを知っていたが、初耳である田沼は顔を顰める。

「……どういう事だ?」

「簡単な話よ。このイノシシ、死ねば死ぬほど強くなったのよね?」

「ああ、少なくともそう見えたな」

「多分、死ぬ度に肉体の組成を変化させたんでしょうね。より馬力があって、頑強なものに。でも、世の中ってのはそう簡単じゃない。力が強くなるとね、デメリットも生じるの」

「デメリット?」

「人間と同じ話よ。筋肉量が多い人は基礎代謝が高くなるのは知ってるかしら? じゃあ車を投げ飛ばし、コンクリートの壁を粉砕するほどの筋力……これを維持するのに、どれだけのカロリーが必要だと思う?」

 ミリオンの遠回しな答えに、加奈子と田沼はハッとなる。

 最初この人食いイノシシは、人間の皮と皮下脂肪、それから内臓を食べていた。電話した花中曰く、これは高カロリーのものを効率的に食べるための方法。出会った時から、人食いイノシシはエネルギーを求めていた。

 それから、彼はどれだけ強くなったのか。最初ですら、贅沢にも思える食べ方をしなければならなかった。公民館を襲撃した時には、内臓を一気に吸い込んで食べる方法を編み出していたが……それは馬力が上がった事で効率的に食べられるようになったのではなく、最早ちんたら食べる暇すら惜しんでいたのかも知れない。

 恐らく公民館での復活時点で、かなりギリギリの身体能力だったのだろう。何十もの人々の内臓を喰らいながら、それでもエネルギーが足りぬほどなのだから。しかしその後加奈子の計略により一回、ミリオンの攻撃によりもう一回……もしかすると廃工場に来るまでにも警察や猟師の手により更に一回……死んだ。復活する事で大きなパワーアップを経た、が、その身体能力は膨大なエネルギーを必要とする。それこそ、ほんの数分で全身のエネルギーを使い果たすほどに。

 即ち人食いイノシシの『死因』は――――餓死である。

 ここでようやく、ミリオンの言っていた事の意味が加奈子にも分かった。軍事攻撃で跡形もなく吹き飛ばせればそれで勝ち。その攻撃を耐え抜き劇的に戦闘能力が向上しても、エネルギー収支が釣り合わなくなるので餓死。その状態に陥るまで殺せなくても、人間達が一斉に逃げれば餌がなくなるのでやっぱり餓死。

 人間の勝利は約束されていたのだ。そこに至るまで、どれだけの屍を積み上げるかは別にしても。そして身体からエネルギーが枯渇したのなら、復活の可能性は全くないだろう。ガソリンの切れた車は、どれだけアクセルを踏んでも動かないように。

 本当に、心の底から安心を感じ、加奈子は力なくその場にへたり込む。足腰に力が入らず、立ち上がれそうにない。しかし身体に満ちる脱力感が今は心地良く、無理に立とうという気にもならなかった。生きている、生きていられる喜びに加奈子は蕩けきった笑みと涙を浮かべる。

 対して田沼は、まだ警戒を弛めていない。

 今の彼が見つめるのは、人食いイノシシを片手でいなしたミリオンであった。

「……死んだ理由は分かった。なら、復活した理由はなんだ? 俺も長年猟師をしているが、こんな……死んだと思ったら蘇って、死ぬ前より強くなった動物なんて話は聞いた事もない」

「んー、そっちの方も予想は付いてるけど……あくまで予想だから、今は話さないでおくわ。もうちょっと調べないとね」

「そうか」

 ミリオンが話を拒否すると、田沼はさして追及もせずに諦める。されどその目に、落胆や不信はない。

 あるのは、真実を見極めようとする『ハンター』の信念。

「なら最後の質問だ。お前は、なんだ? 人間じゃないようだが」

 そして田沼は、ミリオンの正体を問う。

 田沼からの単刀直入な問いに、ミリオンはすぐには答えない。代わりにニタリと、歪んだ笑みを浮かべた。文字通り耳許近くまで口が裂けるなど、人間の口に出来る事ではない。

 明らかな人外ぶりを発揮してから、ミリオンは裂けた口をゆっくりと開き

「ええ、人間じゃないわ。その気になれば人類ぐらいは簡単に滅ぼせる、恐怖の大魔王様よ」

 発した言葉は冗談混じりの、されどきっと事実であるものだった。

「……恐怖の大魔王様、ねぇ」

「安心なさい。人間を滅ぼすなんて、そんな面倒臭い事やらないから。お気に入りの小説の続きが読めなくなっても困るし」

「ちなみに、加奈子の事はどう思ってる?」

「優先順位は高くないけど、暇ならこうして助けに来てあげるぐらいには好んでるつもりよ」

 田沼の問い掛けに、ミリオンは平然と、お世辞のない答えを返す。

 ミリオンのスタンスを理解している加奈子は「まぁ、そういう答えだよねー」としか思わない。田沼はしばし考え込んでいるのか沈黙していたが、やがて大きなため息を吐いた。

「人間に敵意がないのなら、俺から言う事はないな。敵意があったところで、あのイノシシをぶん殴れるような奴に勝てるとは思えないが」

「あら、懸命ね」

「そうでなきゃ猟師はやれん。若くて馬鹿な猟師と、年老いて賢い猟師はいるが、年老いて馬鹿な猟師はいないってやつだ」

「大変説得力のある自画自賛ねぇ」

 楽しげにミリオンと田沼は話を交わす。田沼の例え話がどんな意味を持つのか加奈子には分からないが、二人が楽しそうなので良しとする。やはり楽しいのが一番だと、加奈子も二人の雰囲気の中に入り込もうとした

「あっ……あああーっ!?」

 直後、ふと思い出し、大声を上げてしまう。

「……どしたの?」

「き、気付いてしまった……」

「何を?」

「晴ちゃんを励ますパーティーを開くために用意した魚、コイツの所為でおじゃんになってるじゃん!」

 ビシッ! とイノシシの亡骸を指差しながら、加奈子は憤怒の表情でイノシシを睨み付ける。

 そう、加奈子は元々晴海を元気付けるパーティーをするため、釣りをしていた。

 釣り上げた魚はクーラーボックスに入れてあり、川から家へと帰る際田沼の車に積んでおいた……が、その車は人食いイノシシによってひっくり返され、その後は放置。クーラーボックスもあの騒動でひっくり返り、中身をぶちまけていてもおかしくない。

 十一月に入り気温はかなり低くなっているが、夜でも十度前後はある。夕方からの数時間常温で、しかも洗浄されていない環境に放置された川魚を食べるのは、流石に怖い。

 つまり加奈子が釣り上げた魚達は、十中八九食用にならないという事だ。

「あー……そういえばそうだな。まぁ、命あっての物種と言うし、お前の腕前ならまた釣れば良いだろ」

「そうだけどぉ、そうだけどぉ!」

「なぁに? なんかパーティーやりたかったの?」

「うん。晴ちゃんち色々大変みたいだから、パーティー開いて、食費浮かしながら励ませたらって思って……」

 憤りの感情のまま理由を明かし、されど段々意気消沈してきた加奈子の声は少しずつ小さくなる。

 確かに、もう一度釣りに行けば良い。何も今日の釣りで、泥落川の外来魚を根絶した訳ではないのだから。しかし一度得たものを失うというのは、物凄い徒労感を覚えるものだ。

「なんだ、それなら丁度良いのがあるじゃない」

 そんな加奈子の気持ちを知ってか知らずか、ミリオンは大して共感した素振りもなく、ある一点を指差しながら提案する。加奈子は殆ど無意識に、ミリオンの指先を目で追った。

 すると見えるのは、倒れ伏したままのイノシシ。

 ……ちらりちらりと、指先を確認したが、何度見てもミリオンが指し示す方にはイノシシしかいない。田沼も眉間に皺を寄せ、まさか、と言いたげに口許を引き攣らせる。

 しかし指差す少女は人間にあらず。

「此処にあるじゃない。パーティーを開くのにもってこいのものが」

 ミリオンはなんて事もないかのように、さらりと答えて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「という訳でイノシシ鍋パーティーを始めまーす!」

「待って待って待って待って」

 よく晴れた日曜日の昼間。加奈子が満面の笑顔を浮かべながら宣言したところ、顔面蒼白な晴海が引き留めた。

 人食いイノシシが町を襲ってから早数日。一時はそこそこ大きな ― テレビ報道されるぐらいには ― ニュースとなったが、二日後台湾に現れた体長百五十メートルのウミウシっぽい生物に話題を掻っ攫われて、町はすっかり平穏を取り戻している。

 無論、亡くなった人々の遺族達の悲しみは未だ癒えない。壊された家などの被害も甚大だ。そういう人達からすれば、友達を集めてパーティーというのは暢気を通り越して不謹慎に聞こえるかも知れない。

 しかし加奈子は、このパーティーで元気付けたい人がいた。ならば何故躊躇い、止める必要があるのか。共に悲しみに暮れるよりも、一緒に『楽しく』ある方が良い。

 だから加奈子はパーティーを自分の家のリビングにて開いた。

 ……のだが、一緒にテーブル席に着いている元気付けたい人(晴海)から待ったが掛かった訳で。

「ちょっと晴ちゃーん、もっとノリノリでいこうぜー?」

「いや、ツッコミどころあり過ぎなんだけど? まずアンタ、あの人食いイノシシに襲われてたの? あたし、その話今日が初耳なんだけど?」

「うん、そだよー。話したのは今日が初めてだし、そりゃ初耳だよね。いやぁ、あの時はマジで死ぬかと思ったよ! まぁ、足の怪我は浅くてその日のうちに塞がったし、ミリきち診断で感染症もないって話だったから、次の日普通に学校行けたけどねー」

 加奈子はけらけらと笑いながら、何事もなかったかのように肯定。更に裏話をあっさりと明かす。晴海は何か言いたそうに口をぱくぱくと喘がせ、頭が痛むのか額に手を当てた。

 晴海には今し方、人食いイノシシ騒動で自分が体験した事を加奈子は話した。パーティー開催を志した理由だけはぼかしたが、それ以外は覚えている限り正確に語っている。ちなみに数日前の出来事を今になって話したのは、友達を心配させたくなかったから……ではなく、パーティーの時に思いっきり仰天させたかったからだ。

「あの時は、すぐに助けを送れず、申し訳ありません……」

 そして同じく話を聞いていた花中 ― メンバーは多い方が良いと思い、誘っておいた。無論お礼も兼ねている。ちなみにフィアとミリオンもパーティーには参加している ― が深々と頭を下げた。

 加奈子的には自分の事なので、例え助けてもらえず死んだとしてもミリオンや花中を恨む気などない。大桐さんは真面目だなぁ、などと適当な事を思うだけだ。

 むしろ話の一部始終を聞いた晴海の方が憤っている様子で、鋭い眼差しでミリオンを睨む。尤もミリオンは晴海の視線に気付いても肩を竦めるだけで、まるで堪えていないが。

 険悪なのはごめんだ。加奈子は話を元の、楽しい方へと戻す。

「ほら、そんな事よりお鍋食べようよ! 良い感じに出来てるよ!」

 今日のために用意した『イノシシ鍋』を食べるという、個人的には楽しい方へと。

 テーブルの真ん中に置かれた大きな鍋に注目するよう加奈子は両腕を広げ、思惑通り注視した晴海は口許を引き攣らせる。まるで、おぞましいモノでも見るかのように。

「いやいやいやいや、ちょっと待って。ほんと、待って?」

「どしたの晴ちゃん? そんな挙動不審になって」

「なるに決まってるでしょ!? だって、これ……ひ、人食いイノシシの肉なんて……!」

「んー、そうだとしたら嫌?」

「嫌に決まってるじゃない! だって……」

 加奈子に尋ねられた晴海は反論しようとして、しかし途中でその言葉を途切れさせてしまう。

 人を食ったイノシシの肉……それを食べるというのは、確かに気持ちの良いものではないだろう。かといってそれを『気持ち悪い』というのも、故人に悪い気がする。晴海はそんな板挟みに遭っていると、加奈子は推測した。

 そしてこのような反応は、パーティーをやる前から加奈子も予期していた。大体散々鉛玉を喰らい、工業廃液にどっぷり浸かった獣の肉を食べるのはいくらなんでも危険過ぎる。

「まぁまぁ、晴ちゃん。落ち着いて。流石に人食いイノシシの肉は使ってないよ。いくら私でもそこまで空気読めなくはないし、あとあのイノシシの肉すぐに腐っちゃったし」

 加奈子はあっさりと種明かし。

 晴海は一瞬キョトンとし、それから明らかに安堵したように表情を和らげた。

「な、なんだ。冗談か……じゃあ、これは普通のイノシシって事?」

「いや、流石にイノシシは簡単に捕まえられないよ。だから……」

「だから?」

「これはただの市販の豚肉」

「イノシシですらないじゃない!?」

「えー、似たようなもんでしょ。イノシシを品種改良したのがブタなんだし」

「品種改良したら、大分、食味は変わると、思うのですが……」

 花中からのボソボソとしたツッコミは無視。へらへらと加奈子は笑う。

 イノシシを倒した直後、ミリオンがくれたアドバイスは「自分の生還記念パーティーを開く」というものだった。

 これならパーティーを開く不自然さはない。お高いお肉をたくさん使っても、()()()()()()()となれば誰が文句を付けようか。極々自然に晴海にお腹いっぱい食事を振る舞える。

 成程それは名案だと、加奈子はミリオンのアドバイスを受け入れたのである。招待した時にはただのパーティーとしか伝えていなかったので晴海は怪訝そうだったが、サプライズ効果もあって生還記念パーティーと信じ込んでいる様子。作戦は大成功だ。

「ほら、もう食べようよ。早くしないと冷めちゃうよー」

 加奈子の明るさに押された少女二人は顔を見合わせ、くすりと笑い合う。傍に居た人外二匹もつられるように笑みを浮かべた。

 三人はお椀を持ち、人間の食べ物が合わない二匹は優しげに人間達を眺める。

「「「いただきまーすっ!」」」

 そして人間達は合図なしに、声をぴったりと重ねた。

 各々が箸を延ばし、好きな具材を鍋から取っていく。花中は野菜を、晴海と加奈子は豚肉……花中は慌てて豚肉も取る。食べる時も三人はほぼ同時で、ぱちりと目を開くタイミングまで揃っていた。

「うんっ! 美味しい!」

「凄い美味しいじゃない! え、これ味付けやったの大桐さん!?」

「え? あ、はい。えと、ちょっと手伝った、だけです、けど」

「いやー、ほんと美味しいや。やっぱ慣れない事はしないで上手い人に任せるもんだねーはぐはぐもぐもぐ」

「ちょ、加奈子さっきから肉しか取ってないじゃない! 野菜も食べなさいよ!」

 わいわいがやがやと、賑やかな笑い声がリビングに満ちる。楽しげな会話の中で美味しいものを食べ、みんなが『楽しさ』に満ちていた。

 楽しい会話が元気を生み、元気は食欲を沸き立たせる。普段小食な花中も、今日はもりもりと食べていた。小田家の中で一番大きな鍋を用意したが、その中身はみるみる減っていく。

 時間にすればほんの三~四十分。たくさんの具材で満たされていた筈の鍋は、この短時間で底が見える状態になってしまった。残っているのは数枚の野菜と、小さな肉の欠片だけだ。

「あ……そろそろ終わり、ですね」

「加奈子、おかわりの具材はないの?」

「全部入れちゃったからないよー。うどんとか入れる?」

「んー、それでも良いかなぁ」

 お腹の方はまだまだ絶好調な女子高生三人組。次の食べ物は何にしようかと相談を始めた

 その最中、インターホンの音が鳴った。

 次いでコンコンと、玄関の戸を叩く音が聞こえてくる。どうやら来客らしい。折角盛り上がってきたのに……と思った加奈子は少しだけ眉間に皺を寄せる。

「おーい、俺だぁ。約束よりちと遅れちまったが来たぞー」

 その皺は、玄関から聞き慣れた『初老の男性』の声がした瞬間に消えたが。

 晴海と花中をちらりと見れば、誰だろうと聞きたそうに加奈子の事を見つめていた。フィアは何やら興味深そうに玄関の方を眺め、ミリオンは笑いを堪えている。

 二人の友人の注目を浴びながら、加奈子はあからさまに視線を逸らす。次いでぺろりと舌を出した。

「いやぁー、人食いイノシシの時お世話になった猟師のおっちゃんもパーティーに呼んでたの、すっかり忘れてた。めんごめんご」

 そして今になって、実はメンバーが揃っていなかった事を打ち明ける。

 一瞬の沈黙を挟んだ後、晴海と花中はニッコリと笑みを浮かべ、なぁんだそうなんだーとばかりに頷いた

「って、うぇえええええええっ!?」

「ちょ、ど、どうすんのよ!? もうお鍋殆ど食べちゃったじゃない!?」

 のも束の間、二人は大いに動揺する。自分達が、彼の分の料理も食べてしまった事に気付いて。

 元凶である加奈子はへらへら笑っているというのに。

「いやぁ、どうしよっか? うどん入れておく?」

「い、命の恩人に、残り物を使った、料理を出すのは、流石にどうかと……」

「だよねー。でも豚肉どころか野菜もないしなぁ」

「い、今すぐ買ってくるとか……」

「でも、昨今の品不足を、思うと、もうこの時間じゃ、食べ物なんて、何処も、売りきれて、いるかと……」

「う、うぐぐぐ……ど、どうすれば……」

 晴海と花中は顔を青くしながら、必死に現状を打開しようとしている。

 対して加奈子に反省の色はない。まるで他人事のように落ち着き、目を閉じて考える素振りはむしろアドバイザーのよう。元凶の癖してこの上ないほどふてぶてしい。

 やがてパチリと目を開くや、あたかも妙案が閃いたが如くポンッと手を叩く。

「あ、そうだ。残りも全部食べきって、お鍋は最初からなかった事にしよっか。残り少ないし、三人ならいけるっしょ」

 挙句出てきた『妙案』は姑息な手段という有り様。

 びきりと、晴海の眉間から音が聞こえた、ような気がした。加奈子の勘違いかも知れない。或いは本当に鳴ったのかも知れない。しかしそんなのは些末事である。

 大事なのは、今の一言で晴海の怒りが有頂天に達したという事。晴海と付き合いの長い加奈子は、この後に何が起きるかよく知っている。

 だから加奈子はにっこりと微笑んだ。晴海も額に青筋を立てながら微笑んだ。花中も口許を引き攣らせながら微笑んだ。

「何平然と誤魔化そうとしてんのよこのアホんだらぁっ!」

 そして晴海の鉄拳が、加奈子の脳天にお見舞いされるのだった。




決め手:餓死
強キャラほど物資消費がべらぼう多くなるのが、現実という名のクソゲーです。

次回は明日投稿予定です。

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