彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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孤独な猫達3

 決して、未知との遭遇ではなかった。

 それどころかこの二週間は一緒に暮らしていたし、学校に通う時も一緒に行動していた。他愛無いお喋りをした事も買い物を頼んだ事もあるし、スキンシップだって日夜交わしている。だから慣れたと言えば慣れたし、事実『それ』を目の当たりにしても、花中の中に衝撃と呼べるほどの驚きは生まれなかった。

 それでも、今まで目の前に居た黒猫が『人』になったと――――三体目のミュータントが現れたと理解するには、短くない時間が必要だったが。困惑している間無意識に後退りして十メートルほどの距離を開けたあたり、受け入れるのに時間が掛かった、と言うべきかも知れない。

「ふぅ。やっぱこの姿の方が良いね。程々に身体が引き締まって、動きやすい」

 如何にもリラックスしたように、今まで猫だった筈の少女 ― 猫少女と呼ぼう ― は肩をぐるぐると回す。此処、自然公園には街灯が疎らにしかなく、そもそも花中達の居る周りには一本も立ってないため、この辺り一帯は

宵闇の暗さが満ちているが、人間並に大きくなった猫少女の姿を認識するのに支障はなかった。

 肩の辺りまで伸びているふんわりとした質感の黒髪や、瞳孔が縦に割れている翡翠色の大きな瞳、少し釣り上がった目付きなど、少女の顔立ちには猫らしさが残っている。挑発的な笑みと相まって、本来あどけなく感じる筈の顔立ちに性的な魅力を感じずにはいられない。所謂小悪魔的な美貌だ。

 身体はもっとストレートに魅惑的である。うっすらと筋肉が見えるスレンダーなスタイルは野性的で、本能を直に揺さぶる美しさがあった。背丈こそ花中と同じぐらいの小柄さだが、纏う色香の強さは熟した大人でも出せないだろう。挙句その肉体を隠すのは僅かな『毛皮』のみ。毛皮は胸や腰回りを覆うだけで、九割裸と言っても差し支えない。卓越した魅力を持たねば痴女との誹りを避けられないそれは、しかし卓越した魅力を持つが故に、猫少女の美麗ぶりに拍車を掛ける。

 何処かに飛んでいってしまったフィアも、自分の隣に立っているミリオンも、どちらも美人ではあるが、二匹とは違う……どうして()()()()()()()()()()()()()。その『意味』を分かっている容姿に、同性相手にも拘らず花中は思わず生唾を飲んでしまう。

 むしろそれだけで済んだ、と言えるかも知れない。

 フィアに『何か』をしたであろう彼女に近付くなど、自殺行為以外の何物でもないのだから。

「あ、あなたは、一体……」

「説明なんてすると思う? アンタ達全員殺すつもりなんだけど」

 無意識に尋ねる花中だったが、猫少女がズシンと足音を鳴らして歩み寄ったのを境に、ふわふわしていた頭が一気に冷めるのを感じる。

 明確な殺意の言葉。

 これが脅しや冗談の類でない事は、猫少女が向けてくる眼光が物語っていた。あまりにも鋭過ぎる眼光は、最早獲物に向けるものですらない。まるで人間が自分の血を吸おうとする蚊を見下すような侮蔑と、それでは到底説明出来ないほどの嫌悪に満ちている。

「な、なん、で……わ、わたし、達、何かあなたを、お、怒らせるような、事を……」

「自分の胸に聞けば?」

 どうしてそこまでこちらを憎むのか――――猫少女は理由を答えてはくれず、今にも駆け出さんばかりに身体を傾けた。

 刹那、暴風が花中達を襲う!

「はぷっ!?」

 突然吹き荒れた風に、花中が取れたのは反射的な防御姿勢。両腕を自分の顔の前に出し、目を閉じて暴風に飛ばされないよう耐えた。隣に立つミリオンが腕を組んで平然としている中必死に抗う様は、傍から見れば非常に滑稽だろう。

 幸い風は一瞬吹き荒れただけで、辺りはすぐに静寂を取り戻した。恐る恐る、花中は窺うように瞼を開く。

 見えたのは、それこそ正に猫の如く四肢で地面に立ち、尻を高く突き上げ、頭を低くした姿勢を取る猫少女。心なしか目を閉じる前よりも、猫少女は自分達から離れていた。まさか今のは離れるための動きで生じた風なのかと、予測される猛烈なスピードに戦慄を覚える。

 しかしその考えは違っていて、違っていたと気付いたから、花中の戦慄は畏怖へと変貌した。

 ――――地面に、深い穴がいくつも刻まれていた。

 それは小さなクレータのように抉れていて、まるで足跡のように真っ直ぐ花中のすぐ傍まで続き、花中の一番近くのものが最も深くなっていた。明らかに猫少女の足よりも大きな穴だったが、暴風を起こすほどの機動力となれば足の力も相応に強い筈。大地が抉り飛ばされたとしてもむしろ自然だし、『足跡』がどれほど大きくとも物理的エネルギーの大きさを物語る指標でしかない。

 問題は、足跡が花中(じぶん)の傍まできている事。

 猫少女との距離はほんのさっきまでと比べれば、僅かに遠い。しかし花中は猫少女の動きが見えていない。

 だから猫少女が単に自分から離れただけなのか―――― ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のかは、分からないのだ。

「ちっ……あとちょっとだったのに」

 花中と違い、ミリオンは何かを捉えていたらしい。表情は如何にも憎々しそうで、敵愾心を隠そうともしない。猫少女も浮かべる表情は硬い。どちらにとってもこの結果は予想外、という事らしかった。

「……ちょっと、熱かった。何をした?」

「べっつにぃ~? ただはなちゃんの周囲三十センチ圏内に『自分達』を配置して、侵入する物体を無差別に加熱しただけよ。あと三センチ内側に来ていたら、あなたの可愛いお顔、ドロドロにしてやったのに」

 意地悪い言い回しで答えるミリオンに、猫少女は怪訝そうに眉を顰める。恐らくミリオンが『群体』だとは気付いていないが、得体の知れないモノとは判別したのだろう。猫少女は僅かに後退りし、ますます警戒心を露わにしている。

 対してミリオンは、既に警戒心など失せている様子。今浮かべているのは静かで、冷淡で、飽いたような表情。

「まぁ、良いわ。勘が良いのならこっちから手を下すまでの事だし。あー、さかなちゃんと違って生身ってのは良いわねー……内側まですんなりと行けるもの」

 猫少女に手を向ける動きにも感情の起伏は全く見えず――――

「だ、ダメぇっ!」

 あまりにも軽い仕草を止めるべく、花中は全力でミリオンの腕にしがみついた。瞬間ミリオンがうっとおしそうに睨んできたが、花中は怯える心を押し殺し、何もさせないとばかりにミリオンの腕をガッチリ抱えて放さない。

 尤も、意味ある行為かといえば答えはNOだ。京単位で収まるかも分からない規模の群体であるミリオンに、押さえられて動けなくなる箇所など何処にもない。やろうと思えば全身くまなく好きなところから『自身』を飛ばし、猫少女の体内まで侵入出来る。そして相手の内側から加熱能力を使えば、体内への直接攻撃+膨大な熱による気化・膨張作用により……どんな生物でも耐えられない、死神の一撃を与えられるのだ。

 恐らく先のミリオンはこれをしようとしていて、だからこそ花中は止めようとした。しかし人間如き力ではどれだけ強硬に出ようと決して止められない。だから花中は力ではなく、言葉でミリオンを引き留めようとする。

「だ、ダメです! 殺したら、ダメ! だって、まだあの子が、なんで攻撃、したのか、訊いてない!」

「訊く必要なんてないでしょ。あの害獣ははなちゃんに襲いかかった、だから殺すってだけの話じゃない。私の今の最優先目的がはなちゃんの長期生存である以上、アレにどんな理由があろうと関係ないわ」

「だからって、い、いきなり、殺すなんて!」

「大体私の能力はさかなちゃんと違って手加減が苦手なの。焼くか焼かないかだから」

「だけど!」

 いくら想いをぶつけても、ミリオンは揺るがない。まるで雪山のように堅牢かつ無慈悲な思想に、勇んだ花中の方が気圧される。ぶつかったこっちの方が折れてしまいそうだという考えが過ぎり、身体が本能的に逃げようとしてしまう。

 それでも諦めたら、きっとあの猫少女は殺される。何を思っていたのか、何を願っていたのか……どうして『ケンカ』になったのか、何も分からないまま。

 ――――そんなのは嫌だ!

「だから、なんでみんな、す、すぐに殺すなんて、い、言えるんですか! フィアちゃんとも仲良くなれたのだから、あの子とも、きっと――――」

 最早破れかぶれ。気圧される理性(あたま)を感情で無理矢理前へ前へと押し出し

 ズドンッ! という耳が破裂しそうなほどの爆発音で、花中の頭はあっさり白くなってしまった。

「ひゃうっ!? な、なに? なに?」

 不意打ちの爆音に花中は狼狽し、ミリオンと猫少女は視線のみを物音がした方へと向ける。さっきの音はなんだと花中だけが動揺のあまり右往左往してばかりで――――やがて、ピタリと固まった。

 決して、今まで忘れていた訳ではない。

 あれぐらいなら無事だろうという信頼はあった。目の前の危機や争いを避けなければという願望もあった。故にそれは頭の片隅へと追いやり、思考のテーブルに載せていなかった。

 それが今になって表に出てくる。

 『彼女』は今まで、何をしていた?

 激情型で喧嘩っ早く、人の話を殆ど聞いてくれず、自身と同レベルの知能を持った生命をなんの躊躇もなく殺せる『彼女』は、何故何時まで経っても此処に戻らない? 自身に危害を加えた不届き者に、何故致死級の鉄拳制裁をお見舞いしようとしない?

 戻りたくても戻れないのか、それとも……戻るのに時間が掛かっているのか。

「……ちょっと、いくらなんでもそれは……」

 ふと、ミリオンが呆然と言葉を漏らす。チラリと様子を窺ってみれば彼女が見ているのは今や眼前の猫少女ではなく、丁度その真反対――――花中が背を向けている方。『あの子』が居なくなった直後、()()()()()()()()()と共に濛々と煙を上げていた場所。

 今更ながら論理思考が駆け巡る。

 此処は公園だ。では公園内で、壊れた時に岩のような音を出す物とは何か?

 街灯? 遊具? 草の茂った地面? 植えられた植物? ……どれも違う。金属製が多い街灯や遊具が壊れたなら鋭い金属音だろうし、草の茂った地面や植物なら柔らかな音になる筈。崩壊音が轟くほどの大岩や、コンクリート製の大きな建物が公園内に存在しない事は、幼少期の記憶から確かだ。

 だけどたった一つ、コンクリートで固められた場所がある。

 ここまで考えを巡らせて、花中はようやく思い出した――――確かあっちの方には、『水飲み場』があったではないか。コンクリートで固められ、手洗い用と水飲み用の二つの蛇口があるものが。

 だからきっと、今自分の背後から聞こえている滝音の如く爆音は、『彼女』が出しているのだろう。

「……怒る、気持ちは、分かるけど……」

 でも、と思いながら花中は正面の『脅威』から目を逸らし、自分の背後へと振り返る。

「だからってこれはやり過ぎだよぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 そして、土塊を煙のように舞わせ、大地を吹き飛ばして爆音を奏でながらこちら目掛けて激走している――――幅五メートルはありそうな黒色の巨大ドリルを前にして、悲鳴とか罵声とか歓声がごちゃ混ぜになった叫びを上げた。

 原理も理由も動機も単純明快。偶然にも水飲み場まで吹っ飛ばされた『彼女』――――フィアはそこで多量の水をコントロール下に置き、この巨大物体を造り上げた。そして純粋な大質量と速度による攻撃に打って出たのだ。

 やられたからやり返す。ただそれだけの理由で。

「ミリオンさっさと花中さんを連れてそこから失せなさいそいつは私が仕留めます!」

 『巨大ドリル』は何時もよりもずっと忙しない早口の、自分で鳴らしている爆音と張り合えるほどの大声でミリオンに警告を飛ばす。ミリオンは何か言いたそうにドリルに向けて口を開き、しかし何も言わずに花中を背中から摘まみ上げるや、指示通りこの場から跳び退くように失せる。

「命令するならせめて返事するだけの間を作りなさいよバカぁ!」

 直後真横を通り過ぎるフィアにミリオンは、心底余裕のない罵声を浴びせた。

 抵抗の余地なく移動させられた花中だったが、何もしなかった分映像を網膜にしっかりと焼き付ける余裕があった。フィアが多量の水で造り上げたのであろうドリルは長さにして二十メートルオーバー。推進機関や胴体部分などは一切合財抜けていて、『ドリルの刃』だけで動いている。しかも凄まじい速度で回転し、接する芝生の大地をズタズタに引き裂きながら進撃。ドス黒い感情を、粉砕する大地と共に撒き散らしていた。

 ヤバい――――本能的な警告はあったが、猛進するドリルのスピードの前ではあまりにも愚鈍。理性で警告の内容を理解する事は勿論、そのヤバさを向けられている相手を気遣うなんて、ただの人間である花中には考えが過ぎる時間すらなく。

「砕けなさいっ!」

 フィアは躊躇なく猫少女へと突っ込み、ギャリギャリと鈍い金属音を響かせた!

 ……金属音?

「ぃいっ!?」

 フィアが上擦った声を上げる。ドリルが生んだ死角の向こう側故に花中には何が起きたか分からなかったが、しかし見えていたなら、傍に立つミリオンと同じく目をギョッと見開いただろう。

 何しろフィアの渾身の一撃であるドリルが、猫少女の筋肉質ながらも麗しい片手に先端を掴まれ、止まっていたのだから。

「……で? もう終わり?」

「――――嘗めんじゃありませんよぉっ!」

 それでもフィアに撤退の二文字はなく、声を荒らげて激昂するやドリル型にしていた『身体』を収縮・変形。金色の髪を携えた乙女の姿になってすぐ、刀のように鋭利な形状をした左手を振り上げる!

 これには猫少女も後退しようとしてか身体を仰け反らせるも、ぴくりと動いただけで止まってしまう。瞬間、動く猫少女の眼球が向いたのは自らの手。

 突撃したドリルの先端を受け止め、掴んでいた筈の猫少女の片手が、今度はフィアに掴まれていたのだ。水で出来ているが故に『身体』の形をいくらでも変えられるフィアにとって、相手に掴まれる事と掴む事は殆ど同義。掴まれた部分を変形させれば容易に立場を引っくり返せる。

 哀れ、逃げられなくなった猫少女にフィアは容赦なく太刀を振り下ろし、その身を斬り裂く

 ――――否。

 片手が残っているのは、猫少女も変わらない!

「よっと」

 あまりにも軽く上げる、自由な片手。

 それは打ち鳴らした重厚な鋼の音とは裏腹に、言葉同様軽々とフィアの腕を受け止めてみせた。

「残念。こんななまくら刀じゃあたしの皮すら斬れない」

「! こ……この……!」

 おちょくるように笑う猫少女。対してフィアは眉間に皺を寄せ、憤りを隠さない。即座に二の太刀、三の太刀をお見舞いする。

 鳴り響く斬撃、衝撃波で舞い上がる粉塵。挙句人の目には捉えられないスピードが加わり――――ミリオンに連れられ遠くに避難させられた花中が状況を理解した時には、人間だったら命がいくらあっても足りない激戦に発展していた。

「さかなちゃんったら、相変わらずの脳筋戦法ねぇ。水キャラなんだからもっと知的に戦いなさいよ本当に」

 どんな結果になろうとどうでも良いのか、他人事のようにぼやくミリオン。物理的な距離に比例して、関心すらも遠退いたようだ。しかし花中にはそう思えない。

 もうどっちが悪いとか、何が原因かなど言っていられない。命を奪い合う争いとなった以上、力尽くでも戦いを止めないと取り返しが付かなくなる。されどただでさえひ弱な花中にはフィアと猫少女の戦いを止める事は勿論、間に割り込む力すらない。勇気を振り絞ったところで、真っ赤なミネストローネが出来上がるだけだ。

「と、兎に角、止めないと! このままじゃ……」

 それでもいてもたってもいられず、花中は駄目元でミリオンにすがる。

 すると、花中への返事とばかりにミリオンが浮かべたのは、何故か戸惑った表情。

「止めるって……どっちを?」

 返ってきたのは惚けたような言葉で、

 花中は、言葉を詰まらせた。

「ふんっ! ふっぅ! ふぅうッ!」

 見れば、フィアが執拗に、何度も腕の『刃』を放ち続けていた。その速さは周囲の大気を掻き回し、一面に広がる芝生を薙ぎ、時には巻き上げる。花中の目には全体的に何かが動いているようにしか見えず、太刀筋などさっぱり分からない。例え陸上生物最強格であるアフリカゾウだろうと、この猛攻の前では一瞬にして輪切りの食肉と化すだろう。

 だが、フィアの攻撃は激しさを増す一方。何時までも何時までも、攻撃の手を緩めない……緩められない。

 象をも殺す一撃を何十発も食らわせたのに、猫少女は未だ汗一つ流していないのだから。

「よっと、ほっ」

 目にも止まらない速さの斬撃を、それ以上の速さで猫少女は受け止め、いなしていく。素手をぶつけている筈なのに打ち鳴らす音は金属の如く重く、鋭い。傷付く気配すらない。

「何なんですか! なんでいくらやってもこのっ! このっこのこのぉっ!」

「なんでと言われてもねー……」

 苛立ちから加熱していくフィアに比べ、猫少女はあくまで冷静。表情もつまらなそうで、

「ぶっちゃけ弱過ぎ。あと遅過ぎ」

 放つのは気怠げで、見えない『蹴り』。

 次の瞬間、フィアはあまりにも呆気なく吹っ飛ばされてしまった。まるでゴール目掛けて蹴られたボールのように真っ直ぐ跳んでいく姿に、ほんの数十秒前まで二十メートルもの『巨体』を誇っていた名残はない。しかしフィアの重みが消失していない事は、落下し、転がるだけで軌跡を描くかの如く削られる地面が物語っていた。重量と勢いの釣り合わない異様な光景は何十メートルと続き、公園に消えない傷跡を刻み込む。

 外側など所詮『鎧』に過ぎないフィアにとって、その一撃は決して致命的とは言えない。それでもあまりにも容易くあしらわれたなら心が抉られる。プライドが傷付けられる。

 ましてや数十メートル先で佇む猫少女の視線が、地面に転がる自身を僅かでも見下ろしているとなれば尚更だ。

「おのれぇぇぇぇぇぇ……!」

「うーん……力の差を見せつければ怖がると思ったのに、全然そうならない。やり方を間違えたのか、コイツがそういうのを気にしないだけなのか……というか、そもそもなんか人間じゃないみたいだし……」

 挙句睨みつけても意に介さないどころか、呆れたように自分の顔に手を当てながらぼやき、

「面倒だから、もう終わらせちゃおうっと」

 手加減をしていたと匂わされたら、ブチリと切れてしまうのも仕方なかった。

「ふ……ふ……うふふ……ふはははははははははははははははっ! もう終わらせる! つまり何時でも終わらせられたと! 今まで手加減していたという訳ですか! あっははははははははははは!」

 笑う、笑う、笑いまくる。目に宿した殺意と憎悪と苛立ちを、フィアは笑い声として吐き出しながら立ち上がる。

「奇遇ですねぇ私も本気なんて微塵も出していなかったんですよっ!」

 そして先程まで振り下ろしていた『刃』を手の形に戻すと、未だ数十メートル離れたままの猫少女に向けて、力いっぱい腕を振った。

 ――――刹那、何時の間にかしゃがんでいた猫少女の背後で、木々や大地が吹き飛ぶ!

 吹き飛ぶと言っても、爆発とは似ても似つかない。破片の断面はいずれも鋭利な刃物でスライスされたように滑らかで、さながら()()()()()()よう。十数メートルにも渡り、無差別に何もかもが切断されている。

 さしもの猫少女もこれには表情を変える。敵意だけだった眼差しに警戒感を滲ませ、先程まで気怠げだった表情は強張り始めていた。

「――――今のは……」

「ちっ。避けましたか。私のとっておきの『必殺技』だったんですけどねぇ」

 忌々しげに呟くフィア。彼女の発した『必殺技』という単語が耳に届き、花中の脳裏に一週間とちょっと前の出来事が過ぎる。

 フィアにとって、ミリオンとの出会いは想像もしていなかった出来事だった。それは自分のような存在が他にもいた事のみならず、自分の能力の通用しない『強敵』という意味でも、だ。そしてその出会いは心の根本を変えるには至らずとも、フィアに一つの懸念を抱かせた。

 即ち、今後ミリオンのような敵が現れないとも限らない、という事。

 負ける気なんて毛頭ない。しかし苦戦するよりかは楽な方が良い――――そう思ったフィアがほんの数分で考え、数日で実用化し、ミリオンには内緒だと言って教えてくれたとっておきの技。大量の水を〇.〇一ミリ以下、髪の毛よりも細く圧縮して強固な『糸』を作り、表面に微細な刃を生成。その表面を高速循環させる事で電動ノコギリのように機能させ、鋼鉄すら熱したバターのように易々と切り裂く力を持たせる。更には細さと水の透明性によってその『糸』は不可視というおまけ付き。

 どんな相手でも確実に殺す事を目的とした、文字通りフィアの『必殺技』だ。これだけでも十分過ぎるほどに容赦ない一撃だが、この技の威力はこんなものでは留まらない。

「しかし次はありませんよ!」

 誇るように叫ぶや、フィアは数度腕を振るう。ただし今度は何も起こらない……花中の目にはそう映る。しかし何も起きていないどころか、えげつないほどに事態が進行している事を花中は知っている。

 振るった腕から放たれた危険な『糸』が何本も……何十本、それとも何百本か……フィアにしか分からない数だけ、或いはフィアにも分からないほど大量に、あの場に展開されている筈なのだ。今頃『糸』は網の目状に猫少女を包囲している事だろう。それを一気に内側へと集結させればもうおしまい、あらゆる物体は逃げる事すら許されずに細切れにされてしまう。

 フィアの攻撃を今まで平然と受け止めていた猫少女も、『糸』の一撃に耐えられない事は最初の『糸』をしゃがんで避けた猫少女自身が物語っている。このままでは猫少女は細切れの肉塊だ。そんなのは花中の望む事ではない。今すぐにでも叫んでフィアを止めなければ。花中は反射的に口を大きく開いた。

 なのに、頭にこびりつく疑念が声を止める。

 フィアのあの技の最も理不尽なところは、威力や包囲網を作れる点ではなく、不可視だという事。見えない攻撃は誰にも避けられない。気が付いた頃には全身が肉塊に変わり、身体がバラバラに崩れるまで自分が死んだ事すら分からない……あの『糸』はそういう攻撃だ。ハッキリ言って反則、人間には対処不可能な技である。

 ――――じゃあ。

 あの猫少女は最初の『糸』の一撃を、どうやって躱したのだろう?

「これで終わりです!」

 花中がそれを考えられたのはほんの一瞬。最早猫少女しか見えていないフィアは考え込む花中の顔など気付いてもくれず、掲げた片手を見せつけるように握り締め、

 そして、猫少女の周りで()()()()が噴出する。

 まるで火薬でも使ったのかと思うほどの大爆発。空気を含み白く濁った水が四方八方へと伸び、おぞましいほどの破壊力を示していた。猫少女の姿は水煙に飲まれて見えないが、全方位で同時に、かつ広範囲で起きた爆発。直撃は避けられまい。

 だが、これは違う。

 これは『切断』では、ない。

「……はい?」

「ふぅ。流石に、今のは危なかった」

 キョトンとするフィアに続き、吹き上がる水煙の中から心底安堵した声がする。煙は水滴となって地面に降り注ぎ、徐々に色が薄れていく。

 やがて爆風の中心部が見えるようになった時、そこには全身ずぶ濡れになりながら、しんどそうに肩を回す猫少女が立っていた。フィアはギョッと目を見開き、身動ぎしながら後ずさる。

「な……馬鹿な!? あの攻撃をどうやって……!」

「ん? あー、さっきのは本当にヤバかった。見えないし、そのくせあたしの身体を切り裂くし。色々とギリギリだった」

 そう言ったきり、しばし考え込むように空を仰いで口を噤む猫少女。

「流石に皮一枚切られた感覚で見えない『糸』の位置を特定して、肉に到達する前に躱すなり切り落とすなりする、ってのはしんど過ぎだね。三度目はやりたくない」

 ようやく開いた口から出てきた言葉はまるで世間話のように軽々しかったが、フィアと、遠くで聞いていた花中を凍りつかせるには十分な威力を持っていた。

 猫少女が何を言ったのか? フィアは分からなかったのか唖然としたままで、分かってしまった花中は、カタカタと身体を震わせる。

 つまりはこういう事だ。迫り来る無色透明な『糸』……目視で確認出来ないそれをこの猫少女は、直に『触って』識別したのだ――――言葉通り薄皮一枚を切られた段階、瞬き一回にも満たない刹那の瞬間で。

 あり得ない。

 そう叫びたくなる花中だったが、今までに起きた光景が脳裏に蘇る。刃物すら通さない強靭な肉体、数十トンはくだらない質量を片手で受け止める出鱈目な怪力……そして今度は滅茶苦茶な反応速度。

 フィアが『水を操る』能力を、ミリオンが『熱を操る』能力を持っているように、ミュータントである筈の猫少女もなんらかの能力を持っているに違いない。どんな能力ならばこれらが可能なのか……考えるまでもない。

 身体に刃物が通らないのは、純粋に頑丈だから。

 数トンはくだらない質量を片手で受け止められたのは、凄い怪力を持っているから。

 一瞬の間に動き回れるのは、それだけ反応速度に優れているから。

 見たものをそのまま言ったような、子供染みた原理の説明。しかしそうだとしか思えない。そしてこれが予想通りなら、猫少女の能力は呆れるほど単純であり……理不尽。

 『圧倒的身体能力を誇る』。

 それが花中の予想する、猫少女の能力。全てを正面から破壊し尽くす力の前に、一体どんな小細工が通用すると言うのか。

「はなちゃん、もう一度聞くわ。どっちを止めれば良いの?」

 今になって『本当の状況』を理解した花中に、改めてミリオンが問い掛けてくる。

 殺されそうなのは、フィアの方だ。ならば止める相手は猫少女の方。しかし友達であるフィアと違い、猫少女はこちらの話に耳を傾けてはくれまい。現状猫少女を止めるには暴力以外に術がなく、圧倒的な力を止めるにはそれ以上の力を持ち出すしかない。ミリオンならばそれが可能だろうが、彼女の能力は最早力を越えて『死』そのものだ。ミリオンが『力』を振るえば、猫少女の命は易々と潰えてしまう。

 誰も死なせたくないから争いを止めたいのに、争いを止めるには相手を殺すしかない。

 見ず知らずの猫の命か、それとも一番の友達の命か――――天秤は容易に傾くのに、手を伸ばせない。重い方が掴めない。納得出来ない決断に、覚悟が決まらない。

「さーて、と。もう一度さっきのをやられる前に、今度こそ止めを刺さないとね」

 だが、悩む事すら許されないのか。流石に危機感を覚えたであろう猫少女が、戦いを終わらせようと歩み始めた。フィアは距離を取ろうとしてか後退りしていたが、猫少女のスピードの前では焼け石に水。ズシン、ズシンと、猫少女は大地に傷跡を残しながら進み――――

 花中の青ざめていた顔に血の気が戻った。

「(……足跡……?)」

 今やそこら中に刻まれた、フィアと猫少女の足跡を見る。

 猫少女が歩く度に付けている、この足跡はなんだ?

 猫少女の身体能力は確かに出鱈目だ。しかしいくら出鱈目でも、以前フィアが言っていたように、ミリオンが語っていたように、決して不思議な何かではない。生命が進化の果てに手にした力であり、人間には到底理解出来ない難解さはあっても、現世の理に反していない純粋な科学的事象だ。

 理論や原理は分からない。だが科学に則っているのなら、必要な『もの』は見えてくる。圧倒的パワーを生み出し、支えるのに必要なのは『アレ』しかない。そして『アレ』が想像通りある事は、フィアが散々証明してくれた。

 だったら――――

「やれるものならやってみなさい! 返り討ちにしてやります!」

 フィアの威勢の良い怒鳴り声が花中の耳に届く。四足と見間違えそうなほどの前傾姿勢で猫少女と対峙する姿に、ハッタリなんて感じられない。フィアの性格的にも本当に返り討ちにしてやる気満々……むしろ自分から殴り掛かってもおかしくない。

 自分のやろうとしている事が本当に上手くいくか、考える時間はないようだ。けれども先の『妥協案』と違い、花中は決断を躊躇しない。

 ようやく浮かんだ、やってみたい秘策。迷うぐらいなら勝手にやってしまえと――――フィアは教えてくれた!

「フィアちゃんっ!」

 肺の中身を全て吐き出さんばかりに、花中は叫ぶ。その叫びにフィアと猫少女は同時に振り返り、フィアはパチクリと瞬きを、猫少女は猜疑心と敵意の眼差しを向けてくる。

 フィアは兎も角猫少女に睨まれた花中は、わたわたとミリオンの後ろに身を隠す。結局自分の問いに答えてもらえなかったミリオンはちょっと不満げ。頭をポリポリと掻いた後、そっぽを向くように花中から顔を逸らした。

 その仕草にちょっと心が離れたような感じがして胸がチクリと痛むが、泣いている場合ではない。花中はフィアの目をじっと見つめ、フィアも花中の目を見つめ返す。

 それから一回、二回……三回と息を吸っては吐いて、吸っては吐いて、最後に吸って、

「頑張って!」

 眩い笑顔と一緒に、三度目の息と大声を吐き出した。

 ――――花中が言ったのは、これだけ。ハッキリとした作戦でも、遠回しな言い方でも、秘密の暗号でもない。純粋無垢な、子供の声援だ。フィアも流石にしばらくはキョトンと花中を見つめるばかり。

 それでも最後は、野生の表情をふにゃりと蕩かし、笑ってくれた。

「はいっ! 全力で期待に応えさせていただきます!」

 そして衝撃で粉塵が舞うほどの勢いで自らの拳同士をぶつけ、気合を充填。視線を花中から猫少女に戻した。今やその顔に敵意も、警戒心もない。

 あるのは勝利を確信しきった、腹立たしいほどにふてぶてしい笑みだ。

「……何かと思えば友情ごっこ? くっだらない」

 反面、猫少女は苛立ち気味。しかしフィアはその気持ちを逆撫でするように「ふふん」と鼻で笑ってみせる。

「分かってませんねぇ。友達からの声援は何よりも力になるものですよ」

「ああ、そう。まぁ、あたしに敵うとは思わないけど」

「おやおや随分な大口を叩くものですね」

 手を大きく左右に広げ、怪しく指を動かすフィア。

「それが大きな間違いだって事をここで思い知らせてやりますよっ!」

 そしてパンッ! と力いっぱい手を叩き、

 次の瞬間、フィアの背後から巨大な八本の『水の触手』が生えた!

「っ……」

 一瞬身を強張らせた猫少女だったが、しかしその緊張はすぐに幾らか和らぐ。というのもフィアが伸ばした『水の触手』は迂回するようなコースを進み、猫少女に近付かなかったからだ。右に四本、左に四本。きっちり別れ、ぐるりと猫少女を取り囲む。

 そうして完成したのは巨大な水のケージ……即席の檻で、フィアは猫少女を捕らえたのだ。

「……ふーん。逃げ道を塞いだつもり?」

「ええその通り。言っときますけどこの水には触れない方が身のためですよ。ヤッバイ仕掛けを盛り沢山にしときましたからね」

「ふん。触る必要なんてないね」

 身を屈め、猫少女はじっとフィアを見据える。誰が見ても明らかな、突撃の体勢。

 それを目の当たりにしたフィアは人差し指を立てるや、ちょいちょいと指先を手前に振り動かす。誰が見ても明らかな、挑発。

 双方共に退く気なし。チリチリと、外から見ているだけの花中でも首筋が痛くなるような殺気をぶつけ合う。

 やがて火蓋は、踏み出した猫少女の爆音(あしおと)と共に落とされた。

 ――――後はもう、猫少女にしか分からない世界。

 音すらも追随出来ない速さで駆け出した猫少女の行く手を阻むのは、無数に張り巡らされた無色の『糸』。

 触れれば頑強な己の皮膚でも耐えられないそれを、猫少女は神速の反応で対処する。見えないのだから触るしかなく、全身の感覚を研ぎ澄ます。そしていざ薄皮一枚でも切れたと分かったなら瞬時に身を退き、『糸』が持つ刃に対し垂直に放った手刀で叩き切る!

 余程緻密かつ継続的にコントロールが行われているのか、切り裂いた『糸』は猫少女でも反応しきれない時間で破裂。水の散弾を食らわせてくるが、人間なら余波で粉々になるだろう衝撃も猫少女には肌を撫でる程度の刺激でしかない。

 突進、猛進、快進。シンプル故に何人たりとも寄せ付けない力は全てを粉砕し、猫少女の歩みは止まらない。されどそれに気付いているのは猫少女自身だけ。誰も彼女に追い付けず、真っ正面で対峙するフィアですら表情一つ動かせない。

 例えあと三歩も大地を蹴れば二人がぶつかってしまうだろう距離になっても、それは変わらない。

 猫少女はついに拳を握り締め、大きく振りかぶる。今までとは貯め込んだエネルギーが桁違いな動きも、見えなければなんの情報にもならない。フィアに出来るのはその拳を真っ向から、なんの構えも出来ずに受け止める事のみ。

 ビキビキと肉が軋むほどに硬く握られた拳を放つべく、猫少女は最後の一歩を踏み締め

 ずるんと、身体が傾いた。

「っ!?」

 まだ拳は構えたまま。なのに勝手に傾く身体に猫少女は唖然となる。それでもすぐに辺りを見渡そうと目を超絶の速さで動かし、情報を得ようとしたのは獣だからこそのなせる技か。

 しかし異変が『足元』で起きていたと気付いた時にはもう遅く。

「ぷぎゃっぼっ!?」

 ドボンと音を立て――――猫少女は()()()

「な、何!? こ、これは……!?」

「いやっほー! ぐぅーれいとっ! 大成功でーすっ!」

 狼狽える猫少女を余所に、フィアは心底嬉しそうにはしゃぐ。展開していた水触手をボンッ! と弾けさせて花火のように演出し、両腕を広げながらぴょんぴょん跳ねて喜びを表す。腕を伸ばせば届く距離まで猫少女が迫っていた事など気にも留めていない……そうなる事が分かっていたかのように。

 隙だらけの姿を曝すフィアだったが、けれども猫少女に追撃する余裕はない。

 猫少女が落ちた『地面』……そこは今、大きな泥水と化していた。さっきまでちゃんとした地面だった筈なのに、今では見る影もない。猫少女の身体は殆ど沈んでしまい、頭と、時折もがく手が出てくるだけ。身動きすら出来ていない。

 追撃どころか、これでは逃げる事も儘ならないだろう。

「はぁぁぁぁぁ……う、上手く、いったぁ~……」

 そんな猫少女の様子を遠くから見て、安全だと確信した花中はのろのろと駆け出した。ミリオンも後ろからついてきて、二人でフィアの傍まで行く。

 花中の接近に気付くと、フィアは両手の掌を花中に見せつけるように向けてきた。なんだろう? と首を傾げて考える事数秒、花中は急いでハイタッチ。にへっと互いに笑い合う。

 それから、花中は泥水……フィアに用意してもらった『罠』に落ちた猫少女の下へと歩み寄った。

「あ、あの……大丈夫、ですか? 息は……」

「これは一体なんだ!? 何をした!」

「ひぇっ?!」

 心配して声を掛けたところ怒鳴られてしまい、花中は小さな悲鳴を上げて尻餅を撞く。いきなりの大声に心臓はバクバクと音を鳴らし、息が乱れて声が出ない。

「簡単に言うと、アンタは見事罠に引っ掛かった訳」

 代わりとばかりに、ミリオンが猫少女の疑問に答えた。

「罠!? 罠って……」

「引っ掛かっても分からない? 落とし穴よ。アンタが今すっぽり嵌まってる、ね」

「そんな事言ってるんじゃない! こんな落とし穴、すぐに用意出来る訳がっ!」

「さかなちゃんに水を操る力があるのは、あれだけやりあったんだからあなたも察しているわよね? その力を使って大きな落とし穴を作ったの。表面の地面だけを残し、その下は泥水で満たす……作業自体は簡単だもの、時間なんて掛からないでしょうね」

「ぐ……こ、こんなくだらない罠でなんて……」

「シンプルな方が強いものよ、あなたみたいに。それに、重たいあなたにはこれ以上ないほど有効なトラップじゃないかしら?」

「……!」

 嫌味ったらしくミリオンに訊き返され、猫少女は砕けそうなぐらい強く歯を食い縛っていた。

 猫少女は()()

 それが花中の気付いた、猫少女の力の『根源』だった。猫少女の能力がシンプルな『強さ』であるなら、その強さを生み出すのもまたシンプルな仕組み……筋肉量の多さだと考えたのである。それに如何に力が強かろうとも、反動を受け止められる重さがなければ殴った傍から自分の方が吹っ飛んでしまう。あの怪力に見合った、映画に出てくる怪獣染みた重量が必要な筈だ。

 その考えを裏付けるように、猫少女が踏みしめた場所には深々と足跡が残り、数十トンはあっただろうフィアを蹴飛ばしても猫少女の身体は微動だしなかった。花中とさして変わらない小さな身体だが、間違いなく力相応の重さがある。どうすればそんな重量があの小さな身体に収まるかは分からないが、そこは『人智を超えた』理論によるものだろう。要するに、人類の科学では計り知れない領域だ。

 それに重たい事さえ分かってしまえば、これ以上の解析は必要ない。

 落とし穴は、相手が重ければ重いほど確実に発動する。しかもどれだけ反射神経が優れていようと、踏み締める地面がなければ跳び退く事も出来ない。猫少女にとって、落とし穴は致命的に相性の悪い罠なのだ。

「ああ、勿論落とし穴に満ちているのはただの水じゃないわよ。アンタの重さならほっとけば間違いなく水底に沈むけど、底までいったら地面を蹴って脱出されそうだからね。身体がぷかぷか浮いちゃうように、さかなちゃんに水の密度を変えて浮力の調整してもらってるの」

「想像以上に重くて大分深くまで沈みましたけどね。まぁ完全に想定外だった場合は全身が沈むのでそのまま窒息させてやりましたけど……ちなみに水を蹴っても無駄ですよ? 密度は高めましたけど流体の性質は残していますから蹴っても足が空回りするだけですので」

 意地悪く笑いながら、フィアはミリオンの話を補足する。自信満々に胸を張り、あたかも自分だけで取った手柄のよう。

「それにしても流石は花中さんですね! このような素晴らしき名案を閃くとはやはり敬服致します!」

 その癖こうも素直に他人に功績を明け渡してしまうのだから、花中は手柄云々と考えてしまった自分がなんだか恥ずかしく思えた。

「そ、んな……わ、わたしは大した事は……ミリオンさんが居なかったら、バレちゃってただろうし……わたしより、ミリオンさんの方が、凄いよ」

「えぇーお使いなんて小学生でも出来るじゃないですか。コイツなんて居ても居なくても大した違いなんてありませんよ。花中さんの方が絶対凄いですって」

「さかなちゃんったら相変わらず手厳しいわねぇ。いっそ清々しいわ」

 あからさまな依怙贔屓に怒る気もしないのか。フィアの物言いにわたふたする花中に対して、ミリオンは気にも留めていないらしく鼻で笑うだけだった。

 ――――この落とし穴作戦の立案者は花中である。

 猫少女の動きを止める術として、花中が思い付いたのは『水に浮かべてしまう』事だった。猫少女は重過ぎる。推定重量数十トンのフィアを受け止めた事から、彼女の推定体重は数十トンオーバー……これでは水どころか水銀にすら浮かべない。だとすると今までの猫生(じんせい)で泳ぎを学ぶ事は、機会すらなかった筈だ。浮かべてしまえば身動きを封じる事が出来るとの確信が花中にはあり、そのために必要な高密度の水をフィアなら作れるという信頼もあった。

 しかし問題もある。何しろ猫少女とフィアは既に戦ってしまっているのだから、「ここで戦うのは一旦止めましょう。ところで、あちらの池に行きませんか?」なんて言っても無視されるだけ。そもそもフィアが水を使って戦う姿を見ているのだから、水場なんて近付いてくれる訳がない。

 ならば罠 ― そう、落とし穴だ ― を作るしかないのだが、これが難しい。罠と言うのは、基本的に存在を知られてはならない。受けたダメージがそのまま罠の構築につながったミリオン戦ではどうにかなったが、今回作りたい落とし穴にはそのような妙案が閃かない。よってフィアに事情を説明して落とし穴を作ってもらう必要があったが、しかし説明するという事は、情報を言葉として発するという事。

 つまり猫少女に、作戦がつたわっ恐れがあった。性質(タチ)の悪い事に猫少女は驚異的な身体機能を持っている。筋力や視力のみならず、万一聴力にも優れていた場合、耳打ちでは聞かれてしまう恐れがあった。

 そこで花中はミリオンに伝言を頼んだ。まず、花中がミリオンの背中に指で文字を書く。普通ならクイズとして成立する難易度だが、群体であるミリオンならば指の跡を保存し、読み取れる。そして分離したミリオンがフィアに接触し、表面で振動――――骨伝導のようにして、音を伝えたのだ。

 猫少女に睨まれた時ミリオンの背中に隠れたのは、ミリオンに文字を伝えるため。

 やたらうっとおしく深呼吸を繰り返したのは、ミリオンが話を伝えきるまでの時間稼ぎ。

 フィアが自分の拳同士をぶつけたのは、「ミリオンの伝えた音が聞えた」という合図。

 猫少女を囲うように水触手を伸ばしたのは単なる時間稼ぎであり、挑発的な言い方は接近戦に持ち込ませるための誘導。

 花中がフィアの名を呼んでから、こっそりやっていた諸々の細工……全部成功して本当に良かったと、花中は安堵の息を吐いた。

 とはいえ、これで全てが解決したかといえばそれも違う。

「……………良し」

 花中は改めて猫少女を見遣る。身動きが取れなくなったとはいえ、桁違いの身体能力を持つ相手。吐息一つでも自分を吹き飛ばし、大怪我を負わせるぐらいは出来るかも知れない。

 それでも花中は不用心と言っても良いぐらい無防備に近付き、目線を合わせるためにしゃがみ込む。目が合った瞬間猫少女はこちらを鋭く睨み付けてきたが、花中は怖いとは思わない。

 むしろ目の前の小さな子猫が、これから何をされるのかと怯えているようにも見えて。

「あの……で、出来ればで良いので……お話、しませんか?」

 だから花中は、出来るだけ優しく話し掛けた。

「お前達と話す事なんてない! こんなの、すぐに抜け出して……!」

「大丈夫、です。あなたに、酷い事は……その、もう結構、やっちゃった気も、しますけど……でも、もうしません。だから、あの、なんで、攻撃してきたの、か、教えて、くれませんか?」

 花中は、一番知りたい事を尋ねる。どんな事情があるのか、どうして攻撃してきたのか。何か困っているのなら、助けになれるかも知れない。だけど知らないままでは何も出来ないから、教えてもらうしかない。

 勿論、もしかしたら自分達が何か怒らせる事をしてしまった可能性もある。自覚はないが、もしそうなら……フィアとミリオンは謝らないだろうけど、自分だけでも謝っておきたいと花中は思っていた。

「なんで、だって……!?」

 ただ、よもや歯茎を剥き出しにするほどの形相で憤怒を示されるとは思わず、花中は思わず怯んでしまう。

「あ、ぇと、そのぉ……な、何か、怒らせる事、しちゃってたの、で、しょう、か? ほ、本当に、心当たりが、なくて、あの……」

「よくも抜け抜けと! まだしらばっくれるつもりかッ!」

「ひゃうっ!?」

 空気を震わせるほどに大きく、それすら霞むほどの鬼気迫る感情を乗せられた叫びを浴び、花中は尻餅を撞いてしまう。本当になんの心当たりもない。花中は怯えと困惑で固まってしまい、その場にへたりこんだままになってしまう。

 そして猫少女は花中に向けて、本心からの咆哮を上げる。

「お前達が『猫殺し』なのは分かってるんだ!」

 断言する猫少女の声はとても大きかったのに、辺りは銀世界のように静まり返った。

「……………え?」

「お前達みたいなのが居るから、みんなが、兄さんが……!」

 力強く抵抗と敵意を見せる猫少女だが、しかしその意思は、目を丸くし口をぽっかりと開けている花中の頭を素通りする。もし花中が周りを見渡せたなら、意味が分からないとばかりに首を傾げるフィアと、顔に手を当て項垂れるミリオンの姿が見えた事だろう。

 花中達は『猫殺し』ではない。少なくとも花中は自分自身についてはそう言い切れるし、フィア達についても、彼女達は猫を殺す事に躊躇はないだろうが、殺す理由なんてないのでやっていないと信じられる。そもそも自分達は『猫殺し』を捕まえようとしていた。猫少女の主張はあまりにもとんちんかんである。

 しかしよくよく思い返すと、「こんなに人馴れしているのですから殺してくれと言っているようなものですからね」とか「獲物にするのに丁度良い」とか「大人しくしていたら痛くはしませんからねー」とか、如何にも犯人っぽい事を言っていた『人』が居たような気がする。挙句、身の危険を感じたのか『その人』は片手を刃に変えて先手を打とうとした訳で。

 そりゃあわたし達を『猫殺し』だと思っても仕方ないかもー……などと思いながら花中は頷き、

「って、フィアちゃんのせいじゃーんっ!?」

 相変わらず首を傾げたままのフィアに、とりあえず自分が何をしたのかを分からせる事から始めるのだった。




次回は7/31投降予定です。

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