大桐花中は朝が苦手である。
しかしそれは、夜更かししていて睡眠時間が短いから、などの自業自得な理由ではない。花中は毎晩夜十時までには布団に入り、学校に行く日でも起きるのは朝六時、つまりは八時間以上眠るようにしている。寝付きだって悪くない。
問題なのは体質的なもので、いくら寝ても、身体が暖まらないとどうにも眠気が飛んでいかないのだ。お陰で寒々しい冬の眠気は酷いもので、休みの日などは朝九時ぐらいまで寝てしまう事も多々ある有り様。
では目覚まし時計のけたたましい音で叩き起こしてくれないと何時も寝坊してしまうのかと言えば、実はそういう訳でもない。身体が温まらないと起きられないという事は、逆に言えば温まりさえすればすっと目覚めるという事。事実日の出が早い夏の時期は、窓から入り込む陽光のお陰で朝五時半ぐらいに起きられる。夏の間は目覚まし要らずだ。
ただし、夏は夏でも六月から七月の間――――梅雨の時期は話が別。
何しろこの時期は、雨の日が多い。初夏の強めな日差しも、雨雲を抜けた後では穏やかで優しいものとなってしまう。今日のようにざぁざぁと大粒の雨を降らすような分厚い雨雲となれば地上に届く光なんて僅かで、朝だと言うのに辺りは街灯の明かりが欲しくなるほど暗い。無論空気は温まらず、ちょっと肌寒いぐらいだ。
なので。
「ちち、遅刻しちゃうよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
朝日が起こしてくれる事はなく、思いっきり寝坊してしまった花中は学校目指して住宅地を激走せざるを得なかった。激走と言っても花中は足が遅い。のたのたのたのた……力強く振る手足や乱れる呼吸、ふらふらと揺れる傘から一生懸命走っている事は誰の目にも明らかなのだが、どうにも結果が伴っていない。半袖の白いブラウスは雨に濡れ、うっすらと透けて可愛らしい下着が見えてしまっていた。
「ほら頑張ってください。学校はもう少しですよ」
「はなちゃん、ファイト♪」
そんな花中の傍には
金髪の美少女がフィア。黒髪の美少女がミリオン。どちらも花中の友人で――――人間ではない存在。
二人との出会いはもう二週間も前になる。あの時はフィアともまだぎこちない間柄で、ミリオンに至っては命を狙ってくるような関係。フィアと花中はそんなミリオンと戦い、勝利のためにその『存在』の大部分を吹き飛ばし……だけど彼女は生きていて、今ではすっかり仲直り。こうして一緒に登校するほど親しくなれた。フィアは未だにミリオンの事を嫌っているようだが、手を出すようなケンカはしていない。一時期に比べれば随分と仲良くなったものだ、と花中としては思う。
……そう、一時期に比べれば随分と仲良くなっている。
例えば家がないから云々とか花中を守るため云々とか、事前に打ち合わせていたかのような流れの口喧嘩を交わした末に花中の意思を無視して二人とも大桐家で暮らすようになったり――――今日のように花中がセットした目覚ましを止めて、二人仲良く花中の寝顔を観察したりするほどに。
「こ、こんな事に、なったの、は、ふ、二人の、せいでしょぉ!?」
「何かしましたっけ私達?」
「さぁ? 記憶にございませんわ」
「二人とも、目覚ましを、止めたでしょ!? わたしの、ね、寝顔が、見たいって、理由で! だからこんな、ち、遅刻、してるんだよぉ!?」
「それを言ったら花中さんの寝顔が可愛いのが悪いと思います」
「そうよねぇ。ずっと見ていたくなるほど可愛いはなちゃんが悪いと思うわ」
かなり本気で怒っても二匹は何処吹く風。まるで堪えた様子がなく、それどころか明日もやりますと言わんばかりである。
しかし花中には怒る以外に何も出来ない。嘘でも絶交してやるなんて言ったら、その次の瞬間には自分が謝っている未来が簡単に予想出来る。十五年の月日を積み重ねて構築された性根は、『劇的なドラマ』を経ようと早々変わらない。大桐花中は基本的にはネガティブで、根暗で……些細な事で不安になってしまう小心者のままだ。フィアとは本音で語り合える仲になったと言っても、脅すような言葉は想像だけで焦げ付くような不安に胸が苛まれてしまう。そこまでの関係になっていないミリオンともなれば尚更だ。
しかしながら今回は、本当に言ってやろうかと思うのもまた事実。
だって、こんなのが毎朝続いて――――
「こ、こんな感じに、毎日遅刻しちゃったら……不良になっちゃうよーっ!」
「ふーむそんなに遅刻したくないのですか。分かりましたなんとかするとしましょう」
大声で不安を吐露すると、フィアが不意に手をつないできた。突然の、しかも手をつなぐというフレンドリーな行為。花中の顔がぼっと、赤く燃え上がる。
挙句フィアは花中の背中側にも手を回し、ひょいっと持ち上げた。所謂お姫様抱っこ。驚きのあまり、花中は握り締めていた傘を落っことしてしまう。当然無防備になった顔を大きめの雨粒が叩くが、そんな事にまで気が回らない。
抱かれて感じる、フィアの暖かさ。この『身体』がフィアの能力――――水を自在に操る力によって作られた『入れ物』であり、体温が水の圧縮と共に濃縮された熱だとは、分かっていても信じ難い。生身の人間に抱えられているとしか思えない。
二週間ほど前ミリオンとの戦いの時もこうしてフィアに抱えられたが、今回は平時。あの時は素早く動き回るためという建前があったが今はない。友達人数三人というリア充 ― 注:花中的定義による ― の仲間入りを果たしてまだ二週間の花中には、ちょっとばかし刺激の強いフレンドリーさだ。しかも此処は住宅地。今は周りに人影などはないが、そのうち学生やサラリーマンが通るだろう。見られでもしたら恥ずかしい。
一瞬で顔を真っ赤にしてしまうのも、花中にとっては自然な反応だった。
「ふぃ、ふぃ、フィアちゃん!? あの……」
「さぁ花中さんしっかり捕まってくださいね」
「あ、ぅ……」
フィアに促され、花中は言われるがままフィアの『服』を両手で握り締める。
もしかして、フィアなりに責任を感じていたのだろうか? だとすれば、何度も怒ったのは酷い事をしたかも……
「なぁに心配はいりません。私のフルパワーを用いればあっという間に学校に着きますから」
花中の抱いたそんな不安は、フィアの頼もしさあふれるこの言葉で一気に吹き飛んだ。尤もすぐに別の不安が満ち、花中の顔は雨雲の上で広がっている夏の青空と同じ色になったが。
フィアは強い。それはもう滅茶苦茶強い。
巨大な質量から放たれる打撃は兵器の如く威力を持ち、圧縮により驚異的な硬度を誇る表層部は建物を倒壊させるような攻撃でもビクともせず、分子レベルでのコントロールにより水にも関わらず二千度以下の熱では蒸発もしない。他にも離れた場所の様子を調べたり服の汚れを吸い取ったりも出来るが、やはり圧倒的パワーが目を引く……これがフィアの能力。腕をドリル状に変形させ高速回転させるなど、動きも愚鈍ではない。
そんなパワーを『本気』で通学に利用すればどうなるか?
「あ、あの、フィ」
「それでは行きますよっ!」
花中が論理的な言葉で不安を伝える前に、直情型のフィアは行動に移してしまう。移したと言ってもフィアが取った行動は地面を蹴り、その反動で身体を前に押し出す――――走るのではなく、跳ぶという動きのみ。
しかし先程花中が思い浮かべたように、フィアの力は文字通り出鱈目。
たった一歩でフィアの身体は自動車を遥かに超越する……大体時速二百キロぐらいまで加速してしまった。突風が周囲に吹き荒れ、近くの家の庭にある草木の枝をへし折る。コンクリートで固められた道路は、まるでぬかるんだ泥道のようにフィアの足跡を残す。
そしてフィアは、楽しげに笑っていた。
「あーっはははははっ! ごーとぅーへーるっ!」
地獄へ行こう。
どうせ意味など分からず音の響きだけで使っているであろうフィアの言葉に、花中はなんの反応も示さない。当然である。たった一歩、ほんの一秒に満たない時間でフィアは時速二百キロまで加速した。結果、戦闘機の急発進すら足元に及ばないほどの、強烈な重力加速度Gが生じたのである。
訓練されたパイロットでもない、むしろ一般人から見ても軟弱に部類される花中が襲い掛かるGに耐えられる道理もなく……ぽっくりと、気絶していた。しかし基本自分本位なフィアは、花中の容態に気付きもしない。
意識を失った花中を認識出来ていたのは、一度は花中を殺そうとし、今でも死体の利用を目論んでいる――――置いていかれたミリオンのみ。
「……白目向いてたけど、まぁ、死にはしないでしょうね。死なないなら問題なしっと」
そのミリオンも花中が落とした傘を拾い上げると、さして気にした素振りもなく、学校に向けてゆっくりと歩き出すのだった。
結論から言えば、花中は遅刻せずに済んだ。
フィアに運ばれた花中が学校に到着したのは、ホームルームの十分前。その十分の間に気絶していた花中は目を覚ましたので、朝の連絡事項を聞き逃す事はなかった。もしフィアを頼らなかったら、ギリギリアウトな時間に到着した挙句、へとへとになった頭には担任教師の話など何一つ入ってこなかっただろう。
結果だけを評価すれば、フィアのお陰で助かったのは事実。
……しかし花中は思う。
別に一分前到着でも大丈夫なんだから気絶しないぐらいの速さが良かったのに、と。
思っていたので、朝のホームルームが終わった後の教室で、窓際最後列の席に座る花中はぷっくりと頬を膨らませていた。花中の今の服装は、帆風高校指定の半袖の白ブラウスではなくジャージ。通学中着ていたブラウスは、キッチリと畳んで机の上に置いてある……フィアに運ばれている間にびっしょり濡れてしまったが、干す場所がないので。
フィアに頼れば水を吸い取ってパリッと仕立ててくれるだろうが、少なくとも『今』、頼る気は毛頭なかった。
「……大桐さん、その顔は怒ってるの?」
「お、怒ってる、以外に、見えますかっ」
「見えないけどさぁ」
席の近くまで来てくれた数少ない友人の一人、立花晴海が何故かにやにや笑いながら顔を覗き込んでくる。怒っている『理由』は既に話してあるのだが、どうやらあまり同意してくれていないようで、花中はますます頬を膨らませた。学校に着いてから既に彼是二十分は経ったが、未だ怒りは収まらない。
「花中さぁん。まだ怒っているのですかぁ」
そして怒りの原因であるフィアは、花中の傍で低くしゃがみ込んでいた。ジャージの裾を掴みながら、涙を浮かべた上目遣いで花中を見つめている。何時もの傍若無人っぷりは、すっかり萎えている様子だ。
にも拘わらず花中がそっぽを向こうものなら、フィアはビクリと身体を震わせた。
「……だって、フィアちゃん、わたしの話、全然聞いてくれなかった、もん」
「うう。だから謝ってるじゃないですかぁ……」
「つーん」
頬を膨らませ、めいっぱい怒っているぞアピールをする花中。フィアが泣き言を言っているが、耳を傾けもしなかった。
今更ながら、フィアは人の話をあまりにも聞いてくれない。
自分の意見を押し通すのは構わない。話し合った結果がそうだと言うのなら、不満や悲しさはあっても怒りはしない。けれどもそもそも話を聞いてくれないのは問題外。フィアは一見こちらの意見を尊重してくれるようで、肝心な時に話を全く聞いてくれない事が多過ぎる。
こんなのが続いたら身が持たないし、何より、友達である自分の事を軽視しているみたいで、花中としてはかなり腹立たしいのだ。
いや、或いは――――焦りかも知れない。
「おー、よしよし。フィアちゃんも可哀想だねぇ」
花中がちらりと視線を向けたのは、自分の隣の席に座り、今はフィアの頭を優しく撫でている女子生徒――――
ふわふわでボリュームのある黒髪を持ち、顔は何時でも朗らかな笑顔。ゴールデンレトリバーのような大型犬を彷彿とさせるおっとり風味な雰囲気の彼女も、最近花中と言葉を交わしてくれるようになったクラスメートの一人だ。今までは花中の顔が怖くて話し掛けてもらえなかったが、最近ではいくらか世間話を交わすようになり、彼女の趣味がダムや化学工場などの施設見学という中々アグレッシブなものだと知る程度には打ち解けている。話し方は何時もほわんほわんと柔らかく、あまり会話が得意じゃない花中でも話しやすい。それなりに仲良くなれた友達だ、と花中は思っている。
ただし自分よりもフィアと仲が良いようだとも、花中は感じていた。
確かに我が強く、『人間的』な倫理観を持ち合わせていないとはいえ、フィアは花中と違い初対面の人とも普通に話が出来る。自信家でワガママなところはあるが、裏表のない性格が魅力と思う人は少なくないらしい。堂々と教室に入り浸るようになったこの二週間で、フィアは花中のクラスメート達と男女問わずすっかり打ち解けていた。加奈子もそんなクラスメートの一人だ。
つまりフィアには花中以外の友達が、この二週間で結構出来ている訳で。
要するにこの意地悪は、自分の嫉妬心が根っこにあるのだと花中は感じていた。自分がフィアちゃんの一番の友達だという、子供染みた独占欲の発露なのだと。
「(うう……わたしって、こんなに嫉妬深かったのか……)」
友達が出来てから、自分について初めて知る事があまりに多過ぎる。羨む事は多々あっても嫉妬するなんて初めての経験で、抑え方がよく分からず、どうにも怒りが引っ込んでくれない。
「ほらー、フィアちゃんもこんなに反省してるし、もう許してあげたら?」
「う、ぐぅ……」
ついには嫉妬の対象である加奈子に言われ、花中は言葉を詰まらせる。わたしも許してあげたい、だけど許せない。
一体どうすれば……悩んだ花中は結局フィアの方へと視線を戻し、
「花中さぁん……!」
フィアの目からぽろりと涙が零れたのを見た途端、怒りも嫉妬も彼方に吹っ飛んでしまった。
殆ど本能同然、椅子から跳ぶように立ち上がった花中は衝動のままフィアに抱き着く。
「許さない訳ないよぉー! も、もう怒ってないから!」
「本当ですか! もう怒ってないんですね!?」
「うん! 本当だよ! ずっと怒っててごめんねーっ!」
ぴょんぴょんと跳ねながら、花中は一生懸命フィアを抱き締める。フィアも花中を痛いぐらい抱き締めてくる。抱き合った花中達はお互いの顔が相手の背中側に回った。なので当然相手の表情は見えず――――花中は、フィアがそこでにやりと笑った事には気付かなかった。ついでに、フィアの身体やら涙やらが『作り物』である事も忘れていた。
「うん、めでたしめでたし」
「相変わらず単純な……」
いずれにせよ、仲直り自体は成功。立役者? である加奈子は満足げに頷き、晴海は呆れたように引き攣った笑みを浮かべる。
「いやー、相変わらずの茶番劇ねぇ」
そして何時から居たのか、花中の背後に立っていたミリオンは愛でるような眼差しと共にぼやいた。そのぼやきに賛同したのだろう、晴海はうんうんと頷く。
「……で、なんでアンタ達普通に教室に居座ってんのよ」
頷いてから、じと目でフィアとミリオンを交互に睨んだ。
ミリオンの方は肩を竦めて飄々としていたが、フィアの方は立ち向かうようにじと目を晴海に返す。何故そんな事を言われねばならないのかさっぱり分からない、とでも言わんばかりに。
「別に良いじゃないですか私は悪い事なんてしませんし。ミリオンは知りませんけど」
「二週間前に旧校舎ぐっちゃぐちゃにしたのアンタ達でしょうが! 大桐さんからそう聞いたし! 近々取り壊す計画だったからあまり騒ぎにならなかったけど調子に乗るんじゃないの! そもそも良い悪い関係なくダメに決まってるでしょ! アンタ達部外者なんだから!」
「まぁまぁ、晴ちゃん。そんなに怒らないでもー」
「加奈子は甘やかし過ぎなのよ! コイツらが部外者って忘れてない!?」
「あー、忘れてるかも。なんかほら、すっごく親しみあるし」
「親しみがあっても部外者は入れちゃダメでしょうがーっ!」
激しく怒鳴る晴海だったが、フィアは口を尖らせて正に不満げ。加奈子も宥めようとするだけで、賛同はしていない。ミリオンに至っては聞こえてすらいないと言わんばかりの無視だ。
唯一おろおろと困り顔になったのは、晴海の意見に同意する花中だけだった。
フィア達と花中が友達になってかれこれ二週間。その間フィア達は、学校がある日は毎日花中の教室に来ていた。来ていたと言っても休み時間や昼食時にお喋りをする程度で、授業が始まれば二匹とも何処かに移動してしまう。クラスメート達も最初は見知らぬ『生徒』に怪訝な様子だったが、あまりにも頻繁に現れるので今や気にする者は殆どいない。彼女達がこの学校の生徒でない事にも気付いているだろうが、問題を起こしている訳でもない ― 正確には『知らない』と言うべきだが ― のでケンカを売るのは晴海だけ。皆、フィア達を受け入れていた。
あくまで『人間』として、という文言は頭に付くだろうが。
人間は排他的な生き物だ。自らの理解の範疇を超えたものは極端に恐れ、迫害する……数千年と積み重ねた歴史がそれを証明している。もし、フィア達が人間ではないと明るみになれば、そしてその身に超絶の力を宿していると知れ渡れば、迫害の対象になるかも知れない。フィアもミリオンも人間と敵対したところでどうとも思わないだろうが、争いの種は持ち込まないに越した事はない。
そのために一番良い方法は彼女達の正体を隠す事なのだが、ミリオンは兎も角、フィアは自分の正体が人間達に知られる事を恐れていない……どころか考えてもいないらしい。今朝のように、花中が困っているというだけで、市街地のど真ん中で力を行使してしまうぐらいだ。ふとしたきっかけでクラスメート達に正体が露呈してしまう可能性は十分あり得る。一応二匹には正体を隠してほしいとは頼んでいて、少なくとも人前では気を付けているようだが、もう少し色々と控えてもらった方が良いのかも知れない。
だからフィア達には、もう学校に来ないでほしいと頼むべきか?
花中には出来ない。誰かと一緒に居たいという想いを、誰かと一緒に話が出来る喜びを制限するなんて、今までどちらも満たされた事がなかった花中には無理な話だ。
……という感じでフィア達を止めずにいた結果が、二週間ずっと学校に通い詰めな訳で。晴海が言うようにフィア達は部外者なのだから、やっぱり少しは控えるよう伝えるべきかも知れない。
「そう言って花中さんを独り占めにする気なのでしょう? そうはいきませんよ!」
尤もそんな論理的意見は、フィアに抱き着かれた衝撃で呆気なく地平線の彼方まで吹き飛んでしまうのだが。花中の頭に出来た空白を満たすのは蕩けきった幸福感。脳と同じぐらいふぬけた口先に、晴海が望む言葉を紡ぐ力は残っていない。精々ふみゃーと鳴くだけだ。
晴海がこの件で怒るようになって今日で一週間近く。そして花中が、控えるよう言った方が良いと思うようになってからも一週間近くで……結局言えずに終わるのも一週間近くなっていた。加奈子に宥められて冷静さを取り戻した後、頼りにならない花中を見た晴海が諦めたようにため息を吐くのは、最早恒例の流れである。
「全く……あんまり怪しい事ばっかりしてると、そのうち警察に『猫殺し』の嫌疑を掛けられても知らないわよ」
ただ、こんな話が付け足されたのは今日が初めてで。
好奇の心が揺れ動いた花中は、僅かに理性を取り戻した。
「猫殺し? なんですかそれ?」
「あっ、私聞いた事あるー」
首を傾げながら尋ねるフィアに、自分も知っていますと手を上げて主張する加奈子。言いだしっぺである晴海を差し置いて話を切り出した。
曰く、最近この町で猫が殺されている。
いる、という現在進行形を使ったのは、犯人がまだ捕まっておらず、犯行が終わる気配もないから。一週間前から連日に渡り、飼い野良問わず猫が殺されているとの事。同一犯によるものと思われる『犠牲者』の数は今日までで十二匹。殺された猫の多さも印象的だが、何より人々の恐怖を煽るのはその殺し方とエスカレートの早さだ。元々刃物で腹を引き裂き、贓物をぶちまけるという最低なやり口だったが、ここ数日の殺し方は更に残忍で……
今や『猫殺し』という呼び名が通じるほど有名になり、町中が不審者を警戒するようになったが、通称と動揺の広まりは犯人の自己顕示欲を満足させるだけとの意見もある。恐らく、今後も犯行は続けられるだろう。『猫殺し』の欲望のために、罪のない猫達が次々と殺されるのだ。
或いは、魔の手は人間の近くまで伸びているのかも……
「という訳で、今この町の住人は恐怖のずんどこに沈んでいるのです。えっへん」
話を終えて、加奈子は胸を張る。自分から始めた訳でも、独自情報の一つもないが、やたらと自慢気だった。少なくとも加奈子には、恐怖のずんどこに沈んでいる住人っぽさはない。そもそも恐怖のずんどことはなんなのか?
小田加奈子とは、大体こういう人物だった。
「まぁ、加奈子が言ったような状況だから、警察は今、何時も以上に不審者に厳しいのよ。だからあんまり怪しい事してると、警察のお世話になるかも知れないわよ」
「心配ご無用。人間なんていくら束になろうと私の敵ではありませんので」
「さかなちゃんに同意。私達をどうにかしたいなら、警察なんかじゃなくて軍隊を持ってきなさい。ま、私は軍隊相手でも余裕だけど」
「なんで倒す事を前提にしてんのよ……」
晴海の警告などなんのその。フィアとミリオンは今後も学校に来る『不審な部外者』を続けると遠回しに宣言。「二人とも、それ死亡フラグだよ?」という加奈子の声もまるで堪えていない。
もうこれ以上言っても仕方ないとばかりに、晴海はため息一つ。肩を竦め、降参をアピールした。
「……時に花中さんどうかしたのですか?」
そうして話が一段落付いたので、フィアは自分の腕の中で小刻みに震える花中を覗き込む。
見付かってしまった花中は、身体の震えがピタリと止まる。それからおどおどとフィアから視線を逸らし、だけど少ししたらフィアの方へと戻して……ほんのり赤らんだ顔を俯かせてから、口を開いた。
「あ、あの……笑わ、ない……?」
「うーん花中さんのする事ですので自信はありませんが善処はします」
「……………」
実に正直な、美徳と呼ぶべきか大変悩ましい答えに花中は一度開いた口を縫い合わす。どうしようかな、答えようかな、止めとこうかな……気弱な考えが頭を満たすが、フィアの素朴な眼差しに捉えられて逃げられない。逃げられないでいたら、何時の間にかミリオンも晴海も加奈子も、フィアと同じく見つめてきている。
正に包囲網。いよいよどうにもならないと察し、ようやく覚悟を決めた花中は深く息を吸い込む。
「こ、怖い人が、居るって思ったら、怖く、なっちゃって……」
それから正直に答えた――――直後、休み時間の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
フィアとミリオンは瞬時に互いの顔を見合い、同時に、にやりと意地悪く笑みを浮かべる。
「「あーそろそろ教室から出ないとー。それと立花さん(立花ちゃん)からもう学校に来るなって言われたから花中さん(はなちゃん)今日は一人で帰ってくださーい(帰ってねー)」」
「え、えええうぇうぇえぅえーっ!?」
そして花中をビビらせつつ晴海の株を下げるような言い訳を、息ぴったりにやってみせるのだった。
「……ぅぅぅ……」
目を据わらせ、への字に噤んだ口から唸るような声を時折漏らしながら、花中は住宅地を歩いていた。
時刻は午後八時。朝方分厚く浮かんでいた雨雲はすっかり消え失せていたが、ここまで遅くなっては太陽などとうに沈んでいる。代わりに浮かぶ月は明日が新月だと分かるぐらい欠けていて、大地を照らしてくれるほどの眩さはない。街灯があるので歩くのに困るほど暗くはないし、家々から聞こえる家族団らんの声のお陰で雰囲気も良いのだが、出歩くのに向かない時刻なのは確かだ。ましてや白の半袖ブラウス ― フィアの能力のお陰で三秒で乾いた ― という高校の制服を着ていては、警察に見付かったら補導の対象となってしまうだろう。小学生と大差ない背丈の花中となれば尚更だ。
では何故花中はそんな時刻に出歩いているのかと言えば、理由の一つは買い物をしていたからである。一人暮らしをしている花中は買い物も自分でしなければならず、放課後、近所のスーパーマーケットまで寄り道をしていたのだ。片手に持っているビニール袋がパンパンになるぐらいには、買った物の量も多かった。とはいえ何を買うかは事前に決めておき、それ以外の物は買わないようにしているので、掛かる時間はそこまで長くない。普段なら六時頃には、家で買ってきた食材に包丁を入れているだろう。
帰りが夜分遅くなってしまった一番の理由は、花中の歩みが遅いからだ。
何しろフィアに抱き着いたまま、すり足のような歩き方をしているのである。しかも片手にはパンパンのビニール袋、もう片方には通学鞄という両手不自由な状態にも拘らず。それはもう足取りが亀のように遅くなるのも当然であり――――抱き着かれているフィアが戸惑った顔になるのも仕方ない事だった。
「あのー花中さんくっついてくださるのは大変嬉しいのですがこの調子だと家に着くのが真夜中になりそうですので」
「やだ」
あまりにべたべたするものだからかフィアは苦言を呈そうとしてくるも、花中は話の途中ですっぱりと斬り捨てる。フィアは隣を歩くミリオンに視線を向けたが、ミリオンは意地悪くそっぽを向くだけ。諦めたようなため息が、フィアの口から漏れた。
何も花中はフィアに甘えているのではない。その証拠に、今の花中の顔は『全盛期』ほどではないにしろ恐怖の大王モード……小学生ぐらいなら恐怖で動けなくなる程度には怖くなっている。甘えているのなら大福よろしく蕩けている筈の表情筋も、今はガチガチだ。出てくる声も唸り声ではなく「ほにゃ~」とか「へぷぁ~」とかになる。
なら怒っているのかといえば、花中に対してはそれも当て嵌まらない。花中にとってこの表情は不安や緊張、恐怖の時に浮かべてしまうものなのだから。
つまるところ花中は怖がっているのである。そして恐怖の原因は、朝の教室にて聞かされた不審者――――『猫殺し』であった。
「もう落ち着いてくださいよぅ。不審者と鉢合わせたところでこの私が花中さんをお守りしますから」
「だ、だって……怖いものは、怖いし……」
「むぅ。人間如き銃やらナイフやらで武装したところで我々からしたらダンゴムシみたいなものですのに」
フィアはどうして花中が不安なのか、さっぱり分からない様子。夜空を仰ぎ、考え込むように表情を顰める。
花中も、フィアの言い分に納得出来ない訳ではない。『猫殺し』と遭遇してしまう事を案じるだけなら、ここまで怖さが後を引く事はなかっただろう。万が一、を想像出来ないぐらいフィアとミリオンは強いのだから。しかし花中の恐怖の根源はそこではない。
――――加奈子は言っていた。『猫殺し』の犯行は、日々エスカレートしていると。
小動物の虐待は、大きな犯罪の入り口になると言われている。最初は動物を殺すだけで得られた満足感が慣れてくるにつれて薄くなり、より強い刺激を求めてエスカレートしていく傾向があるからだ。そして動物ではどうやっても満足出来なった時、思い至るのが――――人殺し。
猫なら殺されても問題ないとは言わない。けれども花中は人間であり、人間が殺される可能性は、猫の死よりも遥かに恐ろしく感じる。
勿論フィアやミリオンが居るから自分の身は安全だ。だけど、晴海や加奈子はそうもいかない。もしも彼女達の前に『猫殺し』が現れたなら……
花中は『猫殺し』がいずれ『人殺し』になる事を、その恐怖が自分の友達に及ぶ事を想像してしまったのだ。これでもフィア達が居るお陰で、幾分安心しているのだからどうしようもない。恐らく明日も明後日も、花中は震えるだろう。
勿論犯人が捕まれば、この不安からも解放されるのだが……
「そこまで不安なら私達が犯人捜しをしましょうか?」
そう思っていたところフィアからこんな提案があり、花中は目をパチクリさせた。
「……え?」
「ですから犯人を捜して捕まえるのです。私とミリオンの手で」
「ちょっとー、なんで私を勝手に含めてんのよ。面倒臭いから嫌よ」
「良いじゃないですかそのぐらい。あなたがその気になれば犯人ぐらい簡単に見付けられるでしょう?」
「だーかーらー、面倒臭いっつってんでしょうが」
フィアからの誘いを、心底嫌そうにミリオンは拒んでいる。どうやら本当に面倒臭いらしい。この調子だと犯人捜しをするのはフィアだけになりそうだが……だとしても、あまり支障はないだろう。
何しろフナであるフィアには、人間の数百倍もの嗅覚が備わっている。その頼もしさたるや、ミリオンに連れ去られた花中の居場所を探り当てるほどだ。現場で臭いの情報を集めれば、犯人の特定、そして居場所の捜索は可能だろう。
事件の早期解決は、花中の精神的安寧がもたらされるだけではない。犯人が早く捕まれば、魔手が人へと伸びる前に止められる。猫達の命だって守れる。早く解決出来るのならそれに越した事はない。
問題があるとすれば、フィアの強過ぎる力のせいで『容疑者』が大怪我、もしくは死んでしまうかも知れない事か。とはいえ人間がイモムシを傷一つ付けずに捕まえられるように、圧倒的な力の差と大事に扱おうとする優しい心があれば、相手を無傷で捕まえる事は難しくない。フィアには人間への優しさが著しく欠けているが……だったらそこは
「……じゃあ、フィアちゃんに、お願い、しようかな。わたしも、手伝うけど」
「え? 花中さんもですか?」
「うん、フィアちゃんと一緒じゃないと、怖いし。あ、あと、犯人を見付けても、いきなり、酷い事しちゃ、ダメだからね? 冤罪、かも知れない、し。傷付けないで、捕まえて」
「了解です。花中さんのお願いとあらば人間の一匹二匹無傷でいくらでも捕獲してみせますよ」
頼んでみれば自信満々、豊満さ ― 作り物だが ― を見せつけるようにフィアは胸を張る。言っておかなかったらヤル気満々だったのかな……と、背筋の凍るような想いが花中の脳裏を過ぎったが、未然に防げたので良しとする。
兎にも角にも、これから犯人捜しが始まる。ミリオンは「私はやらないからね」と今も嫌がっているので、やるのは花中とフィアのコンビ。自分に何が出来るかは分からない。警察の方が先に解決するかも知れない。だけど自分や周りの人達、それから猫達を守るためにも一生懸命やろうと花中は心に誓う。
とりあえず、家に帰ったらネットで情報を集めよう。出来れば比較的新しい現場の、詳細な場所を知りたい。最低でも二ヶ所以上だ。そこで共通する臭いをフィアが感じ取れたら、更なる絞り込みを行うために――――
「それでは早速探しに行くとしましょうか」
「「え?」」
そんな感じに『明日』の計画を練っていた途中でフィアに促され、花中とミリオンの口から声が漏れた。シンクロしたのは、きっと声だけではなかった。
「……え? フィアちゃん、今、早速って……」
「ええ早速です。善は急げと言うでしょう?」
「いやいや、さかなちゃん。今からって一体何をするのよ。何処で猫が殺されたのかすら知らないでしょ?」
「ふふん知らなくともなんとかなる秘策があるのですよ」
自慢げな笑みを浮かべながら、フィアは一本立てた指を振る。
秘策とは一体なんなのか。
少なくとも花中には、先程考えていた通りの……今日出来るのは事件現場が何処なのかを調べるぐらいで、本格的に動くのは明日から……という方法しか思い浮かばなかった。凡人に過ぎない身で言うのも難だが、他に案があるとも思えない。
フィアの語る『秘策』に興味惹かれ、花中は無意識にずいっと身を乗り出していた。それに気付いたフィアに微笑まれ、花中はほんのり赤くした顔を俯かせる。ずっとしがみついていた手も放して、逃げるように後退り。
それでも好奇の心は失せる事なく、花中はわくわくしながらフィアの言葉に耳を傾けた。
「相手の居場所が分からないのなら向こうから来てもらえば良いのですよ!」
わくわくは、呆気なく終わった。
「……ん、んー……それは、そう、だね。うん」
「ふふふ。一体どうやって来てもらうのかと思っていますね?」
ううん、どうやって来てもらうつもりか分かっちゃったからこの反応なんだけど――――花中はそう思ったが、話したくてウズウズしているのが一目で分かるフィアを見たら、喉まで昇ってきていた言葉を飲み込んでいた。ミリオンも何も言わなかったが、浮かべていたのは呆れ果てた表情だった。
そんな二人の内心などきっと欠片も察していないフィアは、勿体ぶるように話の間を取る。長い、長い、間を取る。あまりにも長いので花中が「ど、どうやるのかなー?」と尋ねて、フィアはようやく口を開いてくれた。
「小田さん達の話によれば『猫殺し』は連日猫を殺しているそうじゃありませんか。『猫殺し』は恐らく猫を殺す事があまりに楽しくて一日も我慢出来ない子供のような奴です。そういう奴の目の前に哀れな獲物が現れたらどうなると思います? そうきっと何も考えずあっさりと姿を見せるに違いありません!」
「……つまり、餌を用意して、誘き寄せる、と?」
「流石花中さん! 最後まで話さずとも策を理解されるとは素晴らしい!」
キラキラと瞳を輝かせながら、フィアは花中を褒め称える。「今日の犯行がまだ終わってないとは限らない」とか「犯行時間がこの時間帯とは限らない」とか「猫ならなんでも良いのかは分からない」とか「そもそも餌は見える場所に設置しないと意味がないのだから、やっぱり犯人の居場所に見当付けなきゃダメじゃん」とか、そんな考えは微塵もないようだった。
「え、っと、その、わ、悪くはないと、思」
「おお! 花中さんからGOサインが! こうしてはいられませんすぐにでも猫を探さねば!」
一先ず落ち着かせようとする花中だったが、勘違いしたフィアは早速とばかりにクンクン鼻を鳴らす。あの、その、等とか細い声で花中は何度も呼んだが、フィアの耳には届かない。
「む! あちらから猫の臭いが! しかも臭いの濃さからしてかなり近い! これは幸先が良いですね!」
ついには嗅ぎ当てたようで、そう言うやフィアはとことこと駆け出してしまった。臭いを辿りながらだからか、フィアの足取りはあまり速くなかったが……呆気に取られて立ち尽くしていた花中の視界から消えるのに、そう長い時間は掛からなかった。
「……さかなちゃんの代わりに尋ねるけど、今の秘策について、はなちゃんの率直な意見を聞かせてくれない?」
「……………えっと……あ、危ない人が、居るのは、事実、ですから……猫を、保護するのは、良い事、だと、お、思います……」
「つまり『猫殺し』捜しには殆ど役立たないと。私も同じ意見よ」
花中の『率直な意見』に、同じく立ち尽くしていたミリオンは完全に呆れ顔。ふー、と鼻息を鳴らした。
「それで? あの調子だとさかなちゃん、この辺りに居るかどうかすら定かじゃない『猫殺し』が釣れるまで粘りそうなんだけど、はなちゃんは明日も学校よね? 徹夜になったらキツくない?」
「キツいと、いうか、無理、ですけど……手伝うって、言っちゃったし……ああ、でも何処に、行ったのかな……」
今更ながら戸惑う花中に、「律儀ねぇ」とぼやくミリオン。すると、何を思ったのかミリオンはフィアが行ってしまった方に指先を向けた。
その仕草に、あっちを向けと言う事かな? と一瞬思う花中だったが、しかしミリオンはあくまで指先を向けているだけ。道を指し示している訳ではないようで、花中は首を傾げる。
「……今、何体か飛ばしてさかなちゃんを見付けといたわ。追い駆けるにしても、何処に行ったかも分からないようじゃ無理だもんね?」
そしてミリオンが自分のために手間を掛けてくれたのだと知り、花中は感謝で瞳を潤ませながら夢中で頷いた。
花中の返事を見たミリオンは誘うように首を振ると、丁度花中が小走りするぐらいの速さで歩み始める。今度は呆気に取られてはぐれないよう、それでいて食べ物がたっぷり入ったビニール袋をあまり振らないようにしながら、花中はすぐにミリオンの後を追った。
尤も、ミリオンが進むルートは花中の通学コースをなぞるようなものだった。あくまでミリオンはフィアを追っているのであり、つまりこれはフィアが辿った道なのだが、どうにも家に帰っているようで追っている感がない。はぐれないようにという想いも、段々弛んでいく。
一応家に帰るには右へと曲がらねばならないT字路を左に進んだので、少しは気持ちに張りが戻ったが……自宅周辺の地図ぐらい頭に入っている。フィアが何処に行ったのか、もう見当が付いてしまう。
「はい、とーちゃーく」
ミリオンが明るくそう告げても、見知った場所――――家から徒歩五分ほどで行ける近所の公園を前にしたところで、思う事など特になかった。
「あー……ここかぁ……」
ぼんやりと口から出たのは、覇気のない感想。
そこは所謂、自然公園と呼ばれる類の公園であった。
グラウンドや大きな池があったり、木が多数植えられ雑木林のようになっている一角があったりと、総面積はかなりのもの。入場に関して制限はなく、近隣住民や子供達が気軽に遊びに行ける場所となっている。かく言う花中も幼少期は両親に連れられ度々訪れ……訪れたところで一緒に遊んでくれる子供はいなかったが、小さな自然相手に遊んだ覚えがあった。
その頃の記憶だが、この公園には多数の野良猫がいた。
自然がそこそこ豊かなため動物が棲むのに適した環境というのもあるのだろうが、野良猫に餌を与える人が多かったのが一番の理由だろう。昨今は世間の目や条例が厳しくなり、餌やりをする人の数は昔よりも減っていると思われるが、ゼロにはなるまい。此処が野良猫にとって居心地の良い場所なのは変わっていない筈だ。
囮にするための猫を探しているフィアがこの場所にやってくる事は、容易に想像出来る事だった。今の今まで気付けなかった自分の事が、花中はちょっと情けなく思う。
「……多分、フィアちゃんが居るのって、ここから少し、右の方に進んだ場所にある、広場、ですよね……遊具とか、ベンチとか、水飲み場がある」
ミリオンに案内される前に自分の予想を言ったのも、そういう情けなさを払拭したかったからかも知れない。「ええ、そうよ」とミリオンが肯定してくれて、花中は心の中の重さがすっと消えたような気がした。
花中とミリオンは一緒に目当ての広場に向かう。住宅地と違い街灯が疎らにしかなく一帯はかなり暗いが、広がっている芝生は平坦なので歩きやすい。さくさくと進み、目当ての広場に辿り着く。
やがて花中達はその広場の端っこ――――雑木が並ぶエリアとの境界付近にて、街灯の明かりなどなくとも分かるほど美しい金髪を地面に引きずっている、しゃがんだ姿勢のフィアを見付けた。
「……フィアちゃぁーん」
花中がフィアの名前を呼んでみれば、瞬間フィアはまるで跳びつくような勢いで振り返り、花中に向けてぶんぶんと片手を振って答える。
「そんなに早く来てほしかったのなら、ちゃんと足並み揃えなさいよ……」
ミリオンのぼやきにこくんと頷いてから、花中はフィアの下へと早歩きで向かう。
と、今まで遠さと暗さのせいで良く見えなかったが、フィアの足元に何か小さな『モノ』がいるのに花中は気付いた。しかし、今更なんだろうとは思わない。心当たりは最初からあり、フィアが左手に小ぶりながらも穂付きのエノコログサ ― 別名ネコジャラシ ― を持っているのが見えるようになった頃には、心当たりは確信に変わっていた。
「……その猫、どうしたの?」
小声に分類される自身の声でもちゃんと聞こえるであろう距離まで詰めた花中は、座り込んだままのフィアにそう尋ねた。
フィアの足元には猫が居た。猫を飼った事がないので詳しくは分からないが、成猫というには少々幼い気がする。全身が夜の闇のような黒毛に覆われており、翡翠色に光っている大きな瞳が中々可愛らしい。体型がスリムに見えるのは、野良猫故十分な餌にありつけていないからかも知れない。
ちなみに性格は、フィアが目の前でエノコログサをちょこちょこ動かしても無関心な感じで、結構クールなようだ。
「コイツですか? コイツは此処で見付けた野良でしてね。他にも猫はいたのですけど私が近付いたら皆散り散りに逃げてしまいましていやはや中々可愛い奴ですよ」
フィアはそう答えながら、エノコログサの穂先を黒猫の頬っぺたにぐいぐい押しつける。黒猫が目を細めながらバシッとエノコログサの穂先を叩き落とすと、フィアは上機嫌そうに笑った。子供のように澄んだ笑顔だった。
「……それで、その子、どうするの?」
「そりゃあ連れていきますよ。可愛いですしこんなに人馴れしているのですから殺してくれと言っているようなものですからね。獲物にするのに丁度良い」
何処からともなく新しいエノコログサを取り出しながらフィアはそう答える。確かにこの猫、人を恐れている様子がない。柔らかい穂先とはいえ、顔面にぐりぐり押し付けられても平然としているのだから相当なものだ。振る舞いがクールなのも、人への恐れがないからかも知れない。
それだけなら、凛々しくてカッコいいのが魅力的というだけの話。しかし『猫殺し』が徘徊しているかも知れない現在、人を恐れないのは好ましくない反応だ。
これ以上、罪のない猫達が殺されないように……目的だけで考えれば、『餌』にすべきはこの猫だろう。
「……まぁ、そうだね。捕まえよう、か」
「はなちゃんったら、さかなちゃんに甘過ぎ」
結果的にはフィアの案を全部飲んだところ、ミリオンに窘められてしまった。そうかも知れないと思う反面、だって一番の友達だし、と開き直っている自分に花中はちょっと驚き、ふにゃっと笑ってしまう。
「よーしよし捕まえちゃいますよーだいじょーぶ大人しくしていたら痛くはしませんからねー」
そんな蕩けた笑顔が背後にあるなど露知らないフィアは、持っていたエノコログサを投げ捨てるとわきわきと動かしながら両手を猫へと伸ばす。言い回しにしろ動きにしろ、変質者以外の何者でもない。フィアの事を知らない人に見られたら、すぐにでも警察を呼ばれてしまいそうな姿だ。わざとでないのなら、花中もちょっと引いてしまう。
「そうやってたくさんの猫を呼び寄せたのか。この異常者が」
だからこの言葉が聞こえた時、花中は思わず自分の口を塞ぎ――――それが自分の言葉ではないと、後から気付いた。
――――誰かに見られた!?
フィアが怪しい言動の真っ最中だっただけに、やましい事はしていないと思いつつも花中は取り乱して辺りを見回す。が、人の姿は全く見えない。街灯が近くにないので周囲は暗闇に包まれているが、しかし聞こえた声の大きさと静かで冷淡な口調からして、相手は相当近くに居るように感じた。輪郭ぐらいは確認出来てもおかしくないのに。
「……変ね」
違和感は、ミリオンも覚えたようだ。かなり遠方までレーダーの如く捉えられる筈のミリオンにも
一体どういう事か。この暗闇に溶け込んでいるのか。もしそうなら、夜の闇に溶け込み、触る事も出来ない存在なんて……
幽霊、とかだろうか?
「ふぃ、ふぃふぃふぃあちゃんはわわわわわわわわわわ」
顔から一気に血の気が引いた花中は、否定を求めてフィアに訊いていた。一応、「フィアちゃんは何か感じない? 臭いとかで」と言おうとしていた。当然こんな文章になっていない言葉でフィアが何かしらの返事をしてくれる筈もなく
しかし突如左手を振り上げ――――その手の『刀剣』の形に変形させるや、足元の子猫に向けるとは思いも寄らなかった。
フィアの『身体』は水で出来ているが、その密度から生まれる硬度は鉄を遥かに上回る。殴るだけで十分生き物を死に至らしめる事が出来るのに、この上刃物の形にするなど正気の沙汰ではない。ただの猫が受ければ綺麗に両断されてしまう。
「ふぃ、フィアちゃん!? 何をして――――」
あまりの異常さに、花中は殆ど無意識に叫んでいた。その叫びにフィアは一瞬ビクリと身体を震わせるも、手は剣の形を崩さない。無慈悲にもその手は振り下ろされ、
刹那、フィアの姿が消えた。
「「……え?」」
花中だけでなく、ミリオンの口からも呆けた声が出た。けれどもその後何が起きたか考える間もなく、背後から岩が砕けるような衝撃音が響く。恐る恐る振り向けば音が聞こえてきた方角で、暗がりと混ざり漆黒と化した煙が濛々と立ち昇っていた。
あまりにも唐突に起きた、何かの事象。
思考と現実との距離があまりにも開き、理解が全く追いつかない。何から考えれば良いのか、それすらも分からない。手から力が抜けて鞄と食糧を地面に落としてしまうが拾おうという考えすら浮かばず、ただただぼんやりと、呆けて煙を見つめるだけ。
「思っていた手応えと違うなぁ。何か、仕込んでたのかな」
現実に引き戻されたのは、再度『あの時』の声が聞えてからだった。
頭が真っ白になっていたから、今度はとてもすんなりと記憶に染み込んだ。それがガラスのように透き通った女の子の声である事、明るい口調の中に確かな棘がある事……それがとてもとても近い、丁度
だから花中は振り向いた。だからきっとミリオンは、花中の傍へと歩み寄った。
そして二人の目に映ったのは、まるで人間のように二本足で立ち、愛らしくも獣染みた瞳で自分達を見つめている一匹の猫だった。
「こ、この子、今喋って……」
「何? 猫が喋っちゃ悪い?」
花中が驚きを示せば、猫は不服そうに眉間に皺を寄せ、不満を言葉にする。人の言葉を解し、使いこなしている。肉体的制約はもとより、人間に比類する知能がなければ不可能だ。
そんな生物……花中は、二種も知っている。
「はふぅ。慣れない身体でいてちょっと疲れたかも……どの道もうこの姿でいる必要もないし、解いちゃおう」
後ずさる花中を尻目に、猫は再び四つん這いに戻る。
それと共に、猫の身体からベギンッと、骨が折れるような音が鳴った。
あまりに生々しい音に花中は飛び跳ねるぐらい慄くが、猫の身体は鳴り止まない。ベキン、ゴキッ、ボギボギメギッパキンペキペキペキ……中身がドロドロのスープになっているのではと思うぐらい延々と響かせる。
だが猫の身体は溶けていかない。それどころかベキンッと鳴るのと同時に前足が肥大化し、ベギョッっとへし折るような音と共に背中が膨れ上がり、ゴキンッと音を鳴らして首が伸びる。
最後に軽く肩を鳴らした時、そこに猫の姿はなく。
「さぁて、そいじゃ……悪者退治の続きといこうか」
代わりに黒い『髪』を靡かせ、黒い『毛皮』を着込んだ少女が、立っていたのだった。
ちなみに私は犬派です。猫も好きですけどね。
次回は7/30投降予定です。