彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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幕間十三ノ十四

 木々の葉が赤味や黄色味を増していき、景色が日々移り変わる豊かな山の中腹にて、一匹の獣が居た。

 獣は鼻で落ち葉を押し退けながら、地面に転がっている木の実を一粒ずつ口に運んでいく。大きな虫を見付ければそれも食べ、運良くイモの類を見付けたなら迷わず貪り食う。

 獣にとってこれらの行いは普段通りの食事であり、しかしながら秋も半ばを過ぎた今となっては、必死にならねばならない活動だった。間もなく冬が訪れる。冬の山には食べ物が乏しい。今のうちに十分な脂肪を蓄えねば飢えで死ぬ……獣の頭にある小さな脳ではこんな難しい事など分からないが、しかし幾億の月日を掛けて育まれた本能が獣の肉体を突き動かしていた。

 そうして一日中ずっと食事を楽しんだ獣は、間もなく日が沈もうとしている事に気付く。そろそろ眠る時間だ。今日はたくさんの餌を見付けられたので、腹は十分に膨れている。恐ろしい暗闇の中を歩き回る必要はない。

 生物としての一仕事を終えた獣は、慣れ親しんだ寝床に戻ろうとした。餌の匂いにつられて少々険しい坂に来てしまったが、蹄がある四本の足で踏み締めればどうという事はない。上機嫌な歩みで獣は坂を登ろうとした

 刹那、パアンッ! と派手な音が鳴った。

 なんの音だ? 獣は疑問を抱いた――――が、その疑問は一瞬にして消える。いや、疑問だけではない。意識や幸福感さえも、一気に遠退いていく。

 獣は知らない。自分から数十メートルは離れた場所に、一人の人間が潜んでいた事など。その人間の手には文明の利器である猟銃が握られ、今頃硝煙の臭いを周りに漂わせている事も。

 そして猟銃から放たれた弾丸が、自らの脳天を直撃した事さえも。

 獣から意識は消え、力の入らなくなった身体は倒れる。人が幾万年と掛けて築き上げた文明は、野生の命をあっさりと奪い去った。生気を失った獣の身体は、今し方登ろうとしていた坂道をごろごろと転がり落ちていく。

 ……何処までも落ちていく。止まる気配はない、いや、むしろ加速している。

 獣を撃ち抜いた猟師は、大いに慌てた事だろう。折角の獲物が、どんどん自分から遠離っていくのだから。

 おまけに獣の身体が転がる先には、水飛沫が上がるほど激しく流れている川がある始末。

 猟師は茂みから跳び出し獣の後を追う、が、追い付ける筈もない。加速していく獣の身体に対し、猟師は自分までもが転がる訳にはいかず、おどおどとした歩みにならざるを得ないのだから。

 やがて獣の身体は、行く手にあった岩に当たって……止まる事なく跳ねた。軽やかに飛んでいった獣は、猟師の目の前で川に落ちてしまう。川は幅五メートル近い大きさがあり、水は激しく流れている。獣はあっという間に下流へと流されていった。こうなると最早どうしようもない。山に立つ猟師は、物悲しそうに下流を眺めていた。

 そして獣の身体は、延々と流される。

 底に沈み、空気のない中に浸り続けた。何時間、否、丸一日と流され、獣の身体はやがて下流域の中州に辿り着く。凍えるような風が吹き、水遊びをする人間の姿なんて何処にもない川に打ち上がった獣は、更に一日半ほどその場に置かれた。

 気温が低くなったこの時期では、ハエもシデムシも冬越しの仕度中。獣の身体は寒冷な大気の中でゆっくりと渇き、長らく残り続けるだろう。とはいえそれも暖かくなるまでの話。春の生温い雨が降れば、細菌と虫達が直ちに群がり、その身を自然の流れへと還すだろう。

 そう。これはこの時期だからこそ起きた、ちょっとした順番待ちに過ぎない――――

 筈だった。

 ……………

 ………

 …

 月明かりが照らす、三日目の真夜中。

 安らかな星の光を浴びていた獣の目が、開いた。

 濁りきった瞳が、激しく動く。今まで微動だにしていなかった全身が痙攣するように震え、のたうち、口からは腐臭を放つ赤黒い液体が溢れ出る。それからゆっくりと獣の伸びきっていた四肢を曲げ、大地を踏み締めながら伸ばし、立ち上がった。最初はゆらゆらと揺れる身体だったが、さながら蛹から羽化した蝶の羽が少しずつ固まるように段々と力強く大地を踏み締め、五分もすれば山の如く不動に至る。

 未だ穴が開いたままの脳天から、どろどろとしたスープ状の何かが溢れ、やがて止まった。三日間倒れていた獣は濁った眼差しで辺りを見渡すと、静かに口を開く。

【ゴオオオオボボオオオオボオオオオオオオオオオオオオオオオッ!】

 轟かせるは、地獄の釜が沸き立つかのような、身の毛もよだつ怪音。生者の息吹とは程遠い、亡者の呻き声。

 獣は、ゆらゆらと歩き出す。

 煌々と輝く都市の明かりに惹かれるかのように。半開きとなった口から、だらだらと涎を垂らしながら……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十四章 輪廻拒絶

 

 

 

 

 




はい、という訳で次回は日本に戻ります。
そしてまたヤバい輩が出現。
まぁ、ヤバい輩じゃないとお話にならないし(オイ

次回は5/25(土)投稿予定です。

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