鎮守府商売   作:黄身白身

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今回の元ネタは、「白い鬼」収録の「雨避け小兵衛」です。

ラストシーンがとても書きたかったのです。


雨宿り

 小兵衛は旧友高沢孝右衛門を訪ねた帰りであった。

 高沢孝右衛門は秋山小兵衛よりやや若いが元提督であり、大戦中は共に艦娘を率いて深海棲艦に立ち向かった盟友である。剣客としては平凡だが、小兵衛にとっては半ば弟子のような存在でもある。

 その年下の戦友が質の悪い風邪をひいたと聞いて小兵衛が慌てて見舞いに行ったのはいいが、何のことはない、古い戦友は深酒不摂生が祟って寝込んでいたのだ。

 往診を頼み、共に駕籠で揺られてきた医師明石が笑いながら、

「しばらく禁酒、いえ、節酒で。あとはもう少し出歩いて身体を動かしなさい。小兵衛さんより若いんだから」

 なんとも余計な文句をつけて診察を終えたものである。

 孝右衛門の横に侍っていた軽巡名取……引退した孝右衛門についてきた秘書艦である……は恐縮しきりであった。

「ごめんなさい、秋山様。うちの提督はもうこんなに面倒くさがりで」

「ある意味孝右衛門らしいわ。なに、却って安心した」

「お医者様の明石さんにまで迷惑掛けて本当に」

「わしの勝手でやったことよ。年をとると知り合いが少なくなっていくのが嫌でな、つい大袈裟にしてしまう」

 頭を下げ続ける名取に頭を上げさせると、小兵衛は孝右衛門へと厳しい顔で振り返る。

「こりゃ、孝右衛門」

 布団の中でびくりと孝右衛門。

 まだまだ若く、互いに限界知らずで木刀を打ち合った頃のように、小兵衛は強い口調で言う。

「己の不摂生で艦娘に手間をかけさすとは、引退したとはいえそれでも剣客提督か。お主の剣士としての研鑽はその程度のものか。良いか、三日もすれば起き上がれるとの明石先生の見立てじゃ。身体がしかと動くようになれば必ずわしの息子の鎮守府に顔を出せ。久しぶりに稽古の一つもつけてやるわ」

「秋山先生……」

 布団の中から必死で拝むような仕草で頭を下げる孝右衛門に、小兵衛はそこでようやく笑みを見せた。

「あの頃の生き残りは少ない。身体をいとえよ、孝右衛門」

 帰り際、小兵衛は名取の手に見舞金を握らせる。

「わしから言うまでもなかろうが、くれぐれも頼む」

 大戦中からの二人の仲を知る名取は、嬉しそうに頷き、答えた。

「はい、頑張ります」

高沢邸を後にした小兵衛は、ふと思いついて吾妻橋のほうへと足を向けた。

 大川、今で言う隅田川にかかる吾妻橋近くには、小兵衛が大戦中より懇意にしている岡橋屋がある。

 小兵衛が鎮守府提督として深海征伐に明け暮れていた頃、岡橋屋は秋山鎮守府を始めとするいくつかの鎮守府の出入り商店であった。

 とは言ってもいわゆる武器弾薬の類ではない。岡橋屋は菓子屋、つまり艦娘への嗜好品を扱っているのである。

 よく誤解されることであるが、鎮守府の食を司るにおいて、間宮が入れば万全というわけではない。間宮とて万能ではない。無論、鎮守府の運営に欠かせぬ能力はしっかりと持っているのだが、こと嗜好品に関してはどうしても全ての艦娘の好みに合わせるとは行きかねる部分が出てくる。

 そこで、岡橋屋のような艦娘向けの商売人が入り込む余地が存在するのである。

 大戦中に秋山鎮守府に所属していた艦娘たちにとって岡橋屋は贔屓の店であり、今でも欠かさず買い求める者は少なくない。

 小兵衛自身も岡橋屋名物の落雁は好物であり、時折那智が土産に持ってくる菓子はこれである。

 小兵衛は久しぶりに直接店に顔を出し、落雁を買い求めようと思った。

 更に言えば、それだけではない。

岡橋屋の主人作兵衛とその妻、そしてその娘である海防艦松輪の姿を見ようと思ったのだ。

 娘は海防艦である。人間の夫婦から艦娘は産まれないと言われている。産まれたという話もない。

(さて、どうしておるかな……)

小兵衛は、半年ほど前の事を思い返していた。

 

 

 

 その日、鐘ヶ淵の小兵衛の隠宅には珍しい客があった。

 岡橋屋作兵衛である。

「ふむ」

 作兵衛の相談に小兵衛はやや首を傾げるが、その表情は笑っている。

 その横では、是非奥方の意見もお聞きしたい、と直に言われた龍驤が満面の笑みで頷いている。

「へへ……奥方……へへ」

「これ、龍驤」

 慌てて龍驤は顔を戻す。

「えと、なんやろ」

「今の話、どう思う」

「艦娘として、でええんかな?」

「うむ。艦娘としてのお主の意見を聞きたい。作兵衛殿が聞きたいのもそれであろうよ」

 岡橋屋作兵衛の相談とは、端的に言えば【艦娘を娘として育てたい】というものである。

 深海大戦も落ち着いた今、艦娘の居場所は鎮守府だけではない。また、艦娘が存在せず深海棲艦に対してまともな対抗手段を持たなかった大戦初期、その頃に喪われた人的資源を考えれば、艦娘無くして現在の生活は成り立たぬ。

 それゆえ、町に入り人々と交わって暮らす艦娘の数も決して少なくはない。人々もそんな艦娘を受け入れている。

 その中には、艦娘を伴侶として選ぶ人間も存在する。

 艦娘と人間の間に子を為すことは可能であるが、産まれた子が艦娘になるか人間になるかは決まっていない。ただ、艦娘として産まれる場合は、ある程度の成長の後、艦娘としての姿に定まることが知られている。

 秋山大治郎の鎮守府に出入りしている長門も人間を父とする艦娘の一人であることは、既に述べられていよう。

産めぬと言う事実に関わりなく、駆逐艦の一部や海防艦などの幼い姿の艦娘を娘のように育てる人間もいる。いや、幼い姿とは限らない。現に小兵衛は、戦艦榛名と母娘のようにして暮らしている老夫人を知っている。

 とはいえ、作兵衛の場合はやや事情が異なる。

 作兵衛には妻がいる。つまり、子は作れるのである。

 現状、子はいない。それはあくまでも現状であり、将来は定かではない。

「ですが、こればかりは如何ともし難いと、諦めておるのですよ」

 子を作ろうとしなかったわけではない。できなかったのだ。

 これが現代医学であれば、不妊の原因を突き止めることができたかもしれない。

 この世界では、たとえ艦娘の力を借りたとしてもそれは不可能である。子ができるか否かは運次第、あるいは神頼みなのだ。

「その艦娘がよほどの性悪か我が儘やない限り、そこは割り切ると思うで」

 龍驤はあっさりと答えた。

「割り切る、とおっしゃいますと?」

「ウチらは艦娘や。人の代わりにはなれても、人そのものにはなれん。そういうことや」

 そやけど、と続ける。

「作兵衛はんが、艦娘を軽う扱う人やないってのはわかる。そんな商人やったら、小兵衛はんは鎮守府に出入りさせへんかったやろ」

「無論、艦娘の方々を軽く扱うなど、そんな気は毛頭ございませぬ。そも、我らが今もこうやって長らえておるのは皆様のおかげではないですか」

 やや気色ばむ作兵衛を小兵衛が抑えた。

「いやいや、それはわしらも、龍驤もよくわかっておる。お主の心根については今更心配することなど何もないわ」

「ほんまに、作兵衛はんみたいなお人ばかりやったらええのに」

 相槌を打ちながら、小兵衛は座りを改める。

「では、ここからは元提督として話をしよう。まず、具体的に相手は決まっておるのか」

「海防艦松輪にございます」

 やはり海防艦であったか、と小兵衛は納得した。誰から見ても、艦娘であることさえ除けば「子供」として通るのが海防艦娘である。

「近頃菓子を納めております鎮守府で、深海棲艦討伐の折に発現したと聞きまして」

 艦娘は何もないところから艤装を形成するように見える。実際はあらかじめの装備が必要なのだが、それを発現と呼ぶ。

 さらに、艦娘が発現と呼ぶ現象がもう一つ。

 滅多にないことではあるが、深海棲艦を討伐し轟沈させると艦娘がどこからともなく出現する場合があるのだ。まるで、深海棲艦から姿を変えたか、あるいは海中より湧き出たかのように。それもまた、発現と呼ばれている。

「その鎮守府では、海防艦は必要ではないと」

 発現した艦娘は、基本的にはそのまま鎮守府に引き取られるが、鎮守府の事情によってままならぬ場合もある。その時は、幕府扱いとなるか、あるいはそのまま放逐され己の才覚で生きていくかとなる。

 今回は海防艦ということもあり鎮守府でも扱いを悩み保留中となっているのだが、そこで手を挙げようとしているのが作兵衛というわけであった。 

「人間と艦娘に一つ、大きな違いがある。これは、提督すらも下手をすれば間違えてしまう類のものでな」

 そして小兵衛は言う。

 艦娘には「任務」が必要であると。言い換えれば「仕事」である。

 例えば前述の榛名だが、現在は艦娘の集まる村の代表となった老婦人の秘書艦のような立場に立っている。村の経営を考えれば立派な任務であり仕事であろう。

 また、大治郎の鎮守府に出入りする足柄の知り合いの駆逐艦白雪は、世話になっている茶屋周辺を哨戒海域と仮定して見回っている。

 なんらかの、それらしい任務が艦娘には必要なのだ。

「それも無ければ、はぐれ艦娘、ひいては艦賊へと堕ちて行きかねぬ」

「任務、にございますか」

「なに、それほど難しく考える必要はない。例えば奥方の警護を申しつけるとか、店の周囲を哨戒するとか、そういったもので構わぬのだ」

「警護……」

「襲われる心当たりがなければ、ただのお遊びよ。幼い娘にまとわりつかれて、奥方も困りはすまい」

「それは、はい」

「いや、むしろそれはただのお遊びであったほうが良いかもしれぬ。艦娘本来の力を使う任務である必要は無いからな」

 さらに細々としたことを龍驤から聞き込み、作兵衛は小兵衛の隠宅を後にする。

 最後に龍驤は言った。

「でもな、うちら艦娘は、いずれ海へ還るもんや。それだけは、忘れたらあかんよ」

 

 

 

 あれから小兵衛は作兵衛と直接会ってはいないが、あきつ丸達に何かあれば気に留めるようにと頼んでいた。

 風の便りに聞こえてくるのは仲睦まじい親子の様子であり、小兵衛も安心していたのだ。

 そして、今日である。

 小兵衛が岡橋屋の暖簾を潜ると、顔を知る番頭が駆け寄る。

「これは秋山様、ようこそいらっしゃいました」

「近くまで来たものでな、主人は元気かえ」

「おかげさまで」

 ここで番頭が頭を下げる。

「主人は只今、家族揃って浅草寺へ出かけております」

「家族揃って」

「奥方様と松輪殿の三人にございます」

 松輪の名が普通に出たことに小兵衛は喜び、いつもの落雁を買い求める。

 仲の良い家族の姿が見られぬのは確かに残念であるが、前もって約束をしていたわけではないので、そこは仕方がない。

「よろしければお待ちになりますか。このまま帰られては私が叱られてしまいます」

 座敷に上がれば茶や菓子などで接待されるのであろうが、このときの小兵衛はそれもちと面倒くさいなと感じていた。

「いや、約束していたというわけではないゆえな。それに、浅草寺ならばこれからわしも行こうと思っておったところ。ひょっとすると仲見世辺りで行き合うやもしれぬ」

 浅草寺前の仲見世は参拝客相手のみというわけではなく広く知られ、たいそう繁盛しているものであった。また、裏商売のようなものは一切無い、家族の出かける先としては非常に適当な場所である。現代で言うショッピングモールのようなものか。

 引き留めようとする番頭を抑え、小兵衛はやや急ぎ足で店を後にした。

 さて、浅草寺に行こうとは咄嗟に出た言葉ではあるが、悪い思いつきではないと小兵衛は考えた。

 確かに。悪くない。

 そう考えれば更に良い考えではないかとも思えてくる。

 一人頷くと、小兵衛は川沿いの道を浅草寺へ進む。

 ところが、さほども進まぬうちに空が曇り始めた。

「や、これはいかん」

 小兵衛が思わず呟くほどの速度で雲が空を覆う。明らかに雨の降る気配である。当然傘など持っていない。

 咄嗟に辺りを見回すと、小さな古い小屋がある。小兵衛は小走りに小屋へと急いだ。

 駆け出すと同時に雨の音。それもかなり激しい雨の音である。

 小兵衛は小屋に入ると周囲を見回す。人の気配はない。

 どうやら、大戦末期に建てられた見張り小屋らしい。川を遡上してくる深海棲艦を見張り、迎撃する艦娘を一時駐屯する小屋。

 今となっては使う者もなく放置されている。しかし、元々戦のために造られただけあって頑丈である。おそらくは艦娘由来の技術も使われているのだろう。

 とりあえず、雨宿りには上等すぎる建物であった。

 小兵衛は濡れたままの姿で奥の部屋へと入っていく。濡れた着物がまとわりつくが、すぐに別の誰かが雨宿りに来るかも知れない。その時に部屋の真ん中で裸でいるわけにもいくまい。奥の部屋にいれば、直接姿を晒すことはない。

 部屋に落ち着き、着物を脱いで火をおこして乾かすかと小兵衛が考えていると、早速表から何者かがやってくる音がした。

 けたたましく入ってきた男は先に入っていた小兵衛には気付かなかったようだ。

 男が入ってくる寸前、小兵衛は咄嗟に部屋の扉を少しの隙間を残して閉め、息を潜めていた。

 小兵衛の耳は、足音とともにおかしな声を聞いていたのだ。

 何者かを追いかけるような声。その声に追われるように入ってきた男。

 見るからにみすぼらしい、ボロのような古着をまとった男が小脇に幼い娘を抱えているのを小兵衛は見た。

 拐かしか、と咄嗟に動きかけ、しかしその動きは止まる。

 見覚えがあったのだ。

 娘は海防艦松輪。

 いや、娘だけではなく、男にも。

 小兵衛が見たのは剣客提督関山虎三郎。かつて高沢孝右衛門、秋山小兵衛と共に戦った提督であった。

 

 

 

 時は少し戻る。

 作兵衛は妻お由、そして娘となった松輪を連れて浅草寺へと出かけていた。その後ろには、主人の供ということで店の若い者が二人ばかり付いている。

 その帰り道に立ち寄った仲見世の一軒の屋台の前で、松輪が立ち止まった。その視線の先にあるものに作兵衛は気付いた。

 駆逐艦叢雲の頭の両脇の艤装を模した飾りである。紙細工によって精巧に作られたものなのだろう。

 例えば軽巡龍田や戦艦山城の頭の上にある艤装。それらは艦娘の強さに純粋に憧れる子供達には受けがいいのだ。いや、子供とは限らない。一種の願掛け、まじないのようにつけている者もいる。

 よし、と作兵衛は飾りを買い求める。近くに見ても良くできているのがわかる精巧な細工だ。正直、子供の玩具としてはやや手が込みすぎている。

 とはいえ、商人岡橋屋作兵衛にとってはどうと言うことはない値ではある。

「ほら、松輪」

 作兵衛から渡された飾りを手に取り、ぱぁと花が咲くように笑う松輪に、作兵衛とお由は家族としての幸せを噛み締めていた。

「ありがとう……」

 一瞬言葉に困った様子を見せた松輪だが、

「お父様」

 続けた言葉そのものに逡巡はなかった。

 実の娘ではない。人間ですらない。艦娘である。そう問われれば、それが如何したと作兵衛は胸を張って答えるだろう。これほどの可愛い娘に親と呼ばれ家族として暮らす。これ以上の幸せがあろうか。無論、お由も全く同じ答を返す。

 買ったばかりの飾りを作兵衛が手ずから頭につけてやると、松輪の笑みは更に深まり、感極まったのかその場をクルクルと回り出す。

「松輪や。いつか海が恋しくなることもあるかもしれない。その時は、お前の好きなようにすれば良いさ。だけどお前さえ良ければ、気の済むまで私達の娘でいておくれ」

 娘として育てると決めたとき、松輪に告げた言葉に嘘偽りはなく、今も作兵衛の気持ちは変わらぬ。

 そして今の松輪の言葉と作兵衛、お由の喜びにもまた、嘘偽りはない。

 一家は仲見世を抜け、大川沿いの道を進んだ。このまま店へと戻っても良いが、空模様が怪しくなり始めている。雨が降るようなら途中の馴染みの料理屋で休み、なんであれば早めの夕食というのも悪くない。

 そうしようかと話しながら道を進み、それなりに人の溢れていた仲見世からも離れ、人通りが減り始めた頃、作兵衛達を睨みつける男がいた。

 最初に気付いたのは主人のお供として付き従っていた若い衆である。

「旦那様、おかしな男が」

 見ると、襤褸切れを身にまとった男がこちらによろよろと近づいていた。

「落ち着きなさい」

 鎮守府に長年出入りしていた作兵衛にはわかる。今では見るに堪えない襤褸と化しているが、男が着ているのは間違いなく鎮守府提督の礼服である。それも最近のものではなく、大戦中のもの。

 提督崩れの浮浪者か、と作兵衛は判断した。

 艦娘が身を持ち崩して艦賊となるように、提督から身を持ち崩す者もまた存在する。

 江戸市中の大きな川沿いには大戦時、艦娘に便宜を図るための小屋が点在していた。いまでもその半分以上の建物自体は残っている。放置され半壊しているものもあれば、別の用途に使われているものもあるのだが、いくつかは浮浪の住処ともなっている。この元提督も、その住み着いた者の一人なのだろう。

 しかし、浮浪姿ということは少なくとも賊となる道を選んだわけではない。たとえ物乞いに落ちぶれたとしても、それ自体は悪ではない。人には自分ではどうしようもない運不運というものがあることを作兵衛はよく知っていた。ならば、必要以上に忌避することはない。

 作兵衛の差し出した幾ばくかの小銭を、男は拝まんばかりにして受け取った。

 その時、ぽつりと雨粒が落ちた。

「あ」

 松輪が何の気なしに手を伸ばし、手のひらに雨粒を受けようとした。

 男の視線が松輪に向けられる。

「……む……らく……も」

 次の瞬間、目の色の変わった男が動いた。咄嗟に袂の財布を押さえる作兵衛だが、男の手は作兵衛を突き飛ばすように動いていた。

 男は、それまでとは別人のような素早さで松輪の手を掴み、その身体を抱きかかえたのだ。

 即座に飛びかかろうとした若い衆が、血を噴きだして倒れる。

 松輪を奪った手と逆の手が、懐に忍ばせていた脇差を突き出していた。

 男は牽制するように脇差を振り回し、一目散に走り始める。男の走る先にいた町人が悲鳴をあげ道を空ける。

 逃げ遅れた一人が背中を切られ、倒れる。

近くの店から悲鳴を聞きつけた奉公人の男達が飛び出してくる。この店が、雨が降るなら一家で立ち寄ろうとしていた料理屋であり、奉公人達は馴染みである作兵衛の顔を知っていた。

「娘が……」

 気絶しそうなお由を店に預けると、作兵衛と男達は浮浪者を追った。とはいえ、相手は凶剣の持ち主である。必要以上に近づくことはできず、また、松輪の身を案じた作兵衛もそれ以上どうすることもできなかった。

 そして追われた男が飛び込んだのが、小兵衛が雨宿りをする艦娘小屋であったのだ。

 

 

 

(まぎれもなく、関山虎三郎……)

 小兵衛はかつての虎三郎を思い出していた。

「それかかってこぬかっ、どうした、そのようなへっぴり腰で江戸を護れるか、若造どもがっ」

 憎々しげに言い放ち木刀を振るう姿に、小兵衛と孝右衛門は修練の名目で何度打ちのめされたことか。虎三郎はあまりにも強かった。二人がかりでもびくともせぬ膂力と、小兵衛では歯が立たぬ剣の腕。さらに、提督として艦娘を率いれば鮮やかな勝利を見せる。

 それはまさに、理想の力を持った提督の姿であったが、鎮守府の中での評判は芳しくなかった。

 それも無理はないと今の小兵衛ならばわかる。虎三郎は、あまりにも力だけを振るいすぎたのだ。力だけでは人はついてこぬ。それは若き日の小兵衛にも、そして虎三郎にもわからぬ事であったのだ。

 今でこそわかることはもう一つある。

 虎三郎は決して悪人ではなかった。狷介であり峻烈ではあったが、艦娘を率い深海棲艦を倒し、国を護ろうとする意志は間違いなく本物であったのだ。

 多くの戦果を上げた虎三郎は同時に多くの離反者、脱落者を生み出した。それは人間だけではない、艦娘も同様である。 

大戦末期、深海棲艦の攻勢が止み始めた頃、虎三郎は秘書艦である駆逐艦叢雲と共に鎮守府を去った。半ば追放されたように姿を消した虎三郎の姿を、それから小兵衛は一度も見ていない。

 ただ一度、噂として聞いたことがある。

 叢雲は海へ還り、関山虎三郎はただ独りになったと。

 その虎三郎が今、小兵衛の前にいる。

 抱えていた松輪を下ろし、抜き身を突きつけながら自分は戸口へと近づき、一寸開けて外へ叫ぶ。

「五十両だ、娘と交換してやる」

(追い詰められておるのか)

 関山虎三郎ほどの剣客提督が何故、という思いが小兵衛によぎるが、人の信じられぬほどの堕落ぶりを見るのは初めてではない。人がどのようなことから身を持ち崩すか、それをわからぬ小兵衛ではない。

 それでも、それでもである。

 かつての姿を知る身からすればあまりにも辛かった。

 幼子を誘拐するまでに落ちぶれたというだけではない。今の虎三郎の動きを見ていると、どうも松輪が海防艦、即ち艦娘であることに気付いてない節が見受けられる。曲がりなりにも元提督としては考えられぬほどの落ち度である。

(あれほどの、男が……)

 いや、自らも、一歩間違えていればそうなっていたのではないだろうか。

 初代であった金剛を始めとして小兵衛が共に歩んできた艦娘秘書艦達、そのうちの誰であろうとも互いに互いを誇負し、支え合い、最後には様々な、しかし誰憚ることの無い理由で進む道を別れてきたのだ。そして今は龍驤がそばに居る。

 どの一人をとっても、小兵衛にとっては誇るべき艦娘であった。

 もし、自分が彼女らに見捨てられるような過ちを犯していたら。今の虎三郎のようには決してならなかったと断言できるだろうか。

 そう、己に問うてしまうほどの衝撃であった。

 しかし、小兵衛の苦悩はそこで途切れる。

 虎三郎と松輪が動いたのだ。

「……お侍さま?」

 松輪が小さな声で虎三郎に語りかける。

「黙れ」

 そこに生まれた沈黙にやがて堪えかねたのは虎三郎であった。

「金が入れば逃がしてやる。黙って静かにしていろ」

「お金、欲しいんですか……少しなら、あります」

 脇差の先端が松輪に向けられる。

「貴様……」

 艦娘か、と言いかけた虎三郎の言葉が途絶えた。

 それを尋ねるということは、自ら気付いていなかったと告白するようなものである。

 ただの剣客ならばあり得よう。

 ただの浮浪者ならばあり得よう。

 だが、提督であれば。

 海防艦とはいえ艦娘を人間の幼子と間違える提督などいようか。それも、一瞬の見間違いなどではない。抱き上げ、奪った相手である。

 そのような提督などいようはずがない、と虎三郎は断言する。

 ならば、その娘は艦娘などではない。

 叢雲がいると思った。たかが髪飾りで幼子と叢雲を、人と艦娘を見誤った。自分はそこまでの愚者となっていた。

 違う。間違えたのではない。わかっていたのだ。人間だとわかっていたのだ。

 金のためだと言い聞かせる。金が欲しかったのだと自分に言い聞かせる。

 そうだ、海に消えた叢雲の、独り消えていった叢雲の墓を建てよう。そのために金が必要だったのだ。幼子を拐かしてでも金が欲しかったのだ。

 娘は人でなければならない。自分が人と思ったのだから。

 それでも誰かが囁く。

 何故叢雲と見誤った。艦娘と見誤った。

 わからなくなっていたのだ。人と艦娘がわからなくなっていたのだ。

 わからなくなった自分が許せなかった。

 自分は悪くない、決して悪くない。提督として国を護った自分は悪くない。

 叢雲に愛想を尽かされたのではない。叢雲は沈んだのだ。深海棲艦と戦い、奮戦むなしく散ったのだ。

 その叢雲に扮し自分を迷わせた者が許せなかった。

 振り上げた脇差を、幼子は何もわからないような顔で見上げていた。

 斬る。と思うより早く腕は動いていた。

 その腕に何かが当たり、虎三郎は自分が斬られたことを知った。

 一瞬遅れて生じた痛みで虎三郎は倒れ、それでも自分を斬った者に目を向けた。

 僅かに見覚えのある男がいた。次に、男の名を思い出した。その瞬間、関山虎三郎は全てが終わった、いや、とうに終わっていたのだと理解した。理解してしまった。

 斬ったのは誰でもない、秋山小兵衛である。 

 小兵衛は脇差をかざす虎三郎を見た。

 剣客提督としての腕が多少なりとも残っていれば、無抵抗の艦娘を斬ることは容易い。

 しかも、松輪に抵抗の様子はない。

 それもそのはずである。小兵衛は知っている。松輪には鎮守府にいた経験はあっても、鎮守府で戦った経験はないと。

 戦う艦娘としての訓練を松輪は受けていないのだ。松輪を引き取った作兵衛がそのような訓練を受けさせねばならぬ理由などどこにもない。

 この海防艦松輪はその身体が頑強であることを除けば幼子と何の変わりもない。そして、虎三郎はかつて練達の剣客提督であった。

 故に小兵衛は愛刀を抜き、飛ぶように駆け寄るとその腕を斬った。

 倒れた虎三郎から松輪を奪うと、乱暴に戸を蹴破り、外へと声を掛ける。

「作兵衛、松輪は無事じゃ、安心せい」

 松輪を外へと押しやり、自分は虎三郎から目を外さない。

 倒れたままの姿と目が合った。

 名を告げることはできなかった。それは残酷なことだと小兵衛には思えたのだ。

 虎三郎は小兵衛が誰だかわからなくなったように惚けた目で見上げていた。

 そして、堰を切ったように泣き始める。

 その表情に小兵衛は見覚えがあった。大戦中に何度も見た、そして二度と見たくないと念じていた表情である。

 全てを喪い途方にくれた人間の顔。人や物だけではない。己が信じるものすら喪った……心すら喪った者の顔がそこにあった。

 小兵衛は悟った。関山虎三郎は今、最後の何かを喪ったのだと。それを喪わせたのは他ならぬ自分、秋山小兵衛であると。

 いや、とうに終わっていたのだろう。おそらくは叢雲を喪った日に。

 それでも自分を誤魔化していた男は、かつての自分を知る者との再会に耐えられなかったのだろう。

 棍棒を持った若い男達が小兵衛の横を駆け抜け、倒れたままの虎三郎へと雑言を浴びせながら叩きつける。虎三郎は刀を落とし身体を丸め、悲鳴をあげるだけだった。

 作兵衛は松輪を抱きしめていた。

「あ、秋山先生……この度は誠に」

「何も言うな」

 小兵衛の声は厳しい。

「雨宿りの先でたまたまに出会しただけのこと。礼などは要らぬ」

 礼などするなと重ねて言うと、小兵衛は足早に立ち去る。

 虎三郎の正気を失ったような声から、一歩でも遠く離れたかったのだ。

 再び降り始める雨の中を、小兵衛は濡れるに任せ歩き続けた。

 自分と虎三郎、一歩間違えていれば逆であったかもしれぬ……。その思いが小兵衛を捉え離さない。

「おかえり」

 隠宅の龍驤は、濡れ鼠と化した小兵衛の姿に大声をあげようとして何に気付いたか、その一言だけで出迎える。

「すぐに風呂沸かすわな、身体だけ、早う拭いとこか」

 龍驤にされるまま、小兵衛は逆らわずに身体を拭かれる。

「龍驤」

「なんやろ」

「海には還らぬよな」

「うん」

 龍驤は応え、座り込んだ小兵衛の頭をかき抱く。

「うちは、還らへんよ。ずっとずっと、小兵衛はんと一緒におるよ」

 雨は、降り続いていた。

 

 




次回予告が当てになってないなぁ

冬月実装前に書いてしまいたい話があるのだけれど……


今年冬コミあるんですかねぇ。
コミケお休み中に(神戸や舞鶴の即売会用に)作った本を持っていく予定ですけれど

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