空が泣くことが多くなる梅雨の時期になると、暖かい日があってもすぐに冷たい空気へと変わってしまう。
今日も朝から雨がしとしとと降っていて肌寒く、執務室を暖める暖炉からは薪がパチパチと燃える音が響く。
その音を雨が外の路面を叩く音と一緒に聞きながら、1階の執務室の窓から見える淡い青色のアジサイを見る。
アジサイは雨に濡れて輝き、すーっと引き込まれてしまう。
普段、空が晴れている時には艦娘たちと一緒に運動をしたり、工廠で妖精の様子を見たりと、動いてばかり。でも、たまには溜まった書類を片付けながらの雨の日もいいかもしれないと思う。
アジサイを眺めながら、穏やかな気持ちになったところで視線を執務室の中へと向けた。
執務室には仕事が進まない提督の俺と、1mほど離れた机へ向かって、秘書である時雨が紙にペンを走らせていた。
時雨は駆逐の艦娘で黒を基調とした制服を着ていて、中学生のような小さい体ながらも大人並みに賢い子だ。
胸元まである髪は大きなひとつの三つ編みで、先のほうに赤い小さなリボンが結わえてある。
顔は可愛さと幼さがありながらも時々大人っぽいところもあり、透き通るような薄い青色の瞳に見つめられるとウソなんてものはつけなくなってしまう。
性格も普段は物静かで、よく心配して気遣ってくれる素敵な女の子だ。
時雨とは今年で10年来の付き合いだが、娘だったらこういう子を持ちたいと思ってしまうほどに俺は気に入っている。
俺は40歳になるが残念ながら独身で面倒そうな結婚なんてしたこともなく、これからもする予定はない。
でも時雨を娘のように可愛がることができるなら、それで満足だ。
そんな可愛い時雨は執務机から横に1m離れたところに秘書用の机があり、その机に向かって1枚のポストカードに深い青色のインクを出している万年筆で『アジサイ』の絵を描いていた。
普段から行動を共にしている時雨も俺と同じく書類仕事があるのに、その書類は机の隅っこに置かれていて今にも床へと落ちてしまいそうだ。
時雨が仕事をあまりしないのは、上司である提督の影響が出ているのだろうか。そんなふうに自分に落ち込み、でも仕事をしない時雨も可愛いなと思っていると、俺の視線に気づいた時雨がこちらへと振り向いた。
「どうしたんだい、提督。僕を見てないと寂しいのかな?」
やわらかく落ち着いた声が聞こえる。その声が好きな俺は聞くたびに落ち着きと、昔から聞いているような懐かしさを感じる。
からかうような微笑みを向けてくると俺は口の端を釣り上げて時雨が言った言葉を否定する、ひねくれたような笑顔になると時雨は残念とでも言うようなため息をついては絵を描くのに戻っていった。
よく絵を描くことがある時雨は水彩、シャープペン、万年筆を主に使っている。それらで描いた絵を特に理由もなく俺にプレゼントしてくれる。
絵をもらえるのは嬉しいが何のために描いているかを聞き、俺は時雨のために何もしてやれていないのだろうかという悲しい気持ちになった。その言葉は『僕がここにいたということを残したい』と言われて。
まるでいつ自分がいなくなってもいいように準備をしているかのように思えた。
時雨の描く絵は風景画と人物画だけで時雨が実際に見たことだけを絵の中に入れていると言っていた。
それらの絵を俺は受け取って自宅の部屋に飾ったり、ポストカードに描いた場合は時雨に使ってもいいかと聞いてから友人たちへと送っている。
友人たちからのポストカードの絵の反応は非常によく、俺までもが誇らしい気持ちになる。そのことを時雨に言うと認められたのが嬉しいらしく、顔をちょっぴり赤くしながら恥ずかしげに笑う姿は可愛いものだった。
そういう表情を見ると、描く理由が他にもあるんじゃないかと思う。それが何かは分からないけれど。
時雨を見るのをやめると、自分の机にある書類をぼーっと見つめて仕事をしようとした。
でも頭の中身は時雨のことでいっぱいになっていき、仕事をやる気分にはならない。
それは今日が雨で鬱々とした気持ちになってしまうからかもししれない。だから、仕事をする気分になるまでは時雨が描く意味を久々に考えることにする。
そうして時雨について考えると、彼女が絵を描き始めてから今年で8年が経つことを思い出した。
暇になった時は何かを考えているだけで、気晴らしの趣味がなかったから「絵を描いてみたらどうか」と言ったのが始まりだった。
はじめは絵を描くのが好きではなかったがそれでも基本のデッサンを独自に本で勉強し、仕事の合間や休日の日に勉強をしていた。
自由に描けるほどに技術が上がると今では絵を描くことが大好きだが、はじめは好きでなかった絵を続けた理由を聞いたことはなかった。
ただの気晴らしと思っていたが、もしかしたら違う意味なのかもしれない。
「時雨。絵を描くのは楽しいかい?」
「うん。提督にもう1人の僕と言ってもいい絵を持ってもらえるなら」
書類を見ながら軽い気持ちで聞いたが、返事は少し重い言葉だった。時雨のために描くことを薦めたのに、時雨自身ではなく俺のために描いているかのように思えてしまう。
もちろん絵を描けと強制していないから、意思は時雨のものとはいえ遠回しに何かを感じてしまったかもしれない。
「僕にとって提督に関わる全ての時間は大切なものさ。僕が死んで別な時間に入っても、絵なら一緒に居続けられるんだ」
その言葉に驚き、書類から顔を上げて時雨を見るが、時雨はなんでもないようにさらさらと絵を描き続けていた。
俺にとっては衝撃的であったが、普段から深いことを考えている時雨ならそう考えることを持ってもおかしくないとも思う。
時雨はいつだって物静かだが、胸に秘める想いは深く強いものがある。
普段は俺が何をしても気にしてないふうだが、艦娘と一緒に格闘訓練をして怪我をしたときには物凄く怒られたし心配もされた。それは他の艦娘の時も同様だった。
知っている艦娘が死んだときはひどく悲しみ、遺品の一部をもらっては自室へと飾って寂しげな顔でいることを見かけたことがある。
彼女は自分よりも他の人を大事に思っていた。
時雨をはじめとした艦娘は戦い、死んでいくのが多い。時雨は俺の元に来る前から戦友の死を見てきていた。だからか、時雨自身もいつかは死ぬときがあって死んだあとも覚えていてもらいたいと思っているのだろう。
「それは時雨にとって幸せか?」
「他には考えられないよ」
時雨は描き終わったポストカードの絵を嬉しそうに俺へと手渡してくる。
描かれていた繊細なアジサイの絵は外からの執務室を背景にしていて、その窓から見える部屋の中には後ろ姿の俺が描かれていた。俺が描かれているのは誰かに送る絵としては使いづらく、部屋に持って帰ることにする。
「幸せってのは戦争が終わって、平穏な日々を時雨と一緒に暮らすこととか。そんなものだと思う」
「それ、結婚の申し込みに聞こえるよ?」
「時雨は娘みたいなものだよ」
そう言うと時雨は首を傾げながら不満そうな、でも嬉しいという難しげな表情をしたが、すぐに何かを思いついたような明るい表情になる。
急いで秘書用の机からポストカードを2枚出すと、また万年筆で何かを描こうとうなり声を上げ始めた。
今の言葉にどう反応したのか。それが気になりながらも時雨が描き終わるまでは話をあとにしようと時雨からもらったアジサイの絵を机の引き出しにしまうと仕事を再開した。
それからは俺が書類をめくったり書く音、時雨が絵を描いたり新しいポストカードを出して唸る声が静かな部屋に響く。
―――どれくらいの時間が経った頃だろうか。
ふと腹が減ったのに気づき、今は何時になったのかと壁にかけてある時計を見る。
朝方だった時間は11時になっていて、部屋が少し寒くなっていたのは暖炉の火がなくなったのだと気づく。
時雨の方を見ると、書類の紙を曲げて壁のように立たせては俺から手元を見えないようにしていた。
絵はまだ完成していないらしく、真剣な表情で描いているがそろそろ時雨に仕事をして欲しい俺はそれを止めなくてはならない。
「時雨」
「待って、もうすぐ終わるから」
俺へと振り向きもせず、表情と同じく真剣な声で返事をしてきた。
その様子を見て、ちょっとは待ってあげようと椅子から立ち上がると暖炉へ行って薪を入れて火をつける。
小さな火から薪へと燃え移るのを眺めたあとに椅子へと戻ると、時雨が満足げな顔で2枚のポストカードを裏返しで差し出してきた。
いつもは表にして見せてくるのに、裏返しという初めてのことを不思議に思いながら受け取り、表にして絵を見る。
そこには結婚式で着るタキシード姿の俺と、ウェディングドレス姿の時雨がそれぞれ1枚ずつ描かれていた。
万年筆のブルーブラックの色、ただひとつの色で描かれたそれは精彩にして緻密。深く強い感情がこめられているのを感じた。そして俺の心へ入り込むような。
時雨のウェディング姿の絵を見ていると、娘のようだと思っていたのに対等な関係に思えてきて将来の俺たちがこうなるかのような未来像が頭へと浮かんでくる。
「どうかな?」
はにかみながら、ほんのり赤くなった時雨は可愛かった。
口を開くと『可愛い』とか『好きだ』という変なことを言いそうになった俺は、時雨の頭を無言で乱暴に撫でまわす。
もう1度絵を眺め、俺が描かれている絵を時雨に渡す。
「……提督?」
「もしこうなるのなら、多くの人に祝福されたいよな」
時雨には俺が描かれた絵を渡し、ウェディング姿の時雨が描かれている絵は執務机の引き出しにしまう。
「そっちは時雨が持ってくれ。時が来たら2枚の絵を一緒に飾ろう」
「提督がおじいちゃんにならないうちに早く飾りたいね」
「一生独身で終わってしまったら、その時は絵と一緒に埋葬してくれ」
「そうなったら僕は後を追うよ」
寂しげな表情でそう言ってから、爽やかな笑顔と共に時雨は俺が描かれたポストカードに軽いキスをした。
俺自身がキスをされていると思うと恥ずかしく感じる。
だが時雨が俺を想っていることに嬉しくもあり、悲しくもある言葉への反応に困った俺は時雨のおでこに指を伸ばし、強くデコピンをした。
痛みでおでこを押さえる時雨を放って、執務机へと向かって書類仕事をする俺。
結婚をするよりも、時雨と雑談をしたり同じ時間を過ごすだけで充分に満足している。
俺にとって大事な存在の女の子。時雨の隣にいて、今のような変わらない時間のままで一緒に生きていたいと強く思った。
セリフをどうやって削るか、よく悩みます。