静かな海に、美しい青い空。
照りつける太陽と気持ちのいい海風。
8月の夏真っ盛りの今。
俺は朝、執務室に来て今日の予定を確認してから提督業を投げ出し、鎮守府内の端にあって使われていない倉庫が立ち並ぶ、静かな湾内の砂浜へ軍装から海パンに着替えて遊びに来た。
ゴミがなく綺麗な砂浜。耳に心地よい波と風邪の音。まぶしい太陽の光。
そんな自然の贅沢を感じながら、ビニールボートを海に浮かべ、その中に仰向けで倒れこみ空を見上げる。
砂浜から沖合に大体30mぐらいのところに俺はボートの上に浮かんでいる。
ボートは流されないように、開いている穴にロープをくくりつけ、それを秘書である重巡の摩耶が砂浜に打ちこんだ木の角材にしっかりと結びつけている。
だから転覆の心配もなく安心。
海に落ちたとしてもすぐロープをつかめばいいし。
陸地から離れ、大いなる自然の海へと身を任せることは普段の艦娘たちの相手、書類やお偉いさんに頭を下げる苦労からの日常から開放されるということ。
今日の仕事は艦娘たちの一部が休暇中か、改装と兵装試験のために他のところへ行ってたりするので普段より仕事が少ない。
だから、こうして仕事に追われることもサボりと言われることもなく秘書公認で海でのんびりできる。一時間したら迎えに来るという予定の摩耶が来るまでだけど。
普段が忙しいぶん、今は海に癒されねば。しかし、26歳にもなってこれが癒しとは男として枯れてる気がしないでもない。
けれど、そんな悲しい気分を打ち払う。
今日はこの日を楽しむために前々から用意してきたからだ。
摩耶に日焼け止めを塗ってもらったし、汗ふきタオルと水筒に入れた水、摩耶から借りた小説も準備しボート内に入れてある。
太陽を見ないようにしつつ、空を見上げながら今日はのんびりできることを頭で何度も確認した。
短い髪をかきあげたあとに水を一口飲み、太陽へと本を向けて顔に影を作る。
そうしてから、流れ出てくる汗を気にすることなく小説を読み始める。
けれど、十数ページ読んだときに読書は中断されることになる。
「提督! そんなところで何やってるんですか、仕事の日はしっかりと仕事してください!」
砂浜からどなり声が聞こえて、顔をあげると制服姿な軽巡の大井が両手を口に当てて俺に向けて叫んでいるのが見える。
なにやら怒った表情をしてるが、大井に怒られるようなことはしていないはず。
そこで少し考え、思い当たることがある。
今日は北上が重雷装の改装と魚雷調整のために1日いないんだった。
大井は、北上を神様的扱いをしてその素晴らしさを語り、北上さんを清く美しい存在とばかりに周りに扱ってる。
だから、ちょっとのことでもうるさくなる。
それもいつものことなので、無視して小説を読むのに戻る。
無視したら、俺をマヌケだのバカだのと罵詈雑言の声が聞こえ、さらに放置していると立派な提督になれと説教に変わっていく。
―――うん、摩耶の小説はいいな。頭を使わず楽しく見れるアクションものは気分がよくなる。
ウキウキしながらページを読み進めていくと、波の音とは違うパシャパシャという水の音が聞こえてくる。
なぜこの音が鳴るんだと不思議に思って体を起こすと、服を着たままの大井がこっちに向かって泳いでくるのが見える。
おいおいおい。なんでわざわざ泳いでくるんだ? そこまで怒られることはしてないぞ!
本を置き、あぐらで座り大井がくるのに怯えながら待つ。
大井が泳いできて、荒い息をしながらボートのフチを抱きかかえて体を休めた。バランスが傾いたので、俺は反対側へと重心を移しながら恐る恐る言う。
「あの、大井さん?」
息が整う前に声をかけると、きつくにらまれたので黙ることにする。
十数秒ほど時間がたち、呼吸も落ち着いたのを見て俺は声をかけようとするが先に大井が口を開いた。
「提督のバカ、アホ、マヌケ。北上さんと私を別々にするのは何の嫌がらせですか? 北上さんだけ改装だなんて。私が見ないあいだに何かあったらどうしてくれるんですか? 殴りますよ?」
強い口調で俺に対して北上さんと離れさせたことに対する文句を早口でまくしたて、また息が荒くなる。
「北上は特別か」
「当たり前です。北上さんは私にとって理想であり、穢れなき美しい存在です」
「理想ねぇ……」
いつも一緒いる大井と北上の二人。北上が主体的に行動し、大井がそれに続くというのをよく見る。二人の仲がいいのがうらやましくも思う。ここに北上がいなくても北上を心配し、北上のために怒る大井に。
「なにを考えているんですか、いやらしい」
大井が首まで海へと浸かり、ボートには手を置くだけとなって重心が安定する。
バランスがよくなり、俺は安心して元の位置に戻って座りこむ。
「うらやましく思っただけだ。俺にはそんな安心も信頼もできる奴なんていなかったからな」
「北上さんに手を出したら魚雷をぶちこみますよ?」
「俺をなんだと思ってる」
「人畜無害のへたれ男」
「泣くぞ」
「どうぞ」
あまりのそっけなさと冷たさに本当に涙が出そうだ。考えていることの中心が北上なだけはあるということか。
深いため息をつき、倒れこみ青い空を見上げる。
「あ、提督のことも考えていますよ。私たちに広い心を持って邪魔しないんですから、あなたは良い提督です。今日みたいに北上さんと私を離さなければですけど」
邪魔しないことが良い提督の条件になるなら、それはもはや俺がいる意味はないということに。
自分の無力さを感じた時、大井にちょっとしたいたずら心が芽生えた。大井と北上の仲を邪魔したらどうなるかってことに。
「大井には悪いが、今日だけはお前と二人っきりで話したかったんだ」
「なんですか急に」
「本当は本を読み終わって心の準備をしてからするとこだったがもう我慢できない」
起き上がり、微笑みながら大井の濡れた髪をなでる。
大井は言葉にならない小さい声をあげ戸惑うが、ゆっくりと髪を、それから頬を撫でて顔を近づける。抵抗もせずに顔が赤くなり、目を閉じた大井の耳元へ口を近づけ、そっとささやく。
「嘘だ」
「は?」
「冗談だ冗談。すまんすまん」
顔を離した俺は、目を開けて呆然としている大井に俺は笑って謝る。
こんなにも真面目に受け取ってくれるのなら、俺の演技も悪いものではないという自信がつく。
「提督?」
今日一番の笑顔で大井が、ボートへ乗りあがる姿勢になる。
俺はボートのバランスを保とうとするが、大井は体重を外側にかけてきて無情にも大きく傾いていく。
「や、大井、ちょ、ちょっと待って! 謝るから!」
「許しませんよ?」
甲高い悲鳴の声を出しても行動を止められず、ボートはくるりと回転し転覆する。
海に落ちてしまった俺は、落ちたという状況がうまく認識できなかった。
すぐに恐怖を感じパニック状態になりながらも酸素を求めて海の中から出ようと懸命にもがく。
海の中から出て、あたりを見回すと砂浜へと泳いでいく大井の後ろ姿と少し離れたところにひっくり返ったボートが見えた。
泳げない俺はなんとかそこまでたどりつこうと努力するも途中で力つき、海の中へと沈んでゆく。
苦しみながら海に沈んでいくときに綺麗なものが見えた。
水の中から見える太陽。それが幻想的に見え、右手をいっぱいに伸ばした。
意識が途切れる間際に俺は思ってしまう。大井が自分をあまり責めないでいればよいのだが。
手から遠ざかっていく太陽はすぐに見えなくなり、右手に暖かさを感じながら意識は消えていった。
◇
消えかけた意識が戻りかけ、体に暑さと砂の感触がある。それに仰向けに倒れていることも、風にさらされていることも理解できる。
海に落ちたとこまでは覚えている。……けどそこからどうなった?
うまく動いてない脳を動かそうとすると、呼吸が苦しくなりむせる。息を大きく吸うと同時に目を開け、頭が動き始める。
目を開けた先の視界には、大井が右側から俺をのぞきこむようにして涙を流している顔が見える。
次に後頭部に感じる柔らかい感触で、大井に膝枕をされていることに気付く。
「……おはよう」
少しずれている思考でそんなことをつぶやくと大井は俺の頭を力強く抱きしめてくる。胸を押し付けられた顔は呼吸ができなくなり、手に力を入れて大井の背中を2度強く叩く。
大井はすぐに僕から体を起こし、心配そうに見てくる。
「提督、どこか痛いところはありますか? 気持ち悪いところは?」
意識を体に集中させ、手足も動き、体が気持ち悪くないことも確認する。
ふと視界の隅に大井ではない影がうつる。
「よぉ、無事でよかったな」
立っている摩耶が俺を見下ろし、軽く手を振りながら笑顔で言ってくれる。
摩耶がいるということは、今は迎えの時間が来てたのか。
「いつからいた?」
顔を動かし、疑問を投げかけると摩耶は座りこんで俺の体をぺちぺちと触ってくる。
「砂浜で人工呼吸と心臓マッサージされてる途中からだ。お前、大井に感謝しろよ? 数分のあいだ、死んでたんだぞ」
俺が死んでた?
大井に顔をむけると強くうなずいた。その拍子に流れている涙が俺の頬へと落ちてくる。
体から摩耶の手が離れると、安心したような深いためいきが聞こえた。
「20分前に呼吸が戻ったからばかりだから、まだ倒れてろよ。立ち上がって問題が起きたら困るからな」
「……そうか」
大井の泣き顔を見ながら、聞いたことを頭でゆっくりと整理する。
俺は溺れて海に沈んだ。そこを大井が砂浜まで連れていき人工呼吸をしてもらった。
そして生き返った。
事実を確認すると意外と心が落ち着いている。
死にかけたんだから、もっと混乱すると思ったんだけれど。大井の涙を見てるから落ち着いたんだろうか。
「泳げないなら泳げないと言ってください。私、知らなかったんですよ。北上さんの次に提督と一緒の時間を過ごしているというのに」
「俺はお前たちの邪魔ばかりしていると思ったけどな」
「バカ。提督にはまだ死なれたら困るんです。あなたがいなくなったら、私は安心して文句も愚痴も言うこともできないんですよ」
「大井」
「はい」
震える声で返事をしてもらったことに安心し、次の言葉を考える。
ありがとう、というと大井は俺を溺れさせたことに罪悪感をさらに感じてしまう。そこで思いつく。人工呼吸をした、と摩耶が言っていた。
つまりは普段から俺を嫌っているのにある意味ではキスをしてしまったということに。
なら、かける言葉は決まった。
「医療行為のキスはノーカウントだ」
言い終わった瞬間、大井から力強い張り手をオデコに受け、摩耶の慌てる声を聞きながらさっきとは違う怒りに満ちている大井を呆然と眺める。
すると、俺の頭を両手で押さえて目をつむった大井は強引にキスをしてくる。その勢いが強くて、お互いの歯がガチンと音をたててぶつかる。
数秒して大井の唇は離れ、赤くなった顔で大声を出してくる。
「提督のバカ、あんぽんたん! 私は提督のことも考えているんですからねっ!!」
膝枕されている俺を砂浜へと力いっぱいに転がし、大井は走り去っていった。
仰向けにされた俺は顔を横向きにして空気を確保するも何がどうなってこうなったか混乱している。
心がときめく余裕もなく、ただ思考がまっしろになっている。
不規則に鳴る波の音を聞きながらボーっとしていたら、摩耶がにやついた顔で聞いてくる。
「大井から溺れた状況を聞いたときはどうなるかと思ったが心配いらないみたいだな」
「嫌われてなくてよかったよ」
何かに気付いた摩耶が俺から視線を外し、大井が走っていった方向を見る。
それにつられてみると、なにかあったのか顔を赤くした大井がこっちに向かって走ってくる。
「ああ、そうだ。味はどうだった?」
何のことかと頭を巡らせ、キスしたことかと気付く。
じっくり10秒は悩んだあと、俺は照れながら答える。
「しょっぱかった」
笑いながらバシバシと俺の背中を力強く叩いて満足した摩耶は、立ち上がると砂浜に打ちこんだ木の角材とビニールボートの回収を始めた。
俺は起き上がってあぐらで座ると同時に目の前に荒い息をしている大井がやってくる。
「言い忘れてましたが、唇同士では、提督が、初めてなんです、からね!?」
とぎれとぎれにいう言葉に俺は今になって大井に心がときめいてしまう。
何かを言おうと口を開くが言葉が出てこない。
俺の言葉を待ちきれなくなった様子の大井は膝立ちで迫ってくる。
無言の迫力に押されて俺は倒れてしまい、大井が頭を挟み込むように両手を着いてのしかかられた状態になってしまう。
「俺だって初めてだったんだが」
「う、なんてときめくことを言ってくれるの」
うるんだ目をした大井の顔がちょっとずつ近づいてくる。
「お前ら、続きは帰ってからやれよ。あと提督は医者にいっとけ」
片付けを終えた摩耶がビニールボートから空気を抜きながらめんどくさそうに言ってくる。大井が摩耶をにらむも、スルーされた。
帰る前に気になっていたことを大井にぶつけてみる。
「大井、俺と北上ならどっちが好きだ?」
「北上さんです!」
即答された。
ついさっきキスされた自信がなくなってしまう。
「安心してください。私の北上さんをいじめない限りは提督が好きですから」
「ああ、そう……」
複雑な気持ちになるが、そもそも大井からの告白の返事をしてないからお互い様ということだろう。
すぐに返事をしたいところだが俺の意識は迷っている。大井を大事に思っているが、それが恋愛となると悩む。男としてかなり情けない。
大井は俺の気持ちに気付いたのか、優しげな顔になり静かに言葉を出す。
「急がなくても私は待ってますから」
そう言われ、俺は自然に大井の頬をなでてしまう。
帰って執務室でたくさん悩んで答えを出そう。
この情熱的で、恐ろしくも愛おしい子のために。