提督たちの海域攻略会議という中身がない話が終わったのは午後11時過ぎ。
朝早くから始まり、艦娘を大事にしすぎていると言われている僕に嫌みを言ってくるばかりだから精神が無駄に疲れた。
鎮守府内にある会議場を出ると、2月の冬らしい寒さがつらい。近場だからと冬用の黒い軍服だけで来たのは間違っていた。
寒さに震える体を手でおさえながら執務室へと行く。
今日の仕事は会議さえ終われば自由なのだが、悪い気分のまま自宅へ帰る気が起きない。
自宅以外の場所で1人静かになることができ、暖かい場所はどこかと考えると浴場とすぐに答えが出る。入浴時間が終わったばかりの艦娘専用の大きな浴場だ。
暖かい風呂に入るということを考えると気分がよくなって、執務室にたどり着くとすぐにコートと鞄を置く。
執務室にいた、秘書である由良に自宅から着替えを持ってくるように言うと、部屋にあるタオルを持って僕は浴場へと向かう。
浴場前で、誰も来ないとは思う、入口には『掃除中』という立て看板を置いて用心をする。
脱衣所と浴場の明かりをつけ、ほのかに香る艦娘たちの甘い匂いを感じながら服を脱ぐ。寒い空気から逃れ、早く暖まるために早足で歩いては浴場への扉を開ける。
そこにはむせかえりそうなほどの湯気があり、広くて静かな空間が広がっていた。
艦娘たちの浴場は赴任時に1度見ただけで、久々に来ると改めて広いと実感する。
床はタイル張りで、20人は入れそうな風呂にシャワーは10個もある。
体を洗う石鹸は置いてあるが、シャンプーなんかはそれぞれ自分の好きなのを持ってくることを決めている。
それを忘れていて、シャンプーを持ってくるのを忘れていた。上がるときに髪はすすげばいいかと考え、シャワーで体を流してから暖かい風呂に肩まで入る。
背中を風呂のフチへと預け、体にじんわりと染みてくる暖かさに気分が軽くなる。
聞こえてくる音は風呂が波立つ音に、天井から落ちてくる水滴の音。
広い空間に広い風呂。こんな幸せを1人で独占して幸せな気分になる。今日もいつも通りに同僚や上司から嫌みを言われて胃が痛くなったことが少しやわらいでくる。
普段なら1人でいると暗い考えばかりになってしまい落ち込んでしまうが、今はそうならない。
頭をからっぽにしながらリラックスした時間が過ぎていく。
そんな時に、脱衣所の方から扉が開く音が聞こえてくる。
由良が着替えを持ってきたか、と思ったけど由良が誰かに話しかけてる声が聞こえる。かすかに「またね」という由良の声が聞こえて扉が閉まる音が。
どうやら脱衣所には誰かがいるらしい。由良は誰か来るとは言っていなかったから不安になる。
「誰かいる?」
大きめな声を出して返事を待つが声は返ってこない。
不安な気持ちで擦りガラスの扉を見つめていると、身長が高い女性のシルエットがうつる。
その姿は裸でもタオルを巻いたものでもなく、和服を着ているのがわかる。
ゆっくりと扉が開いていくと、すぐに僕は顔を勢いよくそむける。それと同時にタオルで大事な部分を隠すことも忘れない。
誰かが入ってきて扉が閉まる音が聞こえる。それから足音がすぐそばまで近づいてくる。
僕の鼓動は早くなり、緊張もしてくる。
由良が会話をしていたことから考えると不審者ではないけれど、艦娘の誰かとはわかる。
それに男が入っていることを知りながら来るというのは、あまり女らしくない艦娘だろうか?
「提督」
低めだがよく透き通る声が僕を呼ぶ。それはよく僕に話しかけてくる雲龍の声。女らしくはあるけれども考えていることがわからない子だ。
裸じゃないのは事前にわかっているため、少し落ち着きを取り戻して振り向く。
僕より2cm低いだけの165cmという身長の雲龍は、襦袢という帯をしめた下着の和服を着ていて良く似合っている。
浴衣に似ているその服は白一色で、品のいい美しさを感じる。
10代後半のような顔立ちは美しく整っていて、見るたびに心を惹かれる。
普段はかかとまで長い三つ編みの銀髪はアップにしていて、タオルを頭に巻いて銀色の髪を押さえている。
肌の露出度は、すべすべしたお腹や大きな胸が強調されている制服より控えめだけれども、うっすらと見える白い肌が僕の目には毒となる。
でも琥珀を思わせる金色の目はいつもと同じ眠たげなのを見て、ちょっとだけ安心する。
「男が入っているんだから気にして欲しいんだけど」
女湯に入っている僕が言うのもおかしいとは思うけど。
「背中を流しに来たわ」
雲龍は僕の言葉を無視し、すぐ隣にやってきて膝を曲げて座ってくる。
いくら着ているからといっても裾の隙間から見える足や腕が精神によくない。その向こう側まで見えてしまいそうだ。
このまま一緒にいると風呂と雲龍でのぼせてしまいそうだ。理性が持っているあいだにさっさと風呂から上がらないといけない。
「さっき体を洗ったばかりだから大丈夫」
そういうと雲龍はシャワーの場所を眺め、僕の頭に手を伸ばしては髪をわしゃわしゃと触ってくる。そして無言の視線で嘘をついたことに文句を言っているかのようなまっすぐな目を受け止めるのが辛い。
お互いに無言のまま、雲龍が髪を触ってくるのにされるがままになる。
「提督、嘘はよくないと―――くしゅんっ!」
「……寒いなら入る?」
この言葉を聞いた途端、雲龍の目は見開かれ驚いていたがすぐに楽しげな表情になる。
僕はすぐに失言だったことに気付くが、言いなおす余裕も与えてくれずに雲龍はそのまま風呂へ入ってくる。しかもすぐ隣に。
白い襦袢の服はお湯に濡れたせいで肌に張り付き、半透明になってしまった服は目のやり場に困る。
緊張で身を固くし、じっとしていると肩に雲龍の頭がやってきて至近距離で目と目があう。
雲龍の顔がほんのりと赤くなり、微笑んでくるのを見ると本当に理性が辛い。精神を癒すために風呂へ来たというのにこれじゃ逆効果だ。
部下である艦娘に手を出さないと決めているのに、なんという恐ろしいことをしてくるのだろうか。
出会ってから3年。僕と雲龍の関係はお互いに仲のいい……というよりも雲龍に一方的に気に入られている。他の艦娘たちと同じく平等に扱っているのに、何が気にいったのかがわからない。
執務室で書類仕事をしているときはソファーでぼーっと座っていたり、見回りの時にはいつのまにか後ろをついてくることもよくある。
それがどういう関係かはわからないが悪くはなかった。
だというのに、なんで一緒にお風呂へ入っているかがわからない。そもそもなんでここにいることがわかったんだろうか。
「ふふっ」
「なに?」
「初めて隣にいれた」
それだけのことに満面の笑みを浮かべてくるのはずるい。
思えば一緒に過ごす時間はあったけれど、こうやってすぐ隣にいるのは初めてだ。
「私、由良に感謝しているわ」
その言葉で雲龍がここに来たのは由良の仕業だと判明する。由良の行動は悪意ではないと思うけれど、理由がまったくわからない。
ため息をつくと雲龍が不安げなに僕の顔をのぞきこむ。
「迷惑だった?」
僕は口を開きかけるが、迷惑だという言葉が出せない。
今の状況は僕の理性を必死に動かしていて迷惑だが、心の別な部分ではすぐ隣にいるのが雲龍で落ち着くというのも事実だ。
返事をしない僕を心配したのか、頬に手をあててくる。
柔らかい手の感触。もう理性を投げ捨ててしまいたい。
服を着ているとはいえ、一緒にお風呂に入っているし笑顔を見せてくれると不純異性交遊をやってしまっていいと決意しそうだ。
「疲れているのは知っているわ。だから背中を流しに来たのだけど」
悲しげに言われると嫌とはとても言えない。
だからあきらめて今の状況を許してしまう心になった。『嬉しいよ』と返事をしようとするが雲龍は言葉を続ける。
「それが嫌なら子作りでもしましょう。……初めては布団の上がよかったのだけれど」
僕から少し離れ、服の帯をほどこうとする。
今度は僕のほうから雲龍へ近づき、両手で頬を挟んでこっちへと向かせる。
「なんで君はそう極端なの!?」
「提督を癒したいだけよ」
「そういうのは好きな男とやるものなの。わかった?」
僕の大声を聞いて納得したのか、雲龍は静かになって腰帯から手を離す。
雲龍は好きだけれど、それは部下として友達としてだ。女性という意味ではない。
「提督のことは男性として好きだから問題はないわね」
好きという告白に心が揺れ、近くに感じる雲龍の体温で僕の頭は沸騰してしまう寸前だ。だから我慢しきれずに手を出してしまうのは仕方がないと思う。
僕は両手を雲龍の顔へと伸ばし、強めな力で頬を横へと引っ張る。
僕に顔を近づけてこようとした雲龍もさすがにどうすればいいかわからず、動きが硬直する。
「感情に身を任せるのもどうかと思うんだ」
そう言うと雲龍は次第に怒りはじめた目になっていき、僕は慌てて手を離す。
雲龍は掴まれた頬の部分を手でさすりながら、怒りは次第になくなって僕の目をまっすぐと見つめてくる。
「艦娘である私が提督に受けた恩は大きくて、もうあなたがいない世界なんて考えれられないわ」
昔のことを思い出しながら楽しげに言うそれに、僕は喜ぶことができない。
僕が提督としてやったことは艦娘たちを戦いの道具だけという意味で扱うのではなく、同時に女性として認識しているだけ。
周りの提督はそんな非効率なことはしていないし、艦娘という道具に情が移ってしまうのはとても悪いことだというのが普通だ。
提督によっては薬に拷問、脅迫をして戦場に立たせている。艦娘本人が嫌がっていても戦わせ続ける。
艦娘たちを兵器扱いしない僕にはそれが許せないだけだ。だからそれを恩とされることはかなり困る。
僕は僕の信条で動いているだけなんだから。
「自分がやりたいようにしてるだけだから、感謝なんていらないよ」
「そう」
僕から目を離し、天井を見上げる雲龍。
言いたいことがわかってくれたらしく、とても安心する。あとは静かにお風呂に浸かって上がるだけだ。いや、雲龍が体を流してくるかもしれないから逃げる方法を考えておかないと。
お互いに静かな時間を過ごし始めることができると思っていたが、そんな考えはすぐになくなった。
僕を呼ぶ声も予備動作も一切なく、僕の両肩を掴んで体を押し倒してきてはお湯の中に沈めてくる。
突然すぎる行動にされるがままに、抵抗らしい抵抗もできなかった。
わずかのあいだ呼吸することもできず、雲龍の手が僕の体を離した隙に浮かび上がる。
むせながら酸素を求めて荒い呼吸を繰り返しながら、雲龍を見る。
すると僕が沈んでいた短い時間にアップにしていた髪はおろされていた。
ウェーブがかかっている銀の長い髪は水面に広がり、ちょっと幻想的だなと思ってしまう。
髪にばかり注目がいってしまったが、着ていた襦袢も帯がほどかれていて、前が開いているから胸がすっかり見えてしまいそうだ。
綺麗だなという感想しか頭に浮かばず、そんな雲龍の姿に僕は目を離すことができない。
僕の両肩に手を置いて唇に迫ってくる雲龍をどうにかしようという気は起きず、ただ待つことしかできない。
興奮している雲龍の顔は赤く、呼吸も少し荒い。
それを見て、僕は何も考えることができなくなった。
そんな時に小さく扉を開く音が聞こえてくる。誰かが脱衣所にやってきたらしい。
「提督さん、お風呂はどう?」
「助かった!」
扉を開け、優しい声と共に風呂場にやってきたのは制服姿の由良だ。俺と雲龍の様子を見に来たと思うが、雲龍のことについて文句を言う元気は今はない。
肩を押さえていた雲龍の手を払い、タオルで前を隠しながら風呂から急いで出る。途中、のぼせたのか体がふらつくが転ばないように気をつけつつ、急いでてもシャワーで軽く体を流すことを忘れない。
そして脱衣所へ行く扉のところで、由良が顔を赤くして僕から顔をそむけていた。
由良の横を通るとき、1度振り返ると雲龍のとてつもなく不満な顔が強く印象に残る。
「逃げられた……」
その時に聞こえきた、機嫌悪そうな声に心が冷える。僕は聞こえないふりをしてその場を後にした。
疲れた体と心を癒すための風呂だったがその目的は達成できなかった。けど、雲龍が来てくれたおかげで嫌なことを考えてしまうことがないのは良いことだった。
由良が用意してくれたチノパンとトレーナーに着替え、慌ただしい風呂の時間が終わることとなった。
風呂からあがったあとは家に帰るのが面倒で、由良が暖炉で暖めてくれた執務室に移動する。
部屋はフローリングで暖炉と執務机、それにソファーがあるだけのシンプルな部屋。ソファーには執務室に常備している掛け布団が置いてある。冬である今では少々寒い気もするが、そこは仕方がない。
寝る前に今日の会議で渡された資料を鞄から取り出し、机の上にばらまいて椅子に座る。
統計資料をぱらぱらと読みすすめるうちに、昼の胸糞悪いことを思い出して嫌になる。
兵器を女性扱いするのなんて頭がイカれていると言われたことを。
でも軍人ならば、あちらのほうが正しい考えだ。それはわかっている。
でも僕はそれがたまらなく嫌だった。兵器であるまえに1人の女性として艦娘たちを認識している。
『兵器として扱わないのは性目的だから』『ハーレム生活を楽しむために優しくしている』、そんなことを言われても言い返すことはしない。それらを否定しても周りから見ればそうとしか見えず、言い訳にしか聞こえないから。
そんな嫌なことばかり考えてしまうので書類を見るのをやめ、もう寝ることにする。
時計を見ると午前1時。
暖炉の火を消し、部屋を真っ暗にしてから手探りでソファーを探して倒れこむ。そして掛け布団をしっかりと体にかけて目を閉じる。
執務室で寝るのは初めてで、1人暮らしをしているアパートとはずいぶんと違う。
広く暗い部屋は僕を圧迫してくるように思え、生活音も聞こえないのは不安になってしまって意識が朦朧とし、寒気までもがやってくる。
夜に寝るときは恐怖なんて感じないものだけど、今日はそうじゃなかった。
会議と、自分の領域でない執務室に泊まるという2つの要素が悪いのだろう。早く寝てしまおうと、圧迫してくる夜の闇に耐える時間を過ごす。
脂汗が出てきて、息が荒くなってきた時だ。かすかなノックの音が部屋に響く。
執務室に俺が泊まっていることは由良しか知らない。来た人がわかっていながらも起きることすら辛い。仕方なく無視をし、ノックの音がやんで数秒がたつ。
扉の鍵がそっと開けられ、雲龍が入ってくる。
「お邪魔するわ」
小さな声と共に部屋の明かりがつけられ、まぶしさに目を細めながら体を起してその姿を確認する。
風呂で見たときも三つ編みは解いていたけど、今はそれがよく見えてウェーブがかった長い髪は美少女度が上がったと錯覚してしまう。
服は和服のもこもことした素材の寝巻。
それは深い青の色で、刺繍は白色の花模様。雲龍の白い肌や銀の髪によく似合う色合い。
「なにか用事?」
「夜這いに来たのだけれど」
僕は呆れてため息を深くつく。
非常識な時間に部屋をたずねてくるのに怒ろうかと思ったが、そんな精神状態じゃない。
雲龍を放っておくとソファーのすぐそばにやって来て、何を考えているのかわからない表情で見下ろしてくる。
気分が悪いときに相手をする余裕はなくて、彼女の顔をにらむ。
それを見て何かに納得した雲龍は1度大きくうなずいてからソファーへと座ってくる。そうして頭のすぐ隣に座った雲龍は僕の頭を強引に膝に乗っけてきた。
恥ずかしい思いから逃れるために起き上がろうとしたが、雲龍は強く頭を押さえてくる。
起き上がる僕と押さえつけてくる雲龍、10秒ほど力のぶつかりあいをするも負けてしまう。
仕方なくされるがままになると、柔らかい太ももの感触を感じる。
上を見上げる僕の視界には、優しく微笑む雲龍の顔でいっぱいに。
その表情に目をそらすこともできずにいると、頭をそっと撫でてくる。
「かわいい人」
優しい表情、声、香り、体温。
雲龍の全てが僕の苦しみをやわらぎ、さっきまで暗闇のなかで苦しんでいたことは消え去っていった。
そうして静かに眠りがやってくると、僕は雲龍の顔を見ながら目をゆっくりと閉じていった。
―――懐かしい夢を見た。それは僕が提督を目指すことになったキッカケ。
中学生の頃、度胸試しで海岸から島まで遠泳をした。
溺れて死にかけたときに助けてくれたのが『古鷹』という艦娘だった。
周囲の大人や新聞では、艦娘は戦いをもたらす戦争の象徴と聞いていたから助けられたときには感謝の言葉なんてまったく言わなかった。
それでもあの女性は嫌な顔をせずにずっと笑顔だった。救急車も手配してくれて検査入院のときにはお見舞いに来てくれた。
あのおかげで艦娘への印象が変わって自分で戦争と艦娘について調べるようになり、提督という職業にも興味を持つようになった。
今でも心残りなのは、最後まで「ありがとう」と言えなかったことだ。
◇
優しい気持ちと一緒に意識が目覚め、耳にぱちぱちと薪が燃える音が聞こえてくる。
目を開けると窓から登ったばかりの朝日が見える。
肌に感じる空気は暖かく、だいぶ前から暖炉に火がついていたのがわかる。けれど、寝る前にあったはずの心地よい感触はなくなっていた。
一瞬だけ寂しくなるも、頭がちょっとずつ動いてきて今の状況がわかってくる。
体を起こそうとしたけれど妙に重く、首を動かすのもつらい。くわえて体の内側から寒気と震えがやってくる。
「おはよう、提督」
雲龍の声が聞こえるほうに顔を向けると、寝る前と同じ寝巻姿な彼女は暖炉の前でしゃがんで火にあたっていた。
「ああ、おはよう」
起きたばかりだからか、返事の声には力が入らずに少し咳がでてしまう。
この声を聞いて雲龍は僕のそばに来て、おでこに手をあててくる。
「……熱もあるし、風邪ね」
深刻そうに言われ、風邪を引いてしまったかと少し悲しくなる。
仕事に支障がでないよう、食生活などの健康には気をつけていたのに。執務室で掛け布団だけ、というのもあるけど溜まっていたストレスの影響があるかもしれない。
自分のことばかり考えていたときに、あることに気付く。
雲龍はどこで寝たんだろう? 布団は1つしかなく、狭いソファーに入ってきたわけでもない。
自分の部屋に帰ったのかと考えたけれど、少し眠たげな表情はずっと起きていたと想像ができる。
「さっき由良が来たのだけど、今日は休みにするって言ってたわ」
壁掛け時計を見ると午前7時30分。
仕事が始まるまではまだ時間があるのに仕事熱心な子だ、と感心する。
由良は1度言ったことは有言実行するタイプだから今日は素直に休むしかない。早く家に帰って寝ないと。
そう思って体を起こそうとするも、叩きつけるように雲龍に頭を押さえつけられた。
「なにがしたいの」
「由良が着替えを持ってくると言ってたわ。それと私が布団を持ってくるから待っててちょうだい」
そう言っては急ぎ足で部屋から出ていき、僕はよくわからないまま取り残された。
待ってて、と言われたのでソファーに倒れたまま天井を見上げる。
言われたとおりに待つつもりだけど、そのあいだは暇になる。だからといって、体がだるくて頭がふらついている今は何もしないほうがいいかな。
静かな部屋でぼーっとする時間を過ごしていると、部屋の外から軍人や艦娘たちの走っているかけ声、砲撃練習音などのにぎやかな朝の音が響いている。
そんなのを聞いていると、仕事がしたくてウズウズしてくる。仕事熱心すぎるのも問題だ。
重い体を起こして立ち上がると頭がふらつくがそれに耐え、雲龍が戻ってくる前に自宅へと帰ろうとする。
書置きもせず、雲龍には悪い気が少しだけするも由良がどうにかしてくれるだろう。帰る途中に由良と会うだろうしお願いしないと。
部屋を出るため扉へ近づくと、ちょうど扉が開いて戻ってきた雲龍と目があう。
雲龍は小脇に2畳の畳を持ち、肩には布団一式と着替えのパジャマと下着をかついでいた。
とても悪いことをしている気持ちになって怒られるのかと怯えるも、雲龍は何も言わずに僕の横を通り過ぎる。
そして、床に畳を置いて布団を敷く。それに着替えも。次に、硬直している僕の体を勢いよくお姫様抱っこで持ち上げてくる。
「なにしてんの!?」
「子供じゃないのだから静かにして」
そのまま布団まで連れていかれ、そっとおろされる。
由良が持ってくるはずの着替えはなぜか雲龍が持ってきていて、僕の服に手をかけて脱がそうとしてくる。
「着替えは由良の担当でしょ!?」
「由良に頼まれたのよ」
弱っている僕は抵抗もできずに服を脱がされていくが、なんとかパンツだけは自分で脱ぐことを認めてもらった。
最後の一線だけは守れたが、女の子に脱がされて着させられることは男としてのプライドが激減した気分になる。
「提督は私がいないと本当だめね」
僕に服を着せた雲龍は、実に爽やかな笑顔で言ってくる。
その雲龍に反論したいが、今の状況ではその通りなので何も言えない。元気になったら軽い嫌がらせをしてやろうという黒い考えが出てきて、自分の頬を叩いてそれを消す。
突然の行動に驚いた雲龍は動きが止まったあと、僕を布団に押し倒してきた。同時におでこ同士をくっつけて熱を測ってくる。
意味不明な行動に見えた雲龍は、僕が風邪でおかしくなったと考えたと思う。
おでこ同士をくっつけるということはすぐ至近距離に相手の顔があるということ。息遣いも顔も目もすべてが近い。だから、ただでさえある熱がさらに上がってしまう。
キスをするのが簡単にできてしまうのに雲龍の顔は真面目で、昨夜に迫ってきたときと様子はまったく違う。
「……今日は本当におとなしくしてちょうだい」
悲しげな声で言い、僕の頬をなでてから離れていく雲龍。
本当に心配してくれることに嬉しく思い、今日1日は言われるがままにしようと決めた。
布団に入ったときに部屋にノックの音が響き、雲龍が扉を開けるとおかゆを持った制服姿の由良がいた。
雲龍にありがとうと言うと僕のそばに座ってきて、おかゆが入った土鍋に木のスプーンを持って待っている。
何が楽しいのか、少し嬉しそうな笑顔な由良を不思議に思いつつ体を起こす。
「普段しっかりしている提督さんのお世話ができるなんて、なんだか嬉しくなっちゃって。あ、病気の人に向かって嬉しいって言うのは失礼ですよね」
「別に構わないけど」
嬉しがったり申し訳なさそうにしている由良が可愛くて、つい許してしまう。
あーん、と言いながら僕の口へと差し出してくるスプーンを受け入れて、あつあつのおかゆを1口食べる。
おかゆなんてものは味も食感もないものと思っていたから、赤シソの味があっておいしいのに感動を覚える。由良が食べさせてくれるというのは恥ずかしさはあるものの、幸せな気分になる。
「由良!」
風邪もたまにはいいものかなと思っていると、雲龍が滅多にない怒りを含んだ大声をあげて由良をにらみつけていた。それに由良は一瞬驚いて目を見開いていたが『仕方ないなぁ』という穏やかな顔になって雲龍におかゆを渡した。
「それじゃ由良は見回りに行ってきますね。雲龍さん、あとはお願いしますね」
「任せて」
由良は雲龍にそう言って執務室から出ていった。
部屋に残されたのは不満げな顔をしている雲龍と、雲龍を心配しながら自分のこれからに不安になる自分。
2人きりになると僕に向かっておかゆを押し付けてくる。そこに優しさはあまり感じられず、強引に口へと突っ込んでくる。
それが何度も続けられ、耐えられなくなった僕は雲龍の手首を押さえて、スプーンの動きを止める。
「由良はよくて私はダメなの?」
「そういうわけじゃないけど。もしかして怒ってる?」
「怒る? 愛している人に何をされても怒りなんて起きないわ」
さっきとは違い、今度はゆっくりとおかゆを口元へと持ってきてくれる。それを見て僕は口を開け、食べさせてもらう。
全部のおかゆを食べ終わり、雲龍は持っていたスプーンをからになった土鍋にいれる。
「……私は由良に嫉妬している自分が嫌い。あなたを独占したいという気持ちも、他の子を見て欲しくないというのも。そんな自分がたまらなく嫌。私はあなたに笑って欲しいだけなのに」
落ち込んだ様子に僕は何も言えず、見ているだけだ。
そのうちに雲龍は土鍋を置いて立ち上がると、部屋の外へ出て行こうとする。
僕はそんな彼女の背中に声をかける。
「雲龍には感謝しているよ」
「同情なんていらないわ。何をしてもあなたは喜んでくれないもの。私のことなんて邪魔としか思っていないのでしょう?」
振り向いてくれた雲龍は落ち込んだままだ。
確かに昨日の夜から雲龍は僕を誘惑してきて大変だった。正直、うっとうしいことも少しはある。
でもそれ以上に誰かから必要とされるのは嬉しく思う。僕を本当に好きだってことは知っているし、どうにかされてもいいと考えている。
けれど、それでは艦娘を私利私欲のために使う人と同じになってしまう。
僕は提督で、艦娘は部下だ。
それで恋愛をしてしまったら、どうしても他の子と扱いに差をつけてしまうし優遇するだろう。
愛しあい、そのあとの責任を最後まで取ることもできるか不安というのもある。
男としては責任を取る覚悟はあるが、艦娘である彼女が他の鎮守府へ異動とされたら僕には止めることはできない。
僕は艦娘たちに、よい環境とそれぞれの幸せを見つめてもらうために提督をしているのだから。
昔に古鷹に命を救ってもらったことに縛られすぎているかもしれない。今いる艦娘たちを通してあの時の恩返しをしているつもりだから。
いくつもの考えや不安を持った僕は雲龍に言葉を返せず、表情だけは笑顔を向けようとするがそれもできない。
今まで僕に好意を向けてくれた雲龍もさすがに愛想を尽かしてしまうかと思った途端、ひどく悲しくなる。
守ろうとしていた艦娘を、提督である僕自身が一方的に悲しませてしまうなんて。
「どうして泣きそうな顔をしているの?」
静かな声で聞かれ、僕は自分の表情に気付いて顔に手をあてる。そんなことで隠すことはできないし、もう遅かった。
早足で近づいてきた雲龍は僕の前で膝をつき、顔を胸の中で抱きしめてくれる。
弱みを見せてしまうなんて風邪になったからだと後悔するが、弱みを見せることができて安心したという気持ちもある。
暖かく抱きしめられたことに、今までずっと張りつめていた心が緩んでしまう。目の端から涙が浮かび、大きな粒を作りはじめた。
「ありがとう」
「その言葉が聞けて嬉しいわ」
僕は雲龍から離れ、袖で涙を流した目を強くこする。
にじんだ視界がすっきり晴れると穏やかな雲龍の顔が見えるが、その時に雲龍は大きなあくびをし、恥ずかしそうに僕から目をそらす。
「眠くなってきたわ」
小さくつぶやいた言葉に僕は横になり、布団のなかではしっこに移動して布団をめくる。そうして作った場所に布団をぽんぽんと軽く叩き、来るように伝える。
上目遣いで『来ていいの?』と目で聞いてくる姿は、昨日の夜とは大違いでとても可愛らしい。
それにうなずくと僕に遠慮しながらも布団に入ってきて、お互いの鼻先が接するほどの近い距離までやってくる。
それから僕の首に手をまわして微笑むのを見て、顔が熱くなり心臓の鼓動が高まる。
緊張していることに気付かれないよう、素早く雲龍の体に布団をかける。
枕は使うか聞こうとしたら目が少しずつ閉じていき、安心したように眠っていった。
僕は布団に広がった綺麗な銀髪を触り、そのさらさらとした感触を楽しむ。そうしているうちに雲龍の体温と寝息を感じながら、僕まぶたはゆっくりと閉じてゆく。
寝てしまう前に僕は思う。
そばに安心できる人がいるのは素敵なことだということを。