彼女は生き物に好かれやすい   作:彼岸花ノ丘

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目覚めるパンドーラ2

「まぁ、そりゃあたしだよねー」

 言葉では如何にも仕方ないと言わんばかり。だけど口角がほんのり上がっている。楽しさを殆ど隠せていない。

 友達であるミィのそんな笑顔を前にして、花中はにっこりと微笑んだ。

 地元を離れた、東京都のとある駅前に広がる大きな広間に立つ花中とミィ。頭上には昼時を迎え絶好調に輝く太陽があり、地上を焼き尽くさんばかりに熱光線を撒き散らしていた。周りには大きな建物がなく、二人の周りには身を隠せる影などない。

 しかし花中とミィは、汗一つ流していなかった。ミィは肉体操作で排熱を調整出来るためさして不思議ではないが、花中はただの人間である。周りを行き交う人々が苦悶の表情を浮かべ、誰もがハンカチで汗を拭っている中、一人だけ余裕でいられる能力など持っていない。

 とはいえ花中が暑さに喘いでいない理由は『能力』によるものである――――自分の、ではなく、傍に居るフィアとミリオンによるものだが。ミリオンが周囲の熱を吸い取り、フィアが霧状にした冷たい水を撒いているのだ。花中が熱中症で倒れないようにとの配慮である。

「いやー、それにしても涼しいね。ミリオンやフィアの力って便利だなぁ」

「ふふんそうでしょうそうでしょう。なんたって私は最強ですからね!」

「猫ちゃんだって、その気になればこのぐらいの真似は出来そうだけどね。周りの空気を吸い込んで、熱を取り込んだ冷たい空気を吐くって感じに」

「出来るけど、それやると後ででっかい排熱しないといけないから、結局後で暑くなるし」

「使えないクーラーねぇ」

「いや、元々クーラーじゃないんだけど?」

 わいわいと三匹は盛り上がり、楽しげな会話を繰り広げる。じゃれ合いでほんのり衝撃波が発生しているが、概ね平和な光景なので、見ていた花中は思わず笑みが零れた。

 今日、花中達は天神植物園へと向かう。

 此処に居るミィも、勿論その参加メンバーの一匹だ。残った一枚のチケットを誰に使うかで、見事選ばれたのがミィなのである。

 しかし花中は何も彼女だけを誘った訳ではない。

 友達の数がとっても少ない花中であるが、それでもフィアとミリオン、そしてミィ以外にもあと二人……晴海、加奈子という友達がいる。花中にとってフィアは一番の友達であるが、他の友達には『順位』など付けていない。みんな同じだけ大切で、みんな同じぐらい親しい。そのため誰かを選ぶという事が、花中には出来なかった。

 無論選ばねばチケットが一枚無駄になる。それはあまりにも勿体ないが、転売をするのだって気が進まない。悩んだ末に花中は、三名を同時に全員呼び出し、直に予定を訊いてみる事にした。

 すると晴海はその日親戚の家に行くとの事で都合が合わず。加奈子も一人旅の予定を組んでるとの事で辞退。野良猫であるミィだけスケジュールが空白だったため、参加となったのである。

「そういえばあなた植物とか好きなんですか? あんなの別に可愛くもなんともないと思うのですけど」

「うん、あたしも別に好きじゃないよ。動かない生き物とか興味ないし。だから晴海達が行けるならそっちに譲るつもりだったんだけど、こーいう時に限って誰も行けないっていうね」

 ちなみに、此度のイベントに対するミィの関心はこんなもんだったり。

 出来ればもっと興味を持ってほしいとは花中も思うが、こうして参加してくれただけで良しとする。賑やかで楽しい事が大好きな花中にとって、一緒に来てくれるだけでも十分嬉しいのだ。

「おーい、花中ちゃーん」

 そうして過去を振り返り終わった、丁度良いところで『彼女』の声が聞こえてきた。

 振り向けば、大手を振っている長身の『女性』らしき姿が。

 近付いてくる女性が星縄である事は、知り合いである花中にはすぐ分かった。今日の星縄は薄手かつ身体の形が見えるような長袖Tシャツを着て、下も腰や太股のラインが分かる細身のジーンズを履いている。中性的な顔立ちの星縄であるが、しなやかなスタイルを見れば女性だと分かり易い。むしろそのスレンダーさが魅惑的で、色香を出しているようだ。

 ちなみに花中の服装は若葉をイメージしたデザインのチュニックと、ゆったりとしたズボン。可愛い系ではあるが、色香なんてない。大人はやっぱりセンスが違うんだなぁ、と花中は星縄に尊敬の眼差しを送る。すぐ近くまでやってきた星縄は花中の眼差しの意図に気付いたのか、照れたように頬を掻いた。

「おはよう花中ちゃん。そう見つめられると、ちょっと小っ恥ずかしいかな」

「ふぇっ? あ! ご、ごめんなさい……」

「ははっ、女の子に見とれられるなら、悪いファッションじゃないみたいだね。安心したよ……ところでこの辺り、随分と涼しいね。何処かのお店の空気が流れ込んでるのかな?」

 きょろきょろと辺りを見渡す星縄だったが、ふと視界にミィを入れるやぴたりと止まる。ミィの存在をしっかりと認識した星縄は、すぐに胡散臭い ― 本人としては親しげなつもりの ― 笑みを浮かべた。

「おっと、初めまして。あなたがミィちゃんかな?」

「どうも、よろしくー」

 花中と入れ替わるように、今度はミィが星縄の前に出る。どちらも適当な挨拶を交わし、そこそこ友好を深めていた。

「さてと。全員揃ってるようだし、そろそろ行こうか? 忘れ物とかしてないよね」

 それから星縄は辺りを一望し、出立を提案する。

「私は構いませんよ」

「私も問題ないわ」

「右に同じー」

「あ、はいっ。大丈夫です」

「良し、それじゃあ出発だ。あ、チケットは後で渡すから心配しないでね」

 花中達の同意を受けた星縄は懐から五枚のチケットを取り出し、自分も忘れ物はないと主張する。これさえあれば、今日の目的である『展示会』への参加は可能だ。憂いはなくなり、この場で足踏みをさせるものはもうない。

 花中達は同時に、目的地を目指して歩き始めていくのだった。

 

 

 

 天神植物園。

 都内某所に存在するこの植物園は、植物好きにとっては天国のような場所であろう。

 展示されている植物は約五万種と、凡そ一日では見て回れないほど膨大。国内では此処でしか見られない種も数多く展示されており、中には触れ合い体験という形でなら、触る事が許されている種もある。

 植物学への貢献も大きく、様々な種の栽培方法を研究・実用化してきた。絶滅危惧種の保護活動にも積極的で、多くの種を危機から救った実績もある。基本方針は「もらった時よりも増やす」事、とホームページの『理念』のページには記されている。

 そして今では、古代から蘇った植物までもある状態。

 それほどの植物園が、夏休み真っ只中で空いている筈もなく。

「す、凄い混んでる……」

「ですねー」

 入場した花中達を待っていたのは、ごった返す人混みの光景だった。後ろから抱き締めるようにくっついているフィア ― 全身がひんやりしていて、触れているとかなり気持ちいい。お陰で炎天下の移動も楽々だった ― の同意する言葉も、周りの喧噪によって掠れてしまう。

 植物園の入口には美しい花を咲かせた植物が何十種も飾られていたが、行き交う人の姿が視界の大半を埋め尽くすため殆ど見えない。空調が効いている筈なのだが、むしむしとした暑さは人々の熱気によるものか。正直、居心地が良いとは言えない。

 花中達とて他者から見れば行き交う人の一人であり、人混みを形成する要素。人混みに向けた言葉はそのまま全部自分達に返ってくるのは重々承知しているが……それでも、もうちょっと減ってくれないかなぁ、と思ってしまうぐらいの大混雑だった。

 そしてこの混雑は、花中達を此処に誘った星縄にとっても想定外らしい。何時もニコニコ胡散臭い顔を、珍しく困らせていた。

「うーん、前に来た時はここまで混んでなかったんだけどなぁ」

「みんな、その古代植物ってやつが見たいんじゃないの?」

「いや、展示会専用のチケットがないと観賞は無理だから、それはないと思うんだけど……」

「案外猫ちゃんの言う通りかも知れないわよ? ちゃんと下調べをせず、行けば見られるっていう思い込みだけで来た輩も居るみたいだし」

 ぼやく星縄にミィが自分の考えを述べ、その考えに同意するミリオンはある場所を指差した。

 指先を追ってみれば、そこはインフォメーションセンター……問い合わせ窓口があり、何人かの入場者が詰め寄っている姿が見える。集まっている入場者は、遠目で見ても分かるぐらい興奮している様子だ。受付の若い女性が淡々と応対している様が、彼等の滑稽さを際立たせていた。

「……流石にあれは少数派じゃないかなぁ」

「さて、どうかしらね。ホームページとかだと、専用チケットがないと見られないって記載は端っこにちょこっとあるだけだったから、見逃してる人は多そうだけど」

「ええぇ……その表示の仕方はちょっと……」

「それに実物は見られなくても、写真や研究ノートのコピーは展示されているみたいだしね。そっち目当ても多いんじゃないかしら」

 『感情的』な否定をする星縄に、しっかり下調べをしてきたミリオンが論理的に反論する。星縄はようやく納得したように、成程と呟きながら頷いた。

 実際、ミリオンの考えが正しいのだろう。恐竜時代の植物を蘇生させたというのは、植物学のみならず科学界全体にも轟く偉業だ。科学に少しでも興味があるなら、新情報を知りたくなるだろう。例え実物は見られなくても、写真や研究成果などがあるならそれを閲覧したくなる心理は花中にも分かる。その数が、花中や星縄が思っていたよりも多かった、という事だ。

 そして正確に言えば、花中も彼等と似たような気持ちを抱いていたりする。

「あ、あの、星縄さん。展示会の開催時間まで、まだ余裕、ありますよね」

「うん、そうだね。バスの遅延とかあったけど、まだあと……二時間ぐらい余裕があるよ」

 花中の問いに、星縄は腕時計を見ながら答える。

 二時間。

 それは決して長い時間ではない。が、油断するとすぐに過ぎるような時間でもない。

 きっと、ちょっと『展示物』を見回るぐらいの猶予はある筈だ。

「なら、わたしも、植物の写真とか、ノートを見に行きたいの、ですけど……」

「勿論構わないよ。ちゃんと時間通りに行動してくれるなら、ね」

 花中がおどおどしながら尋ねると、星縄は大人らしく忠告を付け加えながら快諾してくれた。花中は花咲くような笑みを浮かべ、後ろに立つフィアの手を素早く掴む。

「フィアちゃん、早く行こ!」

 次いで答えを待たずに、掴んだフィアの手を引いた。フィアはこくんと頷き、花中の早足に合わせて付いてくる。ミリオンは見送るつもりのようで、星縄の隣で手を振っていた。ミィは何時の間にか姿が消えていたので、一匹で何処か行ったらしい。何か気になるものでもあったのだろうか。

 フィアと共に花中は『展示コーナーA』と書かれた看板が設置されている施設の入口へと向かい、そこに置かれていたパンフレットを手に取って中へと入った。施設内にはたくさんの人が居て、流石にそこを駆ける蛮勇はないため一度足を止める。逸る気持ちから、花中の足は自然と足踏みをしていた。

「花中さん随分と楽しそうですね」

 自分が無意識にしていた仕草に気付けたのは、フィアからの指摘を受けてからだ。

 フィアは決して窘めた訳ではないだろう。が、子供染みた自分の行動を自覚させられ、花中は赤くなった顔を俯かせた。

「う、うん。ちょっとはしゃいじゃった」

「大変可愛らしくて良いと思います。それでお目当てのものがあるのですよね? どうやって行くのですか?」

「あ、えっとね……」

 フィアに尋ねられた花中は先の醜態を誤魔化すように慌ただしくパンフレットを開き、描かれている地図に目を通す。

 それから間もなく、花中は眉間に皺を寄せた。

 パンフレットにはお目当てのもの――――発見された古代植物に関する情報が載っていなかったのである。何故だろうと思い地図以外にも目を向けたところ、パンフレット左上に書かれている発行日時が二ヶ月前を示している事に気付いた。古代植物の栽培成功のニュースが一月前で、お披露目は今日が初日。

 つまり更新が漏れている、という事だ。

「……なんか、パンフレットが古くて、書かれてないみたい」

「おや。そういう事もあるのですね」

「うーん、普通は、ないと思うけど……」

 古いパンフレットが紛れていたのか、急な企画で準備が間に合わなかったのか。なんにせよ仕事が雑な気がして、花中は舞い上がっていた自分のテンションが急降下していくのを感じる。

 とはいえ『がっかり』するほどの事ではない。古代植物の写真などが展示されているという情報はホームページにも載っていたのだから、植物園の何処かにはある筈だ。仮に見付からなかったとしても、今回この植物園に来た『目的』は古代植物の展示会であり、研究資料の閲覧は時間潰しに過ぎない。

 程良く落ち着けたと前向きに思う事にして、改めて花中はフィアからの質問に対する答えを考える。

「……とりあえず、この熱帯植物展示温室って、ところに、行ってみようと思う。古代植物が生きていた時代って、温かい気候だったって、言われてるから。なんとなく、雰囲気的に、近くにありそうな、気がする」

「了解です。だとするとあっちに行けば良いのですかね」

 パンフレットを見ながら花中が自分の考えを伝えると、フィアはおもむろにある場所を指差した。目で追ってみれば、先程花中が伝えた言葉が刻まれた看板のある入口があった。

 温室へと向かう人、出てくる人は共に少数で、数は同じぐらい。果たして自分の想像が当たっているのか。花中はあまり期待せず、フィアと共に向かう。

 入口の先には十数メートルほど続く廊下があり、行き止まりには二枚の大きなガラス戸があった。一般の来場者らしき人々がガラス戸を通っていたので、そこが温室への入口で間違いないと花中は確信。ガラス戸の前まで辿り着いた花中は戸をゆっくりと開けた、途端、中からむわっとした熱気が溢れてくる。

 吹き付ける熱気を潜り抜けると、行く先には熱帯のジャングルのような光景が広がっていた。

「おおー……!」

 ある意味では思っていた通りの、それ故に感動のある景色を目の当たりにし、花中は無意識に声を漏らす。

 展示されている木々は、いずれも熱帯のものなのだろうか。少なくとも花中が暮らすご近所の森、いや関東圏では見られない姿形をしたものばかり。生息地の環境を再現しているのか、温室内はじめじめとした暑さに満たされていたが、そんな些末な事など花中は気にしない。初めて目の当たりにした『生き物』の存在に、すっかり舞い上がっていた。

 強いて気になる点を挙げるなら、これほどわくわくする空間に自分達以外の人影があまりないところか。真夏の暑い時期に、わざわざ暑い温室に行きたくない心理が働くにしても、些か少な過ぎる気がする。尤も他人を気にせずのびのびと見学出来るので、悪い事とは思わなかったが。

「随分暑いですねぇ……おやあんなところに蝶が」

 そんな花中の身体に、自身のひんやりとした『身体』をくっつけながらフィアは暢気に独りごちる。辺りを見渡してみると、たくさんの蝶が温室内を飛び回っている事に花中は気付けた。動き回る蝶の種を正確に同定するのは難しいが、恐らくはナミアゲハ ― 住宅地でもよく見られるアゲハチョウの一種 ― だろう。ナミアゲハは熱帯に生息するような種ではないが、見た目が派手なので、賑やかしとして放し飼いにされていると思われる。

「……ふぅむなんだか見ていたら小腹が空いてきましたね。薬の臭いもしませんしちょっと幼虫を探してみますか」

 流石に、フィアの願いは叶わないだろうが。

「うーん……多分、いないと思うよ。幼虫が付いてたら、そのままだと、葉っぱが食べられちゃうし。柑橘系の植物がないから、こうして放してると思うよ?」

「そうなのですか? でもさっきから臭いがするのですが」

「? 臭い?」

「ええ。虫が葉を囓った跡からするような臭いがぷんぷんと」

 花中が訊き返すと、フィアは自信満々に胸を張った。

 フィアが言っている事は、なんらおかしな話ではない。植物というのは一見して大人しく動物達に食べられているようで、実は様々な『防御』を行っている事がある。例えば毒として作用する成分を大量に合成したり、粘着性のある物質を分泌して食べ難くしたり……葉を食べる昆虫の唾液と反応させ、臭い物質を合成したり。

 唾液と反応して作り出した臭い物質は、葉を食べている昆虫を殺したり、追い払ったりする効果はない。代わりに、その昆虫の天敵となるハチなどを呼び寄せるために使われる。

 フィアはその臭い物質を嗅ぎ取ったのだろう。植物が『想定』している天敵に(フナ)は入っていないだろうが、陸上を闊歩し、人間並の知性を有するフィアならば植物のSOSを受け取れる筈だ。

 問題は……ハッキリとした臭いを発しているという事はつまり、相当葉が食い荒らされているという事。展示物がピンチかも知れないのだ。

「えっと、フィアちゃん、その臭いって、何処から……?」

「あちらですよ」

 フィアは花中を抱き込むように腕を回したまま、真っ直ぐ、迷いなく歩き始める。

 フィアに連れられるがまま移動する事数分……花中の辿り着いた場所には、葉の殆どが柄だけになり、無数のイモムシにたかられた一本の木があった。

 木の種類は分からないが、漂う香り ― 大量の葉が食い散らかされ、生傷がたくさんある事が原因だろう ― からして柑橘系だと思われる。イモムシについては一目瞭然だ。ナミアゲハの幼虫である。どう考えても、放し飼いにされている個体達が産卵したものだろう。どの幼虫も活発に動いているのは、食べ物がなくなって空腹に苦しんでいるからか。中には地面を歩いている個体の姿も見受けられた。

「ほら花中さんたくさんイモムシ付いてますよ。やはり薬の臭いもありませんから食べても平気そうです。という訳で食べても良いですか?」

「う、うん……」

 すっかり食べる気満々なフィアに、花中は思わず許しを出してしまう。もしかすると『自然の厳しさ』を伝えるための展示物かも知れないが、見張りをしている職員は居らず、解説の記された看板すらない。これではもぞもぞと蠢く気味の悪いオブジェ以外の何物でもなかった。温室に人影がないのは、この不気味な展示品の影響も少なからずあるだろう。

 ナミアゲハの幼虫達にとっても、このままでは食糧不足で全滅の恐れがある。『野生動物』によって多少間引かれた方が、どちらにとっても良い筈だ……というのは人間の一方的な価値観だが。

 花中がそんな事を考えている中、フィアはゆっくりとイモムシ達にその手を伸ばした。狙うは木の根本を歩いている大きな幼虫。イモムシは気配を察知したのかビクリと動きを止めたが、知性を持つフィアは誤魔化せない。恐るべき魔物の手は難なくナミアゲハの幼虫を捕まえる

「ふんっ!」

 直前に、急に行き先を変えた。

 フィアの手が向かうは、ナミアゲハの幼虫がたかる木から数十センチほど離れた地面。人間では到底出せない速さで突き立てられたフィアの手、いや腕は地面に深々と突き刺さる。

 それからしばしフィアは動きを止めていたが、やがて突き刺した腕をゆっくりと引き抜く。すると握り締めた拳には根っこのようなものが握られていて、ずるりと一緒に飛び出してきたではないか。

 フィアが握り締めているのは、展示されている植物の根だろうか?

 突然起こしたフィアの行動の意味が分からず、花中は唖然となる。しかし驚きはまだまだ終わらない。

 フィアの掴んでいる根っこのようなものが、独りでに動き出したのだ。フィアが手を離すと根っこらしきものはずるずると地面の上で蠢き、束になり、形を作っていく。地面からは更に大量の根らしきものが自ら這い出し、束を一層大きなものへと変えていく。

 ついに根っこの束は幼稚園児ぐらいの大きさになり、人の形を取った。

 色などは根っこの時のそれ ― 全体的に茶色っぽい感じの ― であるが、『顔立ち』や『身体付き』は幼稚園に通う女児のよう。服、のように見える塊も園児服に近いデザインだ。

「んもぉ、いきなり手荒な方ですね。育ちの良さが知れるというものです」

 ただしその言葉遣いは、フィア以上に慇懃無礼なようだが。尤も、言葉遣いの悪さなど今更大して気にならない。

 新たな『ミュータント』と遭遇した事実に比べれば、口調なんてものは些末なものなのだから。

「ふん。育ちが悪いのはあなたも同じじゃないですかね。地面の中なんて根暗な場所に潜みながらこっちの様子を窺うなんて何を企んでいるのです?」

「企むなんて人聞きの悪い。お前は自宅に怪しい輩が来て、やぁやぁ我こそはなんて名乗りをあげるのですか?」

「しませんよ。すぐに叩き潰します」

「ヤベぇ、この人マジモンの蛮族です……」

 人外級の粗暴さを発揮するフィアに、同じく人外である幼女は表情を引き攣らせる。

 花中としても、幼女の言い分は一理あると感じていた。恐らく幼女はこの温室に展示されている植物、或いは紛れ込んできた『雑草』の一種なのだろう。つまり此処は幼女の『家』であり、自分達は不埒な侵入者。警戒するのは当然だ。

 花中は不安と緊張で昂ぶっている自分の胸を押さえながら、深々と深呼吸を一つ。幸いにして幼女は警戒こそしているが、敵意のような感情はないように見える。ちゃんと挨拶をすれば、仲直り出来る……と思いたい。

「え、えと、ごめんなさい。わたし達、その、温室の植物を、見に来ただけで……あ、わたしは、大桐花中と、言います。えと、人間、です。あなたは?」

 信念に従い、花中は片手で胸を押さえながら、幼女らしき『生物』に自己紹介をした。

 幼女はじとっとした目付きで花中を見つめ返し、ややあって小さく鼻を鳴らすような仕草を取る。

「……名前はねぇです。ただ、種名は知ってます。ラフレシアだそーです」

「ラフレシア……?」

 花中はこてんと首を傾げる。

 ラフレシアを知らない訳ではない。ラフレシアは『世界一巨大な花』として ― 高さ三メートルを超える事もあるショクダイオオコンニャクは小さな花の集合体なので除外しておく ― 、日本でも有名な植物なのだ。生き物好きな花中からすれば、その名は知ってて当然の『常識』である。

 しかしラフレシアを名乗った幼女は、どう見てもその世界最大級の花がない。いや、そもそも植物らしさがない。フィアが引っ張り出したものも植物の根のようではあったが、葉や茎などは何処にも……

 と、そこまで考えて、花中は思い出した。ラフレシアは寄生植物であり、栄養素は宿主から頂戴しているのだ。そのため葉や根を持たず、糸状の組織しかないらしい。寄生生活に特化した事で、一般的に目にする植物とは全く違う形態へと進化したのである。

 フィアが引っ張り出したのは、その糸状組織なのだろう。そして糸のような組織を束ねる事であたかも人のような姿を取っている、という事か。

「……疑ってるですか?」

 考え込んでいると、ラフレシアの幼女は怪訝そうな表情と声で尋ねてきた。花中は顔を横に振り、疑惑を否定する。

「いえ、納得したところです」

「納得、ですか。まぁ、なんだって良いです。ところでお前、一つ頼み事をしても良いですか?」

「頼み事?」

 花中が訊き返すと、ラフレシアの幼女はすっと自分の傍にある植物を指差す。

 それは、蔓性の植物のようだった。詳しい種類までは花中にも判別が付かなかったが、ヤブガラシなどに似ている気がする。一目で分かるぐらい葉を萎れさせており、このままではあまり先が長くない事が窺い知れた。

 そうしてじっと観察し、ふと思い出した。幼女が指差した植物と似ているヤブガラシはブドウ科の植物であり、ラフレシアはブドウ科の植物に寄生する事を。

 だとしたらこの植物は、幼女の『ご飯』なのかも知れない。そしてご飯が萎れているというのは、あまり良い状態ではないだろう。

「私は今、こいつから栄養をもらっているですが、どうにも最近水不足で元気がないのです。こいつに枯れられると、私としてはとても困るんですよ。それに私もちょっと水不足気味でして。そこでお前達には水を持ってきてほしいのです」

「水、ですか?」

「それぐらい自分で取りに行けば良いじゃないですか。そうやって身体を作って動けるみたいですし」

「これ、細胞の圧を激しく変化させる必要があるのでめっちゃ疲れるんですよ。いざとなればやるですが、まだいざという時じゃねーのです。お前達に断られたら考えるですよ」

 フィアの反論に対しあまりにも正直に答えるラフレシアの幼女に、花中は思わず苦笑い。どうやら断ったところで大事にはならないようだが……この程度の小さなお願いを断るのも意地が悪いように思える。無理矢理引っ張り出した『詫び』も必要だろう。

 無論花中には植物園の設備を好き勝手に扱う権限などない、が、水なら『此処』に幾らでもある。

「えと、フィアちゃん。ちょっと、お水をあの植物に、あげてくれる?」

「花中さんからの頼みでしたら構いませんよ。あなた花中さんの優しさに感謝する事ですね」

「へいへい、ありがたい話ですね。あー、ちなみに量は二~三リットルもあれば十分ですよ。湿度は高めなんで、それだけありゃあ一週間は持つと思うです」

「本当に感謝してるんですかねぇ……」

 ラフレシアの幼女から具体的な注文に、フィアは訝しげに眉を顰めながらもその手から真水を流し始める。ジョウロで水を撒くようにじょろじょろと、かなり適当な撒き方をしていたが、ラフレシアの幼女的には問題ないらしい。安堵のような、温泉に浸かるかのような、弛みきった表情を浮かべた。

「んー、身体に瑞々しさが戻るです。感謝しておくです。私を引っ張り出した事も、帳消しにしてやるですよ」

 そして大層満足そうに、花中達を許してくれた。

 どうやら仲直り出来たようだと、花中はホッと一息吐く。

 次いで、ふと疑問が過ぎった。

「あの……ところで、どうして、水が足りなくなったの、ですか? 職員の人が、水やりを、していると、思うのですけど……」

 そう、此処は植物園である。植物の世話は職員の仕事だ。ラフレシアの幼女の寄生している植物が展示物であるかは分からないが、雑草だとしても他の植物のおこぼれで十分な水を得られる筈である。

 どれぐらい危機的状況だったかは分からないが、助けを求めてくるぐらいには追い詰められていたのだ。展示物の管理がなってないのではないか。

 花中のそんな懸念は、正しいものだった。

「いやー、実は最近ずっと世話してもらってなくてですねぇ。ここ二週間、職員は温室にすら立ち入ってないんじゃねぇですかねぇ?」

 ラフレシアの幼女の言う事が本当なら、最早職務怠慢という次元の話ではないのだから。

「……へ? に、二週間も、誰も来てない!?」

「ええ。お陰でのんびり暮らせるのは気楽で良いですがね。人間が来ると五月蝿くて昼寝も出来ねぇですよ。ま、草なんで睡眠なんか取りませんけど。いっそ雨水を入れるために、天井をぶち壊してしまいましょうかねぇ?」

 いざとなれば自力で水を取りに行けるからか、ラフレシアの少女はさして気にしていない素振りだが……二週間も放置するなど、常軌を逸している。

 『植物愛護』の精神から見た問題だけではない。野生個体が少ない種を管理不行き届きで枯死させたとなれば植物園の名声に傷が付くだろうし、経済的損失だって計り知れない。入手したからには、長持ちさせるのが得策な筈なのだ。経営不振などから人手が足りない可能性もあるが、だとしても二週間もの長期間誰一人として来ないなどあり得ない。ストライキでも起きているのか?

 そう考えていたからか、はたと気付く。よくよく見れば、他の植物も萎びていたり、葉が黄色くなっていたり、新芽に虫の食べ跡が付いていたり……全体的にボロボロではないか。疑っていた訳ではないが、ラフレシアの幼女の言葉が真実味を帯び、自分の懸念すら生温いように感じられた。

 何かがおかしい。経営的な出来事ではなく、何かもっと、身の毛もよだつ事が起きているのでは……

「訊きたい事は終わりですか? 私としてはそろそろ疲れてきたんで、一休みしたいんですがねぇ」

 考え込もうとする花中だったが、ラフレシアの幼女が話を打ち切ろうとした事で我を取り戻す。

 どうやらラフレシアの幼女としては、もう話す事はないらしい。

 花中としても、今すぐ訊きたい事がある訳ではない。しかし、だからさっさと別れたい、という気持ちでもないのだ。折角会えたのだから、お友達になれたら……と考えてしまう。

「え、えと……と、特には、ないです、けど、あの」

「じゃあ私はこの辺でおいとまするです」

 尤も、ラフレシアの幼女は全くそんな気持ちもないようで。

 別れを告げるや幼女は身体を糸状に解し、そそくさと地面に潜ってしまった。花中は自然と虚空に手を伸ばしたが、その手で地面に潜った幼女を捕まえる事は出来ない。

 どうにもラフレシアの幼女は、人間に興味がないようだ。自分を知ってもらえなくてガッカリする反面、世話をしてくれなかった人間を恨んでもいない事に安堵を覚える。嫌われていないのならそれで良しにしようと、花中は前向きに考える事にした。

 ラフレシアの幼女が完全に地面に潜ったのを見届けてから、花中は自身のスマホを取り出して時刻を確かめる。星縄達と離れてからまだ三十分も経っていない。あと一時間半以上余裕がある。古代植物の解説ブースも見当たらないので、次の場所を探そうと思った。

 それに一つ、やらねばならぬ事がある。

 温室の世話が放置されたのは二週間前からとの事。それだけの時間が経ったなら、恐らくクレームの一つ二つはとうに入っているだろう。今更花中が文句を言っても、大した影響はない。

 だとしても、生き物を大事にしない態度は腹に据えかねる。

「……うん。フィアちゃん、他のところも、見て回ろう。他も、この温室みたいに酷かったら、文句言って、やるんだから」

「お? なんだか花中さん乗り気ですね。でもいざ人を前にしたらビビって何も言えなくなりそうですけど大丈夫ですか?」

「……が、頑張る」

 出来るもん、と言わない花中に、フィアは生温かい眼差しを向けてくる。応援してくれるのは嬉しいが、同時にやたら腹が立つのは何故だろうか。

 尤もどれだけムカつこうと、花中には「ふんっ」と小さく鼻を鳴らすのが精いっぱいである。ついでに言うと、怒りながらもフィアの手を無意識に握り、引っ張っていた。

 ラフレシアの幼女が潜む温室から出た花中は、全身に感じる冷気でぶるりと身体を震わせる。時間と共にすっかり慣れてしまったが、冷房の効いている館内と比べて温室はかなり暑い。その温室に身体が慣れてしまったものだから、今度は冷房の効いている館内がやたら寒く思えた。いずれ慣れるだろうが、その間の寒さを和らげようと身体が勝手にそわそわと動いてしまう。

 そうした仕草の拍子に、通路を歩く職員らしき格好をした二人組が花中の視界に入った。

 反射的に振り向けば、職員らしき二人の男性は通路の角を曲がるところだった。温室には近寄ろうともせず、やはり温室内の植物の世話をするつもりはないらしい。

 良い機会だ、ここで一発言ってやろう。

 気合いを入れるために、荒々しい鼻息を一つ。胸に宿った気持ちが掻き消えぬようわざとらしく肩を怒らせて、行ってしまった職員の後を追い駆ける。花中に追われている事など知る由もない職員に追い付くのは実に簡単で、花中はほんの二メートル前後の距離まで職員達に近付いた。

「あ、あのっ! すみません!」

 そして昂ぶった気持ちのまま、職員に呼び掛ける。

 二人の職員は同時に花中の方へと振り返る。面と向かってクレームを伝えるべく、花中はすっと息を吸い、

 そのまま、詰まらせた。

 職員達が自分に向けている――――明らかに敵意のこもった瞳を、見てしまったがために。

「どうかされましたか」

 職員の一人が、呼び掛けたにも拘わらず押し黙ってしまった花中に問い掛けてくる。極めて自然な応対だ、その瞳に敵意が浮かんでいる事を除けば。

 面倒臭がるのなら分かる。業務時間終了間際に呼び止められたり、そもそも仕事への熱意が欠けているのなら、客への応対が雑になるのも当然と言えよう。

 しかし彼等が花中に向けているのは敵意だ。花中はちょっと呼び止めただけなのに、どうしてこんなに怒りを露わにされるのか分からない。

「ぁ、あ、ぇ、あの」

「なんか温室が変みたいなんですけど」

 狼狽え、言葉を失う花中を見かねたのか。フィアが代わりに、とても大雑把に用件を伝えた。あまりにも大雑把なものだから、職員二人は互いに顔を見合わせる。

 お陰で二人の視線から外れた花中は、ようやく我を取り戻した。そうだ、自分は客なのだ……と調子に乗る必要はないが、言おうとしている事に間違いはない筈である。臆する必要などない。

「あ、あの、温室の方を、見たのですけど……その、植物が、元気がなくて……えと、お、お世話、ちゃんとしてるのか、心配で……」

 花中なりに精いっぱい、途中からフィアの影に隠れながらクレームを伝えると、職員の二人はしばし表情一つ変えずに佇む。やがて互いの顔を見合い、頷き、再び花中を見据える。

「植物の世話については、種によって適正なものを行っております。問題ありません」

 花中に告げられた言葉はあまりにも誠意がない、言い訳にすらなっていないものだった。

「て、適正って、でも、あの、萎れたり、枯れたりしてて……」

「植物も生き物です。萎れている部分や枯れている部分がどうしても出てしまうものですよ」

「それは、その、でも、限度が……」

「適正な範囲内です。問題ありません」

 花中の意見を、二人の職員はばさばさと切り捨てていく。

 実際、何故大丈夫じゃないのか、と問われたなら花中にも答えられない。ラフレシア本人が言っていたぞ、なんて主張しても夢見がちな小娘としてあしらわれるだけだ。それに彼等が言う事にも一理ある。

 アゲハチョウの事について指摘しても、展示物ではないだとか、観賞用だとか、色々言い訳をされたら言い返せない。反論を予想してしまった花中には、これ以上彼等を問い詰める事など出来なかった。

「もうよろしいですか? では仕事がありますので」

 花中が黙ると、職員達は余程すぐに立ち去りたいのか。言うが早いか踵を返した

「そーいえば古臭い植物について書かれた日記だがなんだかは何処にあるんですか?」

 が、フィアがこの質問を投げ掛けた瞬間、職員二人は同時に足を止める。次いでぐるんと音が聞こえそうな勢いで、二人同時にフィアの方へと振り向いた。

 無論振り向いた彼等が見つめるのは、問い掛けたフィアである。花中は、彼等の視線の外にいた。花中が見ていたのは、職員達の横顔に過ぎない。

 それでも思わず、小さな悲鳴が漏れ出た。

 彼等の目には、明らかな……最早殺意すら感じるほどの敵意が宿っていた。花中が呼び止めた時とは比較にならない、激しい感情を剥き出しにしている。もしも懐にナイフがあったなら、取り出し、突き付け、刺しているに違いない。そう確信させるほどのものだった。

 帰ろうとしたところを呼び止めた事が、そこまで彼等の気を悪くしたのか? 確かに苛立ちは加速するかも知れないし、花中と話している時点で彼等は相当ストレスを感じている素振りだったが、いくらなんでも段階を飛ばし過ぎている。全く理解出来ない感情に、花中はフィアにしがみついてしまう。

「……今、なんと?」

「ですから古臭い植物について書かれた日記だかなんだかは何処にあるのかと聞いているのです。花中さんが見たがっていたのにパンフレットが古い所為で何処にあるのか分からないのですよ」

 発せられた職員の声も殺意に塗れており、花中は一層萎縮してしまう。とはいえ人間なんて羽虫程度にしか思っていないフィアが怯む訳もなく、淡々と自分達の事情を説明した。

 さらりとこの問いの原因が自分にあると明かされ、花中は生きた心地がしない。おどおどと職員達を見上げた。

 するとどうした事か。職員達は大きく目を見開き、唖然としている様子ではないか。

「ふ、古いパンフレットが混ざっていたのですか?」

「ええ。そうですよね花中さん?」

「う、うん……あの、これ……」

 明らかに動揺している職員に、花中はパンフレットを手渡す。彼等はふんだくるようにパンフレットを奪うと、更新日時が記されている場所を目視で確認。

 先程までの怒りが一変。その顔は、まるで水死体のように青くなっていった。

「……も……申し訳ございません!」

「こちらの手違いで、大変なご迷惑をお掛けしました!」

 続いて、深々と頭を下げて花中達に謝る。

「すぐさま上に報告し、再発防止に努めさせていただきます!」

「ただちに最新のパンフレットをお持ちします! 少々お待ちください!」

 一人がぺこぺこと頭を下げ、もう一人がパンフレットを持ってくるためにダッシュでこの場から離脱。どちらも一切手を抜かず、本気で花中の『クレーム』に対応しようとしている。誠意のこもった謝罪、という言葉があるが、彼等の態度にはそれをハッキリと感じる事が出来た。

「良かったですね花中さん。新しいパンフレットをもらえるそうですよ」

 謝罪自体はどうでも良いであろうフィアも、しっかりとした対応に満足したのか。嬉しそうに微笑みながら、花中に同意を求めてくる。

 花中は、ただただ呆然とする事しか出来なかった。

 古いパンフレットが置かれたまま、というのは大きな問題である。しかしながら露骨に怒りを露わにしているなら兎も角、花中はおどおどしながら、フィアなど普通に質問しただけだ。真面目な職員ならばいざ知らず、温室の展示物がボロボロでも気にしない者がこんな、誠意のこもった対応をする筈がない。

 何かがおかしい。何もかもがおかしい。

 だけど、何がおかしいのか分からない。

「大変お待たせしました! こちらが最新版のパンフレットになります!」

 しばらくして、パンフレットを取りに行っていた職員が全力疾走で戻ってきた。息はすっかり上がり、立ち止まった足がガクガクと震えていたが、手に持つパンフレットには皺一つない。

 得体の知れない恐怖に、花中は職員が渡そうとするパンフレットに手を伸ばせない。

 代わりに何も考えていない様子のフィアが「そうですか。では頂きますね」と言って受け取ってしまった。フィアは自分では中身を見ようともせず、花中にパンフレットを渡そうとしてくる。

 フィアからパンフレットを受け取り、花中は恐る恐るその中身を確かめる。書かれている更新日は一昨日のもの。最新版と信じるに足る日付だ。

「えと、あ、ありがとうございます……フィアちゃん、その、行こう」

 一言お礼を伝え、花中はフィアに移動を促す。

 正直、少しでも早く彼等から離れたい。

 パンフレットを閉じ、フィアを引っ張り、花中は『最初』に決めていた目的地を目指す。出来るだけ早歩きで、力を込めて首が回らないようにしながら。

 だけど何十メートルか歩いた辺りで、花中はつい後ろを振り向いてしまう。

 故に、ぞわぞわとした悪寒を覚えた。

 にっこりと、気持ち悪いぐらい幸せそうな笑みをした職員が、何時までも自分の事を見ていたのだから――――




いきなり遭遇するミュータント。そしていきなり不穏な植物園。
果たしてこれから何が起きるのか?
明かされるのはもうちょっとだけ先になるんじゃよ(駄目なフラグ)

次回は9/2(日)投稿予定です

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