ハイスクール・フリート PRIVATEER(完結)   作:ファルメール

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VOYAGE:11 嵐の海

 

 10年以上も経つが、あの日の事は今もはっきりと思い出せる。

 

 だけどその景色には色が無い。空も、海も、全てがモノクロームだ。

 

 揺れて傾く船、人でごった返す救命ボート。

 

 自分を逃がしてくれた両親の事を、ずっと考えていた。

 

 その、嵐の海を割って潜水艦が浮き上がってきた。

 

 艦橋(セイル)のハッチが開いて、大きなおばあちゃんが姿を見せた。

 

『遅かったか……!! お前達、直ちに救助活動に掛かれ!! もう誰も死なせるな!!』

 

『『はい、ママ!!』』

 

 海面に溢れる救命ボートを見渡したその人が叫ぶと、甲板の前部と後部のハッチが開いて、ガリガリに痩せた長身の人と玉乗りボールのように太った男の人が現れた。彼等は素早く救命ボートを誘導して、要救助者を艦内へと収容していく。

 

 そうしていると私が乗っている救命ボートも潜水艦の近くへと寄せられて、おばあちゃんが私を抱き上げた。

 

 その人は手も体も、いや存在そのものがとても大きなようで、不思議とその人の周りだけ空気が静かで落ち着いているように思えた。

 

『もう大丈夫だよ。ブルーマーメイドも、すぐにやって来るからね』

 

 耳元で優しく囁かれて、私は疲労と安心感によって意識を手放してしまった。

 

 私、岬明乃はこのすぐ後に駆け付けてきたブルーマーメイド隊に保護され、とある海辺の孤児院へと引き取られる事になるのだが……

 

 このおばあちゃんに抱っこされていた時、世界に色が戻っていた事にその時の私はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 現在。晴風はいよいよ嵐へと近付いていて、波は荒くなって空も曇りつつあった。既にマチコは見張り台から艦内へと退避している。これから未体験の嵐の中へと突入するとあって、ブリッジは勿論の事、艦全体の空気がぴりぴりと張り詰めているようだった。

 

「よーしよし、みんな程よく危機感と緊張感を持ってるね。良い傾向だ」

 

 機嫌良く「うむ」と頷くビッグママ。今現在、晴風に乗っていてリラックスしている風なのは彼女だけだ。アシスタントとして同乗しているロックでさえ、肩に力が入っているように見える。

 

「ううう……」

 

 舵を握る鈴は既に涙目になっていた。これも無理からぬ反応であろう。

 

「さて、ミケ。晴風はこのまま進むと後一時間で暴風圏に突入する。そこで嵐の中での晴風の操艦だが……」

 

「……」

 

「ミケ!!」

 

「!! は、はいママさん……」

 

 蒼白い顔の明乃は、強く声を掛けられてやっと返事した。

 

「……艦長、昨日からずっとそんな感じですが……具合でもお悪いのですか?」

 

 ましろが心配そうに顔を覗き込みながら言うが、明乃は「だ、大丈夫だよシロちゃん」と返すだけだ。とてもじゃないにせよ大丈夫には見えない。極度の緊張で滅入っているのか只の船酔いか。念の為に額に手を当ててみるが、熱はない。風邪ではないようだ。

 

 ……まぁ、よほど体調が優れないなら自分から言い出すだろう。一応、自分がいつもより少し気を付けておこうとましろは思った。

 

「コホン、話を続けるよ。嵐の中での晴風の操艦だが……習うより慣れろと言うだろ。よってあたしは一切手出し口出しはしない。あんた達だけで何とかしてみせな!!」

 

「ええっ!?」「そんなぁ!!」「ミ、ミス・ビッグママ……いくら何でもそれは……」「ちょ、ちょっちょ……!!」「今からでも引き返そうよぉ!!」

 

 流石にこれにはブリッジ内のほぼ全員が悲鳴じみた声を上げた。例外はミーナとロックだけだ。

 

「……なんて、ムチャ振りはしないよ。まず最初に、あたしが手本を見せる。ロック、あんたにも手伝ってもらうよ」

 

「はい、ママ」

 

「次に台風下における航行の要点や注意点を説明する。そしたら今度はミケ、あんたが操艦をやるんだ。そんであたしは今度は教官役。気になった所を指摘していく。こんな感じで行こうと思うが、何か質問は?」

 

「「「…………」」」

 

 返事が無い。明乃以下ブリッジの全員に緊張が広がっている。一度ビッグママの教導を受けたミーナですら、これほどの嵐に突入するとなるとやはり恐怖が先立つらしい。体中に余計な力が入ってガチガチになってしまっている。

 

「まぁ、そこまで緊張する必要は無いよ。あたしも教官歴はそれなりに長いから、引き際はちゃんと見極めてる。無理や無茶は沢山言うが、無謀な事はさせないからそこは安心してくれていい」

 

「そ、そうなんですか?」

 

 少し怯えたように、小さく挙手してまゆみが尋ねてくる。

 

「……まゆちゃん、まさかあたしが年だからって『水を飲むな』とか、先をバラバラにした竹刀を持ち出してきて何かあればバシーンと叩くとか『一度でもミスした奴は即刻他の者と交代させる。その緊張感が大切』とか、そんな時代遅れの教育思想を持っていると思っているんじゃあるまいね?」

 

「え、いや、そんな……」

 

「……思ってたんだね」

 

 しかしビッグママはケタケタ笑って、少しも不快に思ったり怒った素振りも見せなかった。

 

「良いんだよ。あたしみたいな年代の指導者はそんな風なイメージを持たれやすいってのは、自覚してるさ」

 

 ガチンガチンと、マジックハンド型義手が開閉して音を立てる。

 

「確かにあたしは厳しいが、あんた達がまだ入学したばかりの学生である事を忘れちゃあいない。最初から何もかも上手くやれるなんて思っちゃあいないさ。それに、これでも褒めて伸ばすタイプなんだよ。本当だ」

 

 これを聞いた幸子からちらっと視線を向けられたミーナは、静かに頷いた。本当らしい。

 

「……いきなり生徒だけに全てやらせてそれで正しい答えに辿り着けとか、怒鳴り散らしてミスを責めるだけの教育なんてナンセンスだ。……ねぇ、五十六。あなたもそう思うでしょう?」

 

 ひょいっと足下に来ていた五十六を抱き上げると、背中を撫でながら語るビッグママ。大艦長の肩書きを持つデブ猫はいつも通りの少し不機嫌そうな顔のままで「ん」と鳴いて返した。

 

「ふふふ……」

 

 持ち込んだキャンプチェアに腰掛けたビッグママは膝の上に五十六を寝かせると、明乃へと向き直った。

 

「ついてはミケ、一時的に艦の指揮権をあたしに委譲して欲しい」

 

「え?」

 

「訓練とは言え艦長が健在なのに部外者が頭越しに指揮するのは掟破りだからね。ちゃんと、手順を踏まないと」

 

「あ、はいそうですね。じゃあ、ママさん……お願いします」

 

 至極真っ当な意見を受け、明乃は艦長帽を差し出した。

 

「ん」

 

 受け取った帽子をぽんと頭に乗せるビッグママ。

 

「全員、整列!!」

 

 明乃が手を振るとブリッジクルー達は全員、一列に並んで姿勢を正した。

 

「ママさ……いえ、潮崎教官。ご指導、よろしくお願いします!!」

 

「勉強させていただきます」

 

 共に頭を下げる艦長・副長に倣うようにして、他の者も一斉に頭を下げる。これを受けてビッグママも立ち上がって五十六を下ろすと姿勢を正し、敬礼を返した。

 

「こちらこそよろしく願いする」

 

 そう言うと、ビッグママはマイクを手に取った。

 

「晴風乗員全員へと告げる。私は今回、晴風の指導に当たる事となったコードネーム・ビッグママ、潮崎四海だ」

 

 スピーカーを通して、彼女の声が晴風全体へと響き渡る。

 

「これより晴風は、嵐の中へ突入する。風速70メートル以上、平均的な波の高さおよそ30メートル。この規模の風と波の中を航行するのは、確かに至難の業だろう。しかし、私は既に学校から送られてきた諸君の入学試験に於ける座学と実技の成績には目を通している」

 

 芽依は少しだけ不安な顔になった。晴風は入学試験の中でも最底辺の成績を取った落ちこぼれが集められた艦と聞いていたからだ。そんな不安を肌で感じたのだろうか、ビッグママは彼女へと目を向けると、隻眼でウインクしてみせる。

 

「……はっきり言おう、諸君等はとても優秀だ。断言する、全員が持てる能力を完全に発揮すればこの程度の嵐は大した障害ではない!! 私の指示に迅速に従ってくれさえすれば、易々とは言わないまでも確実に切り抜けられる程度の難所だ。この嵐を越えた時、この艦の全員がより良き船乗りとなっているだろう。各人の果断と即応を期待する!! 以上だ」

 

 ビッグママはマイクのスイッチをオフにする。訓辞は終わったのだ。

 

 こうして、晴風は季節外れの大嵐の中へと突っ込んだ。

 

 しかし突入してものの5分で、艦内には悲鳴が充満した。

 

 海運大国たる日本では、船で生まれ育った者は珍しくない。そして日本は気候や地理の関係上、毎年台風に見舞われる国である。だから乗っている船が嵐で揺れるというのは珍しい体験ではない。だがそれでもこれほどの嵐は殆どの者が未体験であった。

 

 波を越える度に艦首が数十度も上下に振れる。

 

 十数倍にもスピードアップしたエレベーターに乗って、ひっきりなしに上がったり降りたりしている様な感覚だ。地に足が付かないという言葉があるが、まさにその気分だった。床に立っていられない。空中へと体が持ち上げられる。

 

 晴風クルーは全員が安全装置を装備し、ヘルメットとスタンキーフード(救命胴衣)も着用してはいるがそれらは少しも恐怖を和らげる働きはしてくれなかった。

 

 また一つ、晴風が波を越えて浮遊感が生まれる。

 

「来るぞ!! 総員ショック対応姿勢を取れ!!」

 

 ビッグママの指示から数秒後、艦全体に叩き付けるような衝撃が襲ってきた。

 

「ひいいいいっ!!」

 

「と、飛んだ!! 今、一瞬だけど絶対晴風が空を飛んだ!!」

 

「落ち着け!! 各区損傷及び怪我人無いか!! 素早く報告せよ!!」

 

 鶴の一声とばかりビッグママが一喝すると場が統制され、浮き足立っていた乗員達はそれぞれの役目を思い出す。

 

<烹炊室、伊良子美甘他二名、無事です!! 炊飯器も茶碗も大丈夫です!!>

 

<機関室、柳原麻侖以下全員、ケガはねぇ!! エンジンも快調、6万馬力健在でぃ!!>

 

<第二魚雷発射管、姫路。大丈夫です>

 

<水測室、ソナーに異常無し。良く聞こえますわ>

 

 他にも矢継ぎ早に報告が入ってきて、今の所怪我人や損傷箇所が無い事が分かった。

 

「よし!! りんちゃん、舵はしっかり握ってるんだ。艦のバランスを失うな!!」

 

「ほ、ほぃぃぃっ!!!!」

 

 もうだばだば流れる涙を拭う暇も無く顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも鈴は必死で舵を切って指示通り艦の安定に全精力を傾けていた。

 

 そうして少しだけこの嵐にも慣れてきたのか、僅かに艦の揺れは治まってきたようだった。

 

 そう思った瞬間、

 

「き、教官!! 左舷前方から高波40メートル!!」

 

 左舷航海管制員の山下秀子が、目を見開いて絶叫した。

 

 ブリッジ左の窓が切り取っている景色の半分以上を、高波が占めている。

 

「慌てるな!! 取舵10度、機関最大戦速!!」

 

「と、取舵10度、了解ぃぃっ!!」

 

<機関最大戦速、合点!!>

 

 復唱を受け、出した指示の通りに艦が動いているのを確認するとビッグママは頷きを一つして、マイクを切り替える。

 

「ブリッジより応急員へ!!」

 

<こちら応急員、和住姫萌・青木百々!! 二人とも、準備できてます!!>

 

「よーし、ヒメちゃんモモちゃん、左舷倉庫積載備品の固定ワイヤをチェックするんだ!! ロック、一緒に行っておやり!!」

 

<イエスマム!!>

 

 

 

「よし、聞いての通りよ二人とも。急いで左舷倉庫へ点検に向かうわよ!!」

 

「「はい!!」」

 

 ビッグママの指示を受け、ロックは応急員二人を先導して艦内通路を駆けていく。ビッグママに鍛えられたクリムゾンオルカのクルーである彼は、流石に経験に於いては学生とは比べ物にならない。揺れる艦内でも、後ろの二人よりもずっと安定した足取りで素早く進んでいく。

 

 と、また波を越えたのか艦が大きく上下に振れた。姫萌と百々は何とか手近な物に掴まって体を固定したので無事だったが、運悪く掴まれる物が無かったロックは流石にバランスを崩して背中から壁にぶつかった。

 

「ぐえっ!!」

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 咄嗟に百々が手を差し伸べるが、

 

「私より荷物よ、二人とも!! 崩れたら艦のバランスも崩れる!! 荷崩れした時が晴風がひっくり返る時と思って、しっかりチェックしなさい!!」

 

「は、はい!!」

 

 叱咤された二人は、慌てながらも自分達の役割を遂行しに掛かった。

 

 

 

<和住姫萌よりブリッジへ!! 左舷倉庫、備品の固定はしっかり出来ています!! ワイヤーにも弛みはありません!!>

 

「よーしよくやった!! 配置に戻れ!!」

 

 ここでマイクのスイッチをオフにすると、ビッグママはすぐ後ろで一挙手一投足を見落とすまいと目を皿のようにしている艦長と副長を振り返った。

 

 明乃は調子が悪いながらも何とか堪えて頑張っているし、ましろは純粋にビッグママの操艦術を尊敬の目で見ていて、そこから少しでも何かを盗み、学び取ろうとしているようだった。

 

「さて、ここでミケとシロちゃん、二人にクイズを出そう。当たったら50点獲得だよ」

 

「……クイズ、ですか?」

 

「そうだ」

 

 こんな状況で何を、とも思ったがしかしこの老いた船乗りが意味の無い事をするような人でないのはこれまでの経緯で良く分かっている。二人とも戸惑い以上の反応は見せずに、話を聞く姿勢に入った。

 

「今、備品をチェックに行った時にワイヤが切れて荷崩れが起こったとしよう。ヒメちゃんは荷物に押し潰され骨折して重傷、モモちゃんも打撲で軽傷を負った。さてこの場合、あんた達が指揮を執っていたらどのように対応するかね?」

 

「どう対応する……って」

 

「…………」

 

 明乃は困った顔になって、ましろはこれは何かの引っ掛け問題なのだろうかと即答を控えた。そんな二人の思考はビッグママに読まれていたらしい。

 

「……当たったらとは言ったが、これはペーパーテストじゃないんだ。答えだけ合っててもダメだよ。ちゃんと理由を説明できないと」

 

 事前に釘を刺してくる。しかしこれは正論だ。ちゃんと理解していないと、応用も利かない。

 

「それは……私なら、重傷のヒメちゃんから医務室に運ぶよう指示します」

 

「私もです。まずは重傷者から手当を行うべきかと」

 

 この回答を聞いたビッグママはまずにやっと笑って、

 

「二人ともブーーーーッ!!」

 

 両手でバッテン印を作った。

 

「「ええっ」」

 

「ミーナ、あんたはどうかな?」

 

「はい、アドミラル・オーマー。ワシならまず軽傷者から医務室へ搬送するよう指示します」

 

「理由は?」

 

「今が訓練中、つまり戦闘時だからです。重傷者は、応急処置で現場に復帰する事は不可能ですから」

 

「うむ、良くできた。復習はキチンとやってるようだね。私も鼻が高い」

 

 カカッと笑ったビッグママは、すぐに真剣な顔に戻って明乃とましろを見た。「分かったかい?」と表情で尋ねてくる。

 

「……そうか、軽傷者なら応急処置を行えば現場に戻る事も出来ますね」

 

「成る程、優先すべきは動ける人員を確保して艦のパフォーマンスの低下を防ぐ事という訳ですね」

 

「そーいう事だ。二人とも呑み込みが早くて、大変よろしい」

 

 賞賛の言葉と共に顔をほころばせるビッグママ。しかしやはり数秒で真顔に戻って、説明に入る。

 

「知っての通り現代の艦は自動化が進んで最小限の人員で動かせる分、一人一人の仕事量や果たす役割は大きい。だから一人でも人員が欠ける事は艦機能を大きく低下させてしまうんだ」

 

 交代要員の居ない学生艦の場合は特にその影響が顕著となる。

 

「よって戦闘中に負傷者が出た場合は、人員の確保を最優先とする事。冷たく思うかも知れないが、それをしないで艦のパフォーマンスが落ちて、結果轟沈しようものなら重傷者も軽傷者もみんな助からなくなる。指揮官はそうした点も踏まえて、大局的な視野を持つ事が大切だ。無論、これが平常時や相手が海難事故等の避難民だった場合はまた話が変わるよ。その場合もしっかり状況を見極めて、臨機応変に対応する事。良いね?」

 

「「はい!!」」

 

 二人の気持ちいい返事を聞いて、ビッグママは「うんうん」と何度も頷く。

 

 そうしてブリッジを見回すと、その視線が泣きながら舵を動かす鈴で止まった。

 

 熟練の船乗りらしく、揺れをものともしない足取りでガタガタ震えながら操舵する航海長へと近付いていくビッグママ。

 

「怖いかね、りんちゃん」

 

「ほ、ほぃぃぃっ……」

 

 答えなど、聞くまでもない。このまま放っておいたら、三方ヶ原の戦いに於ける徳川家康のようになりそうだ。

 

 しかしビッグママは決して失望したり怒ったりという様子は見せなかった。むしろ、にこりとしている。

 

「良いかね、りんちゃん。そのままで良いからお聞き」

 

 大きな手が、そっと鈴の肩に置かれた。しかし今の鈴にはそれを気に懸けている余裕も無さそうだった。構わず、ビッグママは話し始める。

 

「怖いのは今の内だけさ。何度か経験すれば、こんな嵐は怖くも何ともなくなる」

 

「……そ、そうなんですかぁ?」

 

「そうとも」

 

 大きなお腹をさするビッグママ。

 

「より正確に言うと怖くなくなるんじゃなくて、恐怖に慣れてしまう……怖いと思う機能が麻痺してしまうというのが正しいかね」

 

 コンコン、とこめかみをつつきながら言うビッグママ。

 

「そ、それなら……」

 

「だが!!」

 

 ビッグママはヘルメット越しに鈴の頭を掴むと、ぐいっと自分の方を向かせる。

 

「ひいっ!!」

 

「だが、ね。そうなったらおしまいだ。私に言わせりゃ恐怖を感じないブルーマーメイドなど三流以下だ、使い物にならん。怖いと思える事は、とても大切なんだ」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「そうとも。”怖い”というのは、突き詰めれば危険から遠ざかる為の感情だ。つまり歩いていて怖いと思ったら、この先は危険だと分かる訳だ。分かるかね、私の言いたい事が?」

 

 ブルーマーメイドの任務で代表的なものの一つに、海難救助がある。それはつまり、危険の中に入っていって人を助ける仕事だ。

 

 だが怖いと思わない、どこまでが危険でどこからが安全なのか分からない人間では、実際には危険な場所を安全と思って要救助者をそこに置き去りにするかも知れないし、到底生還できない危険の中に突っ込んでいって無駄死にするかも知れない。

 

「怖さを感じない事は断じて勇気とは違う。ましてブルーマーメイドは人を助ける仕事。レッスン6、言ってみな。ミケ」

 

「……『人を助けるには、大きな船が必要』」

 

「よーし、良くできた」

 

 教え子へと振り返ったビッグママは、にっこり笑っていた。そうして再び鈴に向き直る。

 

「人を助ける為には、まず自分を守らなければならない。だから身を守る為に、怖いと思う事はとても大事なんだ。私が海戦・海難救助を初めとして飽きるほど修羅場をくぐりながらも、この年まで生き延びている理由の一つを教えよう」

 

 ビッグママはぐっと顔を近付け、鈴と額をくっつけた。

 

「それは、私が兎のように臆病だからだ。怖いと思う事は大切。だが、恐怖で身がすくんではしょうがない。大切な事は恐怖に心身を支配されない事。逆にこっちが恐怖を支配してやるぐらいの気持ちでいるんだ。それが、身を守る術だ。覚えておくように」

 

 コン、と音が鳴る。

 

 ビッグママが義手で軽く鈴のヘルメットを小突いた音だ。

 

「さあ、もう一踏ん張りだ。しっかり舵を握って!!」

 

「は、はい!!」

 

 涙を拭って、鈴はぐっと前を見据える。思わず「おおっ」と声が上がった。

 

 ビッグママのレクチャーが行われたのは僅かな時間だったが、鈴の雰囲気が先程までとまるで変わっていた。

 

 これは一時の事かも知れないが、それでも鈴の中で何かが変わったのは間違いないだろう。

 

「……恐怖に支配されない……恐怖を支配する……」

 

 何度かぶつぶつと口中で呟く明乃。

 

「あの、潮崎教官!!」

 

「どうしたね、ミケ?」

 

「私、艦の様子を見て回ろうと思います!!」

 

「…………ふう、ん?」

 

 ビッグママが観察するように眼を細める。今の明乃の顔つきは何か、腹を括ったようで不思議に落ち着いているように見えた。

 

 こいつ、何かやる。直感でそれが分かった。

 

「…………良いだろう。こうした状況で艦がどんな風になってるか……自分の目で見るのも艦長として大切な経験だ。行っておいで」

 

「分かりました……行ってきます」

 

 敬礼して、ブリッジを出て行く明乃。それを見送ると、ビッグママは応急員へとマイクを繋いだ。

 

「こちらブリッジ、ヒメちゃん。聞こえているか?」

 

<はい、こちら応急員。良く聞こえます>

 

「よし。今、艦長が艦内を見回っているが……もし倉庫にやってきて、ワイヤーとか縄を貸してほしいと言ってきたら、黙って貸しておやり。責任は私が持つ」

 

<は、はい……分かりました>

 

「きょ、教官? 今のは一体……」

 

 通話が切れると同時に、ましろが詰め寄ってきた。他のブリッジの面々も、只今のビッグママの指示は真意が読み取れず怪訝な顔だ。

 

「じゃあ……シロちゃん、見てくるかい? 艦長が何するつもりか。レッスン3『自分の眼と耳と勘だけを信用しろ』だよ」

 

「は、はぁ……」

 

 ましろがブリッジを退出すると、ビッグママは少し遠い目になった。明乃が何をやろうとしているか? 彼女にはおおよその見当が付いていた。かつての部下や教え子に、”同じような真似”をしでかした奴が何人か居たからだ。

 

 ビッグママは思う。10年前から自分はいつも明乃やもえかを守って、その意思を尊重し、二人の背中を押してきた。今も、もえかを武蔵から何としてでも助けようという気持ちは変わっていない。だが今回の明乃だけは助けられない、守れない。自分に打ち勝てる者は、結局の所自分しかいないからだ。

 

「来るべき時が来た……って事だね。越えられない波はない……成長を祈るよ、ミケ……あたしは、見守っている」

 

 

 

 

 

 

 

 明乃を追う形でブリッジを出たましろであったが、機関室にも烹炊室にも艦長の姿はなかった。

 

 倉庫に行ってみると、数分前に明乃がやってきてワイヤーを借りていったと姫萌が答えた。事前の打ち合わせなど何も無かった筈だから、明乃はビッグママの予想通りに動いた事になる。

 

 ワイヤーなど何に使う?

 

 ましろはそれを考えて、ほんの数分で背筋がゾッとする想像に至った。

 

『ま、まさか……?』

 

 思い返せば晴風が嵐の中に突入する事を決めた時から、明乃の様子は何かおかしかった。

 

 嵐に対して、どこか怯えているような……

 

 そして鈴に対してビッグママが行ったレクチャーに触発されて、自分の中の恐怖に打ち勝とうとしたのなら……!?

 

 そこまで想像して、導き出される結論は多くなかった。

 

 ましろは甲板に出る。現在、荒天により甲板の通行は禁止されているが……

 

 果たして右舷甲板に、明乃は居た。未だに雨も風も強く、打たれる肌が痛いぐらいだ。

 

 その中でずぶ濡れになりながら、明乃は柵に掴まって荒れ狂う海を睨んでいた。良く見ると腰にワイヤーが巻かれていて、彼女はそれを命綱にして自分の体を艦に固定していた。

 

「艦長!! 一体何をされる気ですか!?」

 

 今の明乃の行いは、自殺行為としか思えない。甲板でまともに波を受けたが最後、命はない。

 

 ごうごうという風に負けじと張り上げたましろの声に、明乃は歯を食い縛りながらガチガチに引き攣った笑みを浮かべつつ、振り向いた。

 

「私は……晴風の艦長だから。いつまでも、嵐や雷が怖い自分じゃいられない……!!」

 

 ごくりと、ましろは生唾を呑んだ。

 

 海に目を向けると、先程のと同じぐらいの高波が、こちらへと向かってきているのが見えた。

 

「来た……!! お前なんか、怖くない……!! 私は今までの自分を、今日、乗り越える!!」

 

「艦長ーーーっ!!!!」

 

 反射的に、ましろは走り出していた。

 

 ほぼ同時に晴風が波に乗り上げ、そのまま着水。巨大な衝撃が襲ってくる。

 

「ぶわっ!!」

 

 一瞬、凄まじいまでの水しぶきで視界が完全にゼロになった。

 

 何かにぶつかって僅かな時間だけ意識が途切れていたましろは、咄嗟に差し出した右手に何かを掴んでいる感覚があるのに気付いた。吹っ飛ばされそうだった明乃の腕を、間一髪捕まえていたのだ。

 

「だ、大丈夫ですか、艦長!! お怪我は!?」

 

「大……丈夫、だよ。ありがとう……シロちゃん……」

 

 目線や受け答えもしっかりしているし、見る限り大きなケガも負っていない。ましろはほっと息を吐いた。

 

「何故、こんな無茶を……」

 

「ごめんね、心配させちゃって……」

 

 苦笑いしながら、倒れていた明乃が立ち上がる。

 

「私ね……昔、乗っていた船が嵐で沈んで……それからなの、嵐や雷が怖くなったのは……」

 

「だから……トラウマを克服しようとこんな無茶を……」

 

 まだ少し足取りがおぼつかないので、ましろが肩を貸した。

 

「潮崎教官も仰っていたでしょう。自分でさえ時化の海は怖いと。そんな急には……」

 

 だが、ましろの言葉に明乃は首を振った。

 

「……私には、時間が無いの。晴風のみんなの為にも、もかちゃん……武蔵の艦長で……私の親友の為にも……」

 

「艦長……」

 

 ましろはこんな時、どうすべきか分からなかった。

 

 明乃の行動を、自殺行為だ愚挙だと非難する事は簡単だ。実際にその通りだった。

 

 だが……

 

 ましろはこの時、何故か明乃の事でなく自分の事を考えていた。

 

 ましろの実家である宗谷家は、曽祖母から始まって代々ブルーマーメイドを輩出している名門だ。家族に限らず母や姉の友人にもブルーマーメイドが多く居て、ましろはそんな人達に囲まれて育ってきた。だから彼女は、物心付いた時には自然とブルーマーメイドになる事を目指していた。そうなるのが当然だと思っていた。

 

 今でもそれが間違いとは思っていない。ブルーマーメイドを目指すのは単なる憧れだけではない。家族の事は誰より愛し尊敬しているし、ブルーマーメイドが素晴らしい職業だとも信じている。

 

 でも……今まで自分はブルーマーメイドになるという夢に、目標に、どこまで真剣であったろうか?

 

 自分の命を……死を懸けてまで、ブルーマーメイドに相応しい人間になろうという気概を持っていただろうか?

 

 自問するが、答えは出ない。

 

 しかし、確かな事が一つあった。

 

「放っておけないですね、艦長は……危なっかしくて」

 

「え? 何、シロちゃん?」

 

 ふっと、微笑するましろ。

 

「前にも言いましたが、あまり一人で抱え込まないで下さい、艦長。海の仲間は家族……なんでしょう? なら、家族を信じて頼るぐらいしても、バチは当たりませんよ」

 

「シロちゃん……」

 

 明乃はしばらく眼を丸くしていたが、やがてにっこりと笑う。

 

「そうだね……ごめん。私が軽率だった」

 

「これからはムチャは控えて下さいよ。さぁ、早く艦内に……」

 

 ましろが言い掛けた、その時だった。スピーカーかピーと独特の音を立てた後、ビッグママの声が響き渡る。

 

<全乗員に告げる。たった今、新橋商店街船からの救難信号を受信した。この嵐で船体のバランスを崩し、傾斜して航行不能状態に陥ったとの事だ。ブルーマーメイド・ホワイトドルフィン、及び横須賀女子海洋学校には既に連絡を入れているが、現時点で最も近い位置に居るのは、この海域で訓練中の晴風と随伴艦であるクリムゾンオルカの2艦のみ!! よって訓練は中止、我々はこれより新橋商店街船の救助に向かう!! 総員配置に付け!! 救助活動の準備を整えろ!! また、艦の指揮権を返還するので艦長及び副長はすぐブリッジに上がってくるように!!>

 

「!! 艦長!!」

 

「うん、行こうシロちゃん!!」

 

 明乃とましろは肩を並べ、通路を駆けていった。

 


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