提督である僕がフィリピンへとやってきて2年が経った。
戦場から遠く離れたここは本土から見れば前線に近くて危ないと思われているけど、それほど危険はない。最前線となっているオーストラリアあたりに敵味方が集中しているからだ。
だから提督見習いだった20歳の僕がフィリピン行きを志願したら許可してくれるほどに。
でも重要な場所ではなく、小さい港と小規模な設備がある場所だ。艦娘は足りなくて船団護衛や対潜哨戒の任務だけでも毎日が忙しい。人も足りなくて僕自身も設備の修理や夜間警備などもやる必要があるほどに。
そんな忙しい日が続くなかで戦線が膠着したのか、自分1人だけの休日ができたけど2カ月ほど休みなしで働いていたから休みの過ごし方がわからなかった。
どうやって過ごそうかと執務室で考えているうちに昼が過ぎ、夕方になった。悩んでいるだけで休みが終わりそうだったのでいつも見ている海を見に行くことにした。フィリピンに来てから仕事以外で海なんて見に行くことは思いもしないから、違う気分で見たら何か違うのを感じるのだろうと思って。
休日とはいえ緊急時のことを考えて、普段から着ている軍服を着る。それと夏とはいえ海風は冷たいために帽子をしっかりとかぶり、家を出た。途中、執務室に寄って出かけるという書き置きを置くと、海へと向かう。
歩き出して4分。目的の場所である小さな丘に登ると、そこは海と空を一望できる素敵な場所。
あぐらでそこに座ると、真夏の空の下にいるだけで健康な体になりそうだなと思いながら、ぼーっと晴れた空と夕日と穏やかな海を見ていた。
穏やかな海に夕日が落ちていく空は雲が薄くただよい鮮やかな赤紫色の空になる。そして暗くなっていく海の深い青の色。
それらが混ざりあい、遠くに見える島々へと夕日で照らされる部分とそうでない部分があり、陰影が美しく見える。
そして夜になっていく海は吸いこまれてしまいそうな深い夜の色へ。それは目を奪われる光景。世界中のどの海でも夕日が落ちていくのは見ることができる。
だけど、ここで見る景色は特別に心を奪われてしまう。それは日本とは少し違う潮の匂いや波の音が心を穏やかにしてくれるからかもしれない。
周囲には日本では見れない南国の木々。美しいそれらを見つつ、夏の暑さを感じて僕は深いため息をつく。
何もしない無為の時間がこんなにも素晴らしく感じるだなんてと思いながら、小さな幸せを味わっていると、後ろから土を踏む足音が聞こえてくる。
ゆっくりと首を回して見ると、丘まで吹きあげる強い海風で乱れる髪を押さえながら熊野がやってきた。
肩まである淡い栗色のポニーテールは揺れ、10代後半の高校生のような幼さが残る顔を見ていると、夕日があたり幻想的な美しさを感じる。
普段と違う雰囲気で、いつも見ている制服姿に見とれていると、熊野は柔らかに微笑みながら僕のすぐ隣へとやって来た。
「ここからは何が見えますか?」
「世界の美しさがわかるほどの遠い空と広い海」
「そんな素晴らしいことを知れたのなら、わたくしも仕事を頑張った甲斐があるというものです」
そう言って熊野がスカートを手で抑えながら隣へと座ってくる。お互いに特に会話もなく時間が過ぎていき、膝を腕に抱えた熊野と並んで一緒に夕焼けを見るのは心が落ちついてくる。
夕日が落ちていくのを眺めていると熊野が感心したように声を出す。
「……こんなにも海が美しいとは思いませんでしたわ」
「海の上から見るのとはそんなに違うもの?」
「海にいるときは太陽が落ちていくのは世界が終わっていくと感じてしまいますけど、ここから見るのは希望の輝きがあるかのような。このあとの夜空の星たちも美しいのでしょうね」
「素敵な表現だね。僕はそんなふうに言えないから憧れるよ。……時々でいいから熊野の素敵な言葉を聞きたくなるね」
素直に感心して言うと、恥ずかしいのか僕の肩を何度も軽く叩いてくる。顔を見るとなんだか恥ずかしげだ。別に何もおかしくはないのに。
「僕はそんな素敵なことを言える熊野が好きだよ」
自分が思ったままの感情を伝えると、熊野は急に立ち上がっては「とぉぉおうぅぅぅ!」と海に向かって大きく叫んでいた。
突然の行動に戸惑っていると、顔を赤くした熊野が僕へと手を差し出してくる。どうしようかと手を取らずにいると、すべすべした手が僕の手を強引に掴んできて立たせてくる。
「普段から外を歩き回らないからそんなことを言ってしまうんです。提督はストレスのせいで見えるものが正しく見えていないだけなんですのよ!? 美しいものを見たときなどは見たままを口に出して言えば詩的になったりもするものです! ほら、提督も大声を出してみてください!」
熊野に強くにらまれたら叫ぶしかないかと思うけど、大声を出したことはいつだったか思いだせない。だから声を出すことが恥ずかしく感じて声を出すのをためらっていると、握られている手に強く力を入れられて手が痛み、ため息をついて覚悟を決める。
秘書である熊野とは2年の付き合いもあって、ついお願いなんかを簡単に聞いてしまう。でも1度でも単なるわがままなんてのはない。僕や他の艦娘たちのためになっているんだから。
だから僕も大声を出す。「うおぉぉー!」とそんなことを叫んで。
恥ずかしさを我慢し、腹の底から叫ぶことは心がすっきりした気がした。そして意識がはっきりするのを感じ、大声を出すだけでも相当に疲れるんだなと思う。
叫んだあと、ふと熊野の手の感触を思いだす。最初に握ってきたときはわからなかったけど、訓練や戦闘で鍛えている手は鍛えられているのがわかる。それでも女性ならではのやわらかさがあって、ずっとさわったままでもいい気がしてくる。
だけれど、このままでいるともっとやわらかそうな体を抱きしめてしまいそうで危ない。自分の理性が振りきれてしまいそうだから手を離そうとするが、熊野は少し力を入れて握っているために離してくれない。
口を開き、言葉を言おうとするがしゃれていることを言おうとしたが言えずに視線で繋がれている手を見続ける。
「……え、あ、あぁ! し、失礼しましたわ!」
視線に気づいた熊野はすぐに離してくれたけど、それだけでこんなにも慌てるなんて。
握られていた手を見ると、汗ばんでいたのがわかる。
僕と熊野は男友達みたいな気楽な関係だけれど、そこは女性らしく汗でも気になるのかもしれない。
ちょっぴり恥ずかしげに自分の手を胸元で抱きしめている熊野に話しかける言葉が思いつかず、僕はさっきと同じように座った。疲れた体には冷たい風が吹き付けて肌寒くもあるけれど、気分が少し良くなる。
「風邪を引きますわよ」
時間をおいて落ち着いた熊野はさっきのように隣へと座ってくる。だけど距離はずっと近く、腕と腕がくっつくほどだ。
熊野とくっついている部分の温かさを感じながら、夕日が今にも海へと落ちそうなのを見る。
普通なら、熊野のような美人で可愛い子といるのなら緊張をするけどそんなのはない。一緒にいると、会話がなくてもそばにいるだけで安心する。それはきっと、お互いに信頼しているからだと思う。
「……今日の夕食、わたくしが作りましょうか?」
突然そう言われて熊野へ振り向くと、僕の顔を上目遣いで恥ずかしそうに見てくる。そんな心配してくれる様子が可愛くて、頭を優しく撫でまわしてしまう。
「熊野の食事は健康的過ぎて、体に悪いものを食べたい僕としては遠慮するよ。うん、僕は若いから風邪を引いてもすぐ治るからね」
不満げで、だけど少し嬉しいような。そんな表情を顔ににじませながら熊野は僕の手を掴んでパシパシと軽く叩いてくる。
「提督はいつになったら、わたくしにお世話をさせてくれるのかしら」
「怪我や病気になったら願いするよ」
じゃれあうぐらいに仲はいいけれど、料理を作ってもらうようになったらダメ人間になってしまう自信がある。ついでに料理や洗濯まで頼んでしまいそうだ。だから、その一線は越えてはいけないようにしている。
僕の手を叩いていた熊野は疲れたのか、また静かに海を見始めた。僕も顔を海に向けると、もうすぐ夕日が海へと沈んでいく。
太陽がなくなり暗くなってくると心まで冷えるのを感じ、帰ったらおいしいコーヒーを淹れようと決める。僕と熊野の二杯分を。
「なんかさ、太陽がなくなる瞬間って寂しくならない?」
「寂しくはなりますが昇っていく太陽があると知っていれば、その美しさを見るために待つこともできますわ」
「かっこいいことを言うね」
「良い人生とはなにかということを考えたり、哲学書や詩集を読めば提督も同じように思うかもしれませんよ?」
「考えるのも文字を読むのも仕事だけでたくさんだ」
熊野の提案をすぐに断るけど、言われてみれば今までそういうのを考えたことなんてなかった。
いかに艦娘である彼女たちにストレスなく暮らしてもらえるとか、死なないようにとか。そればかりを考えていた。
自分が自分のために考えごとをしたのはどれぐらい前だっただろう? 思いだそうとしても思い出せない。
けれど、これで今日とは違って次の休日には有用な時間を過ごせるはず。そう思うと安心する。
「わたくし、お仕事の合間にいつも考えるんですの。良い人生とは何かを」
「答えは見つかった?」
「はい。より良い人生、そのひとつが結婚であるということがわかりました」
熊野のはしゃいだ声ときらきらとした視線を感じる。そんな熊野と目を合わせたら危ないと本能が訴えてくる。
「僕はもっと広い世界を見るのが良い人生だと思ってるよ」
そう呟いたあとは視線をずっと海へ固定し、熊野からの無言のプレッシャーに耐えていく。
僕と熊野は仲のいい友達だと思っている。 熊野もそう思っていた。いや、今も思っているに違いない。
しばらく無視しているとため息をする音が聞こえ、やわらかい雰囲気になったのを感じてあきらめてくれたのだと安心した。
「熱中症になりませんでしたか?」
さっきとは違う、深い意味がなさそうな雑談。頭を使う会話よりもこんな気楽なのが僕は好きだ。
「なってないと思うよ、熱中症には」
そう返事をして心配してくれる熊野の方を向くと、なにやら口元に手をあてて考え事をしているみたいだった。
考え事が終わるまで待っていると、僕のほうをちらりと見てくる。
「あの、もう1度言ってくれません? 次はゆっくりと」
発音が悪かったかなと疑問に思いながらもう1度言う。
「熱中症、には、なって、ないよ」
「すみませんが、その、もっとゆっくりお願いします。熱中症のとこだけ」
今にも消えそうな夕日の光にあたってか、熊野の耳がほんのりと赤くなっているのは気のせいだろうか?
熊野がいったい僕に何を伝えたいのかわからないけど、言われるままに、次はもっとゆっくりと言う。
「ねっ、ちゆう、しょう」
そう僕が言った瞬間、熊野は身を乗り出して僕の肩に手を置くと、目をつむって唇へと触れるだけの一瞬のキスをしてきた。そんな一瞬でも柔らかいと思ったり、持ちよかったということで頭がいっぱいになってしまう。
夕日が落ちて夜になっている今は、ほのかな月明かりで見る熊野の顔は色っぽくて、熊野も1人の女性なんだなと理解してしまう。
そうして女性と意識するとキスした理由、僕に言わせた言葉。それらの謎に気付く。
そのことが表情に出たらしく、熊野は口元を手で抑えて僕から目をそらすと、勢いよく立ちあがっては駐屯地の方へと走り去って行った。
熊野のうしろ姿が夜の闇に溶け込んでいくのを見送ってから、ふと気付く。
今まで生きてきて、初めてのキスだったことを。
恋愛対象として見たことはなかったというのに、急に心臓がドキドキとして胸が苦しい。これは映画やドラマでよく描写されている恋というもので、おそらくこれが僕の初恋だとわかった。
恥ずかしい、驚いたという感情では片付けられない。キスされて熊野のことを愛おしいと気付く自分の恋心。
自覚した途端、頭にぐるぐると巡る嬉しさと苦しさと恥ずかしさ。様々な感情が混ざりあった結果が恋なのかもしれないと思った。
◇
熊野にキスされてから自分の感情を落ち着かせて、段々と風が寒くなってきたことで意識がはっきりとしてきたので駐屯地へと戻ってきた。
駐屯地と呼ぶここは、丘から少し離れたところの開けたところにある。
そこには木造平屋の建物が7つあるだけの小さな場所。元々あった村は戦闘で損壊し、住むのには危ないために新しく作ったところで暮らしている。設備も小規模だから艦娘の数も6人だけで、僕以外の軍人はここにはいない。
フィリピンは深海棲艦から解放されたけど、以前にいた人はあまり戻っていない。だから周辺には今も人がいないままで、人に気遣う必要がないから最小限以下でもやっていけている。
それほど小さなところで物資も満足に補給されず、戦略的価値が低い場所にいる。でも僕はここが気にいっている。
食堂がある建物にも明かりがついていて、いつもよりも賑やかな艦娘たち6人全員の黄色い声が聞こえてきた。
ここには任務の都合上、航空巡洋艦となっている熊野以外には軽巡と駆逐の艦娘たちしかいない。女の子たちの声というのは建物の外でもよく響く。
場所が辺鄙でも規模が小さくても物資が少なくても、こんなふうに話で盛り上がったりとここは穏やかで楽しいところだ。
食堂から漏れ出てくる元気な声を聞きながら、僕は執務室がある建物に入っていく。部屋は窓を開けていたとはいえ、海から少し離れると風がなくり暑さを感じる。
ポケットからマッチを出し、部屋の天井に取り付けられている石油ランプに火をつけると明るくなった6畳の小さな部屋を見渡す。
電気が通ってないために少しばかり不便だが、こういう柔らかい火の明かりも良く感じてくる。
ランプの明かりで照らされている部屋の窓際には執務机と椅子があり、他に小さなソファーとテーブルがひとつあるだけの殺風景なところだ。
着ていた提督用の服をそこらに脱ぎ散らかし、半袖半ズボンという簡単な服装へと着替える。
気持ちも楽になったのでソファーへと仰向けに倒れこむと、すぐにキスされた時のことを思いだしては熊野のことを考えてしまう。
部下である熊野と出会ってから2年が経っていた。
前にいた女性提督が結婚のために日本へ戻る代わりに、僕が日本以外の世界を見たいと志願してやってきた時からだ。
熊野は艦娘になってから7年。フィリピンに来て5年。
この駐屯地では最もベテランで、仲良くなってからずっと世話になっている。
フィリピンでの電気にガスや水道がない生活の仕方、森での採取や狩猟、船団に資源をもらう方法、海軍への資材恐喝方法など。
それらはひとりだと何もわからなく、艦娘はたくましい人もいるので『女性だから』と気遣いすぎるのはダメだと学んだ。
はじめは熊野から嫌われていて『こんなにも若くて未熟な人が来るだなんて』と蔑んだ目つきで嫌われていたことは今でも思い出す。
そう言われてから艦娘とか階級なんて物は気にせず、艦娘たちや自分のためにも多くのことを覚えようと頑張った。
努力の結果、熊野以外の艦娘たちとも仲良くできるようになり、熊野からの冷たい態度も減った。
仲良くなったキッカケは―――。そう昔のことを思い出そうとした途端、控えめに扉をノックしてくる音が聞こえた。
このリズムと叩き方は熊野の音だ。
僕はキスされたこと強烈に思い出してしまうが、ソファーから起き上がろうと深呼吸をして落ち着いてから「入っていいよ」と言う。
部屋に入ってきた熊野は料理が入った皿を持っていて、テーブルへと置いてくれる。
「お邪魔いたしますわ」
その料理はフィリピン料理の子ブタの丸焼きを切り分けたものだった。
豚を1頭焼く料理は豪華であり、お祝いごとの時しか作らない。特に物資が足りないここでは貴重なもの。
なのに作るなんて今日は何かのお祝い事があったかと考え、そんな疑問を聞こうと思ったが熊野はすぐに部屋を出ていくと今度はおにぎりにフォークやナイフを持ってきた。
ソファーに座る僕の隣へやってくるとおにぎりを置いてから、ナイフで皿に盛った豚を小さく切り分けてくれる。
熊野の横顔をそっと見ると、機嫌が良さそうに見える。
一緒に丘で海を見ていた時と違って恥ずかしがっている様子はなく、あの時は僕の妄想だったんじゃないかって思うほど普通の態度をしている。
「熊野?」
「あ、足りませんでしたか? でしたら今すぐ食堂に―――」
「そうじゃなくて。今日は何かお祝いすることがあった?」
首をかしげて不思議そうにする熊野は『なぜ当たり前のことを聞いてくるのです?』という顔に。
今日は何の日だったか僕は考えるがまったく思い当たらない。キスした記念にしてはこの料理には時間がかかるから違うだろうし。
「今日は提督の休日ですから。料理は皆で相談の上で決めました」
「そんな連絡はなかったけど」
普通の食事なら僕に教える必要はないけど、豪華な食材を使うとかは教えるように伝えてある。そもそも子豚なんて滅多に手に入らないものをどうして交換できたのかは謎だ。
「提督、女性には謎があったほうが魅力的ですのよ?」
「仕事において謎はないほうがいいよ」
「では言いますけれど、仕事の帰りに朝潮さんが尊敬する提督のためにと交換してきたのですよ?」
そう言い、この話は終わりだとばかりに切り分けた肉をフォークで刺すと僕の口元へと持ってくる。
……朝潮は真面目で良い子すぎる。たまに僕のためにとどこからか色々な物を手に入れてくる。遠くまで行って買ってきたり、廃墟となった町で拾ってきたものと交換してきたのだろう。
あとで思い切り感謝すると決めつつ、差し出された肉の対処に困る。
今までこんなことはされたことがない。だから、断るのは当然なんだけれど熊野の目がとても真面目というか怖い。
食べなかったらわかっていますわね、というプレッシャーが伝わってくる。
それはまるで、そう、まるで昔のようだ。出会った頃の熊野はこんな感じだった。
目が、視線が僕に対して多くの想いを込めた言葉として伝わってくる。
でもそれは断る。
熊野の持つフォークを奪おうとするが、僕に取られまいと力が入っていて取ることができない。
肉を食べるのをあきらめ、仕方なくおにぎりを食べ始める。
そのおにぎりは普段から食べているインディカ米と違い、日本米だ。食感も味もまったく違う。
日本の物はやはりおいしいな、と顔がゆるんでしまうと熊野の視線を強く感じる。
ため息をついた熊野は持っていたフォークを降ろすと皿の上へと戻した。僕に向ける視線は悲しく、寂しげだ。
それに耐えきれず、仲良くなったキッカケのあの時のように、気軽に話をしたりふざけあったりしたい。
そのキッカケとなったのは、僕が来て1カ月経ち、ここの運営方針で揉めたときのことだ。それを思い出し、言葉へと出す。
「未熟とはいえ、提督として勉強して来た僕が頼りないとでも!?」
突然、両手を大げさに広げて大声を出した僕に熊野は驚いて目を見開いていたが、考えるかのように目をつむってはすぐに開けた。
「……ええ、ええ! 頼りないですとも! 本や教官からの知識だけしか知らない人なんか特に!」
「現場だけしか知らない奴が、提督である僕を無視してやっていけるとでも?」
「やっていけますとも。あなたが何もしないでいてくだされば。むしろ、あなたよりも良くできますわ」
「上官侮辱罪になるけど」
「まぁ、それは怖い。それなら早く新しい提督が欲しいですわ。プライドしかない貴方よりもそこらの中学生の方がずっとまともそうですし」
それからわずかな沈黙。僕と熊野はこのやりとりが楽しく、会話が終わると同時にお互いに声をあげて笑う。
熊野が話に乗ってくれて嬉しい。だけど、以前の自分はこんなのだったかと落ち込んでしまう。
でも今は違う。あの時から素直に熊野に教えを乞い、立派な、たぶん立派な提督になれているはずだと思う。
話が終わったのに、笑みを浮かべた熊野は僕から距離を離し、両手を上へと勢いよく上げて襲いかかる体勢になっていた。
「この話の続きはやる必要がないよね?」
さっきの話の続きをするなら、怒った僕が熊野と殴り合いのケンカになってしまう。
そのケンカは僕が熊野に肩関節を脱臼させられ、それでも僕は殴り続けていた。
何も言わず、笑みを浮かべる熊野を見ると冷や汗がやってくる。
仲良くなったのは言い合いのあとのケンカもあったと思う。
あの時は結局は殴り合いで僕が負けたけど、脱臼したのに続けたことを褒められた記憶がある。
「話せばわかると思うんだけど」
「そんなの知りませんわ!」と目がぎらぎらした熊野に押し倒された。
幸いにもソファーの上だから痛くはない。けど、すぐ目の前に熊野がいて僕の頭の横に両手をつき、押し倒してきている格好だ。
本能が危ないと感じるが、うるんだ目の熊野からは目が離せない。
目から視線が唇へと行き、キスしたことを思い出してしまって緊張と小さな興奮がやってきてしまう。
「わたくしの彼氏になってくださいませんか?」
殴る様子なんてカケラもなく、ささやくような小さな声が聞こえる。
いつも自信に満ち溢れ、優雅な熊野。
でも今はとても儚げだ。ふれてしまえば消えてしまいそうだなんて思ってしまう。
「嫌だ。僕はね、世界が見たいんだ」
やりたいことのために恋人という存在は重荷になる。
はっきりと告白を断ればいいのに、断れないのは僕の弱さだ。
「ここに志願して来たのもそれが理由だし、もっと遠くへ行きたいんだ。閉じた世界の日本や荒廃したフィリピンだけじゃなく、世界が平和になったら色々なところをめぐり歩きたいんだ」
「それは断る理由になりませんわ」
「なるよ。もし僕に恋人ができたとして……。『行かないで』なんて言われたらひどく悩んでしまう。だからいらないんだ」
「わたくしなら、あなたについて行きますわ。いらなくなったら捨ててくれても構いません」
そう強い口調で熊野は言ってきたけれど、さっきのように消えてしまいそうな雰囲気はなくなっていた。寂しそう、そんなふうにしか見れない。
「それもダメだというのなら。あなたが世界を見に行く、その日までで構いません」
「そんなに僕が好きなの?」
「心から」
「……なんで?」
熊野は起き上がって僕から離れると、髪の毛をいじりながらソワソワと落ち着かない様子になる。
僕から視線を外して、頬が赤くなっていく。
「男の人と殴り合いのケンカをしたのは初めてで、楽しかったのです。こんな楽しいケンカがあるなんて思いもしませんでした」
それを聞き、熊野はちょっと危ない女じゃないかと警戒した。
僕の腕を脱臼させても止まることなく、殴り合いしてきたのはそんな意味があったのか。
人によっては、いや誰が聞いたとしても危ない発言だ。それを恥ずかしそうにしているなんて。
熊野とは一緒にいる時間が多いが、穏やかでおしとやかな女性だと思っていた。殴り合っていた時は本気で怒っているようにも見えなかったし。
「軍人としてはダメなのですが対等な関係が嬉しかったのです。遠慮することなく、言葉を飾らなくてもいいということを。そうしてわかったのはあなたが優しく誠実だと理解できたからです。だから一緒にいたい、もっとそばで同じ時間を過ごしたいと思うのはいけないことでしょうか?」
熊野が僕に手を伸ばしてきて、その手は何の意味かが分からないまま手を取る。
すると手が引っ張られて僕の体が起こされていく。
「提督、あなたのことをもっと知りたいのです。ご飯を作ってあげたり、部屋を掃除したり。一緒に仲良く散歩をして、夜空を眺めたい。そういうことをわたくしはやりたいのです」
確かにそれは好きだという理由。でも熊野のそれは"恋人"になりたい理由ではない。
熊野が言ったことは、すべて僕のためばかり。自分がこうして欲しいというのがわからない。
一緒の時間を過ごすというのは欲のように聞こえるけど、"自分"という存在を提供して相手を喜ばせたいとしか思えない。
そして、それは自分ばかりか相手を苦しめることになっていくはずだ。
これからの将来のことを語り、未来に幸せを探そうとする。それは恋人と呼べるものだろうか?
もし、ここで僕が恋人になると言っても長続きはしないと思う。一方的な依存関係とはつまらないものだから。
お互いが相手のことを考え、悩んでこそ恋人ではないんじゃないかと思う。
それは僕が恋人なんて持ったことがないから考えれる意見だろうか?
熊野の目を見ると、寂しさと甘えたいという気持ちが見えてくる。
7年。熊野はここに来てから7年目だ。
今まで一緒にいた前任の提督もいなくなり、日本に帰ることもできない。日本からの食糧の補給は少なく、東南アジアからの食糧ばかりで寂しさもさらに募る。
そんな時に僕が来たから、若い僕を甘やかしたりお姉ちゃんっぽいことをしたいのかなと考えた。
ここまでたくさん考えたけど、恋愛なんてしたことがない僕には最善はどうすればいいのかわからない。
だから、僕は問題を先送りする。
「親友関係から始めない? 今でも仲はいいけど、幼馴染のような親密な関係から」
「幼馴染ですか?」
静かにつぶやいた熊野は、口元に手をあてると部屋の天井を見たり、僕を見たりと視線をあちこちに動かしては悩んでいる。
何分か経った頃に、大きな息をついて真剣なまなざしで僕を見てくる。
「わかりました。でも幼馴染ではなく今日からわたくしのことを姉さんと思ってください」
どうしてそうなったのだろう。
恋人からの斜め上展開になったことで頭が痛い。問題の先送りはできたみたいだから、いいんだけれど。
姉さんと呼ぶと他の艦娘たちに対する威厳……は元からないけれど。でも軽巡や駆逐の娘たちから僕がどう思われるのかを想像したくない。変な状態になってしまいそうだ。僕を兄と呼んだりとか。
少し考え、このあたりがお互いに妥協できるとこかなと思う。
「ここ艦娘たちの前ではそれでいいけど、他ではやめてね?」
「弟の頼みなら聞いてあげないといけませんね!」
ダンスでもしそうなほど気分良く言う熊野を見て、これでよかったかなという戸惑いの気持ちと、以前と同じ関係に戻れてよかったという安心感がある。
でも22歳の僕に対し、熊野は高校生のような外見。日本だったら犯罪になってしまいそうだ。
……だけどまぁ。年下の姉ができるなんて思ってもみなかった。
「これからも仲良くしてね」
「任せてください。お姉さんのわたくしが料理も掃除も添い寝もなにもかもをやってあげますからね」
先行きが不安すぎる言葉を聞いてしまったけれど、これで忙しくも心穏やかな日々が戻ってくる。
安心した途端、一気に疲労を感じてソファーへと深く倒れこむ。
熊野も僕からちょっと離れてくれたので、気遣ってもらえたんだと思って寝ようとしたが、体を引っ張られて横に倒される。
一瞬、何が起きたかわからなかったが、そこは熊野の太ももの上。
柔らかい感触と、あたたかい温度を感じる。
「あの、熊野?」
「お姉さんです」
「くま―――」
「お姉さん」
顔を動かすと色々と危なそうなために、声だけでやり取りをするが熊野がきちんと返事をしてくれない。
名前だけだとどうも返事をしてくれない。さっき言ってた、お姉さんという設定が発動したらしい。
「……姉さん」
「なんでしょう、わたくしの可愛い弟さん?」
兄妹が誰もいなかった僕が"姉さん"と呼ぶのは変な気もしたけど、口にしてみると違和感が少ない。
それは暖かみと優しさのある声と、僕の頭を大切そうに撫でてくれるのもあったかもしれない。
ずっと海風に当たっていたこともあって、すぐに眠気がやってくる。そうして幸せな気分を感じながら、僕は目を閉じた。
自分に取って良い人生を求めて生きようとしている。僕は世界を知りたかった。見たことがないもののために。でもそれでは足りないとついさっき感じた。
人生とはよく道に例えられるけど、車をまっすぐな道だけに走らせるのはつまらない。
上り坂に下り坂。目的地へ行く途中の買い食いなどがあってこそ、楽しくなると思う。悩みがあってこそ人生はより充実し、考えることによって人は成長していく。
でも今の僕は悩みや考えることの一切を放棄し、熊野の優しさに包まれながら幸せな睡眠へと入っていく。
時には止まったり、ぼーっとすることも大事だよねと頭の隅っこで思いながら。