彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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目覚めるパンドーラ5

 花中を抱きかかえたまま、フィアは猛然と駆けていた。

 特別温室から脱出したフィアは、ほんの数秒で温室から数百メートルも移動する。猛烈な速さではあるが、しかし精々時速二~三百キロ程度。人間が生身で晒されても気絶するような速さではなく、花中はビクビク震えながらも自発的にフィアにしがみついていた。

 特に指示もしていなかったので、フィアは適当に進んだのだろう。やがてフィアが立ち止まり、それに気付いた花中が顔を上げた時辺りは見知らぬ野外だった。『突然』現れたフィア達に驚きの眼差しを向ける数十人の来園者達と、柵で覆われた花畑や草むらが見える。夕暮れの日差しが、景色をノスタルジックに染めていた。

 此処は何処だろうと思い周囲を見渡せば、立て掛けられた一枚の看板が目に入る。看板曰く、此処は野外展示エリア。名前から察するに、日本の野草などを展示しているのだろう。

 変な場所ではないと知り、花中は安堵――――する暇もない。

 花中はおどおどと後ろを振り返る。自分達を追い駆けてくる来園者……健全な来園者と区別するため、『マグナ・フロス』の『観賞者』と呼ぶ事にしよう……の姿はすっかり見えなくなった。小さな影一つない。

 追ってきてはいない。正確には追い付かれていないだけかも知れないが、なんにせよ近くに観賞者はいないという事。

 花中の心が落ち着きを取り戻せたのは、この事実に確信が持ててからだった。

「とりあえず振りきれましたかね」

「う、うん。多分……」

 ゆっくりと降ろしてもらった花中は、フィアの言葉に同意する。

 未だに心臓はバクバクと音が聞こえるぐらい高鳴っている。呼吸も乱れている。意識して鎮めようとしても身体は言う事を聞かず、むしろ一層症状が酷くなっている気がした。

 一旦自分の身体に意識を向けるのは止めようと、思考を追い払うように頭を横に振る。そうして空白にした頭には、別の、何より最も重要な問題が浮かんできた。

 特別温室で起きた出来事、そしてその原因らしき『マグナ・フロス』についてだ。

 あの植物は危険だ。花中自身、経験したからこそ断言出来る。『マグナ・フロス』を目の当たりにした瞬間、理屈抜きに「あれは素晴らしいものだ」という考えを抱いていた。漂ってきた匂いを嗅いでからは他の事が考えられなくなり、『マグナ・フロス』への好感が際限なく高まっていたのを今でも覚えている。

 もしもあの時フィアが助けてくれなければ、今頃自分も『マグナ・フロス』の根を突き刺され、自分達を追い駆けてきた観賞者達のようになっていたのだろうか。

 ぶるりと、花中は身体を震わせた。何が恐ろしいかといえば、自分が彼等のような狂人になってしまう事ではない。そうなっていたに違いないとどれだけ論理的に考えても、人間を狂わせた瞬間を目の当たりにしても……未だ『マグナ・フロス』を()()()()()()事が恐ろしいのだ。

「花中さんこれからどうしますか?」

 フィアに問われ、花中は口を閉ざす。答えは胸にあるのに、それを妨げるようにもやもやとした感覚が喉につっかえていた。

 花中はぐっと息を飲み、深呼吸をして……心を決める。

 『マグナ・フロス』を倒してと、フィアに伝える決意を。

「フィアちゃん。あの」

「はなちゃん大丈夫!?」

「まきゅあっ!?」

 尤もそうした気持ちを言葉に出そうとした瞬間、突如聞こえた自分の名を呼ぶ大声に驚いてしまい不発に終わったが。

 狼狽える花中の目の前に、黒い霧が出現。霧は数秒と経たずに人の形を作る。

 現れたのはミリオンだった。ただしその顔に何時もの笑みはなく、珍しく慌てた様子だったが。

 何時の間にか静まっていて、しかしミリオンが現れた瞬間再び不快な鼓動を始めた胸を押さえながら、花中はミリオンと向き合う。「大丈夫」という問いの意味は「観賞者達のようになっていないか」だろうか。ごくりと息を飲み、再び開けた口からは、先程まで頭にあったのとは違う言葉が出ていた。

「あ、は、はい……えと、だ、大丈夫、です……多分」

「ちょっと見せて」

 花中は大丈夫と伝えたが、ミリオンは聞く耳も持たず花中の頬に手を当てる。しばらく手を当て続けたままじっと花中の顔を見つめてくるものだから、花中は少なからず戸惑いを覚えた。フィアもミリオンに鋭い眼差しを向けていたが、ミリオンは構わず花中の顔を見つめ続ける。

 やがてミリオンはホッと息を吐き、ようやく花中の頬から手を離した。

「良かった。粉の影響は小さいみたいね。これぐらいなら除去出来る」

「……粉? 除去って……」

 ミリオンの独りごちた言葉の意味が分からず、花中は目をぱちくりさせながら尋ねる。ミリオンは瞬きを一回すると、にっこりと優しい笑みを浮かべた。

「『マグナ・フロス』の粉よ。いえ、粉というより微粒子かしら? それがはなちゃんの脳の神経細胞と結合しているけど、これなら私の能力で取り除けるって事」

 ただし語られた言葉に、聞いた側が笑顔になれる要素はちっともなかったが。

「微粒子が、神経細胞に……? ど、どういう事ですか?」

「そうね。話すと少し長くなるけど、構わないかしら?」

 ミリオンの前置きに、花中はこくこくと何度も頷く。花中の同意を確認したミリオンは、早速話してくれた。

 曰く『マグナ・フロス』の花からは、微細な粒子が放出されているらしい。

 花粉と呼ぶにはあまりに小さなその粒子は、鼻や咽頭から血液中に入り込む。大半は免疫細胞により撃退されるようだが、しかし粒子の数はとても多いため一部は脳まで侵入し、神経細胞と結合するという。

 そして結合した粒子は神経に何かしらの化学的刺激を与えている。つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()という事だ。

「……ほ、本当、なのですか……?」

「ええ。おかしくなった人間の脳を直に調べたから間違いないわ」

 震えた声で尋ねる花中に、ミリオンは平然と答えを返す。ミリオンは微細な『粒子』であり、人体に入り込む事など造作もない。彼女の語る言葉に、嘘や憶測が入っている筈もなかった。

 脳神経に意図せぬ命令が走れば、例えば生理的な反応が暴発したり……無数の神経伝達によって形作られる『思想』に変化を起こしたりするだろう。問題はそれがどのような命令であるかだが、変貌した観賞者達の姿を見れば予想は付く。

 一言で述べるなら、狂信。

 『マグナ・フロス』への信心を掻き立て、従属し、心酔する感情を生み出す命令だ。

 恐らくこの性質は、六千九百万年前の世界で生き残るための能力なのだろう。野生の『マグナ・フロス』はこの粉を用いて様々な動物を従え、自分の手足として利用していたのだ。動物といえども自分の好きなものを傷付けようとする輩には敵意を剥き出しにするし、或いはお気に入りの種子や粉を纏うようなお洒落もした筈だ。これらの行動は『マグナ・フロス』にとって自分を食べようとする天敵への対策になるし、種子や花粉を拡散する手助けとなる。そうやって『マグナ・フロス』は恐竜達の闊歩する大自然を生き抜いてきた。

 しかし気候変動に対しては、あまり役立つ能力ではあるまい。白亜紀末期の大量絶滅……激変する環境に適応出来ず、恐竜と共に『マグナ・フロス』も滅びた――――僅かな種子以外を除いて。

 目覚めた種子は、六千九百万年前と変わらぬ生態を発揮して生き残ろうとしたに違いない。そして彼等の放った粉は、自称この星で最も賢い生命体……人間に効いてしまった。

 六千九百万年前の動物と違い、人間には高い知能と、強い信仰心があった。『マグナ・フロス』を素晴らしいものと信じ、信仰を広める事に使命感を覚える事が出来た。そしてそれを実現可能とする知性を持っていた。

 『マグナ・フロス』と毎日接する職員達は、この粉の影響を強く受けたに違いない。職員達は次々と『マグナ・フロス』の素晴らしさに()()()、一丸となって準備を始めた。存在を公表し、展示会を開いて無垢な人々を集め、そこで『マグナ・フロス』の粉を浴びせる……結果、彼等の思惑通り信者は激増した訳だ。

 無論人類の側から見れば、これは精神汚染とでもいうべき異常事態である。何かしらの手を打たねばならないし、『被害者』の治療も必要だ。

 しかし。

「問題は、微粒子と結合した神経の回復が殆ど望めない事ね。どうも一般的な麻薬成分とかと違って、分解や排出が起こらず、恒久的に効果が続くみたい。化学的な結合というより、シナプスそのものが変性している感じ」

「こ、恒久的って、治療方法は……」

「うーん。汚染部分を切除、要するに脳みそ切り刻むぐらいしかないんじゃないかしら? ただの化学物質だから私の熱なら簡単に分解出来るけど、どうしても神経ごと焼く事になっちゃう。はなちゃんの状態は軽度だったから自覚症状がないレベルで済んだけど、明らかに狂っちゃった人間達は無理ね。生きるのに支障が出るぐらい焼く羽目になるわ」

「……あなたもしかしなくても了承なしに花中さんの頭の中身焼いてません?」

「ありゃ、バレちゃった? でも緊急時の治療だからそこは許してよ。それに症状が軽度だったのは確認したって言ったでしょー。重篤ならもう少し慎重になってるわよ」

 ジト目で睨み付けてくるフィアに、ミリオンはおどけるように許しを請う。フィアとしても ― 詳細は理解していないだろうが ― 『仕方ない』事情があった事は理解したのだろう。不機嫌そうな鼻息を鳴らしてそっぽを向くだけで、それ以上悪態を吐こうとはしなかった。

 対して花中は、凍えるように身体を震わせる。

 ミリオンは医療の天才という訳ではない。しかし血管から体内に入り込める『微粒子』であるミリオンが、神経が化学的に変性していると言っているのだ。ならばきっと、それは事実である。治療が如何に困難であるかの見立ても、間違ってはいまい。

 古代の植物が放出した粉 ― 仮に洗脳粒子と呼称しよう ― がどのような分子構造をしているかなんて分からないが、現時点で有効な治療法があるとは思えないし、作り出せるとも考え難い。仮に作れたとしても長い時間、数年から数十年の月日が必要な筈だ。

 その間『マグナ・フロス』を見に来た観賞者達は狂ったままである。

「そ、そうです! 星縄さんは!? それに、ミィさんの姿も……」

 考えを巡らせる中で、花中は姿が見えない友人達の事を思い出した。どうして今まで思い出せずにいたのか、自己嫌悪で潤み出す目にぐっと力を込めて尋ねれば、ミリオンは笑みを何一つ変えずに教えてくれる。

「あの子達なら無事よ。はなちゃんと逸れてから、私達はずっと特別温室の出入口近くに居たからね。『マグナ・フロス』から遠く離れていたし、アレを見た瞬間猫ちゃんが星縄ちゃんを連れて逃げたから、はなちゃんより被害は少ないぐらいよ」

「あん? 野良猫の奴あんな枯れ木もどきの一本で何をビビってるんですか?」

「本能的に嫌な感じがしたみたいね。さかなちゃんや私が何も感じてないあたり、『マグナ・フロス』の粒子は哺乳類の神経に対し選択的に作用するんじゃないかしら。或いは水生動物が対象外なのかも知れないけど」

「星縄さんとミィさんは、無事なんですね。良かった……」

 知人と友達が無事と分かり、花中は心から安堵する。

 それに、心配するあまりその可能性を微塵も考えていなかったが、ミィが『マグナ・フロス』の粒子に侵された人々と同じになっていたら……実に恐ろしい状況と言えよう。野生の本能に、花中も救われた形だ。

 友達は全員無事。自分も『治療』によって回復した。心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。しかしそれは偽りの安堵である。

 何しろ問題は、何も解決していないのだから。

「それで花中さんこれからどうしますか?」

「え? どうって……」

「私としてはそろそろ帰りたいのですけど。留まり続けて花中さんが変になるのも嫌ですし」

 正直に自分の考えを明かすフィアに、花中は返す言葉を失う。

 実際、フィアの考えは正しい。

 『マグナ・フロス』が危険な洗脳粒子を撒き散らす植物だと分かった今、植物園内に留まる事すら危険であろう。かといってミリオンにも人々の治療が出来ない以上、花中達に出来るのは精々無事な来園者達に危険を伝えて帰宅を促す事。それから警察か自衛隊、或いは病院に通報するぐらいだ。

「ああそれともあの枯れ木もどきをぶっ潰しますか? 私としてはそれでも構いませんというか花中さんの身体に変なものを入れたと思ったらムカムカしてきましたからちょっと叩き潰して」

「だ、ダメ! それは絶対、ダメ!」

 ましてや『マグナ・フロス』を駆除してもらうなど愚行も同然である。花中は慌ててフィアを止め、フィアは不思議そうに首を傾げた。

 フィアならば、『マグナ・フロス』を駆除、否、破壊する事など容易い。恐ろしい生態を誇ろうとも『マグナ・フロス』はただの植物であり、対してフィアは冷戦時代に開発された()()()()()()核兵器さえも耐える可能性がある超越的生命体。勝負になどなる筈もないのだから。

 しかし観賞者達を狂わせたのは『マグナ・フロス』が放出した洗脳粒子だ。そして洗脳粒子が脳細胞と結合し、恒久的に思想を狂わせるという事は、『マグナ・フロス』の制御は一切受けていないという事。『マグナ・フロス』を倒したところで観賞者達は元には戻らない。

 むしろ治療薬の開発を進めるためには、洗脳粒子の合成過程や『マグナ・フロス』内での保存方法が重要になる。災厄の元凶であるのと同時に、『マグナ・フロス』は観賞者達を治療するための希望なのだ。一時の、自分の保身を考えて『マグナ・フロス』を駆除する事は、被害者の再起を妨げる行為に他ならない。

 倒せない以上、今の花中に出来る事はただ一つ。

「では帰りますか?」

「……う、うん……警察とかに、通報してから、だけど……」

 フィアの言葉に、不本意ながらも花中は同意するしかなかった。

「了解しました。それでは準備が出来ましたら声を掛けんあ?」

 花中から頼まれたフィアは快く受けるも、ふと視線を花中から反らす。

 フィアの一瞬の反応に気付いた花中は、フィアの視線が向いている方へと振り返る。フィアが意識を向けたものが何かは、すぐに分かった。

 故に花中は振り向いた直後に、自らの目を大きく見開く。

 つい先程自分達が逃げてきた――――特別温室がある方角から、数人の人間が走ってやってきたのだから。服装からして職員ではなく一般の来園者だった人々。彼等の誰もが目を血走らせ、常軌を逸した ― 人間の範疇には収まっているが、一般人のそれではない ― 速さで駆けている。

 『観賞者』達だ。

 まさか完全に見失った筈の自分達をまだ探していたのか? やってきた人数が少ない事から推察するに、手分けして虱潰しの捜索をしていただけで、自分達の居場所が分かっている訳ではないだろうが……

 彼等の真意を把握したく、花中は思考を目まぐるしく巡らせる。とはいえ観賞者達の目的はすぐに明らかとなった。

 それは花中の顔を一層青くさせる。

 観賞者達が走って向かったのは、一般来園者の親子連れ。お父さんとお母さんらしき大人と、幼稚園児ぐらいの小さな男の子の三人は、迫り来る集団を前にして驚きを露わにする。しかし植物観賞を楽しんでいた彼等が観賞者達に気付いたのはあまりにも遅く、観賞者達の足はあまりにも速い。

 観賞者達は肉薄するや、親子連れに掴み掛かる。あまりにも乱暴な手口に子供は泣き出し、抗議しようとする両親は観賞者達に殴られた。

 そうして怯んだ親子連れの前で、観賞者達の一人はポケットから何かを取り出す。

 観賞者が取り出したものは、銀色の粉のように見えた。観賞者はその銀粉を、未だ殴られたダメージが残る両親の顔に浴びせ掛ける。両親は恐らくは反射的に顔を守ろうとして腕を前に出したが、次の瞬間白眼を向き、涎をだらだらと流し始め、痙攣しだした。子供は悲鳴染みた泣き声を上げ、おかしくなった父親と母親にしがみつく。

 やがて両親の痙攣は治まり、幾らか表情が戻る。子供はわんわん泣きながら両親に顔を埋めた。

 両親はそんな子供の頭を掴み、観賞者から受け取った銀粉を自らの子供の顔に押し付ける。

 その後起きた事は、両親の身に起きた事と全く変わらない。一部始終を見届けた観賞者達はにんまりとした笑みを浮かべ、家族連れに何かを伝えるや銀粉を分け与える。家族連れは全員で頷き、再び走り出した観賞者の後を追うように続く。

 彼等が目指すは、親子連れに起きていた事態を呆然と眺めていた老夫婦だった。

「こ、これって……!?」

「ほほーああやって仲間を増やす訳ですか。なんかゲームだか映画だかで見ましたねあんな感じの化け物」

「ああ、ゾンビね。確かに似てなくもないかしら」

 フィアとミリオンは能天気かつ淡々と事態を受け入れていたが、花中は愕然となる。

 事態は、自分が予想していたよりもずっと深刻らしい。

 よく考えてみれば分かる事ではないか。神が如く素晴らしい存在を目の当たりにしたとして、どうしてそれを()()()()()()()()()? それは素晴らしいものなのだから、もっと世に広めるべきではないか。かの存在に尽くす幸福を、世界の『不幸』な人々に教えてあげないのはあまりにも身勝手ではないか。

 だから、知らない人に教えてあげよう。

 ……人間には他者を、家族や友人、時には顔すら知らない人々を幸せにしたいという『衝動』がある。その衝動が人間社会を発展させた力の一つである事は、疑う余地もない。しかし同時にこの衝動の暴走が宗教や思想の強要を生み、争いの原因となったのも事実。

 『マグナ・フロス』への盲信を抱いた人々は、他者の幸せを願う気持ちを暴走させた状態なのだ。恐らく観賞者達が持っていた銀粉こそが『マグナ・フロス』への狂信を抱かせる洗脳粒子なのだろう。観賞者達はその洗脳粒子を無関係な人々に吸わせ、吸わされた人々は『マグナ・フロス』への信心に目覚めて新たな観賞者へと変わり……

 フィア達が語ったゾンビという言葉は的を射ている。陸上選手並の身体能力を ― 脳神経を刺激され、限界以上の力を発揮しているのかも知れない ― 誇り、言葉によるコミュニケーションが可能な知性を保っている点を除けば。

 このままでは植物園内の人々が、次々と観賞者へ変貌する。

 否、今正に目の前でそれが起きていた。

「う、うわああああっ!?」

「ぎゃあっ!?」「な、なんだぁあっ!?」

 野外展示エリアに、悲鳴が響き渡る。

 ハッとして花中が目を向ければ、新たな観賞者達がこの場にやってきていた。彼等は近くに居る来園者達に襲い掛かり、次々と銀粉を浴びせていく。

 異変を察した観賞者達は次々に逃げ始めるが、並の人間を凌駕する速さで駆ける観賞者達を振りきるにはあまり愚鈍。一人、また一人と、観賞者達の仲間が増えていく。

 このまま何もしなければ、この植物園に居る人間全てが『観賞者』となるのも時間の問題だ。

「ふぃ、フィアちゃん! あの、こ、この言葉を、あの人達に向かって、大声で、言って!」

「? 花中さんが仰るのでしたら」

 キョトンとするフィアに、花中は耳打ちをして伝えてほしい言葉を教える。ふんふんとフィアは鳴くような声と共に、しっかり理解したと言わんばかりに頷く。

 そしてフィアはなんの躊躇もなく、周囲の来園者を一通り洗脳した観賞者達に向けて、

「おーいそこのまぐなんちゃら好き達ぃーあなた達の大好きな枯れ草をこれから切り倒しに行こうと思いまーす」

 花中が教えたのとやや異なる文面の挑発を行った。

 数十人にまで膨れ上がった観賞者達は最初、フィアの言う『枯れ草』がどういう意味か分からなかったのだろう。短くない時間ポカンとしていたが、しばらくして『マグナ・フロス』を意味していると気付いたらしい。まるで肉親の仇を見付けたかのような、憎悪の眼差しをフィアに向けてきた。

 今度は睨まれたフィアがキョトンとし、ややあってポンッと手を叩く。

「おお成程。奴等の気を引いて他の人間を助けようという事ですか。相変わらず花中さんは他人に甘いですねぇ」

「いや、言う前に気付きなさいよそれぐらい」

 今になってようやく花中の意図を理解したフィアに、ミリオンが呆れたようにツッコミを入れた。

 能天気なフィア目掛け、観賞者達は猛然と駆けてくる! ミリオンは「じゃ、後は頑張って。避難誘導ぐらいはしてあげるから」と言い残すや姿を崩し、虚空へと消えてしまう。自分の望みを察して行動してくれた事に花中は感謝し、花中との時間を邪魔する輩が居なくなったフィアは大変嬉しそうな笑みを浮かべた。

「それじゃあ花中さんのご期待に応えるとしますかねっと」

 それからフィアは間髪入れずに花中を抱き上げ、五メートル近く跳び上がる!

 突撃してきた観賞者達の腕はフィアの足下を空振り。フィアは観賞者の上を悠々と跳び越える。最前列に居た観賞者は避けたフィアを反射的に追おうとしてか足を止め、後ろから押し寄せた観賞者達が衝突。一斉に蹴躓いて大きな人山を作り上げた。

 お間抜けな姿を晒す観賞者達を尻目に、フィアは軽やかに着地。腕の中で目を回している花中なんて気付きもせぬまま、観賞者達にドレス越しのお尻を向ける。

「やーいウスノロどもー悔しかったら捕まえてごらんなさーい」

 止めに、可愛くお尻を振りながら二度目の挑発。

 人山が意識を統一したかのように蠢き、目を血走らせ、涎をだらだら零している顔を振り向かせる。

 フィアは彼等が立ち上がるのを待つように、わざとらしくのろのろと歩き……人山が解体されて数十人の観賞者へと戻ってから、そそくさと走り出した。

 フィアに抱えられている花中はフィアの肩に手を掛け、身を乗り出して後ろの様子を確認。無数の植物が植えられた広場を、血走らせた目でフィアだけを見つめながら追い駆けてくる数十人もの観賞者達の姿が見えた。こうなるよう自らの意思で誘導した花中であるが、正気を失った人間の姿に思わず恐怖し、乗り出していた身を引っ込める。

 とはいえフィアの速力は人間の比ではない。加速・減速・速度・機動性、その全てが人智を凌駕する。今は誘導するために、わざと観賞者達の速さに合わせているだけだ。

 故に段々と観賞者が迫ってきて、ついには腕を伸ばせば届くほど追い詰められても、フィアにとっては危機でもなんでもない。

「よっと」

 軽い掛け声と共に、フィアは一秒も経たずにほぼ静止状態まで減速。

 瞬時に直角に方向転換し、今度は一秒も使わずに自動車並の速さまで加速する!

 どれだけ異常でも一応人間の範疇である観賞者はフィアの動きに付いていけず、反射的にか無理な方向転換を試みて続々と転んでいく。全力疾走からの転倒だ、決して小さなダメージではない。下手をしたら死人が出る。

 フィアとしては()()()()はどうでも良いだろう。しかし花中にとっては全然どうでも良い話ではない。

「はーっはっはっはっ! 人間風情がこの私に追い付けると思いましたか!」

「お、ぶえぇぇぇ……ぐ、ぬぅ……!」

 上機嫌なフィアの腕の中で、全身を襲った慣性によるダメージからだばだばと胃の中身を吐き出す花中。一通り出して幾分頭をスッキリさせてから、再びフィアの肩から身を乗り出す。

 何人かの観覧者達は転倒のダメージが抜けていないのか、起き上がる事もなく地面に転がっていた。比較的無事そうな者も肘で身体を支え、何かを耳元に当てるような仕草を取っているぐらい……

 その仕草を見付けてしまったが故に、花中は顔を引き攣らせる。

 何かを耳元に当てている。現代においてその行動は、通信端末の使用を意味していた。観賞者達は元々一般人であり、スマホぐらいは持っていたに違いない。ならばそのスマホで何処かに連絡を入れる事は可能な筈。

 問題は何処に連絡をし、何を伝えたのか。

 ただ援軍を求めただけならば良い。フィア相手に、多少身体能力が増した程度の人間がどれだけ集まろうと勝ち目などないのだから。

 しかしもしも「我々では手に負えない」という情報を伝えていたなら……

「あん?」

 思考を巡らせている最中、フィアがぽつりと独りごちる。

 花中はその小さな声で思考の海から現世に戻ってきて、自分達が影の中に居る事に気付いた。その影が、どんどん色濃くなっているという事にも。

 無意識に、花中は頭上を見上げる。

 そこで車が空を飛んでいる光景を目の当たりにした。

 そこで車が空を飛んでいる光景を目の当たりにした。

 ……あまりに非常識な光景に、思わず二回も状況認識の言葉が脳裏を駆ける。花中は瞬きをして視界を切り替えようとするが、空飛ぶ車は消えてくれない。むしろ段々と大きくなっている。やがて車が視界全てを埋め尽くし、そこで花中はようやく自分の置かれている状況を理解した。

 車は空を飛んでいるのではない。恐らく全速力で何処かの段差から飛び出し、自分達に向かって落ちてきているのだ。

「ぴきゃああああああああああっ!?」

「よっと」

 思わず悲鳴を上げる花中だったが、フィアは至って冷静。軽やかに横へと跳び退き、自分を押し潰そうとした車を回避する。

 車は凄まじい音と共に着地。並の車なら衝撃で大破しただろうが、その車は所謂ハンヴィーと呼ばれるような、頑強な大型車だった。軍用車として使われるほど丈夫な代物であり、ダイナミックな着地でも破損せず。これといった問題もなく、平原を駆けるフィアと併走する。

 そしてハンヴィーには数人の男達が乗っており、車体上部には機関銃が装備されていた。

「き、ききき、きか……!?」

 あまりにも物騒な代物に、花中は震える声でその名を呟こうとする。ただの車であるハンヴィーなら兎も角、機関銃なんてもろに兵器だ。どうやって入手したのか。いや、もしかしてモデルガンの類で、虚仮威しのための装備では。

 『現実的』な期待をする花中であるが、機関銃の後ろに一人の男が付き、銃口を花中達の方へと向けてきた事で期待は打ち砕かれる。本当にモデルガンだったなら、機関銃の後ろに付いた男が獰猛な笑みを浮かべる筈がないのだから。

 思った通り、機関銃は本物の火と、金属の塊を吐き始める!

「おっと危ないですねぇ。花中さんが怪我をしたらどうするのですか」

 フィアはすぐさま抱え方を変え、自らの『身体』の後ろに花中を隠した。弾丸の何割かはフィアの『身体』に命中するが、戦車砲すらものともしないボディに機関銃の小さな弾など効きもしない。当たった弾丸の方が拉げ、金属音を鳴らして地面に落ちる。フィアの『身体』は欠ける事もなく、完全なノーダメージだ。このまま何時間、いや、何年でも耐え続けるだろう。

 それでも鬱陶しくは感じるらしい。

「ええいそろそろ黙りなさいっ」

 ぐにゃんと伸びたフィアの腕が、ハンヴィーの側面を殴る。

 殴ると言ったが、花中には見えもしない超音速パンチだ。おまけに拳の質量は、軽自動車に匹敵するまで高めてある。花中には何が起きたのか分からないまま、ハンヴィーの巨体がふわりと浮かび上がった……ように花中には一瞬見えた。

 実際には浮かび上がるどころか、すっ飛んだのだが。機関銃を撃っていた男は車外に投げ出され、ハンヴィーは石ころのように転がっていく。どちらもバラバラにならないのが不思議なぐらいだ。

 投げ出された男は微かに動いていたので死んではいないだろうが、重症になっていてもおかしくない。ハンヴィーの中に居る男達も、無事とは限らないだろう。花中は青くしていた顔を更に青く、最早黒に見えるぐらい悪くする。

 そして花中の心を更に締め上げるのが、横転したハンヴィーを追い越す、無数のバイクと新たなハンヴィー達。

 観賞者達の増援だ。バイクの乗員は武器を持っていないようだが、ハンヴィーの上にはどれも機関銃が装備されている。何処からどう見ても殺意満点で、こちらを生かしておく気など微塵もない事が分かる。

 どうやら『マグナ・フロス』に対する侮辱は、相手が誰であろうと死を持って償わせるつもりらしい。

「ふん! 雑魚が何匹来ようと無駄ですよ!」

 無論バイクやハンヴィーが何台来ようとも、フィアの自信を打ち砕くには足りない。フィアは足を止めるのと同時に素早く反転し、同時に自らの頭部を魚の形へと変形させる。

 続いて、ばくんっ! と花中に食らい付いた。

 非力な花中に抗う力などなく、そのまま丸呑みにされる。無論フィアは飲み込んだ花中を噛み砕いたりする事もなく、ただ自分の内側に退避させただけ。いきなり丸呑みにされた花中も、フィアに食べられた、なんてショックは受けていない。機関銃から自分を守るためには、抱いているだけでは不十分と判断したのだと即座に理解していた。驚くには驚いたし、心臓が痛いぐらい鼓動しているので、一言説明ぐらいはしてほしかったが。

「ふっはははは! これでこちらも思う存分遊べるというものです!」

 花中を安全圏へ退避させたなら、フィアにはもう怖いものなどない。迫り来る観賞者達を堂々とした仁王立ちで待ち構える。例え軍用車が何十台来ようと、振るえば一撃で全て薙ぎ払えてしまう水触手も生やし――――

「だ、ダメぇっ!」

 その光景を内側から()()()()花中が引き留める。

 フィアの内側へと呑まれた花中の前には、フィアが外から取り込んだ景色が映し出されていた。その景色と、『身体』の中を響くフィアの声から、フィアが何をしようとしているのか察したのである。

 花中に止められたフィアは、花中には見えない『顔』を面倒臭そうに顰める。それから花中が何を言いたいのか察したのか、やれやれとばかりに肩を竦めた。

「あーもしかしてアレですかね。殺すなとか怪我させるなとかですか?」

「うん……だって、あの人達は、操られてるだけだから……」

「本当に花中さんは他人に甘いですねぇ。仕方ありませんそーいう事なら逃げるとしましょう」

 花中の気持ちを汲み、フィアは再び身を翻す。そして足に力を込め、自動車にも負けない速さで駆け出し

「だ、ダメ!? そっちも、ダメ!」

 そうになるのを、またしても花中は引き留める。

 フィアが進もうとした先にあるのは植物園の施設。

 その中にはまだ、避難を終えていない人々が居るかも知れない。フィアにとっては無意味な銃器も、ただの人間である来園者達には死をもたらす凶器である。運悪く流れ弾が当たったなら……

「ではどうしたら良いのですか?」

 されどフィアが疑問に思うように、どちらもなし、は無理な話だ。

 選択肢を拒むなら代案を。

 そんな当たり前の意見への答えを持ち合わせていなかった花中は、言葉を詰まらせてしまう。どうするのが良いのか、どうしたら良いのか……迫り来る観賞者達を凝視しながら、花中は『答え』を必死に求める。

 その選択が、一層の動揺をもたらす。

 接近してくるバイクの乗員。彼等の手にあるものは、銃器ではない。何か、小さなビニール袋のようなもの。何故ビニール、とも思ったが、答えはすぐに予想が付いた。

 『マグナ・フロス』の持つ洗脳粒子を入れているのだ。

 フィアを始末したら、そのまま他の施設にバイクや車で乗り込むつもりなのか。はたまたフィアを洗脳するつもりなのか。目的はどうあれ、ますます彼等を施設の中に入れる訳にはいかなくなった。ここで戦うのも、袋の中身が外に溢れる危険があるため行えない。水で包まれているフィアと花中(自分)は無事でも、風下に居る来園者達が犠牲になる。

 戦えない理由、逃げられない理由がまた増えてしまった。花中は顔を青くし、代案どころか決断すら出来ず、最早カタカタと震えるばかり。

「ふぅーむ要するに花中さんはアイツらを傷付けず尚且つあの施設にアイツらを入れたくないのですよね?」

 フィアが尋ねてこなければ、きっとそのまま動けなかったに違いない。

「う、うん……でも、そんな方法……」

「ありますよ。とても簡単です……あん?」

 困惑しながら花中が答えると、フィアは納得したように頷く……最中に、こてんと首を傾げた。何か、違和感を覚えたかのように。

「……まぁどーでも良いですね」

 しかし花中がその意図を問い質す前に、フィアは一匹で勝手に納得。指をパチンと鳴らした。

 その行動を合図とするかのように――――突如として、大地が揺れ始める。

 揺れは正しく大地震が如く激しさで、地響きは大きな生き物の鳴き声のように辺りに響く。バイクの何台かは揺れに耐えかね、バランスを崩して横転。転んだバイクの乗員はすぐに立ち上がって自らの足でフィア目指して走り、ハンヴィーは問題なく突っ込んでくるが、しかし彼等がフィアと接する事はない。

 何故ならフィアと迫り来る観賞者達の間に、大地に段差が生じたのだから。

 比喩ではない。文字通り、フィアと観賞者達の間にはまるで階段のような段差が生じている。それも現在進行形で、段差は大きくなっていた。困惑した花中は無意識に辺りを見渡し、何が起きたかを知ろうとする。

 知る事自体は簡単だった。ただ、受け入れられるかは別問題。

 何しろ自分達が立つ大地が、凄まじい速さで隆起を始めていたのだから。

 見れば背後の施設も隆起に巻き込まれ、外部と繋がる廊下が引っ張られ、両断されていた。隆起の高さは一メートルや二メートルなんて規模ではない。地震が起きてからの十数秒で、二十メートルは盛り上がっている。

 こんな急激で、大規模な地殻変動、あり得ない。

「な、なな、何これぇ!?」

「ふふーんどうです花中さんこれならアイツらが此処まで来る事はありませんよ!」

 そして驚愕と恐怖で慄く花中に、事の元凶であるフィアは上機嫌に答えた。

 この現象はフィアの能力によるもの。地中の水分を操作し、周辺の大地を押し上げたのである。自然災害すらも凌駕する巨大現象を、小手先の技であるかのようにフィアは成し遂げたのだ。

 さしもの観賞者達であっても隆起により生じた大地の壁には驚き、慌ただしく足を止める。一部のハンヴィーが止まり切らず壁に衝突したが、減速していた事、ハンヴィー自体の頑強さもあって大破は免れた。バイクや生身の人間も、怪我を負うような目には遭っていない様子。

 それでもしばらくすれば怒りと執念に突き動かされ、生身で崖を登ろうとするが……隆起した大地はまるでカップケーキのように上へ行くほど膨らんだ形状をしており、しかも全体的に脆くなっている。掴んだ場所はボロボロと崩れ、一メートルと登れない。

 これならば観賞者達が施設に攻め込んでくる事は難しいだろう。機関銃を用意しているぐらいなのでヘリコプターなどを持っていてもおかしくないが、言い出すと切りがない。少なくとも今この瞬間に限れば、危機は回避出来たのだ。

「さてこんな感じでよろしいですかね?」

「う、うん。凄く、良い感じ。ありがと、フィアちゃん」

「いえいえこの程度私に掛かれば造作もありません。さてそれではあっちの建物に行きますかね」

「うん……」

 花中の返事を受け、フィアは口から花中を吐き出す。フィアの能力は水を分子レベルで操作出来るため、吐き出された花中は一切濡れていない。着替えなくても、風邪を引く心配はないだろう。

 フィアは花中を抱き上げ、花中はフィアにしがみつく。フィアは悠々とした足取りで、のんびり施設へと歩き出した。

 そして花中はフィアの肩から身を乗り出し、後ろを覗き込む。

 反り返った大地に阻まれ、隆起のすぐ傍の光景は見えない。しかしとぼとぼと帰っていく姿が見えない辺り、観賞者達は未だ壁を乗り越えようと、自分が傷付く事も厭わず挑み続けているのだろう。

 彼等が大きな怪我をしない事を、花中は切に願う。

 今は願う事しか、出来ないのだから。




天変地異並の事象をぽんぽん起こす主人公サイド。
こんな化け物相手じゃ人質取るぐらいしないと勝ち目がないよね!
なお花中以外には通じない模様。
そもそも人質取っている自覚もないですけどね、何分ただの草なので。

次回は9/23(日)投稿予定です。

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