ハイスクール・フリート PRIVATEER(完結)   作:ファルメール

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VOYAGE:12 生還

 現在、晴風は30ノットで新橋商店街船へと向かっている。その晴風の左舷300メートルを、クリムゾンオルカもほぼ同速度で浮上航行中である。

 

「……しかし、クリムゾンオルカは凄い艦ですね。潜水艦が海上とは言え、30ノットも出すなんて」

 

 晴風のブリッジにて窓から見える船体を見ながら、幸子が呟く。嵐は既に西に逸れており、まだ波は高いが雨は止んでいて夜とは言え視界は悪くなかった。

 

 愛用のタブレットにはクリムゾンオルカの原型艦である「伊201型」の情報が表示されている。データによれば伊201型潜水艦の水上航行スピードの限界はおよそ16から17ノットである。つまり、今のクリムゾンオルカはオリジナルの最大戦速の、更に倍近い速度を出している事になる。しかも先程から軽く10分以上はこのスピードを維持し続けているから、これでもまだまだ全速ではないと考えられる。

 

 ……つくづく、オリジナルとは外見が同じなだけの別の艦だと、改めて思い知らされた気分だ。

 

「まだまだこんなもんじゃないよ。全速を出せば水中速度でもこの晴風とお友達になれるし……更に”奥の手”もあるんだ。三つの秘密兵器とは別にね」

 

 と、自慢げに話すビッグママ。彼女は明乃へと艦の指揮権を返還した後、クリムゾンオルカへ戻る時間も惜しいのでそのまま晴風に乗船していた。

 

「お、奥の手……?」

 

 ましろが明乃へと視線をやるが、明乃も知らないらしい。ふるふる首を振るだけだ。

 

 一方で幸子やミーナは、”秘密兵器”とか”奥の手”というキーワードが琴線に触れたらしい。きらきらと眼を輝かせている。

 

 そんな眼を向けられて、ビッグママは思わずうずっとした感覚が胸に生まれるのを自覚した。

 

 人間、自分だけが出来の良いオモチャを持っているとついついそれを自慢したくなるのが性というもの。齢80を越えるこの身でも例外ではないらしいと、ビッグママは自己分析する。しかしここは我慢我慢と、自分を制御した。兵器を扱う者に最も求められるのは克己心である。それは拳銃から核魚雷まで同じだ。面白半分で軽々に引き金を引くような輩に、兵器を扱う資格は無い。

 

「……まぁ、使う時があれば教えてあげるさ。その時が来ればね」

 

 そう言って煙管の火を消して懐に仕舞うと、ビッグママは「それより」と前方を指差した。

 

「見えたよ」

 

「!!」

 

 明乃が双眼鏡を覗くと、確かにまだ遠いが左に傾いた状態になっている船が見えた。救難信号を発した、新橋商店街船だ。距離が詰まっていくにつれ、全容が分かるようになる。情報通り左舷に大きく傾いている。

 

「よし、ダイバー隊とボートの用意は出来ているね? 転覆・沈没の可能性を考えて、巻き込まれないように晴風とクリムゾンオルカは一定の距離を保ちつつ停船。同時にボートを下ろし、救助隊が接近していって、救助活動に移る。晴風とクリムゾンオルカは避難民の収容を行うんだ。救助隊の指揮は、あたしがやろう」

 

「私もサポートします」

 

「ワシも行きましょう!!」

 

 立候補したのは、ましろとミーナだった。

 

「よし、では二人にあたしの補佐を頼もう。クリムゾンオルカはナインがあたしの代理で動かす。ミケ、あんたはここから全体の状況を見極めて、指示を出すんだ」

 

「分かりました、ママさん」

 

 てきぱき指示を出していくビッグママ。本来ならばブルーマーメイドではない彼女に晴風への指揮権は無いのだが、これまでの航海で彼女の恐るべき実力を見せ付けられたのと、現在は非常時である事も手伝って文句を言う者は居なかった。

 

 救助隊を指揮すべく、3名がブリッジを退出していく。その背中を見送っていた明乃が、不意に声を上げた。

 

「シロちゃん!!」

 

「はい、艦長……」

 

「……気を付けてね」

 

 ましろは数秒ほどぼうっとしていたが、すぐに微笑して姿勢を正すと、敬礼を取った。

 

「艦長も、ここの指揮をよろしくお願いします」

 

「頑張ってね」

 

 明乃も同じように、敬礼して返した。

 

 

 

 舳先に仁王立ちするビッグママ以下、救助隊を乗せたボートは晴風を離れ、真っ直ぐ商店街船へと向かっていく。

 

「……到着まで後5分って所か。手筈通りダイバー隊は潜って船体の損傷を確認。航海科と応急員は甲板上及び救命ボートに乗っている避難民を、晴風及びクリムゾンオルカへ誘導するんだ」

 

「中学で救助訓練は散々やったけど、実戦は初めてぞな~」

 

 これは航海員の勝田聡子の発言である。それを聞いてビッグママはくるっと彼女を振り返った。

 

「サトちゃん、緊張するのは当然だが慌てるな。ここに居る子達に教えておこう、レッスン9だ。ミーナ、覚えてるね?」

 

「は……アドミラル・オーマー。レッスン9『実戦は真剣に、しかし頑張るな』でしたね」

 

「うむ、良くできた。あんたは非常に優秀な生徒だ。あたしも大変鼻が高いよ」

 

 満足そうなビッグママと照れくさそうなミーナであるが、このやり取りを聞いたボートの他の乗組員が「ええっ」という声を出した。

 

「ミ……ミス・ビッグママ……それはどういう事ですか? 救助活動を頑張るなって……!!」

 

 戸惑いつつ抗議の声を上げたのは、ましろだった。

 

 これは訓練ではない。人命の掛かった救助活動なのだ。それを頑張るなとは、いったいどういう了見なのか。

 

 しかし当然と言えば当然の問いを受け、ビッグママはにやっと笑って返す。

 

「良いかい? 確かにこれは実戦だ。訓練とは掛かるプレッシャーも段違いだろう。だからその緊張に負けないように頑張らねば……シロちゃんの言いたい事はそれだろう?」

 

「は、はい……」

 

 ちっちっちっ、とビッグママは悪戯っぽい笑みを浮かべながら指を振った。

 

「それじゃあダメだ。そんなのはどこまで行ってもマイナス志向に過ぎん。緊張に負けないように緊張してしまって、余計な力が入って、挙げ句は空回りしてミスするのがオチだ。いいかい? あんた達みんな、同じシチュエーションの訓練ではちゃんと出来てたんだろう?」

 

「は、はい……それはまぁ……」

 

「うむっ」

 

 ビッグママは深く首肯した。

 

「つまりあんた達の中には、既にそれを為し得るだけの能力が十全に備わっているという事だ。ならば頑張る必要など無い、全ては訓練通りに。出来て当たり前なんだ。もう一度言うよ。それだけの力は既に持ってる。あんた達なら、出来るさ」

 

「……よ、良し。やれる……やれるよ」「そうだね。訓練で出来たんだし。出来るよ」「出来る。出来るよ!!」「やるぞな!!」

 

 救助隊の様子を見たましろは、思わずビッグママへと目をやる。

 

 今のレッスン9が本気にせよあらかじめミーナと示し合わせての演出にせよ、効果は確かにあった。救助隊全員の士気が上がり、しかもリラックスできたようだ。自分がただ「頑張れ」とか「肩の力を抜け」とか言うだけではこうは行かないだろう。こうした人心掌握術もまた歴戦の艦長の技量かと、ましろは尊敬の念を覚えていた。

 

「……流石ですね」

 

「こんなのはタダの猿マネさ。艦長の、ね」

 

 語るビッグママは、今は少し自嘲気味だった。

 

「ミス・ビッグママ……それはやはり曽祖母の……」

 

「あぁ……艦長や仲間達との冒険の話は、またいずれ聞かせてあげよう。それより今は任務だ」

 

 そう言うとビッグママは片手で顔を叩いて気合いを入れ直した。

 

「よし、ダイバー隊、かかれ!!」

 

「「了解!!」」

 

 指示を受けたダイバー隊が水中に突入すると同時に、残りのメンバーは商店街船へと乗り込んだ。

 

「船は左舷に約40度傾斜して現在も少しずつだが沈降中。動く時は気を付けるんだ!! ありったけの救命ボートを下ろせ!! 負傷者は怪我の度合いによってタグを色分けして付けていくんだ!! 重傷者から順番に、晴風及びクリムゾンオルカへと収容!! 慌てるな、訓練を思い出せ!!」

 

 陣頭指揮を執るビッグママはてきぱき指示を出し、しかも流石と言うべきかその姿は堂に入っており自信に満ち溢れているので、その自信が晴風のクルー達にも伝播したようだった。彼女達はまだ経験が少なく多少のぎこちなさは残るものの、敏速に動いて救助活動を進めていく。

 

 と、船内を捜索していたチームから報告が入った。

 

<ミス・ビッグママ。スプリンクラーが作動していません。この船の非常用システムはダウンしているようです>

 

「あぁ、こっちでも確認した。防水シャッターが動いていない。どうやら全てのシステムがイカれているようだね」

 

 ビッグママは船の制御室にて、この通信を受けていた。

 

 既にこの時点で新橋商店街船が沈没するのは避けられない未来。ならば最優先されるのは艦の安否ではなく、乗客を安全に避難させる事にある。現在船は左舷に傾いている。よって救助活動を円滑に進めるべく右舷の浸水を防いでいる防水シャッターの一部を開いて注水し、トリムを少しでも水平に近付ける。それがビッグママの狙いであったのだが、残念ながら失敗に終わった。

 

<アドミラル・オーマー、指示を!!>

 

「……次の指示は『指示を待つな』だ、ミーナ。時間は、あまり残されていない。とにかく急げ、一刻も早く!!」

 

<了解!!>

 

 次にビッグママは通信機を、晴風に繋ぎ直した。

 

「こちらビッグママ!! ココちゃん、収容した要救助者の数は!?」

 

<現在、529名まで収容を確認しています!!>

 

「よし」

 

 ビッグママは頷きを一つする。

 

 事前に確認していた情報によれば新橋商店街船の乗員は552名との事だから、残りは23名。既に全乗員の9割以上が避難を終えている事になる。

 

「ミケ、もう一度乗客及び船員のリストを確認して、モレや間違いがないかをチェックして収容者数をカウントするんだ。その際、ミスを防ぐ為に必ず二人で行う事!! クリムゾンオルカにも人員を送って同じようにカウントを行うんだ!!」

 

<はい!!>

 

 通信機を切ると、ビッグママは少しだけ意識を自分の内面へと向けて思考に耽る。

 

 やる事は全てやっているか? 何か、見落としは無いか?

 

 脳内でこれまでの経験と、叩き込まれ常に最新版へと更新し続けている救助マニュアルを何度も参照していく。

 

 問題は……無い。今の所は。

 

 その時、手元に置かれていた通信機が再び着信を知らせた。

 

「こちらビッグママ。避難状況は?」

 

<乗員の避難はほぼ完了してます。ただ……小さいお子さんが一人行方不明だそうで……副長が探しに行きました>

 

「シロちゃんが?」

 

<はい、晴風の方と確認しましたが、船員・乗客合わせてその子で最後です。アドミラル・オーマーも早く退避を!!>

 

「あたしは一番最後、シロちゃんとその子供が避難するのを見届けてからだ。子供の名前は?」

 

<多聞丸……と、ご両親が仰っていました>

 

「……ふむ、ん?」

 

 おかしい。

 

 ビッグママは顎に手を当てた。救助活動に入る前に、船員から送信されてきたリストには目を通してそこにあった全ての名前を記憶している。船員名簿にも乗客名簿にも、多聞丸という名はどこにも無かった。自分はトシだが、頭の回転はまだ鈍っていない筈だ。

 

 ……とすれば考えられるのは単純な記載漏れか、赤ん坊や幼児だから乗客リストに名前まで登録されなかったケースか、そもそも記載する必要の無い……犬猫とか乗客のペットなのか。

 

 いくつかの可能性が脳裏に浮かぶが、ビッグママはここでは体を動かす方を優先した。

 

「……いずれにせよ、助ける事に変わりはないがね。ミーナ、救助隊の指揮はあんたが引き継いで、船から退避するんだ。あたしもシロちゃんと多聞丸を見付けたらすぐに脱出する。シロちゃんが向かったのは?」

 

<1階の、食料品を扱っているブースです……お気を付けて、アドミラル・オーマー>

 

 ミーナとの通信が切れると同時にぐらっと船体が揺れて、ビッグママは上手く体重を移動して転倒を避けた。「ちっ」と舌を打ち鳴らす。

 

 通信機のスイッチを入れると、晴風に通信を繋げた。

 

<ママさん!!>

 

「ミケか。良くお聞き。思ったより船の沈降が早い。マロンちゃんに言って、いつでも晴風を動かせる状態にしておきな。もし沈没が始まったら、すぐに離れさせるんだ」

 

<で、でもそれじゃシロちゃんとママさんが……>

 

「シロちゃんはあたしが必ず拾って脱出する。今は、晴風の安全を第一に考えるんだ」

 

<……分かりました>

 

「……ようし、いい子だ」

 

 そう言ってビッグママは通信機のスイッチを切ろうとする前に……もう一言を付け加えた。

 

「心配するな、必ず戻る」

 

 

 

 晴風のブリッジ。

 

 明乃は切れた通信機をじっと見ていたが、じっと商店街船を睨みながら指示を出していく。

 

「避難してきた人達に、毛布と……何か食べ物を……手が空いている人は医務室へ手伝いに」

 

「了解……」

 

 同じ空間に居る幸子の声も、どこか遠くで聞こえてくるようだった。

 

 心配で、頭がどうにかなりそうだ。

 

「待つって……辛いね」

 

 出来るなら、今すぐスキッパーで飛び出して二人を助けに行きたい。

 

 だがそれが艦長としての責任放棄であり、単にこの苦しさからの逃避である事を明乃の中の冷静な部分が告げていた。

 

 晴風の艦長として、その役目を全うする事。それだけを考えろと、頭の中で繰り返し自分に言い聞かせる。

 

「二人とも……どうか無事で……」

 

 

 

 新橋商店街船内。

 

 少しずつ揺れが大きくなってきていて、一歩一歩歩くごとに少しずつ体の重心を変化させながら、ビッグママは通路をずんずん進んでいく。

 

 途中からは窓も無く灯りが落ちたエリアに差し掛かったが問題は無い。

 

 右目を覆う眼帯に手をやると表面のカバーを剥がす。露わになったそこには、緑色に光るカメラアイのような機器が見えた。ほんの僅かだけキュイッと機械音が鳴る。

 

 これは只の眼帯ではなく高度な複合センサー機器であり、熱源を視覚化するサーマルゴーグルや僅かな光量を増幅するスターライトスコープの機能も持っていた。これだけの機能を眼帯サイズに詰め込んだ物は、まだどこの軍や特殊部隊にも出回っていない傑作・最新装備である。

 

「ん!!」

 

 曲がり角から足音が聞こえてきて、ビッグママは歩みを止めた。

 

 現れたのはやはりと言うべきか、ましろだった。手には、小さな子猫を抱いている。

 

「ミス・ビッグママ!!」

 

「シロちゃん、行方不明の子を探しに行ったと聞いてたが……その子が?」

 

「はい、この子が多聞丸です」

 

 確かに、首輪に「TAMONMARU」と書かれている。予想が当たった。ペットの猫なら、乗客名簿には載っていない訳だ。

 

「よし。既に他の乗客の避難及び救助隊の退避は完了している。残っているのは、あたしらだけだ。急ぐよ」

 

「はい!!」

 

 走り出した二人だったが、10メートルも進まない内にビッグママは立ち止まると、手を上げてましろを制した。

 

「……? どうされたのですか? 早く脱出しないと……」

 

「……コイツはヤバイよ、シロちゃん……」

 

 そう言ったビッグママの声は、聞いた事がないほどに真剣であらゆる感情を排したものだった。これは、ましろに良くない事が起きたと教えるには十分だった。

 

「何かに掴まって、体を固定するんだ。急いで!!」

 

 言いながらもビッグママは動いて、手摺りを掴むと同時に腰を落として安定の良い姿勢を取る。

 

 ここまでで、何が起ころうとしているのかましろにもほぼ分かった。慌てて手摺りを掴むと、両足を目一杯の力で踏ん張って体を固定する。

 

 この二秒後に、いきなり重力の方向が変わった。

 

 最初、ましろにはそう感じられたがすぐに違うと分かった。船が、傾いているのだ。

 

「こ、これは……!!」

 

「船が転覆してるんだ。沈むよ、これは……」

 

 体勢を変えて傾斜に対応しながら、ビッグママは床になりつつある天井へと足を付いた。

 

 

 

「ママさん!! シロちゃん!!」

 

 晴風のブリッジ。

 

 転覆して艦底が露わになって、急速に海中へと没していく商店街船の姿を見ながら、明乃が悲鳴じみた叫びを上げた。

 

「だ……」

 

 誰か、ここをお願い。

 

 喉の奥まで出かかったその言葉を、辛うじて呑み込んだ。

 

 晴風の艦長として、己に課せられた役目を全うする事。艦の安全を第一に考える事。

 

 頭の中で自分に何度も言い聞かせていた言葉が残響となって、明乃の中での感情と理性の戦いは僅差で後者が勝利を収めた。

 

「まろんちゃん、機関始動!! りんちゃん、面舵一杯。晴風を安全圏まで退避させて!!」

 

<お、おう……>

 

「で、でも艦長……副長とママさんが……」

 

「……急いで」

 

 決して大きい声ではなかったが、絞り出すようなその声を聞いて異議を唱える者は、もう居なかった。

 

「あの……艦……」

 

 言い掛けた幸子は、思わず息を呑んだ。

 

 明乃の口元には、噛み締めた下唇から血が滴っていた。

 

 

 

「ん……」

 

 ふわふわとした感覚から、ましろは意識を浮き上がらせた。

 

 ぼんやりしていた視界が少しずつはっきりしてくる。

 

「あぁ、目が覚めたかい。シロちゃん」

 

 声がする方に目を向けるとビッグママがあぐらを掻いて座っていて、腕には多聞丸を抱いている。

 

「船のバランスが崩れた時に、頭を打ったんだよ。まぁ、気を失ってたのは5分ぐらいだから大したことはないと思うけど……晴風に戻ったら、みなみちゃんに診てもらうようにね」

 

「ミ、ミス・ビッグママ……今のこの状況は……」

 

「……良い知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?」

 

 尋ねるビッグママの口調はおどけているが、目が笑っていない。これは問わず語りというやつだ。状況が良くないという事を、ましろはすぐに悟った。

 

「では……良い方から」

 

「まだ生きてる。あたしらもこの子もね」

 

 多聞丸の背を撫でながらあまりにもあっさりと、ビッグママは言い放った。ましろは今の自分は酷い顔をしているだろうなと思った。

 

「で、では悪い知らせは……」

 

「この船は現在逆さまになって沈没しており、水深約50メートルの海底に着底している」

 

 何か周囲の雰囲気が違うように思っていたが、その理由が分かった。上下が逆さまになっていたからだ。良く見ると蛍光灯が足下にある。

 

「あたしらはその中に取り残された格好だね。しかも浸水が続いていて空気が漏れてる。このままだと、後30分ほどで窒息死するだろう」

 

「そ、そんな……」

 

 淡々と語られる内容は一つ一つが死刑宣告書を読み上げられているようで、ましろは明瞭になった視界が再び暗転した気がした。

 

 ブルーマーメイドが到着したとしても、後30分で救助が間に合う訳が無い。この状況は、既に棺桶に両足を突っ込んでおまけに蓋を閉め掛けているような状態だ。事態は最悪のどん底を更に突き破って落ち続けているようなもの。ここは既にあの世だ。

 

 運が悪い、ツイてないとばかり思っていたが、最期までツイてなかった。こんな所で人生が終わるなんて。

 

「シロちゃん、人生終わったような顔するもんじゃないよ」

 

 絶望的な状況下だと言うのに、ビッグママは穏やかにそう言ってのけた。

 

「な、何でそんなリラックスしてるんですか!! あなたなら今がどんな事態か分かっているはずでしょう!!」

 

 半ば八つ当たりに近い形で、感情を爆発させたましろが怒鳴った。

 

「そう大声上げない。貴重な酸素が減るだけだよ?」

 

 年長者の余裕か、ビッグママは怒号を柳に風とばかりに受け流してからから笑う。

 

「シロちゃん、あんたが今何考えてるか当ててみせよう。あたしらは既にあの世にいるとか、大方そんな所じゃないか?」

 

「う……は、はい……」

 

 心を見透かされたようで、ましろはたった今喚いた罪悪感も手伝って勢いを削がれた。

 

 にやっと笑ったビッグママは、義手を開閉してガチンガチンと音を立てる。

 

「あたしが何でリラックスしているか、その質問に答えよう。あたしはクリムゾンオルカ……真紅のシャチ。シャチは冥界の魔物……ここがあの世と言うなら、あたしにとっては言わば第二の故郷。今更ビビるようなものではないさ」

 

「あ、あの……」

 

「それにね、シロちゃん。あたしがブルーマーメイドだった頃は、生還率0パーセントの状況から生還するなんて事は、呆れるほどやってきた。あたしは年貢を納める気などさらさら無い。生涯に渡って踏み倒す。無論、今回もね」

 

 言い回しは独特だが、言わんとしている事はましろにも伝わってきた。

 

 ビッグママはこの絶望的な状況にあっても、少しも諦めてはいない。絶対に生きて帰る気でいる。

 

 自分はどうだろう?

 

 その考えに至った時、ドス黒い気分が少しずつ引いていくようだった。ましろは急速に頭が冷えていくような感覚を味わっていた。

 

『そうだ、諦めてどうする。今までツイていなかったからこそ、これからの人生ではそれを取り戻さなきゃ』

 

 終わってたまるか。こんな所で。

 

 諦めてたまるか。

 

 絶対に、生きて帰る。

 

「こんな所で……死・ね・る・かぁぁぁ!!」

 

 先程よりもずっとポジティブに、爆発的に発生した感情のままに、ましろが吼えた。多聞丸はびくっと体を震わせて、対照的にビッグママはにやにや笑いつつしきりに頷いていた。

 

「そうそう、良い傾向だ、シロちゃん。あたしは心理学も勉強しているが……怒りは絶望より余程役に立つ」

 

 そう言うと、どっこらせと立ち上がった。

 

「そろそろ、船の沈没で攪拌されていた海流が治まる頃だ。と、すれば洋上との通信も……」

 

 ビッグママが言い掛けたその時、通信機がガガ……と音を立てた。

 

<こちら晴風……ママさ……シロ……応……ママさん、応答願います!!>

 

 大分掠れてはいるが、明乃の声だ。ビッグママの読み通り海上との通信が、復旧したのだ。

 

 この空間は薄暗いがましろの顔が明るくなったのがはっきりと分かった。洋上の晴風とコンタクトが取れた。それでこの死地から脱出する術が見付かった訳でも酸素の量が増えた訳でもないが、やはり仲間とのコンタクトが取れると取れないとでは、安心感が違う。

 

<こちら晴風。ママさん、シロちゃん、応答願います。状況を知らせてください。どーぞ!!>

 

「ミケか。こちらビッグママ。あたしもシロちゃんも、猫の多聞丸も無事だ。今の所はね」

 

 通信機の向こう側で、恐らくはブリッジに詰め掛けているであろうクルー達が「おおっ」と声を上げたのが分かった。

 

<良かった、ママさん。ブルーマーメイドはもうすぐ到着すると学校から連絡がありました。何とかそれまで……>

 

「残念だがミケ、救助を待っている時間が無い。この船に残された酸素は、後30分とは保たない」

 

<そんな……30分!?><艦長、それじゃブルーマーメイドが到着してもとても間に合いません!!>

 

 今度はブリッジが悲鳴や絶望の叫びに満ちているのが分かった。改めて考えると、自分達の置かれている状況がどれほど絶望的なのかがはっきりと分かる。ましろは燃え上がった意気が再び萎えそうだった。

 

<マ、ママさん……諦めないでください。必ず、何か方法が……い、今からみんなでそれを考えて……>

 

「考える必要は無いさ、ミケ」

 

 あっさりと、ビッグママは明乃の言葉を切って捨てた。

 

「30分以内に生還する方法はある。一つだけね」

 

 ここで一度言葉を切って「良くお聞き」と前置きし、ビッグママは話し始める。

 

 まずは状況説明から。

 

 現在、新橋商店街船は転覆した状態で180度逆さまになって、深度50メートルの海底に着底している。つまり甲板が下に、船底が上になっている状態だ。

 

 ビッグママ・ましろ・多聞丸は船底部のスクリュー室にほど近い一角に待機している。彼女がこの場所へ移動しているのには、理由がある。

 

「この辺りなら鋼板が薄いから、上手く穴を開けられる筈だ」

 

 ビッグママの話を聞いていたましろは、自分の耳がどうかしてしまったのかと思った。

 

 聞き違いでなければ……ビッグママは穴を開けると言った。

 

 穴を開ける? この、沈んだ船に?

 

 

 

 洋上、晴風のブリッジ。

 

 集まったクルー達の反応も、ましろと似たり寄ったりだった。

 

「マ、ママさん……穴を開けるって……」

 

 信じられないという表情で、明乃が鸚鵡返しする。

 

<そうだ。洋上から魚雷を撃って、船に穴を開ける。そこから脱出するって寸法さ>

 

「そんな!! ママさん、ムチャです!!」「出来る訳がないよぉ!!」「二人とも死んじゃいますよ!!」

 

 これは当然の反応だと言える。明乃も同じ意見だった。

 

「ママさん、いくら何でも危険過ぎます!! 洋上からじゃ正確な射程を取るのは難しいし……もしほんの2メートルでも誤差が生じたら、ママさんやシロちゃんの居る区画に魚雷が命中しちゃいます!!」

 

<このままでもあたしらは助からない。感情じゃなくて合理で動きなよ、ミケ>

 

 自分の命が吹っ飛びかねない危険を冒すと言うのに、ビッグママの声はとても落ち着いていた。

 

 だが正論ではある。他に脱出経路があるとすれば船の通常の出入り口だが、そこも既に浸水しているだろう。水圧で通常の何倍にも重くなった扉を開けて入り組んだ通路を泳いで抜けて船から脱出し、それから洋上へ浮上するなど全く現実的ではない。

 

<選択肢は二つ。何もせずに30分後に死ぬか、生還の可能性に賭けて、バカな事をするかだ!!>

 

「……ママさん……」

 

 背中を、押された感覚があった。

 

 明乃の中で、既に結論は出ていた。方法など、一つしかない事は最初から分かっていたのだ。ただ、自分がその決断を下す事を恐れていただけで。

 

 ビッグママの言葉は、背中を押してくれた。ただしこれは、崖っぷちからの一押しだったが。

 

 覚悟は、決まった。後は、進むだけ。

 

<それにミケ、正確な射程は取りにくい、そう言ったね?>

 

「は、はい……」

 

<それなら問題は無い。クリムゾンオルカには海中の状況をコンマ1ミリの誤差も無く、正確に把握する機能がある。めいちゃんと楓ちゃんは、クリムゾンオルカに移っておくれ!! ナインに伝えな!! 第二の秘密兵器『パウラ』の使用を、このビッグママが許可するとね!!>

 

 

 

 海底、新橋商店街船。

 

 通信機を切ったビッグママに、ましろが詰め寄ってきた。

 

「ミス・ビッグママ……『パウラ』とは? 何か……高性能なソナーのような物なのですか?」

 

「あぁ、当たらずしも遠からずって所だねぇ。突然だがシロちゃんは、超能力って信じるかい?」

 

 本当に突然なその質問に、ましろは面食らった。

 

 人の心が読めたり、スプーンを曲げたり……その手の、胡散臭さ全開のテレビ番組などは何度も見たが……正直それらは眉唾ものだ。視聴率稼ぎの為のトリックだと思っている。

 

 そんなましろの思考を読み取ったのだろう、ビッグママはくっくっと喉を鳴らす。

 

「信じられないのも無理は無いが……でも世界各国のあらゆる国防機関や防諜組織では実際に、超能力の軍事利用を目的とした研究が進められているんだ。それこそ大真面目にね。そしてその歴史は古い。今からおよそ70年前……当時ドイツのとある機関で水を媒介として周囲の状況を感知する超能力を、潜水艦の感知システムに応用しようという研究が進められていたんだ。何人もの子供たちの体を切り刻み、機械に繋いでね……」

 

「な……70年も前に、そんな事が?」

 

「そう。だが、そんな反吐が出そうになる研究は台無しにしてやった。艦長を初めとした当時のブルーマーメイドの手で、ぶっ潰してやったのさ。あたしも見習いながらその作戦に参加して、そして実験体として使われていた子供たちを解放した。んでもって実験施設には研究途上のデータが残されていたから、ついでにそれを頂いた」

 

「では……!!」

 

 明晰な頭脳を保つましろは、段々と話の流れが分かってきた。ビッグママはにっと不敵に笑う。

 

「そう、半世紀以上の時間を掛けて改良に改良を重ね、記録されていた実験体の子の脳波パターンを機械的に再現し、既存のソナーとは一線を画す音響兵器として完成された物が、クリムゾンオルカに搭載されているのさ。その兵器のコードネームである『パウラ』とは、実験体として使われていた子供の名前だ」

 

「は、はぁ……」

 

 あまりのスケールの大きさにましろは圧倒されたようだったが、大切な事をまだ聞いていなかったのを思い出した。

 

「その『パウラ』の機能なら、海中の状況を正確に把握できるのですか?」

 

「ああ」

 

 自信を超えた確信の笑みで、ビッグママは深く首肯した。

 

「普通のソナーが『耳』だとすれば、あれは『眼』だ」

 

 

 

 クリムゾンオルカの艦内。

 

 発令所ではナイン、リケ、ロックら3名のクルーによる計器の操作によって照明が落とされ、この空間の中心数メートル四方ぐらいの空間に緑色のホロ映像が投影された。

 

 芽依と楓は、思わず息を呑む。

 

 ホログラムというまだまだSF映画の中の代物という認識から出ない技術を目の当たりにした驚きもあるが、真に驚くべきはこの精度。

 

 現在深度10メートルに静止中のクリムゾンオルカを中心として、洋上の晴風は勿論、海底の地形や新橋商店街船の位置も克明に映し出されている。それだけではない。周辺の海中を回遊する魚や、浮き上がってくる気泡すらもが表示され、映像の海面は常に形を変えている。

 

 良く見るとホログラムの晴風は波の影響で常に微妙に動いていて、新橋商店街船も逆さまではあるが180度完全にひっくり返っているのではなく、少し角度を付けて斜めに着底しているのが分かった。

 

「こ、これ……全部、リアルタイム映像なんですか?」

 

「そうよ、これがクリムゾンオルカ第二の秘密兵器『パウラ』の能力。通常のソナーとは比べ物にならない精度で、海中の状況を把握できるの」

 

「ただし、膨大な電力を必要とするからさしもの本艦でも、使えるのは一日に精々3分間が限度だがね」

 

 だがその3分で、起死回生の一手を打つ。

 

「これから、海中のデータを入力した魚雷を発射する。めいちゃん、魚雷のプログラミングを手伝ってくれ」

 

「な、成る程……」

 

 自分がここに呼ばれた意味を理解して、呆気に取られていた芽依はここで漸く我に返った。腕まくりする。

 

「よ、ようし……この西崎芽依……一世一代の魚雷!! 謹んで撃たせていただきます!!」

 

 勇んでコンソールに向かうと、キーボードを叩いて海中のデータを少しも漏らさず魚雷にインプットしていく。

 

「そして、万里小路さん」

 

 水中の状況をチェックしつつ、リケが言った。

 

「は、はい」

 

「魚雷を発射した後、このクリムゾンオルカは10秒間だけ機関を最大稼働させその後はエンジンストップして惰性で潜航、船から脱出した二人を海中で拾う。どんな僅かな物音も聞き逃さないよう、水中聴音を手伝ってほしい」

 

 重大な役目と言える。だが、楓の眼に怯えは無い。

 

「承りましたわ。万里小路の名に懸けて」

 

 決意の言葉と共に楓がヘッドホンを掛けた。同時に、

 

「プログラム完了!! いつでも撃てるよ!!」

 

「よし!! 炸薬量は通常の半分にカット!! ダウントリム10度、30秒後に発射する!!」

 

 ナインの指示とほぼ同時にタンクの注水音が聞こえてきて、艦体が前方へと徐々に傾斜して……そして止まる。今現在が、最適の射撃角度だ。

 

「めいちゃん、頼む」

 

「よーし……発射っ!!」

 

 芽依の指が一番発射管の発射ボタンを、叩き割る勢いで押す。

 

 同時に、魚雷が飛び出した反動が発令所に伝わってきた。

 

 

 

「……聞こえた。クリムゾンオルカが魚雷を撃ったよ」

 

 新橋商店街船で、ビッグママがびくりと反応して頭上の床を睨んだ。

 

「シロちゃん、ショック対応姿勢を。およそ1分でこの船に命中するよ」

 

 ましろはごくりと唾を呑んで、固く目を瞑ると両手で手摺りを掴んだ。ビッグママも両足を大きく開いて踏ん張って安定の良い姿勢を取る。

 

「後、これを口に」

 

 ビッグママは懐から、フルートを目一杯小さくしたような道具を取り出した。

 

「ミス・ビッグママ……これは?」

 

「ブリーザーだ。つまり水中呼吸装置。酸素は20分は保つ」

 

 言いながら、ビッグママは片手が義手にもかかわらず器用に紐を使って多聞丸にも同じ器具を咥えさせた。

 

「ミス・ビッグママ、あなたは……?」

 

「残念だが二つしか持っていないのでね」

 

「な……!? それじゃあ……」

 

 更にましろが何か言いつのろうとするが、それ以上は何も言えなかった。その肥満体からは信じられないほど素早く動いたビッグママが全身を使って、体を壁に押し付けてきたからだ。

 

 ほぼ同時に、ズシンと重い衝撃が船全体に走った。魚雷が突き刺さった音だ。

 

 ましろの顔が蒼白になった。突き刺さった、つまり爆発しなかった。不発。ここまで来てツイてないのか……!!

 

「違うシロちゃん。こいつは遅発信管だ。すぐ爆発するよ」

 

 言葉が終わるか終わらないかという所で、すぐ隣のフロアから爆発の衝撃が伝わってきた。区画を隔てるドアが吹っ飛んで、ビッグママ達が居るフロアも上下左右、あらゆる箇所のパイプが破損して浸水が始まった。

 

「ぶわっ!!」

 

「よし、行くよ!!」

 

 全身に水流を浴びてあっぷあっぷしているましろの手を掴むと、ビッグママは既に腰の高さにまで達している水の抵抗をものともせずに進んでいく。

 

 ドアが嵌っていた穴をくぐって隣のフロアに入ると、突き刺さった魚雷の爆発によって空いた穴から水が入ってきていて、小さな滝のようになっていた。

 

「よーし……しっかり掴まってな」

 

 多聞丸を懐に入れたましろを背中に抱えると、ビッグママは思い切り息を吸った。

 

 肩に回されたましろの手が、かたかたと震えているのが分かった。ビッグママは生身の手を、そっと添える。

 

「心配するな、シロちゃん。さっきも言ったろ? あたしはクリムゾンオルカ、シャチは天敵不在の海のギャング。あんたは今、その背中に乗ってるんだ。今日ばかりはナナミになった気分でいると良いさ」

 

 そう言って、前方の水柱を睨む。と、ここでましろが一言。

 

「……ナナミって誰です?」

 

「…………」

 

 振り返ったビッグママの顔を見たましろは、この老婆が今何を言いたいかが凄く分かった。

 

 ずばり『折角カッコよく決めたのに空気読めよこの野郎』である。

 

「……帰ったら、上映会だね」

 

 そう言い捨てるとビッグママは凄い速さで両手を回して鯉のように水柱を泳いで登っていき、そのまま海中へと飛び出した。

 

 

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 ヘッドホンを装着したリケと楓は眼を閉じて、体が持つ全ての機能を両の耳にだけ集中していた。

 

 芽依は息を止めて、呼吸する音が二人の邪魔にならないようにしていた。

 

 現在、クリムゾンオルカは10秒だけ全開で回したスクリューの惰性で航行中。海上目指して浮き上がってくるであろうビッグママとましろを捕捉するつもりだった。

 

 手足が水を掻く音すら聞き逃すまいと、聴覚を研ぎ澄ましている楓は不意に不自然な物音に気付いた。

 

 金属音。

 

 ガチン、ガチンと……何かがぶつかるような音だ。

 

「リケさん、何か不自然な音が……」

 

「ああ、聞こえた……金属と金属がぶつかるような……」

 

 これは一体、何の音だ。

 

「義手だよ!! ママさんの!! あのマジックハンドみたいなのが開いたり閉まったりしてぶつかる音だよ!!」

 

 芽依の言葉が正解だと、この場の全員が瞬時に理解する。

 

 クリムゾンオルカのクルー達の反応は早かった。これはビッグママが自分達の居場所を教える為のサインだ。

 

「ロック、面舵30度、アップトリム5度に修正!! ママ達を捕まえる!!」

 

「了解よ、ナイン!!」

 

 

 

 海中。

 

 ましろを抱えて泳ぐビッグママは、ゆっくりとこちらに向かってくるクリムゾンオルカの艦体を認め、口角を上げた。

 

 義手を思い切り前方に突き出すようにして、かざす。

 

 すると先端部分がスペツナズナイフの刀身のように発射されて、クリムゾンオルカの手摺りへと高所作業で使う安全帯ベルトのように引っ掛かった。

 

 射出された先端と基部はワイヤーで結ばれていて、巻き取り機能によって一気にビッグママとましろの体はクリムゾンオルカへと引き寄せられる。ワイヤーの巻き取りが完了するのを待たず、ビッグママは生身の手で手摺りを掴むとぐるりと体を回して、艦体に両足を付けた。

 

 背中のましろを振り返ると、手を何度も上から下へと動かす仕草を見せる。

 

「……?」

 

 最初は分からなかったが、ましろはすぐに理解した。

 

 水中で声は聞こえないが間違いない。何でも良いから、艦を叩けと言っているのだ。

 

 水の抵抗に負けないように精一杯の力を腕に込めると、ましろは手にしていた懐中電灯を思い切り甲板にぶつけた。

 

 

 

 ガン!! ガン!!

 

「何の音だ?」

 

「甲板に何か当たった!!」

 

 クリムゾンオルカの発令所に、乾いた音が響いてきた。

 

「これは合図だ。たった今、艦に乗り移って体を固定した。一気に浮上しろ……ですよね、ママ」

 

「た、確かなの?」

 

 芽依の疑問には、ロックが答えた。

 

「ナインが言うなら間違いないわよ。悔しいけど私達3人の中で、ママの思考を一番理解しているのはナインだからね。よし、機関最大戦速!!」

 

 これまでの静寂から一転、ハードロックのような爆音が響き渡る。数秒ほど遅れて振動が走ってきた。

 

「す、凄い……これが……この艦の全速……」

 

 楓が、呆然と呟いた。体がシートに押し付けられる。外は見えないが、信じられないほどの加速度が艦に掛かっているのが分かる。

 

「前部バラストブロー、浮上角最大!! しっかり掴まってろ!!」

 

 リケがそう言っている間にも、艦が今度は上へと傾き始めていた。

 

 芽依は悲鳴を上げながら潜望鏡に掴まって、楓はシートベルトを締めた。

 

 

 

 晴風の艦橋。

 

 明乃は瞬きもせずに、海面を睨んでいた。

 

 長い。今なら100メートル走で10秒を切れそうな気がする。それほど時間が長く感じる。唾が苦く、心臓の鼓動音が五月蠅く感じる。

 

「ココちゃん、何分!?」

 

「2分37秒です、艦長!!」

 

 幸子が時刻ではなく、魚雷が商店街船に命中してからの時間を報告してきた。

 

 2分半を過ぎた。

 

 拙い、拙い、拙い。

 

 ナインの話ではビッグママは常に予備の物を含めて水中呼吸装置・ブリーザーを2つ携帯しているそうだ。だが今回、ビッグママとましろと、そして多聞丸。呼吸装置が必要なのは3名。必然的に一人は呼吸装置を使えない。

 

 恐らく、いや間違いなくビッグママはブリーザーを使わないだろうと、明乃は思った。10年の付き合いだから、分かるのだ。あの人なら絶対にそうするだろうと。

 

 時間は、もう無い。

 

 何か、何か無いか。自分に出来る事はもう無いか? 本当に全てをやり尽くしたのか?

 

 考えて、考えて、考える。

 

 自分に出来る事、自分に出来る事、自分に出来る事。

 

 頭を回して、回して、回す。

 

「!!」

 

 一つ、ある。まだ、出来る事はある。

 

 機関室に通じる伝声管を開けて、怒鳴った。

 

「まろんちゃん、機関最大戦速!! 全速を出して!!」

 

<りょ、了解!!>

 

「りんちゃん、面舵50度!! 急いで!!」

 

「ほ、ほい!!」

 

 鈴が体を跳ねさせて、舵を回す。しかし一方で、幸子は正気を疑うような顔で明乃に詰め寄った。

 

「ま、待って下さい艦長!! そのコースはちょうど、浮上してくるクリムゾンオルカに真っ向から向かっていく事になります!! 下手をしたら晴風がクリムゾンオルカに乗り上げるかも……!!」

 

「今は説明している時間は無いの!! まろんちゃん、お願い!!」

 

 

 

<今は説明している時間は無いの!! まろんちゃん、お願い!!>

 

 開けっ放しの伝声管から、明乃の切羽詰まった声が、機関室に聞こえてくる。当然、先程の幸子とのやり取りも筒抜けである。

 

 機関長の柳原麻侖は数秒だけ難しい顔をした後、ぐっと唇を引き結んで厳しい顔になった。

 

「分かった。機関最大戦速!! ぶっ飛ばすよ!!」

 

「ま、待って麻侖!! 今の話聞いてたでしょう? そんなコースに全速で突っ込んだら、晴風がクリムゾンオルカとぶつかるかも知れないって……宗谷さんが乗ってるのに……!!」

 

 明乃の命令は、暴挙としか思えない。機関助手である黒木洋美が反対するのも当然だった。彼女だけではなく、機関員4人組も同意見のようだ。

 

 しかし麻侖が「静かに!!」と一同を一喝する。

 

「ばあちゃんも言ってたろ!! 艦長がこうと決めたら、クルーはそれに従えって。それに、こんな事するからには艦長にも何か考えがある筈だ。それを信じるんだよ!!」

 

「麻侖……」

 

 洋美はそれでも迷いを振り切れなかったが、今は瞬時すら惜しい瀬戸際という事を思い出して、彼女も腹を括った。

 

「……宗谷さんを死なせたら、絶対に許さないから!!」

 

 ブリッジに聞こえるように大声で叫ぶと、エンジンに最大出力を発揮させる為の作業に入った。

 

 

 

 晴風の動きは、クリムゾンオルカからもキャッチされていた。

 

「晴風が全速で転舵、真っ直ぐこちらへ向かってくるぞ」

 

 リケの報告を受け、芽依と楓は顔を見合わせた。

 

「か、艦長!! 何やってるの!?」「そ、それより回避ですわ!! ロックさん、すぐ転舵を……!!」

 

「いや、これで良いのよ!! 本艦と晴風との距離と速度を計算、トリム修正!! 晴風の艦底ギリギリをすり抜けるわ!!」

 

 手が白くなるほどハンドル型の舵を強く握って、眼を血走らせたロックが叫んだ。

 

「そう、これで良い……ミケちゃん、ナイスアシスト、良い機転だ!! やるじゃあないか!!」

 

 やや引き攣ってはいるが、笑みを浮かべたナインが此方も全速を出しているエンジン音に負けじと叫ぶ。

 

「今……!! 晴風がちょうど真上を通り過ぎますわ!! 艦が、晴風の航跡に入ります!!」

 

 この瞬間、一同を奇妙な浮遊感が襲った。

 

 艦が、上へと動いている。

 

「う、浮いてる!?」「これは一体……!?」

 

「上昇水流さ」

 

 リケが言った。

 

「艦が通過したその航跡には、上昇水流が発生するのよ」

 

 と、ロック。

 

 当然、晴風の航跡に入っているクリムゾンオルカはその影響をモロに受ける事となる。

 

 上昇水流、即ち浮力。

 

「この浮力に艦を乗せる!! ミケちゃんはこれを狙ってたんだ。潜舵アップトリム最大、全タンクブロー!! 全速浮上!!」

 

 芽依は、深度計に目をやった。

 

 深度は10メートル。海面まで、後数秒。

 

 

 

「アドミラル・オーマー……!!」

 

 救助隊の指揮を執っていたミーナが、祈るように呟いた。

 

「ミーナさん、下を!!」

 

「下……? ウオオオオオ!!!!」

 

 視線を下げると、ちょうどボートの下をクリムゾンオルカが通過していた。

 

「急げーーっ、クリムゾンオルカ!! もう時間が無い!! 早く!! もっと早く!!」

 

 体を乗り出したミーナが落ちそうになって、媛萌が慌てて肩を掴んで引き戻した。

 

 海面が、隆起を始める。

 

「ママさん!!」

 

 双眼鏡を覗きながら、幸子が叫んだ。

 

 潜望鏡が、露頂する。

 

「来た!!」

 

 海面を睨むマチコは、瞬きの一つもしていなかった。

 

「……来る」

 

 素早く手当に当たれるよう、甲板に上がってきた美波が呟いた。

 

 海が、割れる。

 

 クリムゾンオルカの艦体が海面に飛び出し、空中を舞う……いわゆるドルフィン運動によって浮上する。

 

「ママさん、シロちゃん……死なないで……!! 生きていて……!!」

 

 両手を合わせ、瞳を閉じた明乃が呟いた。

 

 そのまま艦の前部が海面に着水して、雨のような水しぶきが上がった。

 

 

 

 肌にまとわりつく水流の感覚が無くなった事で、ましろはクリムゾンオルカが浮上した事に気付いた。

 

 多聞丸は……!!

 

 無事だ。凶暴だから口枷をされた犬のように、無理矢理咥えさせられたブリーザーを何とか外そうと、頭を振っている。

 

 ビッグママは……!!

 

 はっと、視線を前に向ける。

 

 老艦長は、義手と生手で手摺りを掴んで、うずくまっていた。

 

 水中に出て軽く2分は経っている。息が続いているか……どうか……

 

「ミス……ビッグママ……」

 

 ブリーザーを捨てて、伸ばしたましろの手を……ぬっと伸びてきた手が掴んでいた。

 

「へっ!?」

 

 思わず顔を上げると、真っ白になってしまった髪を肌に貼り付かせて、隻眼で自分を見て……

 

 いつも通りの不敵な笑みが、ましろに向けられていた。

 

「あ……ああ……」

 

 双眸に、自然と涙が浮かんできた。

 

「ぶはぁ~~っ!!!!」

 

 大きく息を吐いて、立ち上がったビッグママは両手を高々と掲げ、ガッツポーズを取る。

 

 瞬間、静かな海が歓声に包まれた。

 

「生きてる!! 生きているぞ!! アドミラル・オーマーが生きてる!!!!」

 

「奇蹟だ!! 奇蹟だよ!!」「ママさんが奇蹟を起こした!!!!」

 

 ボートの上で媛萌と百々が感涙しながら抱き合って、興奮したミーナは「今そっちに行きます!!」とボートから飛び降りてクリムゾンオルカへ向かって泳ぎ始めた。

 

「やったあぁぁぁぁぁ!!!!」「し、信じられないよぉ!!」「凄い!! 凄い!!」「夢じゃないよね!! これ夢じゃないよね!!」

 

 騒ぎになっているのは晴風でも同じだった。ブリッジではテンションMAXになった幸子がぶんぶんと鈴の体を揺すって、まゆみと秀子は互いに頬をつねり合っていた。

 

「宗谷さん……」

 

 機関室では、緊張の糸が切れた洋美がへなへなと座り込んでしまった。

 

 晴風の甲板には既に救助された商店街船の乗客達が詰め掛けていて歓声の嵐が巻き起こり、ウェーブまで始まっていた。美波も参加していた。

 

「やったよ!! ママさんも副長も生きてるよ!! 万歳、バンザイーーーッ!!!!」「やりましたわね!! 奇跡が起こりましたわ!! 起こしましたわ!!」

 

 ハッチを開けて出て来た芽依と楓が飛び跳ねながら諸手を挙げる。興奮のあまり、二人とも海に落ちそうになった。

 

「ママさん……シロちゃん……」

 

 双眼鏡を下ろした明乃の双眸からは、涙が滂沱として流れていた。彼女は胸の気持ちをどう表現したら良いか分からず、それ以上は何も言えなかった。

 

「ふん……久し振りに空気の美味さを味わったよ……しかしたかが3分ちょっと息を止めたぐらいで苦しくなるなんて、あたしも衰えたねぇ。昔は軽く8分は平気だったモンだが……トシかな」

 

 頭を振りつつ呟くビッグママ。息苦しいとは言ったが、実際にはまだまだ余裕があるようにましろには見えた。既に呼吸は整い、肩も上下していない。

 

「ほれ」

 

 懐から通信機を取り出すと、投げ渡してくるビッグママ。ましろはお手玉しそうになったが、何とかキャッチできた。

 

「ミ、ミス・ビッグママ……?」

 

「シロちゃん、副長としての仕事を全うしな」

 

「……あ!!」

 

 柔和な笑みと共に掛けられた言葉の意味を、少しの時間を置いてましろは理解した。

 

 通信機のスイッチを入れて、晴風に繋ぐ。

 

<シロちゃん!!>

 

 明乃が、反射的な早さで通話に出た。

 

「艦長……新橋商店街船、全要救助者の確保を確認……これにて、救助活動を終了します」

 

 救助隊の指揮を執っていた者として、救助活動の完了を報告する事。これが、ましろの役目だった。

 

<……了解。お疲れ様>

 

 安心しきった声が、通信機から返ってきた。

 

 不意に、ましろの頭に重い物が乗った。ビッグママの大きな手だ。わしゃわしゃと頭をなでくりなでくりしてくる。

 

「良くやった……誇りに思うよ」

 

 そう言うと、ビッグママはひょいっと通信機を受け取った。

 

「あー、ココちゃん。聞こえるかい?」

 

<はい、ママさん。感度良好です>

 

 にやっと、ビッグママは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「スピーカーの音量を最大に上げるんだ。派手にぶち上げよう」

 

<……!! 了解!!>

 

 

 

<スピーカーの音量を最大に上げるんだ。派手にぶち上げよう>

 

「……!! 了解!!」

 

 主語が無いが、これで幸子には十分伝わったらしい。晴風のブリッジでは、こちらも悪戯っ子のような笑みを見せていた。

 

「ココちゃん、今のは?」

 

 きょとんとした顔の明乃が、尋ねてくる。

 

 既にスピーカーの操作を終えた幸子が、艦長に向き直った。

 

「艦長、私と一緒に宣言しましょう!!」

 

「せ、宣言?」

 

「そう!! 宣言です!!」

 

 

 

<あー、あー、こちら晴風艦長、岬明乃です!! 6時13分現在、新橋商店街船の乗客船員、一人の死者も無く全員を収容しました!!>

 

 音量マックスの晴風のスピーカーから、明乃の声がこの海域一帯へと聞こえてくる。

 

<繰り返します、全員の収容を確認しました!!>

 

 次に幸子の声が聞こえてきた。

 

 クリムゾンオルカの甲板で、ましろは何となく先程のビッグママの言葉の意味が分かって、頭が痛くなった。

 

<<われわれは何も失ってはいない!!!!>>

 

 明乃と幸子、二人の声が揃って少しハウリングを起こしながら響き渡った。

 

 一瞬の沈黙。

 

 然る後に、先程に数倍する歓声と喝采が晴風とクリムゾンオルカを包んだ。

 

「……これは何が元ネタですか?」

 

 ジト目で呆れ顔のましろの頭を撫でつつ、ビッグママはにっこり笑う。

 

「今度、貸してあげるよ。あれはあたしのバイブルだ」

 


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