研究所の中に戻ってきた花中と星縄が最初にした事は、冷たい水をがぶ飲みする事だった。
ペットボトルを水球の中に入れてもらい、五百ミリの水を一気に身体の中へと流し込む。冷蔵されていた水はキンキンに冷えていて、お腹から全身が冷やされていく。一気に飲み干した所為で少し頭痛を覚え、花中は額に手を当てる。
だが、お陰でいくらか頭がスッキリした。
先程までの頭は、情報の詰め込み過ぎで隙間がなかった。考えた末に至った閃きが、ぽろりと外に溢れてしまうイメージである。しかし冷やされた頭からは無駄な情報が流れ落ち、幾らかの空白が出来ていた。これなら考え事が出来る。
「ちょっとはマシな顔になったわね、二人とも」
「はい……ありがとう、ございます……」
「助かったよ。あのままだったら、頭が破裂しそうだったからね」
冷たい水を渡してくれたミリオンに、花中と星縄は礼を伝えた。二人の顔には笑みも戻っている。
「それでこれからどうしますか花中さん」
ただしそれは、フィアが尋ねてくるまでの短い間だけだ。
花中達が今居るのは、『マグナ・フロス』の研究資料が保管されていた地下室。此処に戻ってきた理由はシンプルだ……地上に現れた無数の『マグナ・フロス』をどうにかしなければならない。そのための思案に耽るためである。
だが、花中達はあまりにも知らない。この植物園で一体何が起きているのかすら、分かっているつもりでしかなかった。まずはここを確かなものとしなければならない。
「フィアちゃん。君が知っている事を教えてほしい」
そのための行動を最初に起こしたのは、星縄だった。
「知っている事?」
「惚けないでくれ。君は『マグナ・フロス』が地下に潜んでいた事を知っていたみたいじゃないか。そしてそれを黙っていた。どうしてだい?」
星縄は睨むような眼差しを向けながら、フィアを問い詰める。確かに人間からすれば、フィアの言動には怪しさを覚えるだろう。無数の『マグナ・フロス』が地中から生えてきた時、フィアはその事実を知っていたと仄めかしたのだから。
実際フィアは知っていた筈だ。フィアは観賞者達から逃げるために、レストランを地面ごと持ち上げている。あの現象はフィアが能力によって土中の水分を操り、持ち上げた事で生じたものだ。だからフィアはあの時、地中に潜む『マグナ・フロス』に気付いた筈である。いや、『マグナ・フロス』とまでは分からずとも、巨大な何かが潜んでいる事には気付いていなければおかしい。人間ならその時覚えた違和感を、皆に明かすだろう。
――――人間ならば。
人間ではないフィアは、星縄からの問いに眉を顰め、首を傾げた。それから短く唸り、考え込む。
「どうしてと言われましても……大きな雑草があるとしか思わなかったのですが」
それから恥じる素振りすらなく、平然とこう答えた。
星縄は呆けたように口をポカンと開く。次いで星縄は花中の方へと振り返り、花中の『意見』を窺ってきた。
故に花中は引き攣った笑みを返す。
今のフィアの言葉はきっと『本当』の意見だと伝えるために。
「なっ……ただの雑草って、他に何も思わなかったのかい!?」
「ええ。特に身の危険も感じませんでしたし。こそこそ隠れている臆病者に逐一構うような趣味もありませんから」
「なら、とんだ見当違いじゃないか! 爆撃機を落とすような植物が、あんなにありながら……!」
「確かに飛行機を落としてましたね。でもそれがどうしたのですか?」
「……は?」
「自分の真上を飛んでいる飛行機を落とすぐらい簡単じゃないですか。というか私なら連中が逃げ出すよりも前に全部叩き落とせますし」
ふふんと胸を張り、臆面もなく誇るフィア。星縄は、いよいよ言葉を失ったとばかりに口を喘がせる。
フィアが言っている事に、噓は勿論、誇張すらない。
花中はその事をよく分かっている。一年近く一緒に暮らし、フィア達ミュータントがどれだけ強いかを何度も見てきた。最先端の軍事兵器が束になったところで、フィア達には傷一つ負わせられない。逃げる事はおろか足止めすら叶わず、足下を走り回るアリのように踏み潰されるだけ。人類が幾万の月日を掛けて積み上げた英知など、彼女達にとっては無意識のうちに蹴散らしてしまう虫けら程度のものでしかないのだ。
そんなフィアからすれば、『マグナ・フロス』が爆撃機を落とせたところでなんの脅威にもならない。興味すら持たなくても不思議ではないだろう。例えるなら人間が買い物に行く道中、見慣れぬ雑草が生えている事に気付いたようなもの。その雑草が甘い香りで虫達を誘い、食い殺す食虫植物だったとして、人間はその雑草に危険性を覚えるのか?
フィア達は強い。強過ぎる。
それでも異変に気付いたのがミリオンだったなら、か弱い人間の立場を理解出来る彼女ならば教えてくれたのだろうが……『もしも』を言っても仕方ない。フィアの性格を知り、レストランを持ち上げる寸前何かを感じたような素振りを見たにも拘わらず、その後何も訊かなかった
とはいえ自分を戒める事は後でも出来る。今は現状の打開に全力を尽くすべきであり、そのためにもフィアからもっと話を聞かねばならない。花中は頭を横に振って気持ちを切り替え、今度は自分がフィアに質問をぶつける。
「フィアちゃん、えと、地面の中に、どんなのがいたのか、覚えてる? 何本ぐらい、あったとか、変な形のやつがあった、とか。そういうのが、知りたいの」
「ふぅむそうなのですか。植物園全体に水を走らせた訳じゃないですし数えてもいませんのでなんとなくではありますが百本はあると思います。それと特別変な形のやつとかはなかったと思いますよ。まぁ全部変でしたけど」
「? 全部変って、どういう事?」
「なんかどれも一本の根っこで繋がっていたんですよ。その根っこも下向きじゃなくて横向きに伸びていましたし」
「横向きの根っこで繋がってる? ……まさか、地下茎か!?」
星縄が思わずといった様子で叫んだ言葉に、フィアはキョトンとしていた。『ちかけい』がよく分からないのだろう。対してミリオンは、その言葉の意味を理解していた。でなければ、忌々しげな表情を浮かべる訳がないのだから。
そして花中は、顔を真っ青にして震え上がる。
地下茎。
数多の植物が持つ、器官の一種である。持たない種も少なくはないが、希少な特徴という訳でもない。本質的には地中に這わせた茎であり、土壌から栄養分を吸収する根っことは異なる代物だ。
その主な役割は、地中という安全な場所を通って遠隔地に新たな芽や根を生やす事。
例えるなら施設と施設を繋ぐ、連絡通路のようなものだ。そして施設……つまり地下茎の先で形成された株が十分に成長すれば、連絡通路が切断されても新個体として独立出来る。
つまり『繁殖』だ。遺伝的・体質的には完全な同一個体ではあるものの、個体数が増えるという意味ではそう呼んで良い。
「馬鹿な……小型で大量生産可能な種子に驚異的な成長速度、おまけに積極的な栄養繁殖? なんだコイツは……何故此処まで突出した繁殖力を持っている……!?」
「驚きを通り越して呆れてくるわね。案外食べたら美味しかったりするんじゃない? それで天敵が多かったとか」
震え上がる星縄の隣でミリオンは肩を竦め、ジョークをぼやく……ジョークの一つでも言いたくもなる。花中だって、自分が何処からか夢を見ているのではないかと思い始めたのだから。
しかし現実逃避をしている場合ではない。
『マグナ・フロス』の力は想像の遥か上をいっていた。高高度を飛行する爆撃機を撃ち落とし、投下された爆弾を薙ぎ払うほどの威力と射程がある水流……想像するに、組織内に蓄えている水分を高圧で噴射したのだろう。水を固定化した上で操作しているフィアと違い、体外に放出しているので回数制限はある筈だが、そうした弱点を考慮しても恐るべき迎撃能力だ。核ミサイルを撃ち込んでも、数発程度では叩き落とされるかも知れない。
仮に何百もの核兵器を投入し物量で押しきったとしても、今度は『地下茎』がある。核兵器が使われた広島で、真っ先に芽吹いたとされる植物はスギナだ。彼等は地下茎を持ち、地中深くに潜行する事で核の炎と放射線を切り抜けたのである。おまけに地下茎はそれ自体が栄養器官だ。バラバラになった欠片から、それぞれ本体が再生するような事すら成し遂げてみせる。半端な破壊では根絶どころか、むしろ分布を広げる結果になりかねない。
無論広島で使われた核兵器と比べ、現代の核兵器の威力は段違いだ。最大級のものを用いれば、小国を丸々吹き飛ばす事だって出来る。しかし『マグナ・フロス』のサイズもまた、スギナとは段違いである。現代の核の炎で地中深くの地下茎まで焼き払えるのか。焼き払えた事を、どうやって確認するのか。そもそも地下茎は何処まで伸びているのか……
正直なところ ― 望んではいないが ― 核兵器を一発落とせば
だとしたら残す手立ては、もっと恐ろしい力に頼るしかないのではないか。
「フィアちゃん……あの、もしもなんだけど……頼んだら、地面の中にいる、『マグナ・フロス』を、全部やっつけられる?」
「そのぐらいでしたらお安いご用です。植物園中の地面を全部深度数百メートルまで掘り起こして一本残らず引っ張り出してやりますよ。その後は中の水分を操って細胞単位でバラバラに粉砕してやります。まぁ五分もあれば十分ですね」
尋ねれば、フィアは胸を張って答える。実に頼もしい答えだ。核兵器以上の破壊を伴い、『マグナ・フロス』の洗脳を解く鍵が永遠に見付からなくなる事を考慮しなければ。
だが、悠長な事を言っている暇もない。地下茎から生えてきた『マグナ・フロス』もまた花を咲かせていた。どのような種子の散布方法を採用しているかは不明だが、風で飛ばしたり、弾けて拡散するタイプならもう手に負えない。ひっそりと森の中に転がり落ちた種が一つでもあれば、そこから大地が浸食される。あらゆる哺乳類を洗脳しながら生息範囲を拡大し、気付いた時には手が着けられない規模まで増えてしまうだろう。こうなれば人の世界は一瞬にして『マグナ・フロス』のものだ。
その悪夢が現実のものとなる時間が分からないのなら、今すぐにでも決断をせねばならない。
「花中ちゃん……残念だけど、もう……」
星縄は既に諦めているのか。悲しみに満ちた言葉で、花中の背中を押してくる。
ちらりと目を向けたフィアは花中に暢気な笑顔を見せていて、一言お願いすればその瞬間に全てを終わらせてくれるだろう。花中がどんな気持ちを抱いていようと、お構いなしに。
言いたくない。だけど言わなければ、人の世界が終わってしまう。人を助ける可能性を切り捨てなければ、全ての人が心から奴隷となる。
だから花中は唇を震わせながら、ゆっくりと、その口を開いた。逃げたがる心を奮い立たせる。そうだ、『マグナ・フロス』の繁殖力を考えれば悩んでいる暇なんて――――
「(……繁殖力?)」
その単語が脳裏を過ぎった時、花中の意識が立ち止まる。目を見開き、身体の震えが一瞬で収まる。
「……花中ちゃん? どうし」
「すみません、十分だけ時間をください」
突然の変調に星縄が声を掛けてきたが、花中はその言葉を遮った。星縄が何度か呼び掛けてきたが、花中はもう答えない。震えが収まると共にクリアとなった意識は、思考の海に跳び込んでいた。
冷静に考えてみよう。
『マグナ・フロス』は現代に突如現れた突然変異体などではなく、古代に繁栄していた数ある植物の一種である筈だ。種として成り立つ程度には個体数がいないと、化石が発見されるという奇跡 ― 化石化は極めて稀な事象だ ― はまず起こらないからである。一説によれば、一つの種が誕生してから絶滅するまでの期間は平均して数百万年程度。『マグナ・フロス』も百万年は生態系に参加していた事だろう。
出鱈目な繁殖力に加え、航空機すら撃墜する戦闘力、どんどん下僕を増やす特殊能力……こんな生物が誕生したら、瞬く間に地上を覆い尽くしていなければおかしい。奴隷として酷使された哺乳類は個体数をどんどん減らし、絶滅寸前に追いやられていなければならない。
だが、そうはなっていない。一体どうして?
そもそもあの航空機を撃墜した力はなんだ? 『野生動物』を追い払うための戦闘力としては過剰にも程がある。確かに生命は環境に合わせた進化をしている訳ではなく、偶然環境に適応した進化を遂げたものが生き残っているだけ。なので例えばクリプトビオシスという休眠形態のように、想定される環境 ― 数ヶ月程度の乾燥と四十度前後の高温や、霜が降りる程度の氷点下 ― に対してあまりにも過剰な……人間なら即死する放射線、強酸や強アルカリ性、摂氏二百度もの高温やマイナス二百度もの低温などへの……耐性を獲得した場合もある。自然界に数百度の気温なんてないし、人が即死する放射線が定期的に降り注ぐような環境は存在しない。淘汰を経て適応したのではなく、偶然獲得した形質がやたら高性能だったという事だ。だから偶然にも『マグナ・フロス』が航空機を落とせる力を持っていたとしても、あり得ないとは言いきれないが……しかし偶然と考えるよりも、必要だったからと考える方が自然だ。
そうだ、フィアが言っていたではないか。こそこそと隠れてまるで臆病者だと。強大な存在ならば例え数十キロ離れていようと気配を感知出来るフィア達が、姿を現すまで感じられない存在感の薄さ……まるで弱々しい小動物のようである。地下茎でどんどん栄養繁殖し、あっという間に成熟し、小さな種で多量の子孫を作るなど、小さな雑草のようではないか。
すると一つの仮説が成り立つ。
『マグナ・フロス』は、喰われる側だ。少なくとも、六千九百万年前においては。
恐竜時代がとんだ魔境に思えてきたが、『事実』から推理するとこうとしか思えない。そして魔境である六千九百万年前には、間違いなく生息していた筈なのだ――――出鱈目な繁殖力だけでは物足りず、手当たり次第に掻き集めた哺乳類による護衛と、近代兵器をも超える迎撃能力を必要とした、『マグナ・フロス』の天敵が。
「(もしも、その天敵がいれば……!)」
個体数が少ない今ならば、『マグナ・フロス』を根絶やしに出来るかも知れない。加えて、これは願望だがその天敵には恐らく……
段々と希望を抱く花中だったが、しかしその希望はすぐに萎んでしまう。天敵が生息していたのは大昔の話だ。恐らくもう絶滅しているし、仮に子孫が生き残っていたとしても六千九百万年もの月日を掛けて進化してしまっているに違いない。『マグナ・フロス』の天敵としての力は、とうに失われているだろう。
或いは『マグナ・フロス』のように休眠している可能性もあるが、一体どうやって見付けろと言うのか。時間だって掛かる。今は一刻を争うというのに。
折角閃いた『名案』も、机上の空論で終わってしまう。星縄の話を遮った時のような気迫は、もう今の花中にはない。目を潤ませながら、力なく項垂れる。
やがて水球がぷるんと揺れた。顔を上げてみれば、星縄が手を伸ばし、水球から伸びた『手』を花中の水球に当てている。浮かべているもの悲しげな表情は、きっと自分と同じものだろうと花中は感じた。
「花中ちゃんは良くやったよ。だけど、この世界は人間のためにある訳じゃない。全ての人を助けるための選択肢は必ずしも用意されているとは限らないんだ……分かるよね?」
「……はい」
「もう良いんだ。これで。だから花中ちゃん……」
再び、星縄の言葉に背中を押される。今度こそ、理性は『現実』を向いてしまう。諦めが心を支配し、項垂れてしまう。
「あーそれにしても良い匂いですねぇ……小腹も空いてきましたしちょっと出掛けてきて良いですか? 五分ぐらいで戻りますから」
そんな人間の気持ちなど、フィアはお構いなしだった。こちらの話を殆ど聞いていなかったのか、もう忘れたのか。このタイミングで外出をしたがる有り様である。
如何にフィアの事が大好きな花中でも、今の態度にはほんの少しだけ苛立ちを覚える。それにしても先程から何を気にしているのか。こんな植物園にフィアが気になるものなど何もない筈だ。強いて挙げるにしてもたった一つしか心当たりが
「……あれ……?」
「花中ちゃん? また何か考え付いたのかい? だけど多分そんな時間は……」
「え、あ、待って……え、えっ?」
星縄が掛けてきた言葉を、花中は無視する。「今度は違うから」……こんな考えはこれっぽっちもない。そんなつまらない事に、知性のリソースを振り分けている余裕などないのだから。
思い出せ。『あれ』を見た時にフィアはなんと言っていたか。あの時は書かれていた内容と異なるからと、気にも留めなかった。しかし考えてみれば『彼等』は自分達の神様に夢中で、他のものへの関心が極端に薄くなっていたではないか。調べが足りなくて間違えた可能性、調べるのが面倒になって適当に纏めた可能性、そもそも調べてなくて想像で書いた可能性……全部あり得る。
恐らく『あれ』はこの建物内にしまわれている。フィアの求めるものが『あれ』だったなら、もしかしたら――――
この予想が当たっていたとしても、花中の思った通りになるとは限らない。限らないが、可能性はゼロではない。ゼロではない事をやらずして、早々に諦めて、妥当な結末を迎えるか?
お断りだ。
いざとなったら何もかもひっくり返して滅茶苦茶に出来るのなら、何故躊躇う必要がある!
「……フィアちゃん、探して」
「はい? 何をですか?」
「フィアちゃんが、食べてみたいもの!」
花中が大声で伝えると、星縄とミリオンは目をパチクリさせた。フィアだって、何を言われたのか分からないかのようにキョトンとしている。
だけどフィアは、誰よりも早く笑みを浮かべる。
獰猛で、おぞましくて、残虐で。
だからこそ頼もしい笑みを。
「おおっ! なんか難しい話の最中だったので我慢してと言われるかもと思ってましたが言ってみるものですねぇ!」
「え!? いやいや、待ってくれ! 『マグナ・フロス』の繁殖はもう始まっている! 拡散する前に駆逐を」
星縄が極めて真っ当な意見を主張したが、それが『正論』となるのは人間相手だけである。
「それでは早速探しに行くとしましょう! なんかもう割と我慢出来ませんから特急で!」
だからフィアは星縄の意見に答えすら返さず。
人間である花中の意識が遠退くほどの速さで、花中達を包んでいる水球が動き出す。何故ならその水球を引っ張るフィアが、戦闘機の数十倍もの加速度を以て部屋から跳び出したのだから!
床に転がっていた金属製の扉は踏み抜かれ、フィアは猛然と、階段そのものを砕くほどの脚力で一階まで駆け上がる。階段を登り切ったフィアは一度立ち止まり、数瞬辺りを嗅ぐ。人間では恐らく感じ取れない、感じたところで詳細など分からない微かな臭いでも、フィアの驚異的嗅覚は的確に捉えた。迷いない足取りで、フィアは暗闇に閉ざされた研究所を移動する。
人間の視力、ましてや水球の中に居る花中には、フィアが何処に向かっているのかさっぱり分からない。しかし余程楽しみなのだろう。身体に掛かる圧迫感から、とんでもない速さで駆けているのは間違いなかった。途中階段を上がり、三階ぐらいの高さまで進んだフィアは不意に立ち止まり
「多分此処ですね」
なんの躊躇もなく、『何か』をした。恐らくは蹴りだと花中は思った。破壊音と共に、バタン! と倒れる板の音もした故に。
フィアがごそごそと動く、と、不意に電気が点いた。突然の光に花中は思わず目を閉じ、幾らか慣れてからゆっくりと瞼を上げる。
辿り着いた場所は、物置だった。
整理整頓こそされていたが、埃の被った段ボール箱や壊れた模型などが置かれている、半分『ゴミ捨て場』のような部屋だった。要らないものはとりあえず此処にしまっているのだろう。大して広い部屋ではなかったが、置かれている荷物が道を塞ぎ、迷路のような様相を呈していた。
部屋の奥に行くのも一苦労。物を探すならきっと大苦労……そんな花中のイメージを嘲笑うように、フィアは自身の『身体』を伸ばし、スライムの如く柔軟さで部屋の奥まで一気に進む。そこに置かれていた段ボール箱の一つを取ると、無造作に中身を外へ放り捨てていく。
「見付けましたーっ!」
やがてフィアは段ボール箱の中身を取り出し、上機嫌な声と共に高く手を上げた。目当てのものを見付けたフィアは、再びするするとした動きで花中の下へと戻ってくる。
「おかえり、フィアちゃん。えと、何が、あった?」
「んふふふーこれですよこれー」
花中が尋ねると、フィアは心底嬉しそうにその手にあるものを花中に見せる。
フィアの掌の上にあったのは、テニスボールほどの大きさをした『種子』。
形状は綺麗な楕円形で、変形や欠損は見られない。表面の凹凸はきめ細やかで、太古から変わらぬ紋様を保持しているようだ。色彩こそ炭化したかのような黒色だが、今にも芽吹きそうな生命力をひしひしと感じる。
そう、これは種子だ――――『マグナ・フロス』の資料館のパネルに、ちょっとだけ書かれていたもの。『マグナ・フロス』と共に発掘された、同年代の生物
「……花中ちゃん、それは……」
「『マグナ・フロス』と、一緒に見付かった、タネです。資料館には、そう、書かれていました」
「資料館? ああ、『マグナ・フロス』の研究資料が展示されていた場所の事か。確かに別種の種子も見付かったという情報は、近くで配布していた資料にも書かれていたと思う……でも、それがどうしたんだい?」
花中と一緒に連れて来られた星縄が、フィアが持ってきた種を訝しげに見つめる。一体これがどうしたのか、これで何をしたいのか、そう訊きたいかのように。
だから花中は、その疑問に答えるつもりでいた。答えといってもあくまで自分の考えであり、感想であり、願望である。自分だけがその考えを抱いていたなら、自信なんて持てなかったに違いない。
されど此処にはフィアが居る。
フィアは人間社会がどうなろうと構わない。だから何かが人間社会を救う事を期待なんてしていない。自分の求めるがまま、自分の感じるがままに行動する。フィアがその『種子』を求めた理由は、自分の本能に訴えるものがあったからに過ぎない。
つまりは食欲をそそるのだ、その『種子』は。
しかしフィアの好物は昆虫である。特にイモムシだ。植物も食べられるかも知れないが、少なくとも花中はフィアが植物を食べているところを見た事がない。
この『種子』はフィアの食欲をそそる、特異な植物なのか? 否定は出来ないが、もっと自然な考え方がある。
即ち、
「この『タネ』……虫の、特にチョウの卵っぽいですよね?」
見た目通りの印象が、正しい答えであったなら――――
幕間の時点で出ていた怪しい物体さん。
さて、どんなものが出てくるでしょうか?
次回明らかに。
次回は10/14(日)投稿予定です。