イノシシというのは、一般人が思う以上に危険な動物である。
寸胴な体躯と短い足を見るにさぞ鈍足なのだろうと思いきや、時速四十五キロもの速さで疾走可能。鋭い牙は人間の大動脈を易々と切り裂き、死に至らしめる事も珍しくない。猪突猛進ということわざがあるが、極めて俊敏性が高く、障害物をするすると躱しながら突き進んでくる。そして寸胴な体躯……強靱な筋肉の塊から放たれるパワーは、人間一人簡単に吹っ飛ばす事が可能だ。
無論人間には銃という心強い武器があり、遙か遠方からイノシシに致命傷を与えられる。しかしもしも撃つ前に気付かれ、こちらに突進されたなら死を覚悟せねばならない。時速四十五キロで突撃してくる獣の脳天を正確に撃つのはベテランの猟師といえども至難の業だ。また興奮しきった動物は、仮に脳を撃ち抜いても身体は動き、そのまま突っ込んでくる事がある。質量と速度が変わらない以上、激突時の威力は『生前』となんら変わらない。
奴等は決して油断をしてはならない、恐るべき『モンスター』なのだ。
「……だからって、ここまで大袈裟になるたぁ思わなかったが」
そう考えながら田沼はぼそりと独りごちた。
陽が沈み、すっかり辺りが暗くなった泥落川に、何十もの人が集まっている。車も相当数集まり、それらのライトだけで周囲は昼間のように明るい。お陰で人の数や特徴を見るのは、難しい事ではなかった。
集まった人々の多くは赤くて派手なジャケットを纏った猟師であり、残りは制服姿の警官だった。猟師の数はざっと四十人以上。警官も二十人以上来ていた。合計六十以上の人々がこの場には居る。
畑の作物が食害されるなどの被害でイノシシ狩りをする時、探し回る都合大人数で行く場合もあるが……しかし三十人を超える事は稀。高齢化が進み、ハンターの数が減った近年では尚更だ。その倍以上の数など、田沼はこれまでお目に掛かった事すらない。
そもそも、通報をした当日に動きがある事自体異常である。通常有害鳥獣駆除は、市民からの通報を地方行政が受け、地方行政から猟友会に依頼が行き、猟友会から猟師に依頼が来るのだ。余程緊急性を有する事案でない限り、即日対応などまずされない。
何より、今は夜だ。確かにこの川は市街地のど真ん中を流れており、市街地にイノシシが来ているのは大変危険な状況である。人が襲われた、という通報もした。しかし夜という事は、目の前に現れた『何か』がよく見えない……鉢合わせた相手がイノシシなのか、人間なのかも瞬時には判別出来ない状況なのだ。イノシシと人間を見間違うなんて、と思うかも知れないが、見間違いによる『誤射』というのは度々発生している。人間の目とは極めていい加減なのだ。特に、自分は絶対に間違いないと考えている輩の目ほど。
撃つのが猟銃ではなく麻酔銃だとしても、万一人に当たれば大事である。そして仮にイノシシだったとしても、猛烈な勢いで走ってくる『人かも知れない物体』を躊躇なく撃てる猟師はいない。誰だって殺人者にはなりたくないし、家族を殺人者の身内にはしたくないのだ。例え、その迷いが自分の命が危険に晒すものだとしても。
夜の狩猟とは、それほど危険なものなのである。それを強行するというのは、何かがおかしい。
「おー、なんか凄い事になっちゃったねー」
尤も、考える田沼に隣に立つ加奈子は、ぞろぞろと現れた猟師や警察に違和感など抱いておらず、むしろワクワクしている様子。助けを求めてきた鈴木平次や佐倉美香も、大勢集まった猟師達を見て安堵している。
彼女達からすれば猟師なんてものは縁遠い存在で、実態がどうであるかなど知らないのだ。だからこそ純粋に、大勢の人が駆け付けてくれた事に安堵出来るのだろう。それが寂しいようで、変に不安がられなくて楽なようで、田沼は複雑な気持ちを抱く。
なんにせよ、気付いた違和感をそのままにしておけるほど、田沼は能天気な性格をしていない。辺りを見回し、知り合いの顔がないか探す。
幸いにして、大変親しい友人の姿を見付ける事が出来た。田沼は加奈子達に知り合いと話してくると伝えてから、見付けた友人の下へと歩み寄る。
「よう、飯田。元気してるか」
「ん? おぅ、たっちゃんじゃねぇか。お前さんも呼ばれたのか?」
田沼が声を掛けた男――――飯田は、田沼の方へと振り返ると、皺だらけの顔をくしゃくしゃにしながら快活に笑った。総入れ歯になった口の中は白くキラリと輝き、髪を失った頭髪も車のライトを受けて光っている。
「俺がお前等を呼んだんだ。あのカップルに頼まれてな。生憎今日は自分の銃を持ってきてない」
「なんでぃ。そういう事なら俺のを貸そうか?」
「他人の銃に触れたら法律違反だろうが、馬鹿野郎」
「はんっ、冗談さ。最近来ねぇから耄碌してないか確かめたんだよ……怪我の調子は?」
「悪くない。だから今日のイノシシでリハビリしようと思ったんだがな」
「がははっ! まさか当日出勤とは思わなかったか!」
軽口を叩き合いながら、田沼と飯田は親交を確かめ合う。
相手が昔と変わりないのを確かめてから、田沼は本題を切り出した。
「いくらなんでも、動きが早過ぎないか? 人を襲ったとはいえ、相手はイノシシだ。それに捜索するにしても、山狩りに入る訳じゃない。ましてやこんな時間帯だぞ。こんなに集まるなんて、一体何があったんだ?」
「言いたい事は分かる。まず一つずつ説明しよう。最初にお前が勘違いしている事だが、俺達は何も今日動き始めた訳じゃない」
「……何?」
「三日前から現れてるんだ、そのイノシシは。おまけに昨日にはもう、一人殺されてる」
飯田の説明に、田沼は驚きを感じた。
驚いた理由は、イノシシに人が殺されたという情報を今まで自分が知らなかったから。田沼は猟師であり、そのため害獣に関する情報には人一倍敏感だった。そんな自分が、昨日の悲劇を知らなかった事がショックだったのである。ちょっとした事情で足を怪我して、しばらく猟を休んでいたので腕が衰えていないかと心配していたが、まさか『耳』の方も衰えていたとは。
しかし動揺したのは少しの間だけ。驚きの感情は、やがて一つの懸念へと変化した。
今、この世界は恐ろしい『野生動物』の脅威に晒されている。動物に殺される人間というのは、最早先進国でも珍しくない。恐ろしい怪物達が続々と現れ、人の営みを脅かしている。
もしもそんな『野生動物』が町中に現れたなら……可能な限りの戦力を動員して、その生物を倒さねばなるまい。
それこそ何十という数の猟師を動員してでも。
「……ただのイノシシじゃねぇって事か?」
「分からん。大きなイノシシとは聞いているし、三メートルはあったとか言ってる奴もいる。だが、素人の目測なんか当てにならん」
「成程、つまり『何』が現れたのかも分からねぇって事か」
田沼は大きなため息を吐く。
田沼も平次からイノシシの話を聞いている。やや大柄な可能性がある以外は、十中八九ただのイノシシだろうというのが話の印象だ。
しかしその印象が間違いだったなら? 超巨大イノシシや、イノシシにそっくりな怪物だったら?
そんな訳の分からないものが、自分達の町に入り込んだ。おまけにそいつは、既に人を殺している。そして自分達は、戦うための『武器』を扱う技術があった。
ここで銃を取らねば、男が廃るというものだ。
「……連れを家まで送った後、銃を取りに行きたい。それからお前達のチームに入れてはくれないか?」
「! たっちゃん、つまりそれは……」
「言ったろう。リハビリをしたいってな……だからって俺が来るのを待つ必要はない。先に獲物を仕留めてくれよ」
「おう、任せろ」
飯田の肩を叩いて応援し、飯田も田沼の背中を叩いて気持ちを返す。互いに気合いを入れ、田沼と飯田は別々に歩き出した。
田沼は早速、自家用車に向かう……その足で加奈子達の方へと立ち寄る。
「おい、お前達。家まで送ってやるから、車に乗れ」
そして加奈子達に、そのように伝えた。
「え? 送ってってくれるの?」
「ああ。イノシシがいるかも知れねぇ町を、歩いて帰れなんて言えないからな。乗せてってやるよ」
「おー、ラッキー」
「ま、待ってくれ! 俺達は……」
加奈子は両手を挙げて喜んだが、平次が抗議混じりの声を上げた。美香も強い眼差しで田沼を睨む。
二人からすれば、友人の安否が分からないまま帰りたくはないのだろう。田沼も同じ立場なら、彼等と同じ気持ちになった筈だ。
だからこそ、ハッキリと伝えねばならない。
「素人にうろちょろされても迷惑だ。捜索も駆除もプロに任せろ」
「でも……」
「でもも何もない! 足手纏いに手間掛けているうちに、大切なお友達が死んでも俺は知らんぞ」
「っ……分かり、ました」
悔しそうに唇を噛みながら、平次はこくりと頷く。感情が先走っていたが、冷静に考えれば自分達が足手纏いになると分かったようだ。
「分かったら車に乗れ。俺もお前達を送り次第、イノシシを探してやるさ」
「……ありがとう、ございます」
「よろしくお願いします……」
平次と美香の感謝と頼みに、田沼は深く息を吐く。
自分もまた足手纏いにならないよう注意しないといけないと、気を引き締めるために――――
「……なんか、随分町が静かだねー」
助手席側の窓から外の景色を眺めながら、加奈子はぽつりと独りごちた。
田沼の車に乗せてもらい、早五分。車は市道を走りながら、町中を進んでいた。付近に家々は疎らにしかなく、代わりに稲が刈り取られた田んぼが一面に広がっている。そんな田んぼを照らすのは疎らに立つ街灯の明かり。遠くの方には住宅地が見え、星空を掻き消すほどの光を人の世界に満たしていた。
実に穏やかな風景だが、しかしこの風景の中を歩む人の姿は殆ど見えない。
時刻は夜の六時になったばかり。加奈子の場合あらかじめ親に連絡を入れておけば、外出していても怒られないで済む時間帯だ。まだまだ寝静まるには早い。
確かに人家は疎らだが、もう少し人気があっても良いのではないだろうか? 何故今夜は外を出歩く人が少ないのだろう?
「なんでも、今夜は外出禁止勧告が出ているらしい。危険なイノシシと、猟友会の見回りをしているからな」
加奈子の疑問に答えたのは、運転席側に座る田沼だった。加奈子は「ほーん」と納得したような声を漏らし、されど途中で首を傾げる。
「危険なイノシシ? どゆこと?」
加奈子が抱いた疑問を正直に尋ねると、田沼は口ごもってしまう。
普段の加奈子なら、ここで相手を問い詰めたりはしない。言いたくないなら言わなくても良いや……こんな軽い生き方が、加奈子のモットーだ。今日もその信念は変わらない。
されど今日は、些か熱い人間が二人混ざっていた。平次と美香である。
「どういう事ですか? まさか、玲達を襲ったイノシシの事を猟友会は知っていたのですか!?」
「……………嘘を吐いても仕方ない。知っていたらしい。さっき河原で知り合いの猟師から聞いた。とはいえ目撃されたのは三日前、人が襲われたのは昨日の話だ。むしろ早めに動いたぐらいだよ……身内の話だから、多少贔屓目なのは許してくれ」
「……いえ、そういう事なら、仕方ないです」
「でも、ニュースぐらい流してくれても……」
美香は批難の言葉を発したが、その声は段々と小さくなっていく。平次も口を閉ざし、田沼も黙ってしまった。
沈黙が、車内を満たそうとする。
「くらーい! そんな暗くなっても仕方ないんだから、もっと元気にいこーよ!」
が、そうはさせないとばかりに、加奈子は元気な声を上げた。誰もが加奈子の突然の大声に目を見開き、その顔を目の当たりにした加奈子は上機嫌に笑う。
陰鬱なのは嫌いだ。
暗い中にいるとどんどん気持ちが沈んでいく。悩んだって何も変わらないのなら、悩まない方が幸せではないか。どんどん気持ちを上げていき、きっと楽しい事があると信じる……そうでないと、どうやって生きたら良いか分からなくなるから。
まずは元気に楽しくやれば良い。悲しんだり後悔したりするのは、悲しい事が起きたのだとちゃんと分かった後で十分だ。
「……全く、お前は相変わらず能天気だな」
「え? そうかなぁ。おっちゃん達が気にし過ぎなだけじゃない?」
「成程、そういう考えもあるか。はっはっはっ!」
田沼の軽口もなんのその。言い返してみれば田沼は楽しそうに笑った。平次と美香も、くすくすと笑う。
車内に笑いが満ち、加奈子は満面の笑みを浮かべた
直後の事だった。
「ぬぅ!?」
田沼が奇怪な声を上げた、のと同時に、車に急ブレーキが掛かったのは。
「きゃああっ!?」
「ぐぅっ!?」
「ふぎゅうっ!?」
襲い掛かる慣性に、田沼以外の全員が呻きを漏らす。とはいえ皆シートベルトを着用しており、大きく体勢を崩したり、座席から転倒した者もいない。加奈子は呻きながら、前のめりになった身体を起こした。
「うぐくくく……おっちゃん、どうしたの?」
「あ、ああ。いや、道路に何か落ちていてな」
「道路……?」
田沼の視線が向いている先を、加奈子も追い駆ける。
見れば、確かに道路の真ん中に何かが転がっていた。物体は車のライトが程よく照らす位置にあり、姿がよく見える。
それは大きな一つの塊だった。全体的に赤色が主体だが、青やら黒やら白やらも混ざった、奇妙な色合いをしている。大きさは、ざっと一~二メートル程度だろうか。形は細長いものの凹凸があり、不格好なソーセージを彷彿とさせた。
かなりの大きさだが、はて、これはなんだろうか? 加奈子は正体を確かめようと思い、身を乗り出しながら凝視した
「見るなっ!」
直後、田沼が大きな声を上げる。後部座席に座っていた平次と美香は、突然の大声に跳ねるほど驚いていた。
だが、加奈子は驚かなかった。
何故なら、もう見てしまったから。
道路に転がるものは、ぐちゃぐちゃに潰れた固形物だった。真っ赤な汁が全体から滴り、道路に赤黒い水溜まりを作っている。青いものは布切れで、黒いものは毛だ。そして白いものは剥き出しになった骨。
ならば骨が剥き出しになっている赤い塊は――――肉であろう。
肉のサイズは一メートル以上二メートル未満。そして凹凸だと思っていた部分が、何かの噛み痕のようであると加奈子は気付く。両端は同じ形をしておらず、一方は細長い棒のようなものが二本あり、もう片方にはスイカのような丸みがある。
そして丸みのある部分から、小さな白いものが落ちていた。加奈子はその白いものと
それは眼球だった。
つまりあの丸いものは頭であって――――
「う、ぶぅう……!?」
急に込み上がる吐き気を抑えきれず、加奈子の口に酸っぱい液体が溜まる。咄嗟に口元を両手で塞いだが、上がってきた量が多過ぎた。
止めようとしたがどうにもならない。唇に込めた力は呆気なく負け、加奈子の口から吐瀉物が溢れ出す。足元のシートが黄土色に染まり、苦い臭いが車内を満たした。
「……我慢するな。全部出して良い。後の事は気にするな」
田沼が背中を摩りながら吐く事を許してくれなければ、この苦しみが何時まで続いたのだろうか。
「だ、大丈夫か?」
「これ、使って……」
平次と美香も気遣ってくれた。美香からビニール袋を受け取った加奈子だが、頭を小さく上下に振るのが精いっぱいだった。
夕食前で胃の中身が空に近かった事もあり、出した量は左程多くなかった。胃液さえも出し尽くし、空腹にも似た虚無感が身体中を満たすが、先程までの人生史上最悪の気持ちに比べれば遥かにマシだ。加奈子は口を素手で拭い、大きく息を吐く。
そしてそのまま俯き続けた。例え足元から独特の悪臭が漂い、鼻を刺激しようと、顔だけは上げたくない。
友達の花中とは違い、加奈子はホラーゲームも良くやる。バイオレンスな洋ゲーのプレイ動画を見たり、低予算ゾンビ映画なども好む。だからグロテスクな表現にも慣れているつもりだった。
だが、本物は違う。グロ耐性なんてなんの役にも立たない。本能が明確な拒絶の意思を示すのだ。
あんな酷い『人の死体』は二度と見たくない、と。
「……おっちゃん、アレ……」
「ああ、間違いない……鈴木君、一緒に来てくれないか。確認したい事がある」
「え、あ。はい、わかりました」
「それとその前に一つ教えておく。今、車の前に人間らしき死体がある。人間らしき、だ。この意味が分かるな?」
田沼からの念押しに、最初キョトンとしていた平次はしばらくしてハッとしたように目を見開いた。美香の方も察したようで、口を両手で押さえながら顔を青くする。
平次は車のドアノブに手を掛けつつ、しばし動かない。しかしゆっくりと深呼吸をし、力強く横に振った後の彼の顔には、もう迷いはなくなっていた。
「……いけます」
「ありがとう。無理だと思ったらすぐに離れてくれ。後は俺がやる」
「はい。ありがとうございます」
田沼と平次は車を出て、道路に転がる死体らしきものへと駆け寄る。平次の嗚咽と嘔吐する声が聞こえてきたのは、それから間もない事だった。
美香は後部座席で震えながら縮こまり、祈るように両手を組む。加奈子としても、何かの間違いであってほしいと願った。
やがて田沼達は車内へと戻ってきた。二人とも項垂れ、口を開かない。加奈子と美香も訊こうとはせず、しばし冷たい沈黙が車内を満たす。
「……玲、だと思う。アイツがしていたのと、同じアクセサリーが落ちていた」
やがて平次がそう呟き、美香は嗚咽を漏らす。
加奈子も、ここで二人に声を掛けるほど人の気持ちを読めなくはない。代わりに、未だ黙ったままの田沼に話し掛けた。
「……おっちゃん。私が通報しとく?」
「……いや、俺がやる。すまない」
加奈子が気を遣うと、ようやく田沼は動き出した。自分のスマホを取り出し、操作を始める。
加奈子はホッと息を吐き、車体横の窓から外を眺めた。正面から、もう一度死体を見る勇気は持てないがために。
そして少し、頭の中にある違和感に思考を巡らせる。
何故、こんなところに死体がある?
平次が言うようにあの死体が『玲』……平次と美香が話していた、イノシシに襲われた友人の一人だと言うのなら、彼を襲ったのはイノシシだろう。しかしイノシシは人を食べるものなのだろうか? 雑食という話は聞いた事があるが、人間をバリバリ食べるなんてのは初耳だ。そもそも記憶にある ― 出来る事なら忘れたいが、頭の中にこびり付いて離れない ― 死体は、まるで生皮を剥いだような姿をしていた。動物が食べた後なら、もう少し形が残っているものではないだろうか。
「警察への通報は終わった。こっちに人を向かわせてくれるそうだ。あの亡骸が本当に鈴木君達の友達だとしたら、近くにイノシシが潜んでいるかも知れない。しばらく車内で、警察が来るまで待とう」
考え込んでいたら、何時の間にか通報が終わっていた。平次と美香はこくりと頷き、我に返った加奈子も慌てて頷く。
全員が同意し、田沼は安堵したように息を吐く。加奈子は、そんな田沼に抱いた疑問をぶつけてみる事にした。
「おっちゃん、一つ訊きたい事があるんだけど」
「ん? どうした?」
「イノシシって、その、人間を食べるものなの? 食べたとして、ああいう食べ方をするのかな?」
平次達の様子を窺いながら、加奈子は疑問を言葉にする。一瞬、平次と美香は顔を強張らせたが、されどすぐに加奈子と同じく違和感を抱いた表情を浮かべた。
田沼も少し考え込み、普段よりも慎重な口振りで答える。
「……死体であれば、食べる事もあるだろう。イノシシからすれば人間の死体もネズミの死骸も、肉という点は変わらないからな。ただ、生きた人間を襲って食べるというのは聞いた事がない」
「そう、なんだ……」
「それと食べ方についてもだが、お前が言うようにあんな食べ方はしないだろう。イノシシの好みもあるだろうが、腹の中身だけ食うとか、足を一本持って行くだとか、そんなもんの筈だ。あんな、全身の皮を引っ剥がすような食べ方にはならない」
「なら、どうしてあんな感じに……」
「……食べられていたのは、皮と内臓、それと皮下脂肪だけだった。あの食べ方をするのは、俺が知る限りクマだけだ。それも一部地域のワンシーズン、獲物はサケだけ。イノシシがあんな食べ方をするとは聞いた事がない。かといってクマが町に出ているという話は聞いていないし、遺体にあった歯形はクマじゃなくてイノシシのものだと思うが……」
田沼のそこまで答えると、考え込むように黙ってしまう。どうやら田沼にも正確な事は分からないらしい。
猟師である田沼の知識にもないイノシシの行動。本当にこの町にいるのはただのイノシシだろうか? 加奈子の中で疑問が深まる。
普通なら、これ以上の事は誰にも訊けないだろう。しかし加奈子には一つ当てがある。
花中だ。花中はこういった『生物』絡みのトラブルによく遭遇している。フィアやミリオン達のような超ヤバい生物だけでなく、『異星生命体』や『恐竜時代の植物』などのテレビ報道された生物、表沙汰にはなっていない『怪物』と出会った事もあるという。花中自身が話した訳ではなくフィアやミィから聞いた事だが、彼女達は人間のようなつまらない嘘は吐かない。どれも本当の筈だ。
加奈子の知る中で、花中ほど『怪物』に詳しい者はいない。それに花中は勉強も出来る。何か、新しい情報を教えてくれるかも知れない。
どうせ警察が来るまで暇なのだ。待ち時間を有効活用するべく、加奈子は花中に教えを請う事にした。
「……よしっ。私ちょっと電話掛けてるねー」
「ん? ああ、分かった」
車内のみんなに一言断りを入れてから、加奈子は花中に電話を掛けてみる。コール音が数回聞こえた後、ぷつりと電話に出る音が鳴る。
【……はい、もしもし?】
それから、か細くて、とても聞き取り辛い声が聞こえてきた。
間違いなく花中の声だ。加奈子は笑みを浮かべ、思わず顔を上げそうになる。一瞬視界に赤いものが映り、慌てて下げた。
「――――あ、ああ、大桐さん! こんばんはー、加奈子だよー。元気してるー?」
【ぇ、あ、はい。こんばんは……わたしは、元気です。はい】
「うんうん、元気なのは良い事だよ。あ、それで一つ訊きたいんだけど、今大丈夫?」
【あ、はい。今は、大丈夫です】
「じゃあ訊かせてもらうね。えっとね、イノシシについてなんだけどさ」
【イノシシ? あ、そういえば、放送で、イノシシが出たから、外出を控えるようにとか、言ってましたね】
突拍子もない質問に、花中は一瞬キョトンとした後納得したような声が返ってくる。「そーそー」と加奈子は肯定し、話を続けた。
「でさ、実はそのイノシシに襲われた人と知り合ってね。それで色々あって一緒に帰ってたんだけど……その道すがら、イノシシに食べられた人を見付けた」
【えっ!? 食べ……えっ? 食べられた……イノシシに、ですか?】
「うん、多分だけど。もしそうなら普通じゃないよね? それで、もしかしたら大桐さんなら、『何か』分かるかなって思って。どうかな?」
加奈子が尋ねると、受話器の向こうではしばし沈黙が挟まれる。されど静かな訳ではない。迷うような息遣い、気合いを入れるような深呼吸、暴れる心を静めようとする地団駄……花中の気持ちが、手に取るように分かる。
きっと花中も、町に居るイノシシが普通でない事を察しただろう。普通でない生物に関わった自身に、加奈子が何を期待しているのかも。そして大桐花中は、誰かに期待された時プレッシャーを強く感じ、よく押し潰されている少女だった。
少し前までは、だが。
最近の花中は結構逞しい。
【……分かりました。ちゃんと、答えられる自信は、ないです、けど、わたしで良ければ、考えてみます】
やがて花中からは前向きな答えが返ってくるのは、ある意味では想定内。
それでも加奈子は、嬉しさが込み上がるのを覚えた。
「ん。ありがとう、大桐さん」
【いえ、お礼は、役に立ててからに、してください。それで、イノシシの、特徴とか、分かりますか?】
「えっとね、見た目は普通のイノシシみたい」
【大きいとか、小さいとかも、なく?】
「うーん、話を聞く限りだと、一応大きいみたい。見た目が変とかいう話は聞いてないよ」
加奈子は次々と花中に情報を伝える。花中もまた疑問をぶつけ、答えられるものは加奈子も教えた。
しかし伝えれば伝えるほど、花中の反応は鈍くなる。
理由は加奈子にも分かる……イノシシの情報が、どう考えてもただのイノシシでしかないからだ。実際平次達を襲った動物はイノシシで、猟友会が追っている動物もイノシシ。イノシシ以外の情報がある筈もない。
唯一奇妙なものがあるとすれば――――
【あの、これを尋ねるのは、大変恐縮なのです、が……ご遺体は、本当に、イノシシが食べたものなの、ですか?】
イノシシが食べたと思われる、人間の死体だけだ。
「……おっちゃん。ちょっと良い?」
「おう、なんだ」
「あそこで死んでいた人ってさ、その、間違いなくイノシシに食べられたの?」
「断言は出来ない。が、俺の勘はあの歯形はイノシシのものだと言っている」
「分かった。おっちゃんの勘を信じる」
念のために確認し、加奈子は田沼の言葉を花中へと伝える。花中は僅かに沈黙を挟み、再び質問をしてきた。
【……分かりました。その、ご遺体の、状態は……?】
「えっと、確か内臓と、皮と、皮下脂肪だけを食べた状態みたい」
【内臓と、皮と、皮下脂肪?】
「そーそー。おっちゃん、あっ、知り合いの猟師がこんな食べ方をするのはクマぐらいだーなんて言ってるけど、どうなの?」
【えっと、そうですね。主に冬越し前の――――】
「大桐さん?」
話を交わしていたところ、不意に花中の言葉が途切れる。妙に感じて加奈子は呼び掛けてみたが、反応はない。
どうしたのだろうか? 何か気付いたのだろうか? 疑問に思っても、花中が話してくれなければ何も分からない。怪訝な気持ちから加奈子は自然と眉を顰めた
【お、小田さん! その、い、今はご遺体の近くに居るのですか!?】
丁度そのタイミングで、受話器から発せられる花中のひ弱な大声が耳を刺激する。
あまり大きな声ではなかったが、今までと比べれば段違いの大きさ。小声にすっかり慣れていた加奈子は驚きで顰めていた眉を戻し、その目を見開いた。そして驚きに染まった頭は、無意識に花中からの問いに答える。
「う、うん。そうだけど、それが……?」
【は、早くそこから逃げてください!】
「え? いや、でも警察を呼んじゃったし、待ってないと」
【ダメです!】
「……さっきからスマホが五月蝿いが、なんだ? こんな時に痴話ゲンカでもしてるのか?」
花中の必死な叫びは、隣に座る田沼にも微かながら聞こえていたらしい。彼のつまらない冗談に、加奈子は困ったように首を横に振る。
「なんか、イノシシの事を話したら、すぐに逃げろって言われて……」
「……確かに、人食いイノシシが潜んでいるかも知れないから、早く逃げるに越した事はないが。もしかしてお前の友達は、俺達が野外に居ると思ってるんじゃないか?」
「あー、そうかも。えっと、大桐さん? なんで早く逃げないといけないの? 一応私達、車の中に居るんだけど」
加奈子は冷静に、宥めるように花中を問い質す。
されど花中から返ってくる答えは、一層興奮していた。必死に、説得しているのはこっちだと言わんばかりに。
【ダメです! そのイノシシは、恐らく空腹です!】
「……空腹? なんで?」
【く、クマがその食べ方を、するのは、冬眠前の季節に、遡上してきたサケを、食べる時です! 身を食べないのは、高栄養価のものを、効率的に摂取する、ため! 肉食も、植物より効率的に栄養を取れるためと、考えれば、自然です!】
「……えっと、それは、つまり……?」
【季節を考えれば、冬越しのため、太るための行動かも、知れません! でもこれは、イノシシには、本来ない性質です! 何か、通常のイノシシとは、違う体質があると、思います! 大量のエネルギーを、必要とするような、そんな体質です!】
「ち、違う体質って、例えば……」
花中の述べる推察に、加奈子は一層深く尋ねる。
そんな時だった。
加奈子は、自然と息を飲んだ。車内からは呼吸音さえも途絶える。加奈子はゆっくりと顔を上げ、今まで本能的に直視を避けていた正面に視線を向けた。
ライトに照らされる、生皮を剥がされた遺体。グロテスクで生理的嫌悪を呼び起こすそれは、されど今の加奈子の心を振るわせるには足りない。
何故なら遺体の傍に、『そいつ』は立っていた。
ライトが煌々と照らされ、こちらを見ている目を赤く光らせている『そいつ』。誰が見てもなんという種であるかは明らかなぐらい、その姿におかしなところはない。大きさだって、思っていたより大きい程度で、異常とは言い難い。
だけど『そいつ』――――暗がりから現れたイノシシは涎を垂らしていた。腹が減って苦しいと訴えるかのように。
そして加奈子の耳許から少しだけ離れていたスマホから、微かに聞こえてくる。
【例えば、極めて高い代謝を待っている……通常のイノシシよりも、遥かに、高い身体能力を、有している可能性が、あります! 遭遇したら、車内であっても危険かも知れません! だから、早く避難してください!】
あと少し早ければ、きっと役立っただろう花中の言葉が……
人類VSイノシシ
勿論人間は銃を使いますよ?
強さをアピールするには、負ける側も相応に強くないとね(ぁ)
次回は明日投稿予定です。