彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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目覚めるパンドーラ4

「む、むぎゅうううう!?」

 花中の柔らかな頬っぺたが、お尻に敷かれた饅頭のように潰れていた。

 理由は簡単。花中の周りは今、通勤ラッシュ時の満員電車のような大混雑状態なのだから。

 『特別温室』に入った花中達を待っていたのは、暴徒の如く押し寄せた来園者達。パンフレットに書かれていた通り映画館のような造りをしたホールはそれなりの広さがあったものの、押し寄せた来園者の数はその広さをも凌駕していた。しかもホール内には椅子がなく、押せば押すほど一応中には入れる状態。際限なく押し寄せる人の波に飲まれれば、待っているのは圧迫地獄だ。温室内に入ってきた来園者の殆どは大人の男性で、圧迫感と熱への不満からかあちこちで罵声が飛んでいた。

 この場に居る具体的な人数は数えようもないが、三~四百人は居るのではなかろうか。

 人を押し退ける事も厭わない来園者達によって、花中はミリオンとミィ、そして星縄と逸れてしまった。ミリオンやミィは潰されるほど軟ではないし、星縄も大人なので大丈夫だろうが……小学生並の体格しかない花中には些か厳しい密度である。周りの人に押されて今にも潰れそうだ。もしかしたらほんの少し、いやかなり身長が伸びているかも知れない。

 無論こんな形で『成長』するのは嫌なのでなんとか押し返そうとするが、花中の貧弱な力では押し返している事にすら気付いてもらえない。渾身の力を込めようにも、肺に入り込んでくる空気が生温くて活力を奪われる。というか圧迫感の所為で息が出来ない。

「花中さん大丈夫ですか?」

 今も手を繋いでくれているフィアが周りの人間を片手で押し退けてくれねば、いずれ花中はくちゃっとなっていただろう。圧迫感はすっきりと消え、出来上がったスペースに冷たく新鮮な空気が流れ込む。フィアのお陰で、実に快適な空間となった。

 尤もフィアの圧倒的パワーで押し退けられた周りが先程までの自分と同じ呻きを上げているので、花中としては複雑な心境だったが。暴徒同然の集団であるが、ほんの五分ぐらい前に絡んできた中年男性をフィアがパンチ一発で黙らせてからは大人しいものである。花中も顔面蒼白でしばらく大人しくなったが。

「う、うん……ありがとう。でも、ここまで、広くしなくても、平気だよ。他の人の、スペースも、考えないと……」

「はぁ。花中さんがそういうのでしたら私は構いませんが」

 花中のお願いすると、フィアはいくらか周りを押し退けていた力を弱める。再び人々は花中の周りに押し寄せ、そこそこの圧迫感を与えてきた。ただし今度は背中に立つフィアが花中の身体に腕を回していて、金属製の鎧よりも遥かに頑強な守りがある。迫りくる圧力は全てフィアの腕が肩代わりし、花中にある物理的な不快感は生暖かい空気だけとなった。これぐらいなら我慢出来るレベルだ。

 強いて言うなら、あと一つだけなんとかしたい『問題』がある。

「……みんなと逸れちゃったね」

 この混雑に巻き込まれ、友達と離れ離れになっている現状の解消だ。

 フィアの実力を知っているミリオンやミィはさして心配していないだろうが、知らない星縄からすれば花中とフィアが暴徒同然の輩に囲まれた状態で孤立しているようなもの。恐らくは相当心配を掛けているに違いない。入口の前で『ワガママ』を通した手前、これ以上の心配は掛けたくなかった。

 尤も、花中を独り占めに出来てかなり上機嫌なフィアにこれを頼んでも、素直にやってはくれないだろうが。

「そうですね。まぁ私は花中さんと一緒に居られればそれで良いので問題ないですけど。それにしても凄い混み具合です」

「……うん。大昔の、生き物が蘇ったって、すごい事だからね。チケットがあるから、この程度で済んでるだけで、入場フリーに、したら、もっと凄い事に、なっていたと思うよ」

 花中の独り言をさらりと流し、自分の話を始めるフィアに、花中はちょっとだけ唇を尖らせながら頷く。

 恐らくこの混雑も、職員が『マグナ・フロス』の影響を受けた事が原因だろう。単純に出来るだけたくさんの人に見てもらおうと、室内に入れるギリギリの数で計算したに違いない。高過ぎる密度による来園者のストレスや混乱など、一切考慮せずに。

 他者の気持ちすら考えられないとは、正しく薬物中毒のようである。本当に『マグナ・フロス』が原因なのか、それを立証するだけの証拠が得られれば良いのだが……

「ところで花中さん一つ疑問なのですが」

 決意を胸に秘めていた最中、頭上からフィアの声が降りてきた。予期せぬ呼び掛けに花中は思わずびくりと身体を震わせる。小さな心臓が変に昂ぶっていたので両手で胸を押さえながら、花中はこちらを見下ろすフィアの顔と向き合う。

「う、うん。なぁに、フィアちゃん?」

「そもそもな話になってしまうのですがどうしてただの植物を見るためにこんなにもたくさんの人間が集まっているのですか? 草なんてどれも大差ないと思うのですな」

 フィアは首を傾げながら、本当に不思議そうにそう尋ねてきた。

 フィアの考えは多少極端だが、生物に関心がない『人間』ならば似たような考えを持つかも知れない。どんなに言い繕っても、此処に展示されるものはただの『草』なのだ。今でこそこの場に居る大勢の人々は『マグナ・フロス』に狂わされている疑惑があるが、しかし展示会に来る前は正気だった筈である。それでも稀少なチケットを求め、中には私財を投げ打って手にした者もいるだろう。どうしてそこまでして『草』なんかを見たいのか、不思議に思ってもおかしくない。

 しかし生物好きからすれば、『マグナ・フロス』は正しく世紀の大発見なのである。

「えっとね、まずだけど……古い地層から、発掘された種が、発芽したって話は、そこまで珍しくは、ないよ」

「む? そうなのですか?」

 フィアはてっきりそこが珍しいと思っていたのか、意外だと言わんばかりに目を丸くする。

 しかしながら事実、地層に眠っていた種子が発芽した、という例は様々な種で報告されている。最も有名な例でいえば、二千年前のハスの種子が発芽し、花まで咲いて、現在でも世代を重ねているというものだろうか。基本的に植物の種子というのは一旦休眠し、その後適切な環境が来るまで眠り続けるもの。一般的なものですら、数年~十数年程度の休眠は『普通』なのだ。条件さえ良ければ、種子はしぶとく生き延びてくれるものである。

 無論『マグナ・フロス』が過ごした六千九百万年という月日はあまりにも長過ぎる。現代の植物にはない、何かしらの『特性』によって生き長らえたのかも知れない……という考えは、一先ず置いておく。本題ではない。

「大事なのは、大昔の絶滅種の、タネが発芽した事。環境破壊とかで、絶滅した植物は、結構いるけど、それらの復活も、希望が持てるよね」

「ふーん。絶滅した生き物なんてそいつらが弱っちいから滅びたのですから復活させる理由なんてないと思うのですが」

「あはは……まぁ、生態系を、守らないと、人間も大変な目に遭うから。それにもしかしたら、絶滅した、すっごく美味しい虫の、餌になる植物も、あるかもだよ?」

「む。それは是非とも復活させてほしいですね。虫共々」

 絶滅種の復活が自分の利益になると分かり、急に好感を抱くフィア。実に野生的(利己的)な考えに、納得してもらえた花中もくすりと笑みが漏れる。

 とはいえ人間が生態系の保全や絶滅種の復活を期待するのも、『生態系を守る事で人類の生活環境を保護する』や『将来人間の役に立つかも知れない希少生物の絶滅を防ぐ』ためなのだから、利己的な考え方という意味ではフィアと大差ないのだろう。あまり人間もフィアの事を笑えないなと、花中は口許をもにゅもにゅと動かし、浮かんだ笑みを消しておく。

 それから改めて、二つ目の『理由』を答えた。

「後は、白亜紀の気候を知る、手掛かりになる、というのも、あるよね。ある時代を生きていた、生物というのは、その時代の環境に、適応していたのは間違いない。だから、『マグナ・フロス』を研究すれば、白亜紀が、どんな気候だったか、分かるかも知れないんだよ」

「ふぅむ大昔の事なんて知っても仕方ないと思うのですが……」

 フィアは先程以上にピンと来ていない様子だが、生物好き、いや、一理系としてはこちらの方が大事だ。

 『マグナ・フロス』の生態を研究すれば、少なくとも『マグナ・フロス』が生息していた地域の環境については正解に等しい答えを得られるだろう。その『ほぼ正解』の情報を元にしてシミュレーションを行えば、白亜紀後期の地球環境をより正確に予測出来る筈だ。もしも今までの予想と異なる結果が出たなら、現在主力とされている古代生物の復元図も大きく変わるかも知れない。予想通りなら、それはそれで現在の仮説を裏付ける一つの実証となるだろう。

 また白亜紀は現在よりも平均気温がかなり高かったとされ、温暖化した地球環境を知るための重要な『サンプル』でもある。地球温暖化が叫ばれる昨今、地球の、ひいては人類の未来を予測するのに役立つかも知れない。他にも、どう考えても現在の予想と噛み合わない結果が出て「大陸の位置関係が間違っているのでは」となれば地質学への影響もあるだろう。或いは気象学が根底からひっくり返るという事も考えられる。

 たかが一本の植物。

 されどこの一本は、人類が数万年の月日を掛けて積み上げた科学を、根底から塗り替える可能性を秘めているのだ。

 ――――等々語ってみたが、要約すれば一言で片が付く。

「つまり、古代生物には浪漫があるんだよ!」

「あっはい。そうですか良かったですね」

 生き物好きというよりマニアの域に片脚を突っ込んでいる花中の力説に、フィアは納得していない事が一発で分かる適当な返事をした。友達の素っ気ない反応に、花中はぷくりと頬を膨らませる。

 確かに『マグナ・フロス』は人々を暴徒化させた原因であり、人心を惑わす悪魔かも知れない。それを思えば心から喜ぶ事は出来ないが……だとしても生物好きとして、この想いを捨て去る事など出来やしないのだ。それぐらい『マグナ・フロス』の発見と復活は素晴らしい事なのである。

「むぅ……浪漫なのに。面白いのに」

「私にはどうにもその面白さは理解出来ませんね。人間というのは本当に奇妙な生き物です……む」

「……?」

 不意にフィアが漏らした一言に気付き、花中は顔を上げてフィアの様子を窺い見る。と、フィアの表情が少しばかり強張っていた。

 フィアは野生動物であり、人間よりも遥かに優れた感覚器を持っている。

 その感覚器が迫り来る危機を素早く察知し、見事回避してきた事を、幾度となくフィアに助けてもらった花中は知っている。今のフィアの反応は丁度、『何か』を感じ取った時のそれだった。しかしながら同時に、何時もならもっと露骨な警戒心を見せるのに、とも思ったが。なんというか今のフィアの反応は、中途半端な印象を受ける。

「フィアちゃん、どうしたの?」

「ん? ああいえ大した事では。ただ妙な気配があるなと思いましてね」

 尋ねてみたところ、フィアは一点を見つめながら答える。

 フィアが何を見ているのか花中としても気になる……が、背が圧倒的に足りない。周りを取り囲む大人の背中しか見えず、かなり歯痒い想いをする。

 するとフィアは花中の目を自身の手で覆った……瞬間、花中の目の前に『景色』が映った。

 恐らくはフィアがその『目』から取り込んだ光を、全身を経由して掌まで送り、掌に表示しているのだろう。生の光をそのまま届けているからか、実にクリアな映像だ。人智を超えた器用さを誇る友達に感嘆しつつ、表示された映像にあるフィアの視線が向けられているものを花中は見る。

 フィアが示していたのは、花中達の丁度真正面……映画館で言うところのスクリーン部分を覆い尽くす一枚の暗幕だった。

「……暗幕?」

「つい先程あそこに妙な気配がやってきました。あんまり強くはなさそうなのでちょっと気になっただけですが」

 フィアは花中の目を覆っていた手を外し、そのように答える。妙な気配、という言葉に一瞬戸惑いを覚える花中だったが、よくよく考えてみれば『この部屋』の暗幕の向こうに現れるものは一つしかない。

 復活した古代植物『マグナ・フロス』だ。今まで何処かに保管されていたものが、展示のため運ばれてきたのだろう。人心を惑わすと思われる植物に対し、フィアの本能が異常さを感じ取ったのかも知れない。

 フィアの本能に何度も命を救われた花中としては、フィアが意識を向けたものに警戒心を抱いてしまう……とはいえフィアは「あんまり強くはなさそう」とも言っているので、さしたる脅威ではないのだろう。無論付き合いが長い花中には、フィアにとっての脅威と、人間にとっての脅威に大きな隔たりがある事は重々承知している。そういう意味では、フィアの言葉を鵜呑みにするのは不味いかも知れない。

 しかし『マグナ・フロス』は数ヶ月間人間に育てられた存在である。少なくとも一昔前の怪獣映画に出てきたような、根っこをうねらせながら自走して人間を食べるようなモンスターでない事は明かだ。仮にこの場で本性を露わにしたところで、近代兵器すら凌駕するフィアの実力ならば簡単に打ち倒せるだろう。『マグナ・フロス』に直接襲われる心配はあるまい。

 尤もそんな事を気にする意識は、花中の中からすぐに消えてしまうのだが。何しろ暗幕の向こうに『マグナ・フロス』が運ばれてきたという事は、いよいよお披露目の時間という事なのだ。

 ついにこの時が来たか。

 復活した古代種との対面、人心を惑わす悪魔との遭遇……複雑な想いにより、花中の身体は自然とゆらゆら動いてしまう。周りを見れば、人々も急に落ち着きを失ったかのように身体を揺れ動かしていた。苛立ちを覚えているのか、かなり忙しない、小刻みな動きが多い。反面喧騒は静まり、異様な統一感が場を満たす。

 やがて天井にあるスピーカーからぷつぷつという音が聞こえた。花中を含む室内に居た来園者全員が、一斉に天井のスピーカーを見上げる。

【えー……大変お待たせしました。間もなく展示開始となる旨をお伝え致します】

 そしてスピーカーから降り注ぐ言葉を受け、人々は苛立ちと入れ替わるように興奮を露わにした。

 花中もつられるように興奮が込み上がり、一層そわそわと身体を動かす。そうしていると周りの大人の所為で暗幕が見えない事を思い出した。

「あ、フィアちゃん! えと、手で、望遠鏡みたいの、やって!」

「はいどうぞ」

 フィアは頼みにすぐさま応えてくれて、花中の視界を再び手で塞ぐ。無論、そこにはフィアの目で見た ― いや、フィアの視線よりも明らかに高い。恐らくフィアは『髪』を一本立たせており、その先端から外界の光を取り込んでいるのだろう ― 景色が映し出されている。今は静かに垂れ下がっている暗幕を、花中はじっと見つめる。

 その間もスピーカーからはマナーなどについての説明がされていたが、花中の耳には殆ど入らない。元より最低限のマナーについては、入場時にもらったパンフレットを熟読し承知済みだ。他の来園者についても同じで、誰もが興奮し、誰もが注意事項に耳を貸していなかった。

 ただ一匹、『マグナ・フロス』に殆ど興味を持っていないフィアだけは別で。

「花中さんなんかこの放送変ですよ」

「え?」

 流れていた放送への違和感をフィアから教えられ、花中はスピーカーの音声に改めて意識を向けてみた。集中して聞いてみれば、スピーカーから流れる女性の声は低調で、淡々としている。冷静、というよりも無感情という印象だ。あまりにも感情が乏しいからか不気味な感じがし、声の主への不快感が募る。

 しかし逆に言えばその程度の感想しか出てこない、人間の声である。普段花中以外の人間など眼中にないフィアが『この程度』の事を気にするとは思えない。

「えと、変って、何が変なの?」

 フィアが気にしている点が何処か分からず、花中は自分の目を覆ったままの友達にそう尋ね、

「さっきから流れている声の音程に()()()()()()()。これではまるで機械です」

 フィアはハッキリと教えてくれた。

 途端、ぞわりとした悪寒が花中の背筋を駆ける。

 この放送は機械音声によるものか? 否、改めて耳を傾けてみれば、『おいた』の過ぎた来園者を服装込みで指摘している内容が聞こえた。入力した音声を即座に変換・音声として出す事が出来るプログラムは存在するが、此処でそれを使う意味などない筈だ。人間がアドリブを交えて話していると考えるべきである。

 人間に機械染みた正確性で、音の高低差のない声が出せるのか? 訓練すれば、不可能ではないだろう。人間のスペックの高さは人間自身が驚くほどに高いものだ。そのぐらいは出来てもおかしくない。しかし集まった来園者に注意を促す放送でそんな『特技』を披露するなど、機械を経由した音声変換以上に意味がない。大体音の高低差があるかどうかなど、絶対音感や、フィアのように優れた聴覚がなければ分からない事。この放送の人物は、自分の特技に気付いてほしくてやっている訳ではない筈だ。

 なら、どうして? まさかこの放送主は『無意識』にそんな声を出しているとでもいうのか。

 まるで自分の仕事であるこの音声放送にすら、なんの興味も持っていないかのように――――

【それでは皆様、お待たせ致しました。白亜紀から現代に甦った植物『マグナ・フロス』のお披露目です】

 思考を巡らす花中の耳に、高低差のない音声が本日の『メイン』の始まりを告げた。思考の海に旅立っていた花中はハッとなり、フィアの手が自分の目を覆っているのもお構いなしに顔をぶんぶんと横に振る。フィアが自分の頭上で首を傾げた、ような気がしたので「ごめんね。なんでもないよ」と謝っておく。

 不気味な事実に気付いてしまいそちらに気を取られてしまったが、本命はこっちの方だ。花中は再び()()()の光景に意識を注ぐ。

 今まで微動だにしていなかった暗幕が、ゆっくりと、左右に開かれる。暗幕同士の幅が広がるほどに、花中は自分の心臓が高鳴っていくのを感じ取る。興奮と、それと共に高まる悪寒によって。

 そして『それ』が見えた時、花中は今まで感じていた悪寒の事を、一瞬にして忘れてしまった。

 それの大きさは、ざっと五メートルはあるだろうか。木本性らしく太い一本の幹があり、その先端部分にだけ十数枚の大きな葉が広がっている。葉の形状や生え方からしてシダ植物のように見えるが、広がる葉の中心に巨大な花……真っ白な花びらが五枚、中央には雄しべと雌しべの集合体らしき黄色の塊がある……がある以上、被子植物の一種なのは間違いない。胞子で繁殖するシダ植物には、花が咲かないのだから。

 あれが『マグナ・フロス』。偉大な花という呼び名を与えられた、(いにしえ)からの使者か。

「うーん実物を見てもやっぱり私にはただの草にしか思えませんねぇ。いやただの草よりも気持ち悪い感じがある分面白くないどころか割と不快なのですが」

 頭上でフィアが何やらぶつくさと愚痴を漏らしていたが、花中の心には響かない。周りの人々も花中と同じく感動を覚えたのか歓声が上がり、スマホを高く掲げて『マグナ・フロス』の撮影を試みる人が続出していた。

 最前列を除けば、フィアの投映している映像を見ている花中ほど『マグナ・フロス』がハッキリと見えている者はいないだろう。それでも、花中の知的好奇心はまだまだ満たされない。底の知れない興奮が湧き上がり、無意識に身体が揺れ動く。今になって、暴徒化した人々の気持ちが分かり、人心を惑わすなんてきっと何かの間違いだと思えてくる。

 もっと、もっと近くで見たい!

 いや、出来る事なら直に触り、その感触を確かめてみたい。見る限り『マグナ・フロス』の周りにあるのはスムーズな移動を妨げる程度の、頑張れば花中でも乗り越えられそうな小さな段差だけ。警備員らしき人も二人しか立っていない。良心の呵責がなければ、今頃あの段差を乗り越えていたかも……

「(……あれ?)」

 そうした興奮の中、花中の胸の奥底で違和感が生じる。

 『マグナ・フロス』は希少な植物だ。もう一個体あるとはいえ、その残り一個体が何かの拍子に枯れてしまう可能性もゼロではない。それに植物の中には自家不和合性という、自分の花粉では受精が起こらない植物もあるのだ。一個体だけでは種子を作れず、世代が絶えてしまう恐れもある。展示されたとはいえ、乱雑に扱って良いかは別問題だ。

 希少な古代植物だけに、集まっている来園者の中に熱狂的マニアがいてもおかしくない。いや、ネットオークションに流れたチケットに数百万もの値が付くぐらいなのだ。相当数のマニアが来ている事は間違いないだろう。

 マニア全員のマナーが悪いとは言わない。が、柵を乗り越え、触りに行こうとする度し難い輩が混じっている可能性は否定出来ない。おまけにこの植物は世界初の、そしてもしかすると二度と出会えないかも知れない古代種なのだ。不埒者が現れる可能性は高いと見るべきであり、植物園側がその点を見落としているとは考え難い。

 なのに何故、ここまで警備が手薄なのか。これでは悪質な輩にやりたい放題されてしまうのではないか……

 そんな考えが過ぎるも、花中はすぐに警備が少ない『理由』に思い当たった。気付いてしまえば、なんて事はない。むしろ何故気付かなかったのかと、自分の迂闊さが滑稽に思えてくるほどだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……? 花中さんなんか変な臭いがしませんか? 果物が腐ったみたいな甘ったるい臭いなのですが」

 フィアが頭上で何かを言っていたが、花中の耳には届かない。ただただ目の前にある植物に魅了され、うっとりとした笑みを浮かべるのみ。

 それは周りの人間達も変わらない。暗幕が空いた時に上がっていた歓声は今や静まり、スマホを掲げる腕もなく、誰もが蕩けた笑みを浮かべて『マグナ・フロス』を眺めていた。足は自然と『マグナ・フロス』の方へと向かい、前の人間を押してでも進もうとしてしまう。

「? 花中さん? なんかどんどん前に進んでますけど良いのですか? あれ危ない植物なんじゃありませんでしたっけ?」

 花中と一緒に前へと進むフィアが尋ねてきたが、花中はそれに答えない。煩わしい。何故()()()()()()事に逐一答えねばならないのか。

 無論いくら『マグナ・フロス』に近付こうにも、その前には柵がある。乗り越えようと思えば簡単だが、傍には警備員が居るのだ。そう簡単にはいかない。

 警備員が『マグナ・フロス』の前から退かなければ、だが。

 一瞬ぽかんとした空気が場に広がった、のも束の間の出来事。

 感動に滲んだ叫びを上げ、来園者達が一斉に『マグナ・フロス』へと押し掛ける! さながらそれは人の津波のようであり、流れに乗れなかったであろう少数の人間の悲鳴が上がっていたが、押し寄せる来園者達はその足を止めはしない。

 フィアを振り払い、前へと走り出した花中も津波を構築する者の一人だった。

「花中さん? どうしたのですか? 何故どんどん前に行くのです? 花中さーん?」

 困惑するフィアの言葉など、もう聞こえない。花中は走り、走り、走り……『マグナ・フロス』を囲う集団に混ざると、彼等と共にその場で跪いた。

 なんと神々しいお姿なのだろう。

 傍で見た『マグナ・フロス』は、遠目で見ていた姿とはまるで違っていた。形態が変異した訳ではない。纏う雰囲気が、劇的に変わったのである。否、今も刻々と雰囲気は変化している。より神々しく、より荘厳に。

 変化があるのは『マグナ・フロス』の雰囲気だけではない。今まで人の汗と体臭しかしなかった空間には蕩けるように甘く、心に染み渡るような香りが充満し始めていた。一呼吸する度に脊髄が痺れ、脳が舞い上がるような快楽を覚える。これが『マグナ・フロス』の発する匂いだとすれば ― いや、間違いなくそうだ。花中にはその確信があった ― 、近付けばもっと濃厚な匂いを味わえる筈。

 最早、花中は『マグナ・フロス』を植物だとは思っていない。どうして先程までそう思っていたのかと、自己嫌悪するほどだ。『マグナ・フロス』以前までに確認された種子の長期休眠は精々ニ千年である。六千九百万年もの間眠り続けていた存在が目覚めるなんて、常識的に考えればあり得ない。

 即ち『マグナ・フロス』は、人智を超越した、常識の外にある存在。

 あの『御方』は、時を超えて人類の前に現れた神の化身なのだ。

 ……少なくとも、花中はそう信じるようになっていた。『マグナ・フロス』の前に集まった人々も花中と同じ目をしていて、同じように『マグナ・フロス』の姿を、瞬きすら惜しむように目を見開いて凝視していた。

 だから、足下に忍び寄るものに気付きもせず。

「おっとっと」

 フィアが素早く自分の腕を掴み、引っ張ってくれなければ、一体どうなっていたのだろうか。

 まずはそれを問わねばならぬ場面で花中が真っ先にしたのは、酩酊した眼差しでフィアに非難の意思を伝える事だった。

「もぉー……フィアちゃん、いきなり何すんのー……」

「いえ何と言われましてもあんなのが襲い掛かってきては見て見ぬふりも出来ませんし」

 呂律の回りきってない口で責めると、フィアは正面を指差しながらそんな弁明をする。此処は植物園。一体何が襲い掛かるというのか。

 花中は唇を尖らせながら、フィアが指し示す方向を見遣る。

 ただそれだけの仕草で酩酊していた頭は一瞬で冴え渡り、花中はその顔を真っ青に染め上げた。

「あ、あぁぁあぁあぁあ……」

 一人の中年男性が、映画に出てくるゾンビのような声を上げている。

 男は激しく揺れ動いている瞳孔で、虚空をじっと眺めていた。半開きの口からは涎がだらだらと零れ、びくん、びくんと身体が震えている。ズボンの股間部分が濡れているのは、よもや持っていたジュースが零れてたまたま濡れた訳ではあるまい。

 そして男の首下には、植物の根のようなものが突き刺さっていた。根が伸びている先を目で追えば、見付かるのは古代の植物……『マグナ・フロス』。

 『マグナ・フロス』から伸びた根っこが、男性の首に突き刺さっていたのである。しかもその男性だけでなく、『マグナ・フロス』の周りに集まっていた何百もの人間達全員に。

「な、何これ……!?」

「いやはや随分とけったいな植物ですねぇ。これが古代の生き物ですか」

 震える花中の傍で、フィアは淡々と暢気な感想を漏らしながら肩を竦めた。一見してその姿は隙だらけである。

 まるでその隙を狙うかのように。

 『マグナ・フロス』の根っこがうねり、フィア目掛けて放たれた。『マグナ・フロス』の根は凡そ植物とは思えぬほど豪快にしなり、弾丸を彷彿とする速さで襲い掛かってくる。

 しかし人智を超えた怪物であるフィアにとって、弾丸程度を叩き落とすなど造作もない。直感で繰り出したであろう拳で殴れば、人の腕ほどの太さがある根はボキリと音を立ててへし折れた。

 するとどうだ。『マグナ・フロス』は痛みを感じたかのように折れた根を引っ込め……代わりとばかりに、『マグナ・フロス』の根が首に突き刺さったままの人々が、ずらりと『マグナ・フロス』の前に並んだ。

 次いで彼等全員が、フィアを憎悪の眼差しで睨み付ける。

「あん? なんですかコイツら」

 フィアは不思議そうに首を傾げるだけだったが、花中は息が詰まる想いだった。

 『マグナ・フロス』の前に立つ人々の瞳に宿る憎悪は、生半可なものではない。親が殺されても、果たして人はここまで他者を憎めるもののだろうか? そんな疑問を抱いてしまうほどだ。

 唯一それが可能な想いがあるとすれば、親愛ではなく盲信か。

 脳裏を過ぎった考えに、花中はぞわりと身体を震わせる。自分は、『マグナ・フロス』を見た時にどんな想いを抱いた? まるで神と対峙したかのような感動を覚えなかったか?

 もしかするとこの植物は……

「ほほうこの私にケンカを売りますか。たかが人間風情が良い度胸です。全員纏めて叩き潰してやりましょう」

 花中が考えている最中、特段何も考えていなかったであろうフィアが臨戦態勢を取った。刹那、花中は反射的にフィアの腕に跳び付く。フィアは駆け出そうとした全身から力を抜き、キョトンとした眼で花中を見下ろす。

 確かに彼等の憎悪は本物だと花中も思う。

 だが同時に『偽り』でもある筈だと考えていた。もしも自分の予想が正しいのなら、フィアに彼等を傷付けさせる訳にはいかない。

 彼等は『犠牲者』なのだから。

「だ、ダメ! あの人達を、傷付けちゃ、ダメ!」

「む……花中さんがそういうのでしたら別に構いませんけど」

 必死になって止めると、フィアは釈然としていない様子ながらも願いを受け入れる。

 フィアによる虐殺をなんとか回避したものの、花中に安堵している暇はない。憎悪に塗れた人間達が、一歩、また一歩と近付いてきたからだ。ゾンビのように緩慢だが、軍のように統率された行進。歳も、性別も、国籍もバラバラである来園者達がアドリブで取れる動きではない。

 『外部』からなんらかの制御を受けているとしか思えない。

 考えこもうとする頭を、花中は振りかぶる。考察は後回しにすべきだと本能も理性も訴えているのだ。

 何分来園者達の目は、もう限界だと言わんばかりに血走っているのだから。

「ぐぉあああああああ!」

「ああああああああッ!」

 そんな花中の考えを読んだかのように、来園者達が花中達目掛け突進してくる! 哀れ、凡人以下の反射神経しかない花中には、逃げる以前に動く事すら儘ならず。

「それでは一旦逃げるとしますか」

 十分な反応速度を誇るフィアは、花中を抱き上げながら独りごちる。

 獣の速度で身を翻したフィアは、迫り来る一般来園者から離れるように駆けた。戦車すらも叩き潰すパワーで大地を蹴れば、フィアの『身体』は人間など足下にも及ばないスピードまで加速。こちら目掛け駆けてくる来園者達との距離をあっという間に開けていく。

 特別温室唯一の出入り口に、フィアの移動を妨げる者はいない。此処を訪れた来園者は、軒並み『マグナ・フロス』の下に集まっていたのだから。

 フィアは易々と特別温室から跳び出し――――少し温室から離れた後くるりと振り返れば、どっと来園者達も溢れ出した。

「連中どうやら追ってくるつもりのようですけどどうします? やっぱ適当にぶん殴っておきますか?」

「ダメ! 逃げて!」

「承知しました」

 花中のお願いに、面倒臭そうにしながらもフィアは受け入れる。素早く前を向き直し、廊下を爆走した。

 花中はそんなフィアの腕の中から身を乗り出し、背後を見る。

 花中は目の当たりにした。段々と引き離されているにも拘わらず全速力で自分達を追い続ける、『一般来園者』達が()()()ほど居る光景を。

 そして彼等の後ろに居る数百人の『一般来園者』達が、自分達が逃げる先とは異なる方に散っていく姿も……




さぁ、いよいよ話が動き始めました。
という訳で本章の敵は『白亜紀末期の植物』です。
数千万年の月日を経て蘇った古代種の力が段々明かされますので
こうご期待。

次回は9/16(日)投稿予定です。

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