現地時間の昨日夕方頃、中国北部の村に無数の怪物が現れた。
怪物は二種類。体長五メートルほどの巨大な昆虫と、体長十メートルにもなる巨大な鳥。どちらも人類側の兵器を嘲笑うかのような ― 特に鳥の方はミサイルも戦車砲も効かないぐらいの ― 戦闘力を有していた。圧倒的な力に劣勢を悟った中国人民解放軍は核兵器の使用を決定。総量三百メガトンにも達する、大規模核攻撃を実施した。
結果は散々なものだった。
巨大昆虫・巨大鳥類、共に核攻撃による 損害は軽微。それどころか核兵器起爆時の震動が原因か、地下に潜んでいた巨大昆虫を呼び起こしてしまった。地上に現れた推定個体数は七万を超えているという。地下にはどれだけ残っているかは予想すら出来ていない有り様だ。
噴出した大量の巨大昆虫は都市部に向けて進行。後を追って巨大鳥類も移動し、被害は中国全土に及んでいるという。政府機能も混乱し、一説には共産党指導部が行方不明との情報も……
「……酷い」
書かれていたあまりの内容に、自宅リビングで朝刊を読んでいた花中は思わず独りごちる。
危惧していた事が起きてしまった。
怪物達の恐るべき力を知る花中は、相手の力と数次第では核兵器を用いても根絶は難しいと考えていた。軍事兵器が通じない肉体であれば、数百度の高温や家をも吹き飛ばす爆風に耐えてもなんら不思議はないからだ。
そして相手の事をろくに知らないうちから駆除を試みれば、手痛いしっぺ返しが待っている。
中国はその先例となってしまった。人類に出来るのは、犠牲となってしまった人々から学ぶ事だけなのだが……そんな『上から目線』の物言いに、今正に襲われている身である人々が納得するだろうか。
懸念はそれだけではない。
「……ところでフィアちゃん、何してるの?」
花中は新聞を見ていた顔を上げ、リビングと隣接している和室の方を見る。
そこにはフィアが居た。
普段ならだらだらとテレビを見ている時間帯なのだが……何故か今日のフィアは、腕立て伏せをしていた。それも暇潰しといった様子ではなく、かなり真剣な、本格的な『トレーニング』のように見受けられる。
「ふっふっふっ。実はちょっと鍛えているのです! 昨日出掛けた時中々の強敵に出会いましたからね……昨日は引き分けに終わりましたが次会ったら今度こそこてんぱんにしてやりますよ!」
花中が問うと、フィアは大変楽しそうな声色で答えた。どうやら本当にトレーニングをしているらしい。
「……腕立て伏せしてるの、水で出来た、身体だよね? トレーニングになるの?」
「さぁ? でも漫画にはこーいう事をすると鍛えられるとありましたので多分なるんじゃないですか?」
尤も『筋トレ』がどんなものか、フィアはあまりよく分かっていないようだが。思い返せばほんの一月ぐらい前、清夏の能力を鍛えようとした時にもフィアはろくな特訓方法を閃いていない。自分の鍛え方さえもトンチンカンなのは、当然といえば当然だった。
恐らく効果がないであろうトレーニングを続けさせても……と思う花中だったが、フィアは楽しそうなのでそっとしておく。本当に効果がないかは分からないし、どうせすぐに飽きて止めるだろう、という考えもあった。
それに、今考えるべきはフィアの筋トレの有効性ではない。もっと重大な問題がある。
フィアは昨日、間違いなく中国に行っていた。フィア自身がそう言っていたし、そこで巨大な鳥やら虫やらと戦い、『核兵器』っぽい攻撃を受けたと ― 大変楽しそうかつ自慢げに ― 証言もしている。
語られた内容について花中からどうこう言うつもりはないし、そもそも疑ってすらいない。フィアの力であれば大海原を渡るのは勿論、原水爆の炎を耐える事など造作もない筈だからだ。フィアが人智を嘲笑うかの如く力を持っているのだと、花中はとうに知っている。
問題は、フィアと『互角』の……彼女にトレーニングの必要性を感じさせた生物がいたという事。
怪物のミュータント――――それにフィアは出会ったのだ。
おかしな事態ではない。動物のみならず植物や微生物、ウイルスさえもミュータントになっている。怪物がミュータントにならないなんて考えは、人類にとって都合の良い願望でしかない。
しかしこれは、人類にとって最悪の事態だ。
怪物だけでも手に負えないのに、そこにミュータントが加われば、最早人間に為す術などない。いや、手に負えないだけならまだマシだ。ミュータント化した怪物は既存の生態系を超越した存在。彼女達が暴れれば、生態系そのものが狂う事になる。
生態系が狂えば、また新たな怪物が現れるかも知れない。その怪物にもミュータントが現れれば、更に生態系がおかしくなる。やがて怪物以外の生物だけで成り立つ生態系にも狂いが生じ、その狂いが生命に何かしらの『
……まだ間に合う、今なら手はある。そんな保証は何処にもない。いや、正直に言えば、花中はもうこの世界の変化が手遅れ……手遅れ以上の最悪に足を踏み込んでいると思い始めていた。
怪物が暴れるだけなら、文明が崩壊しても、いずれ生態系のバランスが戻り、人が文明を再び手にするチャンスもあっただろう。
しかし怪物のミュータントが既存の生態系を破壊し、環境を激変させた時、そこに人間が生き残れる領域があるかは分からない。文明を再建させたところで、その文明は気紛れに砕かれる程度の代物。人類の生存には役立たないだろう。
怪物のミュータントの存在は、怪物がミュータント化するという『当たり前』の事だけを意味しない。人類が己の立場を
「花中さん? どうされましたか?」
不安に苛まれていると、フィアが声を掛けてくる。声に反応して顔を上げ、そこで自分が項垂れていた事に花中はようやく気付く。
どうやら心配させてしまったようだ。
「あ、ううん。なんでもないよ」
「そうですか。しかしそれにしても一人でのトレーニングも飽きてきましたねぇ」
「……飽きるの、早くない?」
「だって全然強くなってる実感ありませんもん。本当にこれ効果あるんですかね?」
効果の有無がそもそも疑わしいけど、一時間もやってないトレーニングで強くなった実感なんて出る訳ないでしょ。自分を追い込むほどの疲労もしてないし――――色んな考えが過ぎる花中。しかし敢えて口には出さない。本当にこのトレーニングに効果がないのか、花中には分からないからだ。
止めるにしても、数ヶ月は続けて効果を見てからの方が良いだろう。
「トレーニングって、そんなもんだよ。簡単に効果が出たら、人間なんて、みんな今頃全員、ムキムキだよ? 真面目にやるなら、多分三ヶ月は続けないと、ダメじゃないかな」
「ふーむ確かにその通りかも知れませんね……しかし飽きてきたのであんまり続ける気が起きませんし……あっそうです」
何か閃いたかのように、フィアがぽんっと手を叩く。
「花中さんも一緒にトレーニングしましょう!」
そして名案だとばかりに、花中をトレーニングに誘ってきた。
誘われた花中は、最初キョトンとし……それから驚きで目を見開く。
「ふぇっ!? わ、わたしも!?」
「花中さんと一緒なら私はいくらでもトレーニングを続けられる自信がありますからね! それに花中さんは所詮人間とはいえ流石に弱過ぎると思うのです。なんというかそのうち我々のケンカの余波だけで死にそうな気がします」
「うぐっ。そ、それは、否定しないけど……」
「まぁこの私と肩を並べるほど強くなるのは到底無理だと思いますがちゃんと身体を鍛えればきっと鉄砲ぐらいならなんとかなると思うんですよ。うん」
いや、鉄砲をなんとか出来る肉体は、存在していたとしても人類の頂点部分だけだよ。それだって小口径のしょぼい拳銃でギリだよ。
色々ツッコみたいフィアの意見に、花中の脳裏を過ぎる数々の言葉。今度の考えはちゃんと伝えようとする花中だったが、これらの言葉は口から出てこない。
「あらあら、さかなちゃんにしては良いアイディアじゃない」
虚空から現れたミリオンの、面白がってるとしか思えない言葉が割り込んできたからだ。
「み、ミリオンさん!?」
「おやあなたも私と同意見ですか?」
「ええ。はなちゃんの貧弱ぶりは、私としても大問題だと思っていたところよ。まぁ、銃弾を防ぐほどの筋肉が乗ると可愛さが損なわれそうだけど、そうじゃない程度の、つまり平均的な肉体は持ってほしいわよね。長生きしてもらうためにも」
「うぐ。そ、それは」
「否定から入るのが、はなちゃんの悪いところよ。今回は私も一緒にトレーニングしてみるから、一緒に鍛えてみましょ」
「……ミリオンさん、筋肉なんてないですけど、何処を鍛えるのですか?」
「んー、頭脳とかかしら? 例えば最近発売された恋愛小説で、若者の恋の作法について学ぶとか」
「一緒にやるつもり、全然ないじゃないですかーっ!?」
つまり横で本でも読みながら、ひーひー言ってる自分を面白半分に眺めるだけのつもりらしい。
ミリオンの考えを読む花中であったが、ミリオンは悪びれる様子もない。いや、花中に自分の思惑がバレたところで、気にもしないだろう。
「ふんお前なんかいらんのですよ。しっしっ」
恐らくミリオンの真意は、花中と一緒に
「あら、そんな連れない事言わないでよ。みんなで鍛えれば、相乗効果で一気にモリモリマッチョウーマンよ。なんの相乗効果かは知らないけど」
「お断りです! 花中さんこんな奴ほっといて私と二人きりでトレーニングしましょうねっ!」
「え。え、あ」
煽るミリオンに乗せられ、フィアは花中の手を掴んで引っ張る。取り合うつもりならここで花中のもう片方の手を掴めば良いのだが……ミリオンは片手を左右に振りながら、もう片方の手で口許を隠している。
この人、絶対ニヤニヤしてる!
自身の計略が成功して浮かべているであろうにやけ面。しかしそれを指摘する暇は、残念ながら今の花中にはない。
「さぁ花中さん行きましょう! 腕立て伏せにも飽きましたから次はランニングです! とりあえず九州の端辺りまで軽く走ってみましょうか!」
人智を凌駕するパワーで引っ張りながら、玄関まで己を連れていく『怪物』がいるのだから。
「な、なに、何が軽、ああああああアアアアアアアァァァッ!?」
花中は止めようとしたが、フィアは聞く耳持たず。
町にか弱い少女の悲鳴が鳴り響く。しかし人間にとって地獄のトレーニングが終わる事はない。フィアが飽きるまで続くだろうが、恐ろしい事に彼女は
今から出来るのは、この身がフィアの鍛錬の余波に耐えられますようにと居るかどうかも分からぬ神に祈る事だけ。
少しは鍛えておくべきだったと、これからトレーニングに向かう花中は過去の行いを悔いるのであった。
人類ほったらかしの戦いは終わりましたが、
世界は未だ変わらず。
次回は今日中です。