プロローグ
コーヒー豆の香ばしい匂いが充満するお洒落な喫茶店。
その店のテーブル席でコーヒーを飲みながら冊子をパラパラめくる黒髪の少年がいた。
とある高校のブレザーを着て、国公立や私立の大学案内を読みふけていることから高校3年生であることは容易に推測できるだろう。
「別にT大行くつもりはないけどさ、教師陣から『君なら狙えるよ!』と言われると変な重圧がかかるんだよなぁ。行くつもりはさらさらないけど、下手に選べないっていうかさ」
店内には人が少なく、少年の独り言は他の客には聞こえることはなかった。
コーヒーカップを手に取り少量口に入れる少年は、また独り言を呟く。
「まぁ、
少年の独り言には周りの客は反応を示さない――否、不自然なほどに少年の独り言は周りに聞こえていない。
そのことに少年は気づいているだろうが、まるで日常生活の一部であるかのようにその摩訶不思議な現象を受け止めている。
テーブルの上にある筆箱からマーカーを取り出して冊子に書き込みながら、少年は
「――なぁ、そう思うだろう?」
「――そう言われましても、私は行ったことないので分かりませんわ」
少年の向かいの席に金髪の女性が座っていた。
扇子で口元を隠し妖艶な雰囲気を醸し出す女性は、少年の前には確かに存在しなかったはずである。
まるで――いきなり現れたかのように、少年の目には映るだろう。
しかし、少年は気にした様子もなく女性に笑顔を向ける。
「――へぇ、この妖気。紫か」
「お久しぶりです――師匠」
「師匠、か……。今じゃお前の方が俺より強いんだし、師匠って言われる要素がないと思うんだけど」
「ご謙遜を」
丁寧に座りながらお辞儀をする女性――八雲紫は緊張した面持ちで問う。
「……驚かれないのですね」
「そりゃあ、あんな化物連中と年がら年中一緒にいたら驚くも何もねーよ。目の前に人が現れる現象なんて見飽きたわ」
「そう、ですか……」
「にしても、『久しぶり』と俺も答えたほうがいいのか悩むね。俺にとってはお前と別れたのは3年前って感覚だしな。そっちの体感では何千年経ってんの?」
「それにはお答えできません。年齢がばれてしまうので」
「おっと、これは失礼」
何の脈略もない会話を続ける中、終始一徹、紫の緊張した面持ちが変わることがなかった。
恐らく、彼女のことを知る者が今の姿を見たら目を見開くだろう。
『幻想郷の賢者』と称され、最強の一角と恐れられる大妖怪・八雲紫が、たった一人の少年の言動を細かく観察し注意を払うなど想像すらつかないからだ。いつも物事において二手三手先を読み行動する紫が、まるで
たわいもない雑談に花を咲かせた少年は、一呼吸おいて冊子を自分の横にあったスポーツバッグにしまい、紫に向き直る。
「そんで? 俺んところに来た理由は何だ?」
「――!!」
「まさか雑談しに来たってわけでもないだろ?」
顔をこわばらせた紫。
少しの沈黙のあと、彼女はテーブルにあるものを置いた。
――錆付いた懐中時計だ。
「あんときの時計か。懐かしい」
「――師匠、約束を覚えてらっしゃいますか?」
「……約束?」
「私と別れるとき、『もし人と妖怪が共存する――そんな戯言みたいな世界を作ることが出来たなら、俺のできる範囲内でお前の願いを一つ叶えてやるよ』と」
「…………あー。そんな約束したわな」
で、そんな夢物語を実現させた、と?
少年の問いに紫は縦にうなずいて肯定し、その世界――幻想郷のことを語る。
その答えに、少年は心の底から感心するように「へぇ」と笑った。
「マジで実現させるとは思わなかったな」
「……疑わないのですか?」
「愛弟子疑うバカがどこにいるんだよ。そんで? 約束は約束だし、お前は俺に何を願うんだ?」
「……!?」
またもや沈黙が二人の間に流れる。
先ほどの沈黙より長く、少年は『どんな無理難題考えてるんだろ……?』と違う方向で心配する。
紫が沈黙するのには理由がある。彼女の願いが『彼の人生』を大きく――それこそ寿命や環境を大きく変えてしまうような願いであるからだ。自分の内に秘め続けた願いでもあるが、その願いで少年を拘束してもかまわないのだろうか? 紫は約束したあの日から今まで自問自答し続けた願いに答えを出せずにいた。
やがて決心したように顔を上げて少年を見据えた。
「師匠、私の願いは『私と共に生きて欲しい』です」
「………」
少年は目を細める。
少年が静かに放つ威圧に紫はたじろいてしまう。
「それは……俺に妖怪になれってことか?」
「い、いえ……ただ、私のそばにいて欲しいというかなんというか……」
後半部分のセリフをあいまいにする紫。
少年は大きくため息をつく。
「お前は言ったよな? 幻想郷は『外の世界から忘れ去られた者が行きつく場所』だ、と。つまりそこに俺が行けば俺もこの世界から忘れ去られるんじゃないか?」
「そ、それは……」
「この世界に、俺は友人と呼べる人間は割と多い。親友もそれなりにいるし、親族も両親や兄弟はいないが血縁ぐらいなら多少は知ってる。ましてや、俺は今年で受験生になるし大学進学も視野に入れてる。――」
少年が言葉を発するごとに紫の顔色が曇っていく。
「さて、そういうことを踏まえたうえで聞こう。
――お前、俺をこの世界から殺す気か?」
責め立てるわけでもなく、ただただ自分の疑問を口に出す少年だったが、紫の耳には自分の行動による少年の今を壊す行いを責めているように聞こえ、絶望的な表情を浮かべていた。うつむく彼女を少年は黙って見つめていたが、紫はぽつりと本心を言葉として紡ぐ。
「――わ、私は……この願いをかなえるために幻想郷を作りました。いつか師匠に会えることを信じて、だから、私は師匠と一緒にいたくて、それで、ずっとずっと、死にそうになったこともあるけど、でも、また会えるって……」
本心だからこその言葉を並べただけの文章として機能しない羅列。
消え入りそうになりながらも顔を上げて語る紫の目には大粒の涙がとめどなく流れた。
その様子に、少年は何度目かもわからないため息をつく。少年の顔には諦めと苦笑の表情が。
「あーあーあー!! もうわかったよ!! 一緒に幻想郷行けばいいんだろ!?」
「……!?」
「どこに行こうが俺の生き方そのものは変わらんしね」
少年はいつの間にか未知の世界への好奇心が芽生えていることに気付き、それを隠すように笑う。
「まったく……大学どこ行こうか迷ってたのにコレかよ……。さっきはああ言ったが、特にやりたいこともないし、ましてや頑張って来た愛弟子の願いを無下にできるほど俺は人でなしではねーからな」
「じゃ、じゃあ……!」
「いいぜ、幻想郷で生きてやるよ。それと――紫、よく頑張ったな」
微笑みを浮かべる少年に、幻想郷の賢者は花のような笑顔を少年に向けた。
♦♦♦
こうして、一人の少年がこの世界から消えた。
彼のことを憶えているものはほとんどいなくなり、少年は幻想となったのだ。
少年の名は
これは――少年達と幻想郷の住人が織り成す軌跡の物語。