彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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輪廻拒絶2

 食べ物を得るにはどうすれば良いか?

 お金を払い、商品を買う――――現代の日本ではこれが最も基本的な方法だ。極めて簡単で、お金さえあれば子供でも可能。勿論加奈子にも出来る。

 しかし「みんなお金に困って暗い顔してるから今日は私の奢りだ! 思う存分飯を食えいっ!」と言ったところで、純度百パーセントの笑顔を浮かべてくれる者は少ないだろう。特に晴海は自立心も高いので、尚更惨めな気持ちにさせてしまうに違いない。友達の笑顔が見たいのに、友達の笑顔を曇らせてどうする。

 よってこの案は却下だ。これ以外の、同情心なんて感じさせない方法で、パーティーの食材を集めねばならない。

 では、自分で育てた野菜を用いるのはどうか。これなら同情心をあまり感じさせないし、たくさん採れたから云々という理由を付けられるので、いきなり料理を振る舞っても不自然ではない。成程これは妙案である……育つのに時間が掛かる事を無視すれば。野菜がどれぐらいの時間で収穫出来るかネットで調べてみれば、どうやら早いものでも一~二ヶ月は掛かるらしい。割と我慢の利かない加奈子にはそこまで待てないし、時間が経つと……育てた野菜を自分の家で消費する事になる予感がした。

 大体にして加奈子は野菜を育てた事がない。おまけにずぼらな性格である事も自覚している。小学生時代、アサガオすら枯らした自分に美味しい野菜を作れる気はしなかった。この手も使えないだろう。

 ならば残す手段は一つ。野生の生き物を自分の手で採る事だ。

 とはいえ加奈子にシカやイノシシなどの野生動物を捕まえられるような技術はなく、山菜やキノコを見分けられるほどの知識もない。狙うのはもっと簡単で、専門的な知識もいらない獲物。

 魚である。

「よっしゃーい! 今日は良い釣り日和だぁーっ!」

 加奈子の元気な掛け声が、秋晴れの陽が降り注ぐ野外に響いた。

 加奈子が訪れたのは、地元地域の中心を流れる川。ホタルが暮らす事で有名な蛍川も流れ込む本流だ。何本もの支流が集まって出来た流れだけにとても大きく、川の音色が耳をくすぐる。大きな岩が幾つも転がり、流れの緩急や向きに多様性を持たせていた。

 この川の名前は泥落川(でらがわ)という。多彩な環境に加え、流れ込む養分の多さもあり、多種多様な魚種が生息していた。無論コイやフナなどの普通種も多数棲み着いている。そしてそれら魚達は、美味しいかどうかは別にして、食べる事が出来るものだ。

 加奈子は此処で釣り上げた魚で、パーティーを開こうと考えたのだ。釣り上げた魚を食べてもらうのであれば、食べる側が同情されていると感じる事もないだろう。バーベキューのような形にすれば尚良い。普通に食べるにはちょっと味が良くなかったとしても、バーベキューにすれば何故か美味しくなるもの。これでもやっぱり不味かったとしても、みんなでぎゃーぎゃー文句を言い合うのは、それはそれで楽しそうだ。

 しかしながら加奈子には、実のところ釣り経験があまりない。道具一式は持っているのだが、これは昔父から譲り受けたものであり、気が向いた時にちょろっとやる程度。そのため狩猟や山菜採りに比べればマシだが、ベテランと呼べるような技術や知識がある訳ではない。

 ぶっちゃけ、今日何を釣りたいかさえもあまり考えていなかった。持ってきた釣り道具も適当である。

「さぁーて、今日は居るかなぁ……おっ! 居た!」

 なので加奈子は助っ人を求めており、幸運にもその助っ人はすぐに見付ける事が出来た。

 川岸で、クーラーボックスを椅子代わりにしている一人の男性が居る。彼は帽子を被り、皺だらけの強面にぼんやりとした表情を浮かべながら川を眺めていた。口に咥えているタバコからほわほわと白い煙を漂わせ、二~三メートルほどある釣り竿を握っている。

 加奈子はその男性の傍に、とことこと駆け寄った。川岸には小石が敷き詰められたように転がり、加奈子が一歩踏み出す度にじゃらじゃらと音を鳴らす。耳は遠くないようで、男性は声を掛ける前に加奈子の方をちらりと見た。

「おう、嬢ちゃん。川をバタバタ走るなって前にも言っただろう。魚が逃げる」

 そしてしわがれた声で、加奈子の行動を戒める。

 小さな子供ならこれだけで目に涙を浮かべそうな、威圧的な声色と言葉。されど加奈子は全く怯まず、けらけらと笑うばかりだった。

「やっほー、おっちゃん。女子高生が来てやったぞーい」

「来いと言った事は一度もねぇだろうが。それと女子高生なんて小便臭いガキに興味はねぇ」

「えぇー? 女の子が一番可愛い時だよー? お孫さんも可愛いっしょ?」

「うちの孫はまだ小学生だし、そもそも男だ。少しは考えてから物を言え」

 あしらわれながらも、加奈子は男から離れようとはしない。むしろ近付き、すとんとすぐ隣の地面に座る。

 男の名は田沼(たぬま)という。

 加奈子とは親戚でもなければ、両親の友人という訳でもない。小さい頃この川で遊んでいた時に知り合い、以来時々顔を合わせるようになった赤の他人である。友人と言えるほどの関係ではないが、それなりに親しい間柄だ……と加奈子は思っていた。

 そして釣りについて色々教えてくれた師匠でもある。師匠と言っても、精々数回教わった程度だが。

「おっちゃん、今日は釣り教えてよ」

「今からか? 何を釣りたい」

「美味しくてたくさん釣れるやつ!」

「……なんだ? お前の家、生活が苦しいのか?」

 田沼が訝しむように尋ねてきたため、加奈子は一瞬どきりときた。自分の事ではないとはいえ、まさか動機を当てられるとは思わず、加奈子は思わず息を飲んでしまう。

「……うちはそうじゃないけど、友達がそんな感じ」

 ゆっくりと開いた口からは、誤魔化しのない本当の言葉が出ていた。

「そうか」

「なんで分かったの?」

「そりゃ、お前の友達みたいな奴なんか今時珍しくもないからだよ」

 加奈子が訊くと、田沼はあちらを見ろとばかりに向こう岸を指差す。

 見れば、そこには釣りをしている男が一人居た。そこそこ大柄な体躯をした若い男で、イライラしているのか川岸をゆらゆらと歩いている。どうやらルアーでの釣りをしているようだが、動きが荒く、早々と糸を巻き上げていた。

 魚は陸地の震動に敏感だ。川岸を歩き回ると、その震動に驚いて餌を食わなくなる。ルアーの動かし方にも技術があり、適当にやって良いものではない。魚にも色々な性格や体調があるので、一概には言えないが……加奈子の印象では、あの釣り人が今日のうちに釣果を上げる事はないだろうと思えた。

「あの男も恐らくお前と同じ事を考えて、此処に来たんだろう。魚を釣れば家族を喜ばせられる、とな。或いは仕事をクビになって、少しでも食費を浮かそうとしているのかも知れない。あの若さで昼から釣りをして、なのに全く楽しそうでない辺り、後者の方が可能性は高そうか」

「あー、そうかもねー。なんか如何にも釣り初心者って感じだし」

「今じゃ川のあちこちでそんな奴等が釣りをしている。下手くそ共が騒ぐ所為で魚が逃げちまって、こっちはなーんも釣れやしねぇ」

 悪態と共に鼻を鳴らしながら、田沼は顔を顰める。加奈子が辺りを見渡してみると、確かに普段の……数ヶ月前とは比べものにならないぐらい大勢の釣り人の姿があった。

 不機嫌そうな田沼であるが、そこそこ長い付き合いである加奈子は彼の気持ちを察する。田沼は一見して偏屈で頑固そうな老人だが、なんやかんや世話焼きで困っている人を放っておけない性格なのだ。食うに困っている若者を見て、内心酷く傷付いているに違いない。

「……ま、何も釣れなくて暇だからな。片手間で良けりゃ教えてやるよ」

 そんな彼が()()()()()加奈子を、突き放すような真似をする筈がなかった。

「流石おっちゃん話が分かる! ありがとー!」

「ふん。この状況で一匹でも釣れれば良いがな。とりあえず道具を見せろ。釣れそうな奴を教えてやる」

「うん! こんな感じだよ!」

 加奈子は田沼に釣り道具を渡し、田沼は真剣な眼差しでチェック。一通り道具を確認すると、彼は考え込むように顎を摩る。

「……バスかブルーギルだな」

 やがてぽつりと、魚の名前を呟く。

 しかし加奈子は最初、田沼の口から出たその魚達が『目標』だとは思えなかった。

「えー? ブラックバスとかブルーギルって食べられるの? ネットとかじゃ臭いって聞くけど」

「ちゃんと下処理をすればまぁまぁ美味いぞ。それについても教えてやるよ。まぁ、一匹でも釣れたらの話だがな」

「へぇー、食べられるんだ……」

 田沼からの情報に、加奈子は少し考える。

 ブラックバスやブルーギルを日常的に食べている人は少ないだろう。恐らく晴海も、一度も食べた事がない者の一人の筈。ゲテモノの一種ぐらいに感じて、パーティーを開いてもあまり感謝だとか負い目だとかを覚えないかも知れない。恩義やらなんやらを面倒臭く感じる加奈子にとって、それは実に都合の良い話だ。

 おまけにブラックバスやブルーギルは外来種。どんどん食べて数を減らした方が良い生き物だ。ウナギなどの絶滅が危惧される種と違い、心置きなく釣りが出来るというものである。

「おしっ! 頑張って釣りまくるぞー!」

 加奈子は威勢の良い掛け声を上げながら立ち上がり、はしゃぐようにジャンプした――――直後、頭からゲンコツが落ちてきた。目から星が出るほどの威力。加奈子はぐわんぐわんと身体を前後に揺らす。

「頑張るのは良いが静かにしろ。魚が逃げる」

 そんな加奈子を窘めるように、ゲンコツを喰らわせた田沼はお叱りの言葉を告げるのだった。

 ……………

 ………

 …

 ブラックバスは獰猛な肉食魚である。

 小魚や小型甲殻類、水に落ちた昆虫やカエルなどなんでも食べてしまう。この貪欲な食欲があるため危険な外来種とされる訳で、故にルアー釣りの対象となるのだが……貪欲であるからといって、簡単に釣れるものでもない。

 というのも彼等はとても賢い魚でもあり、一度釣られるとその経験をよく覚えているからだ。こうした魚は『スレた』個体と呼ばれ、人が投げ入れた餌やルアーに中々食い付かない。

 泥落川は餌の豊富さからか大きなブラックバスが多数生息しており、その大物を狙いにバス釣りに来る人が多いという。そしてバス釣りはキャッチ&リリースが基本。大物は、何度も釣られた経験がある(つわもの)でもある。

 彼等を釣り上げるのは、ベテランのバス釣りでも至難の業というものだ。

「よっしゃあっ! ヒットじゃあ!」

 その至難の業を、加奈子は見事成し遂げていたが。

 川岸まで引き寄せ、網で掬い上げたブラックバスは大きさ四十センチ以上という中々の大物。ビチビチと跳ね、活きの良さを物語る。

 加奈子は慣れた手付きでブラックバスの口からルアーを外し、釣り上げた魚を持ってきたクーラーの中へと入れた。

 クーラーの中には既に六匹の先客が居り、七匹目が窮屈そうに暴れると、他の六匹も暴れ出す。どのブラックバスも同じぐらいの大きさで、大変立派な型をしている。

 これが加奈子が()()()()()で釣り上げたブラックバス達だ。

「おっちゃん、あと何匹ぐらい釣ったら良いかなぁ?」

 元気な釣果の姿に満足げな笑みを浮かべ、加奈子は田沼に尋ねる。

 田沼は口許を引き攣らせながら、呆れたようなため息を吐いた。

「……毎度思うんだが、お前、なんでそんなに釣りが上手いんだ?」

「え? そうかなぁ。このぐらい普通じゃない?」

「念のために訊くが、どうやって魚の居場所を把握している?」

「勘。あと結構姿が見えるから、その近くに投げ込んでるだけだよー」

「……天賦の才ってやつかねぇ」

 加奈子の正直な答えに、田沼は片手で顔を押さえながら項垂れる。その行動の意図を掴めない加奈子だったが、田沼は顔を上げた後も説明しなかった。

「まぁ、良い。食べる分とお土産用、それと調理の練習用……ド下手くそなら兎も角、なんやかんやお前は器用だからな。これだけあれば十分だろう」

「分かったー。じゃあ、家に持ち帰って……」

「いや、その前に血抜きをした方が良い。あとブラックバスは特定外来生物だから、生きたまま持ち運んじゃいかん。ここで下処理をする。ナイフは持ってきているか?」

「ううん、持ってない」

「じゃあ、俺のを貸してやる。やり方は分かるか?」

「海釣りでアジにはやった事があるよ」

「そうか。大型魚は小さいのとはまた少し違う。教えてやろう」

 田沼は懐から刃渡り五センチほどのナイフを取り出し、加奈子に渡してくる。

 加奈子はナイフを受け取り、一匹のバスをクーラーから取り出す。

「血抜きの前に、まずは締める。エラの付け根辺り、そう此処からナイフを勢い良く刺せ。脊髄を切り落として即死させる」

「んっと、こんな感じ?」

「そうだ。それから尾の方に切れ目を入れるんだ。後は水に浸けると血が抜けていく」

 田沼に教わりながら、加奈子はバスの血抜きを進めていく。過去に何度か釣りをしてきた加奈子にとって、自分の手で魚を締める経験は初めてではない。バスのような大物は未体験でもやり方の基本は変わらない……躊躇わず、一気にやる。これが一番魚を苦しめない。

 サクサクと魚を締めていき、血を抜き、加奈子は七匹のバスの下処理を終えた。

「良し、これで前処理は一つ終えた」

「まだなんかやるの?」

「ああ。といってもそれは料理の時で構わん。バスの臭みは皮と腹の脂が原因だ。だから料理の時はそれを取り除け。やり方は親に訊くなり、ネットを見るなりすれば良い」

「皮と、お腹の脂ね。分かった」

 にっこりと微笑みながら、加奈子はバスの血で染まったクーラー内の水を捨てる。川の水が一瞬赤く染まり、しかしすぐに薄れていった。

 その作業中、加奈子はふと気付く。

 わーわーと、悲鳴のような声が遠くから聞こえてくる事に。

「……おっちゃん。なんか、声が聞こえない?」

「そうか? 気の所為じゃないか?」

「んー……おっちゃん耳は遠くないけど、もう歳だから甲高い音が聞こえないしなぁー」

「おい。そーいう事は本人の前で言うんじゃねぇ。ちょっと気にしてるんだから傷付くぞ」

 田沼の抗議を聞き流しながら、加奈子は声の方角を探る。

 声は下流の方から聞こえてきていた。

 加奈子が下流に目を向けてみると、自分達の方へと走ってくる二人組が見えた。一方は大柄で筋肉質な男で、もう一方は細身で派手な格好の女。どちらも若者で、年頃は二十代ぐらいだろうか。

 そんな彼等はバラバラの事を叫んでいるらしい。意識をどれだけ集中しても、加奈子には彼等の言葉が上手く聞き取れなかった。

 分かったのは、近付いてくる彼等の顔が恐慌状態である事ぐらい。

 さしもの加奈子もこれには恐怖心を覚えた。花中のような男性や初対面の人への恐怖心などないが、錯乱した大人が一人以上走ってきたら、か弱い女子高生なら誰だって怖くなるというものだ。

「……お前は後ろに隠れてな」

 田沼はしっかりとした声色で、加奈子を後ろに退かせようとする。

「う、うん。分かった。おっちゃん、無理しないでね?」

「安心しろ。混乱しているみたいだが、狂ってる訳じゃなさそうだからな。話ぐらいは出来るだろうさ」

 後ろに隠れた加奈子の頭を一撫でし、田沼は迫り来る二人組の前で仁王立ち。その身は後退りどころか震えもせず、堂々と道を塞ぐ。

 やがて若い二人組は加奈子達のすぐ近くまでやってきて、

「た、助けてくれぇ!」

「お願い! 稲穂と玲が!」

 悲痛な叫びを上げながら、助けを求めてきた。

「おう、助けてほしいのは分かった。まずは止まれ。それから落ち着け」

「い、い、いの、い、い……!」

「だから落ち着け。なんだ、息も絶え絶えじゃないか。ほら、水を飲んで少し落ち着くんだ」

 田沼が近くの地面に置いていたペットボトルを差し出すと、受け取った男はがぶがぶと飲み干す。田沼の持っている水は一本だけで、余程混乱していたのか、その一本を男は一人で飲み干してしまった。若い女の方が恨めしそうな眼差しで、受け取った男を睨み付ける。

 水の冷たさと相方の視線で我に返ったのか。水を飲んだ男はハッとすると、バツの悪そうな顔をした。そして自分が説明責任を負ったと気付いたように、やや躊躇い気味な口調で話し始める。

「す、すみません……少し、気が動転して、いました」

「謝る事はねぇさ。で? どうしたんだ?」

「じ、実は、自分達の友達が」

「稲穂と玲が大変なの! 助けて! 早く警察呼んで!」

 男は丁寧な口振りで状況を説明しようとしたが、そこに女のヒステリーな叫びが割り込んできた。

「美香、落ち着け。いきなり話してもこちらの人達には」

「良いから警察、救急車も呼んでよ! ねぇ! 早く!」

 男に宥められる女 ― 美香、というらしい ― だったが、ヒステリーは治まる気配がない。むしろ触れば触るほど、雰囲気の鋭さは増していった。

 田沼も、混乱した女性の相手は難しいのだろう。顔を顰め、どうしたものかと困り果てる。水があれば飲ませて落ち着かせる手も使えるだろうが、生憎男が全て飲み干してしまった。もうその手は使えない。

 尤も、落ち着かせたところで田沼には荷が重い相手だ、とも加奈子は思っていたが。何しろこのおっさんが、子供の扱いは得意でも『女』の扱いは下手である事を加奈子は知っているのである。髪型を変えたり、可愛いアクセサリーをしてきても、言わなきゃ気付かない程度には。

 ならば此処は自分が出るしかない。

「お姉さん、私にその話聞かせてよ。このおっちゃん、スマホ一つろくに使えないから通報するにも時間掛かるよ?」

「あん? お前、俺だってスマホぐらい」

「女の子の気遣いは素直に受け取りなよー」

 加奈子が遠回しに「私に任せろ」と伝えると、田沼は口を閉ざす。ややあってからその口は開き、「任せた」という言葉が出てきた。

「はい。じゃあ、私が話を聞くねー。ほら、お姉さん。こっち行こ」

「え、ええ……」

 年下である加奈子に誘われ、美香は田沼達から少し離れた位置まで移動する。田沼と男が話し始めたのを見て、加奈子も美香に話し掛けた。

「それで、どうしたの? なんか警察を呼んでって言ってたけど」

「え、ええ……あの……」

 加奈子に尋ねられると、美香は一瞬口ごもる。とはいえ負い目などを感じさせるものではない。純粋に、頭の中で整理が付いていない様子だった。

 加奈子は続きを促す事はせず、美香の言葉を待つ。しばらくして、たどたどしい口振りではあるが美香はこのように語り始めた。

 曰く、大学の仲間四人で釣りをしていたらイノシシに襲われた、との事。

 イノシシは美香達を追い払うと、彼女達が釣り上げた魚を堂々と食べ始めた。美香達としてもその魚を食べようとしており、獲物を横取りされた形である。

 今日の成果を台無しにされて悔しい想いはあったが、イノシシが危険な動物だと知っていた美香と平次 ― 美香と一緒に来た、今は田沼と話している男の名前だ ― は傍観する事にした……が、稲穂と玲という友人カップルは、追い払うためイノシシに石を投げ付けてしまう。

 石をぶつけられたイノシシは、逃げるどころか友人カップルに襲い掛かった。

 友人カップルは慌てて逃げ、美香達も逃げ出した。幸いにして美香達はイノシシを振りきれたが……狙われた友人二人がどうなったか分からない。もしかすると今もイノシシに追われているか、或いは大怪我をしている事も考えられる。

 勿論すぐに自分達で通報しようとしたが、どうやら美香も平次も逃げている最中にスマホを落としてしまったらしい。

「お願い! 二人を助けて! 早くしないと二人とも死んじゃう!」

 かくして加奈子達に向けた第一声――――「助けて」につながる訳である。

「うん、分かった。警察と救急車だね。すぐに掛けるから落ち着いてね」

「お願い、お願い……!」

 カタカタと震えながら、美香は懇願してくる。その友達二人が、余程大事なのだろう。

 「イノシシにケンカ売る時点で割と自業自得じゃん」と思わなくもないが、人命が失われるかも知れない状況を見て見ぬふりも出来ない。加奈子は自分のスマホを取り出した。通信状態は良好。問題なく通報出来る筈だ。

「おっちゃーん、私警察に電話掛けとくねー」

 念のため、田沼に通報の意思を伝えておく。もしも通報を別々にしたら、イノシシが二匹いると警察が勘違いするかも知れない。連絡は一本だけにすべきだ。

 田沼も、通報という行為自体は止めなかった。別々に掛ける事も勿論勧めてこない。

「いや、通報は俺がする」

 ただし田沼は、加奈子からの、という一点については反対してきたが。

「え? なんで?」

「俺の方が詳しく話せる。あと、イノシシ相手となると猟友会が出てくる筈だからな。そいつらと打ち合わせする時、警察の話を聞けている方がスムーズに進められる」

「打ち合わせ? なんでおっちゃんと猟友会が打ち合わせなんかするの?」

「ん? そういえば、今まで言ってなかったか?」

 加奈子が尋ねると、田沼は口許に笑みを浮かべた。ちょっぴり自慢げで、子供っぽい笑みだ。

 ああ、こりゃわざと言ってなかったなこの人……加奈子がそれを悟るのに、五秒と掛からない。

「俺の本業は猟師だ。イノシシ狩りなら任せておけ」

 本来なら頼もしいこの言葉も、今の加奈子にはなんだか子供っぽさを感じてしまい、微妙に不安になった。

 とはいえその不安は、『カッコいい猟師』として活躍出来るのかという不安だ。田沼が怪我をするだとか、ましてや死ぬだとか、そんな不安は何も感じていない。田沼も、今この場ではおちゃらける程度には油断していた。美香と平次も、田沼が猟師と聞いて安堵している様子だ。

 何故なら加奈子達は知らなかったから。

 そのイノシシがどれほど恐ろしく、どれほど異質であるのかを、何一つ知らなかったのだから……




イノシシは怖いですよね(一般人感)
可愛いとも思いますけどね(動物好き感)
野生での生活も興味深い(生物系理系感)
滅べば良いのに(農業系関係者感)

次回は6/1(土)投稿予定です。

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