ハイスクール・フリート PRIVATEER(完結)   作:ファルメール

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VOYAGE:10 教官ビッグママ

 

「むう……」

 

 タブレットに表示された情報を睨みつつ、ビッグママは眉間を揉みほぐす。

 

 武蔵救出作戦が失敗し、安全圏に離脱したと同時に彼女が行った事は情報の収集だった。

 

 先の作戦が失敗した原因は一にも二にも情報不足、これに尽きる。確かに実戦に於いて予想外の事態は付き物ではあるが、それでも先の作戦では十分な情報があればその内の幾つかは回避できていた。

 

 その最たるものが、武蔵の射撃の精度と速度。猿島やシュペーのそれとは明らかに違っていた。

 

 電子機器に異常が生じているのなら最初は乗員の練度の差かと思ったが、その可能性はすぐに却下される。猿島に乗っていたのは横女の教員だから、当然練度は学生より上だ。その猿島でさえ射撃が中々当たらなかったのに、学生が乗っている武蔵はいきなり初弾を当ててきた。つまり、乗員の練度は関係無い。

 

 ……と、いう事は……

 

『原因がネズミだとして……猿島やシュペーに入り込んだネズミと、武蔵に入り込んだネズミは何かが違う?』

 

 そこまで推論は立つが……

 

『……じゃあ何がどう違う?』

 

 次にそう考えた所で思考が止まってしまう。

 

 やはり圧倒的に情報不足。どんな名探偵も情報無しには推理できない。情報無しの推理は推理に非ず、ただの当てすっぽうである。これでは次の作戦の立てようが無い。可能性を無視して作戦を立てるのは最も危険な行為だ。

 

 こうした事情からビッグママは改めて武蔵に関連する情報を洗い直させていたが、その中で興味深いものが見付かった。

 

「『4月5日2000、西之島新島沖で、貨物船が武蔵と思われる艦艇から砲撃を受け大破……救難信号を受信……』」

 

 学生艦が貨物船を襲う理由など存在しない。つまり、この時点で武蔵にはネズミの影響が出ていたのだ。

 

「ロック、チャートだ」

 

「はい、ママ」

 

 メインモニターに、西之島新島を中心とした海図がディスプレイされる。

 

「次はユキちゃんから送られてきた訓練航海における武蔵の予定航路を映して」

 

「了解」

 

 海図に横須賀から西之島新島までの赤いラインが引かれた。これは横須賀女子海洋学校から送られてきた、訓練航海に於ける武蔵の予定航路である。そのライン上に、一定間隔ごとに黒点が付けられて日付と時間が表示される。これは武蔵がその海域を通過する予定時刻だ。

 

「その次は……」

 

「貨物船から救難信号が出たポイントですよね、ママ。只今表示しますよ」

 

 ナインがピアノを弾くようにキーを叩くと、バツ印が海図に出現した。その位置は、ちょうど赤ラインの上に乗っている。そしてバツ印を挟む二つの黒点に表示された時刻と巡航速度から割り出されたこの地点に武蔵が居た(と予想される)日付と時間は、やはりと言うべきかピタリ4月5日20時。これで貨物船を砲撃したのが武蔵である事がほぼ確定した。

 

「だとすると……おかしな事があるねぇ」

 

「は?」

 

「おかしな事とは、ママ?」

 

「……猿島が集合地点である西之島新島へ到着したのは4月6日。猿島には海洋安全整備局のスタッフが同乗していたそうだし、我々に依頼が来た事からもそれまでネズミは西之島新島に居た事は確実……なのに猿島が到着する前の4月5日には既に、武蔵にネズミの影響が出ていた……これですよね、ママ」

 

「そういうことさ、ナイン……リケ、今度は現時点で行方不明になっている艦とその艦が最後に確認されたポイント及びロストした時刻を表示しておくれ」

 

「分かりました、ママ」

 

 コンソールが叩かれ、十数秒ほどで「五十鈴」「磯風」「比叡」「涼月」といった艦名が輝点と共に表示された。

 

「……見ての通り、ネズミの被害が出たと思われる艦の位置や時刻には全くパターンが無く、バラバラだ。よってこの一連の事件は計画的なものではなく、偶然や事故が重なった結果発生した一種のバイオハザードである可能性が高い……つまり猿島に乗っていた海上安全整備局の連中がヘマをしたから、猿島や集合していた艦艇に影響が広がった……という線を考えていたんだけどね」

 

「……違う、と?」

 

 リケの言葉に、ビッグママは頷く。

 

「……晴風が回収した「Abyss」の箱。あたしは当初、ネズミもどきが防水性のケージか何かに入って海に放されたのだと見ていたけど、それは当たっていた」

 

 あの後よく調べてみると、箱の中のケージには水とエサも入っていた。

 

「……だが分からない事が一つ」

 

「……あんなのに入っていたって事は事故でも何でもなく、明らかに何日か海を漂流するのを前提として誰かが意図的に流したって事になるが……じゃあ誰が? 一体何の為にそれをやったのか? それが分からない……ですよねママ」

 

「海上安全整備局……は、有り得ないわよね。彼等の目的はネズミを回収する事。ネズミを放流するなんてその目的と180度正反対の行いだし」

 

「あるいは当初の俺達みたいに、ネズミの秘密を掴んで金をせしめようとした連中が居たとか」

 

「それも考えにくいねぇ。仮にそんな連中が居たとして、ネズミをネタに海上安全整備局を揺すろうって魂胆なら尚更ネズミを放流などする訳がない。手元に置いといた方が良いに決まってる。それに、もしそうだったらそいつらが猿島や他の学生艦に見付かっていなければ不自然だ」

 

 むすっと頬杖を付くビッグママ。

 

 大体してここまでの事態の推移を見る限り、件のネズミもどきがもたらす影響は全く制御不可能な事象である可能性が高い。原因が大方の予想通りウィルスや細菌だとして、抗体があるかどうかさえ怪しいものだ。そんなのを闇雲に海に放っても破壊とカオスが生まれるだけだ。実行犯が破滅願望のある狂人なら話は別だが……

 

『そうでないとするなら……一体誰が居る? ネズミを海へ解き放って得する奴……政治家? 役人? 実業家? それにネズミを放ったそいつは一体それで何を得る? 金? 地位? 名誉? いや……どれもしっくり来ないな……何か違う気がする』

 

 思考は八方塞がりの迷路に入ってしまっている。

 

 だがどれも正解でないのは直感で分かる。根拠は何も無いが、考え方それ自体が根本から間違っているような予感がある。

 

 もやもやとした気分が胸に広がって、居心地が悪くなったビッグママは首をゴキリと鳴らした。

 

「俺なら事情を知っていたら、どんな大金をもらっても遠慮したいね」

 

「そうよねぇ。私も同意見よ。死んだら金は使えないし」

 

 クルー達も、犯人には見当が付かないようだ。

 

 ……だが。

 

「…………」

 

「ママ?」

 

 コンパクト片手に化粧を直しながら言ったロックは、しかし艦長がじっと自分を見詰めているのに気付いて首を傾げる。

 

「ママ? ……ママ?」

 

 口をあんぐり開けて目の焦点が合っていないので、さっさっと眼前で手を振ってみる。反応は薄い。

 

 しかし次の瞬間、物凄い速さでビッグママの右手が動いて彼の手を掴んだ。

 

「あ、いただだだだ!! 痛い!! 痛いわ、ママ!!」

 

「ど、どうしたんですか!? ママ!!」「と、兎に角落ち着いて……!!」

 

 135キロの握力で手を握られて、悲鳴を上げるロック。ミシミシと骨が音を鳴らしている。リケとナインは訳が分からないながらも制止しようとするが、しかしビッグママは有無を言わせぬ剣幕でロックに額を付き合わせた。

 

「ロック、あんた今何て言った!? 同意見よ、のその後!!」

 

「え? え?」

 

「何て言ったかって聞いてるんだーーーーっ!! 何て言ったぁっ!?」

 

 今のビッグママは鬼気迫る形相で、リケとナインもこれが只事ではないと悟って制止しようとする手を引いた。自分達の艦長は、意味無く暴力を振るう人ではない。これほどまで取り乱すとは、余程の事情があるのだろう。ロックも同じ思考に至ったらしい。涙目になりながらも、答える。

 

「し、死んだら金は使えないって……」

 

「…………それだ」

 

「ふぇ?」

 

「……それだよ。ナイスだ、ロック」

 

 ビッグママはぱっと手を放した。解放されたロックはふーふーと息を吹きかけて握り締められた部分をさする。

 

「どうしたんですか、ママ……いきなり……」

 

 尋ねるリケを振り返ったビッグママの表情は、異様にスッキリとした爽やかで晴れやかなものに変わっていた。

 

「すまなかったね、ロック。いきなり手を握ったりして。でもお手柄だよ。あんたのお陰でパズルが解けた」

 

「ママ、それじゃあ」

 

「ああ、分かった。謎は解けたよ。ピーンと来たんだ、間違いない。ネズミを海にバラ撒いて得をする奴は、居る。ただし証拠が何も無いから、シモちゃんの調査と照らし合わせる必要があるけど……それに武蔵の動きも気がかりだ。作戦の後、再びロストしてしまったからね……」

 

 ビッグママがそう言った瞬間、ベルの高い音が鳴り響いた。リケが反射的な速さで動いて、計器をチェックする。

 

「ママ……横女の宗谷校長からです」

 

 

 

 

 

 

 

 十分後、晴風のブリッジには主だったメンバーが集められ、ビッグママもこちらに移ってきていた。

 

「ママさん、今回はどんなご用件ですか?」

 

 全員を代表して、艦長である明乃が質問する。ビッグママは頷くと、場の全員を見渡して間を取って、そして語り始めた。

 

「みんな、知っての通り先の作戦の失敗で、武蔵をロストしてしまった」

 

 まずは事実確認。これを受けて明乃の表情が露骨に曇る。やはりもえかの事が気がかりなのだろう。だがビッグママは、この場では敢えて彼女の反応を無視した。

 

「ブルーマーメイド・ホワイトドルフィン各艦は他の行方不明艦に対応できるよう警戒網を敷いて動けないか整備の為にドック入り、もしくは外洋任務に就いていてすぐには戻れない状況だ……もっとはっきり言えば、武蔵を発見したとして、すぐさま駆け付けられる位置に居るのはあたし等クリムゾンオルカと」

 

 ビッグママはこんこんと踵を何度か踏み鳴らした。

 

「この晴風のみという状況なんだ」

 

 ざわっと、クルー達にざわめきが走る。全員の脳裏に、武蔵と戦闘になる未来がよぎったのだろう。そして不安と恐怖を感じている。最新鋭の装備を誇る教員艦ですら歯が立たなかったのに、自分達で何が出来るのかと。

 

「静かに!!」

 

 だがそのざわめきも、ビッグママは鶴の一声とばかりに黙らせた。

 

「そこでだ。宗谷校長から連絡があって、晴風は別命あるまでこの近海にて待機、その間は海上訓練を行う事……とね」

 

「訓練……ですか?」

 

「そうだよ。色々あったが立場上、現在の晴風は補習中という扱いになっているからね」

 

「あの、質問です」

 

 挙手したのはましろだった。

 

「はい、シロちゃん」

 

「訓練をするのは分かりましたが、我々には教官となるべき人物が……」

 

「目の前に居るだろ?」

 

 何を言っているのだという顔で、ビッグママが言った。

 

「マ、ママさんが!?」「ばあちゃんがか!?」「大丈夫なんですか?」

 

 少しばかり失礼な声もちらほら聞こえるが、ビッグママは少しも怒った様子は無く場が落ち着くのを待って話し始める。

 

「一応言っておくが、あたしはちゃんとブルマーの教員資格は持ってるよ。それに、あんた達の校長である宗谷真雪……彼女も、あたしの教え子の一人だ。つまりあたしはあんた達の校長先生の先生という訳。何も問題は無い」

 

「ワシやシュペーのクルーも、アドミラル・オーマーから指導を受けた身じゃ。だから保証する。この方は厳しいが、最高の教官だ。指導を受けられる機会など、そうそうあるものではないぞ」

 

「「「…………」」」

 

 ミーナのフォローもあるが、晴風のクルー達はビッグママが教師をやるという事にイマイチ乗り気ではないように見える。これは予想できた反応なのだろう。ビッグママは怒ったり不機嫌になった様子は無かった。

 

「……まぁ、エラそうな事ばかり言っているバアさんに、いきなり自分がお前等の先生だと言われたって納得できないだろ。まずは、あたしの腕を見せよう」

 

 そう切り出すと、ビッグママは「あれを」と、窓の外を指差した。

 

 釣られて晴風クルーが視線を移動させると、波間に何か赤い点が見えた。ましろが双眼鏡を覗くと、射撃訓練の標的ブイである事が分かった。それなりの大きさはあるが目視ではそれこそチェリーほどにしか見えないぐらいの距離が開いている。

 

「まずは艦砲射撃の手本だね。ミケ、訓練弾を使う許可をおくれ」

 

「あ、はい許可します。ママさん」

 

 艦長の許可も下りた事でビッグママは手慣れた様子で計器を操作していく。その手際を見て驚いたのは、やはりと言うべきか砲術長である志摩であった。

 

「……手で?」

 

 この時代の艦は高度に自動化されていて少人数でも運用が可能となっている。無論、射撃管制とて例外ではなく射撃レーダーによるオートロックは極めて高い精度を誇っている。しかし今のビッグママは、そうしたコンピューターの補助を全て切った上で照準を付けていた。

 

「そう。どれだけ自動化が進んでも、結局艦を動かすのは人間の仕事だ。なら、訓練では人間の性能を高めようというのがそんなに突飛な発想とも思わないがね」

 

 話をしながらも、ビッグママは片手ながら手際の良い操作を継続していく。彼女の言葉を受けてクルー達の反応は「確かに」「成る程」と頷いた者と、口には出さないものの「古いな」「アナクロニズムだね」という顔をした者が4対6ぐらいの割合で分かれた。

 

 そうこうしている間に、準備は完了した。要した時間は殆ど最短、自動照準と大差無しだ。

 

「240度に合わせて……角度は2-0-4って所か。よし、発射」

 

 間髪入れず主砲が火を噴いて、訓練弾ながら反動がブリッジに伝わってきた。二名を除いてこの場の視線全てが、ブイへと集中する。ビッグママは無言で腕を組み直す。ミーナはこれから怒る晴風クルーの反応を予想して、にやにやとした顔になった。

 

 数秒の間を置いて、水柱が上がった。訓練弾はピンポイントで命中、ブイは粉々に吹っ飛んで、海面に破片を撒き散らした。

 

「あ……当たった」

 

 芽依が「ウソォ……」と言いつつ、ましろから借りた双眼鏡から目を離した。

 

「手動で……初弾を当てた……」

 

 通常、初弾は観測の為に発射する。弾が落ちた地点を観測して第二弾以降で誤差を修正、照準を補正し、最後に命中させるのが常識だ。それをビッグママは静止目標とは言え、射撃コンピューターによる補助も一切無しで、いきなり命中させた。

 

 まぐれ、とは思えない。そう考えるには、ビッグママの一挙一動はあまりに滑らかすぎた。彼女の表情には少しの緊張も無く、鼻歌でも聞こえてきそうな軽やかさだった。これだけでも彼女がロートルではなく、恐るべき練度を持つ現役バリバリの老兵だと証明するには十二分であった。

 

 志摩は、信じられないという想いが半分、尊敬の念が半分という心境だった。彼女も砲術長を任されるだけあって射撃の腕は最高ではないにせよ誇りに思って良いものだという自負はあるが、それも射撃コンピューターのサポートがあってこそ。それらを一切用いずに恐るべき精度の射撃を朝飯前にこなしたビッグママの技量は、困惑を通り越して感動すら覚えるものだった。

 

 明乃も、目を丸くして呆然としている。ましろは、開いた口が塞がらなかった。

 

「さ、あたしが教官やるのにまだ不満な子は?」

 

 両腕を広げて、ビッグママが尋ねる。

 

 しかし答えなど聞くまでもなかった。

 

 こんな芸当を見せ付けられてまだ手を挙げるような勇者にして愚者はもう一人も居なかった。予想通りの反応が見れたミーナは、くっくっと喉を鳴らしている。

 

 一応の納得が得られた事を確認したビッグママは「よろしい」と頷いた後、今度は懐から取り出した書類を麻侖へ差し出した。

 

「機関科の子達にはこれを」

 

「ばあちゃん、これは?」

 

「昔、あたしが島風の艦長をしてた時の、機関科からの報告書を纏めたものだよ。同じ高圧缶を積んだ艦のものだから、参考になると思う」

 

 先程よりも大きなざわめきが、ブリッジに満ちた。

 

「ば、ばあちゃん島風に乗ってたのか……ですか?」

 

 ましろが明乃を見るが、艦長もふるふると首を振るだけだ。どうやらこの老艦長には、まだまだ秘密があるらしい。

 

「島風だけじゃない。金剛、赤城、大和……と言うか、艦に新しい技術が導入されたらその度に艦長をやってたよ。データ収集を兼ねてね。それでかれこれ30年、現在ブルマーで使われている艦では、殆ど艦長をやった経験があるよ」

 

「……お、おみそれしやした」

 

 とんでもない経歴だが、今の射撃の腕を見た後ではまんざら嘘とも思えない。麻侖は脱帽という表情だった。否、彼女だけでなくミーナを除くこの場の全員が。

 

「よし、ミケとシロちゃん、それにリンちゃんとココちゃんは別に話があるが……実はあたしは朝食がまだでね」

 

 ビッグママはぽんぽんと、大きなお腹を叩いた。

 

 

 

 こうして晴風の食堂にて、食べながら話をするという流れになったが……晴風のクルー達は箸が全く進んでいなかった。

 

 ナイフとフォークを動かしているのは、ビッグママだけだ。

 

「どうしたんだい? 朝ご飯、食べないのかい? 朝食は一日のエネルギー源。特にあたしら船乗りは体が資本だからねぇ。食べれる時にしっかり食べとかないと、いざという時パワーが出ないよ?」

 

 機嫌良く話すビッグママ。

 

「い、いやそれにしても……ねぇ」

 

「え、ええ……」

 

「マ、ママさん……昨日は夕食を食べなかったんですか?」

 

「うん? いや……普通に食べたけど……」

 

 聞きにくそうに尋ねる明乃に対して、ビッグママはもぐもぐと口を動かしつつ応じる。

 

 晴風クルー達の視線を集めているのはテーブルの上、ビッグママの前に置かれた皿であった。そこに乗っていたのは彼女達が今まで生きてきた時間の中で、見た事もないほどの巨大な肉であった。ステーキだ。鉄板の上を、殆ど占領してしまっている。

 

「……一体何グラムあるんですか?」

 

「800グラムだけど」

 

 事も無げに答えるビッグママ。ちなみにこの肉は晴風にあった物ではなく、クリムゾンオルカの冷蔵庫から持ち込まれた物だ。

 

「……クリムゾンオルカではいつもこんな朝食を?」

 

「そうだよ。あたしだけじゃない。ナイン達3名も同じ物を食べてる。人間最後に物を言うのは体力だからね。それに何だかんだ言って潜水艦内の密閉空間はストレスが溜まりやすいから良い物を食べなきゃだし、自分一人だけ美味しい物を食べる艦長など言語道断だからね。伊208をクリムゾンオルカに改造する際、良い食材ををたっぷり積めるように、冷蔵庫を大きくするのは真っ先に取り掛かった箇所なんだよ」

 

 冗談めかして笑うビッグママだが、これも全く冗談に聞こえない。それに食事の量は兎も角として、言っている事は普通に正論である。明乃は勿論の事、炊事員の美甘・あかね・ほまれも神妙な顔で頷いていた。

 

「みかんちゃん、ほっちゃん、あっちゃんは後で栄養学の講義だよ」

 

「「「は、はーい」」」

 

「……ミス・ビッグママは、炊事にも通じられているのですか?」

 

 と、ましろ。ナプキンで口元を拭きながら、ビッグママは頷く。

 

「今でこそ艦長だが、あたしは元々そっちの出さ。初めて海に出たのは12歳の時……艦長の船に、見習いの炊事委員として乗り込んだのさ。それで艦長や、みんなと一緒に色んな海を駆け巡り、色んな国へ行って……色んな人と出会って…………昔の仲間も、もう片手の指で数えられるぐらいになってしまった。そして今も海に居るのはあたしだけ……」

 

 しんみりした雰囲気になって、ビッグママの隻眼が涙ぐむ。

 

 以前にそうしたように、老婆は慌てて目許を拭った。

 

「昔話はまた今度、ゆっくりするとして……本題に入ろうかね」

 

 食べながら聞くといい、と前置きして「ココちゃん」と手を振るビッグママ。幸子は阿吽の呼吸で「はい」と愛用のタブレットを差し出す。

 

 テーブルの上に置かれたその画像には、天気図が表示されていた。

 

「これは……」

 

 天気図上で本来なら海の青色が占めているであろう部分は、今は白い渦が取って代わっていた。

 

 これを見た明乃の顔色が、目に見えて悪くなった。

 

「中心気圧950ヘクトパスカル、中心付近の最大風速75メートル。近海に、季節外れの嵐が発生してね。運の良い事に、晴風がこのままの進路だと明日には最接近する」

 

 楽しそうに語るビッグママ。今の言葉を受けて、鈴は思わず耳を叩いた。今のは何かの聞き違いか? このおばあちゃんは、台風が近付いているのを「運が良い」と言ったようだったが……

 

 聞き違いであってくれと祈る鈴であったが、幸か不幸か彼女の聴覚は正常だった。

 

 嵐が近付いてきていて、しかもそれを「運が良い」と発言するという事はつまり……!!

 

「ま、まさかミス・ビッグママ……この嵐の中に突入しようというのですか?」

 

「願ってもない訓練になるよ」

 

 あまりにもあっさりと、ビッグママの口が鈴にとっての死刑宣告にも等しい言葉を紡ぎ出した。

 

「あ、あの……ママさん……」

 

「横女でも、二年目の航海実習は台風の季節を選んでスケジュールが組まれているのは知っているだろう? いつかはする体験が今になっただけさ。それどころか、一年も早く嵐の海が経験できるんだ。むしろ喜ばなくちゃ」

 

 何か言い掛けた明乃だったが、ビッグママは少しだけ声を大きくして彼女の言葉を封殺した。

 

「う、うーん」

 

 恐怖がリミットを超えたらしく、鈴が目を回してぶっ倒れてしまった。慌ててほまれとあかねが、保健室に連れて行く。

 

「まぁ……りんちゃんのリアクションは少しオーバーだが、正常な反応ではあるね。海はバケモンだ。70年近く船に乗り、人生の大半を海で過ごしてきたこのあたしでさえ、時化は未だに怖い。だが、だからこそ晴風の皆は海の怖さを知っておくべきだ」

 

「……艦長、私はミス・ビッグママの意見に賛成です」

 

 賛成票を投じたのは、意外と言うべきかましろだった。

 

「……シロちゃん」

 

「ブルーマーメイドになったのなら、台風だからと救助を中断する訳には行きません」

 

 これは正論である。航海実習に出る前に、古庄教官も言っていた。「穏やかな波は良い船乗りを育てない」と。

 

 明乃は一度深呼吸して「よしっ」と拳を握った。

 

「……分かりました、晴風の針路はこのまま。台風の中での、航海訓練を行います」

 

 言葉は頼もしいが、明乃の体は小刻みに震えていた。その小さな肩に、ビッグママの大きな手が乗せられる。

 

「……ママさん?」

 

「大丈夫だ、ミケ。あたしらがついてる」

 

 明乃が顔を上げるとビッグママが会心の笑みを浮かべていて、彼女は気付かなかったが震えはいつの間にか止まっていた。

 

 幸子がテーブルに視線を落とすと、ビッグママの皿は空になってしまっていた。800グラムのステーキはものの5分で彼女の胃袋に消えたのだ。

 

「『見事にたいらげましたな。まるでこの北日本(ノースエリア)をたいらげるように』」

 

 いつも通り一人芝居が始まった。幸子とビッグママはぐっと、サムズアップを交わし合う。

 

 ましろは冷ややかにこのやり取りを眺めていた。「北日本(ノースエリア)」というのが何の事かは分からないが、どうせマンガか何かが元ネタだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、ママも思い切った事をされますねぇ」

 

 クリムゾンオルカの発令所。

 

 艦長であるビッグママが留守なので、代理を務めているナインがそう呟いた。

 

「ん? 何が?」

 

 愛読書である「太陽の黙示録」から視線を上げて、リケが尋ねてくる。

 

「嵐の中へ晴風を突っ込ませるって事だよ。ミケちゃんが昔の経験で、嵐や雷がトラウマになってるのはご存じでしょうに」

 

「だからこそ、でしょ」

 

 爪をヤスリで研ぎながら、ロックがくるりとシートを回して同僚二人へと振り返った。

 

「ブルーマーメイドになったら、嵐に巻き込まれた船を救助する任務に就く事だってある。その時、艦長の腰が引けてちゃしょうがないでしょ。今なら、私達でフォローできる。台風の中の航海経験を積むというのもあるだろうけど……この機会にミケちゃんにトラウマを克服させる事こそが、ママの狙いよ」

 

「逆療法か」

 

「でも、そう上手く行くかな?」

 

 それを受けてロックは、ふっと息を吐いて爪の粉を飛ばした。

 

「その為に、私達が居るんでしょ?」

 


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