雪の軌跡・リメイク 作:玻璃
ここから話が引き伸ばされてしまうのです。
では、どうぞ。
「……おわ……った……」
アルシェムは着替え終わってからずっと舞台袖の椅子に座り、力尽きていた。流石にやり過ぎたのである。しばらく休憩すれば復活するのだが、流石に直後に演技をつづけたのに無理があった。
幕が下りきった瞬間、エステルがアルシェムに駆け寄ってくる。
「あ、アル、大丈夫!?」
「水分……水でも可……もー絶対あれやりたくなーい……」
と、そこに舞台の前から戻ってきたジルがアルシェムのもとに合流した。アルシェムのいかにも力尽きていますという光景に苦笑し、舞台上の片づけだけは免除する。
そして、ジルはハンスを使って水分を持って来させた。ハンスはジュースを買ってきてアルシェムに手渡そうとするのだが、アルシェムは受け取ろうとしない。
「……おい、アルシェム?」
「椅子の上置いて……今受け取ったら多分零す……」
「お、おう……」
最早グロッキーなアルシェムを見て何も言えなくなったハンスは、アルシェムのすわる椅子の横に別の椅子を設置し、そこにジュースを置いた。ストローをつけてあったので助かったが、もしストローがついていなければアルシェムは水分にありつくことが出来なかっただろう。全力で剣と剣を打ち合わせてしまったせいで右腕はしびれて使い物にならない。左腕は比較的マシになっているものの、ものを握ろうとすれば痙攣していた。
しばらくして――片付けにもひと段落ついたころ。役者およびスタッフは力尽きたアルシェムを端に寄せて一服ついていた。
「いやー、しっかし驚いたわね……」
「ああ、公爵さんね。流石にちょっと空気読んでほしかったかも……あの決闘は何が起きてるか見えなくてすごかったけど」
ジルとエステルが歓談していると、周囲の役者たちが急にざわめいた。
それに気付いたジルがふと振り向くと、そこには今しがた噂をしていた公爵の執事がいた。
「あ、えっと……」
空気が死んだ。それも無理はないだろう。先ほどまで舞台上で超絶技巧の決闘をやらかしていた人物が現れたのだから。全員がかたずをのんで彼を見つめ、そして――
フィリップは、深々と頭を下げてから口を開いた。
「このたびは、閣下がご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。これも私の不徳が致すところ……」
それに誰が対応すべきなのか、と生徒達は顔を見合わせ、そして生徒会長たるジルに顔を向けた。ジルは顔をひきつらせつつフィリップに告げようとして、アルシェムに機先を制された。
「こちらこそ、閣下を侮辱することになってしまい申し訳ございませんでした。あのまま穏便に終わらせられるだけの知恵もなく……その、お怪我はありませんかフィリップさん」
この時点でアルシェムはようやく復活しており、立つことは出来るようになっていた。まだ何も握れない状態ではあるが。
「いえ、あの場合は致し方ないでしょう。私よりもむしろ貴女はご無事ですか?」
そのフィリップの問いに、アルシェムは苦笑しながらこう答えた。
「や、思ったより力強かったのでちょっとばかし手がしびれたくらいですよ」
「あれで手がしびれた程度とは……いやはや、このフィリップ、貴女様のことを少しばかり見誤っていたようです」
むしろずっと見誤っていてくれ、とアルシェムは内心で思った。もしフィリップと正面でやり合うことになれば相当ギリギリまで自分を追い詰める必要がありそうである。もしくは得物を変えるか。そうしなければ、とても剣一振りだけでは勝てる気のしない人だった。
そんなアルシェムの考えも知らず、フィリップは懐から革袋を取り出してアルシェムに差し出した。
「閣下よりお詫びを、と申し付かっております。どうかお受け取りください」
アルシェムは顔をひきつらせてフィリップに告げた。
「この劇の代表者は生徒会長のジル・リードナーです。渡すのならば彼女に。わたしは気にしていませんので」
フィリップはジルにそれを渡そうとしたが、ジルもそれを受け取るのを拒否した。流石に中身がミラだと分かっている時点で学園長を通さないわけにはいかなかったからである。
「ハンス、出来れば超特急で学園長呼んできて」
「あ、ああ……」
「いえ、私めも参りましょう。お手数をおかけするわけにはいきませぬ」
そうして、結局ジルはハンスとフィリップを連れてコリンズ学園長を探しに行くことになった。その場も自然と解散となり、ぱらぱらと役者たちは残り少ない学園祭を楽しもうと去って行った。
そんな中。ヨシュアはアルシェムを見ながらこう問うた。
「アル、アレで手がしびれただけなのかい……?」
「いや、集中力遣いすぎて精神的に疲れたけど、まーそのくらい?」
「そのくらいで済むって……」
ヨシュアはアルシェムの言葉に溜息を吐いた。もしあの決闘のレベルの戦闘をアルシェムが出来るのだとすれば――警戒するに越したことはないのである。恐らく、ヨシュアでも不意を突かなければアルシェムを倒すことなど出来ないのだろうから。
と、そこに孤児院の子供達が駆け込んできた。
「クローゼ姉ちゃん!」
そう言ってクローゼに飛びついてきたのはクラムである。クラムはそのままクローゼの『オスカー』を絶賛してはしゃいだ。それに続いてマリィはエステルを、ポーリィともう一人の少年――ダニエルという名である――は美人過ぎたヨシュアを褒めちぎっていた。
そんな中、テレサはアルシェムに近づいてこう告げた。
「貴女も頑張っていましたね。特に最後の決闘……あれは、仕込みですか?」
「もしそーだったら、わたしは真性のMだと思うんですが」
アルシェムは遠い目をしてテレサの言葉に答えた。実際、フィリップとの決闘が仕込みだったらあそこまで追いつめられはしなかった。せいぜい一撃必殺で終わらせていただろう。一応実力者ということになっているため、違和感はないだろうから。
テレサはそんなアルシェムの様子に苦笑しながらクローゼに向けて告げた。
「そ、そうですか……クローゼも、エステルさん達もとても良かったですよ。見ていて本当に引き込まれる劇でした」
「先生……ありがとうございます」
クローゼは見て貰った喜びと褒めて貰ったことによって少しばかり涙腺が崩壊しそうになりながらそう答えた。基本的にクローゼが心の底から褒められるのはテレサからのみだからである。
そんなクローゼを見つつ、テレサはクローゼにこう告げた。
「本当に……本当に、ルーアンでのいい思い出になりました」
「先生、じゃあ……」
クローゼがテレサのその言葉に反応した。学園祭を回る前に、テレサから示唆されていたこと。テレサと子供達が、ルーアン市長から提案されたことである。王都の別荘の管理を行いながら子供達の世話をする、という提案を呑むことに決めたということだろうか。
クローゼは恐怖した。このままでは自分の母のように優しくしてくれる人が遠い所へ行ってしまう。身分を隠しながら、ここまでクローゼが学園に通えていたのは寮で同室のジルと、そしてテレサがいたからである。もし彼女らがいなければ――クローゼ・リンツという存在は一年と保たず崩壊していただろう。
「ええ、市長のお誘いを受けます。いつまでもこのままではいられませんから」
「そうですか……」
クローゼは目に見えて落ち込んだ。今ここでテレサたちがいなくなれば、クローゼは他に支えを見つけることが出来るのだろうか。今は一応安定したとはいえ、これからもそうである保証などどこにもない。たとえ短い間であったとしても、『クローゼ』として生きていく中に既にテレサたちは組み込まれてしまっているのだ。どうしようもなく。それはクローゼにとってのルーティンだった。学園生活を送って、テレサのところに通って。ジルや子供達のためにアップルパイを焼いて。そんな日常が崩れてしまっては、クローゼでいられなくなるかもしれなかった。他ならぬ、クローゼ自身の意志によって。
一度は『クローゼ』を棄てようとさえ思ったのだ。孤児院が焼かれたときに。『クローゼ』でなくなって、それで孤児院を自分の権限で立て直せばテレサたちは救われるかもしれないと思った。だが、テレサはそれを望まないと知っていた。だからこそ、クローゼはその意志を呑みこんで、まだ『クローゼ』でいることを選んだ。まだ、テレサたちはクローゼから離れていかないのだと。少しだけ距離が離れるだけで、ずっと日常にいてくれるのだと思っていた。
しかし、違った。日常はすぐに崩れてしまうのだ。孤児院が一夜で焼失したように。その昔、物心つく前に愛してくれた両親のように。日常はかけがえのないもので、失いたくないもの。出来るだけ長く、続いてほしいものである。
だから、クローゼは。一度は仕舞い込んだ気持ちを静めておいたままには出来なかった。ずっとやるまいと、テレサにもそう望まれているだろうことをクローゼはするつもりだった。もう、失いたくなかった。
顔を上げ、そしてテレサに向けてその言葉を告げようとした――その時だった。
「何て顔してんのよ、クローゼ」
ジルが、クローゼの無二の親友が現れた。その背後にはハンスと、そしてコリンズ学園長がいる。ジルの手には、茶色い封筒が握られていた。
クローゼは呆然としてその親友の名を呼んだ。
「ジル……?」
「そんな顔しなさんな。あんたは笑ってる方が似合うっての。……学園長、どうぞ用件を」
ジルはクローゼにウィンクしてコリンズ学園長を促した。学園長はゆるりと微笑んでテレサの方へ向けて進み出る。その目には、慈愛が溢れていた。
学園長はテレサに向き直ると、穏やかに微笑んでこう告げた。
「久しぶりだのう、テレサ院長。折角来て頂いていたのに挨拶が遅れて申し訳ない」
「とんでもありません。本当に、素晴らしい学園祭にお招きいただいて感謝しています」
テレサは学園長に微笑み返し、そう言い終わると頭を下げた。テレサは、本当にルーアンを出立する前に学園祭に来られて良かったと思っていた。子供達にとっても、テレサにとっても良い思い出になったからである。テレサのもう一人の子供の素晴らしい晴れ舞台を見れて、本当に良かった。これでもう思い残すことはない、と思っていた。
学園長はそんなテレサに茶目っ気を入れながらこう言った。
「いやいや、来ていただいて本当に良かった。……ところで院長、この学園祭で集まった寄付が何に使われるかご存じだったかの?」
テレサは眼を瞬かせてその問いに答えた。昔から有名なことであるため、テレサも知っていたのだ。
「福祉活動に使われるとお聞きしています。去年は確か就労支援に使われたとか……」
「うむ。そうじゃのう。他にもルーアン市街の道路を均したり、他の教育機関の援助にも使っておった」
学園長の言葉を聞いたクローゼは、目を見開いて彼の顔をまじまじと見た。その顔には何かを企んでいるような色が浮かんでいる。願わくは、学園長がクローゼの思った通りのことをしてくれるように、とクローゼは願った。
そんなクローゼを見た学園長は、クローゼに小さくウィンクし、そしてテレサにこう告げた。
「さて、今回もたくさんの著名人が来て下さってな。何と寄付金が150万ミラも集まった。これをどう使うべきかと先日皆で会議を行ったのじゃ。その結果を、ジル君。テレサ院長とクローゼ君に教えてやっては貰えないかね?」
学園長の言葉を聞いたジルは、満面の笑みをたたえながらテレサとその隣に立つクローゼにこう告げた。
「教職員、生徒会、全校生徒および来賓の皆様にお願いしたアンケートによると、前回の学園祭から今回の学園祭までで一番窮地に陥った福祉施設――つまり、マーシア孤児院に全額寄付することに決まりました」
テレサは眼を大きく見開いてわななくと、声を震わせて叫んだ。
「そんな、これを受け取るわけにはいきません! これは皆様の心で、私達が受け取っても公共に還元出来ないんです……前回までの寄付金は皆様の心が皆様の生活に還元されるからこそのものだったはず……! ですから、これをお受けするわけには……!」
「テレサ院長。何も無条件で受けて頂こうとは思っておらんよ。これを見なされ」
学園長は苦笑して懐から紙を取り出した。そして、テレサに差し出す。
テレサはその紙を受け取り、そこに書かれている内容を震える声で読み上げた。
「……マーシア孤児院は、ジェニス王立学園学園祭の寄付金を、受け入れる代わりに――」
それ以上がどうしても読めなかった。涙がにじんで、前が見えなかった。前が見えなくても、そこには未来があった。未来があることが、嬉しかった。嬉しすぎて、言葉が出なかった。言葉が出なくて、代わりに嗚咽が漏れた。
クローゼが耐えきれなくなってテレサの持つ紙を覗き見て。そして――その続きを呆然と言葉にした。
「必ず子供達をリベールに貢献できるような人物に育て上げること……そして願わくは、子供達がこのジェニス王立学園に特待生で入学してきてくれることを望む……学園、長……」
クローゼも、声を震わせながら涙をこぼした。テレサがこれを断れないことを知っていて、学園長はこんな提案をしたのだ。何よりも子供達のためになり、そしてテレサとその夫ジョセフとの思い出が詰まった孤児院を手放さなくても良いように。
学園長は穏やかにこう告げた。
「これでも、受けては貰えんかね?」
「学園長……」
涙に潤むテレサの瞳には、しかしまだ迷いが見えた。このままこの寄付金を受け取って良いものか。無論子供達を社会に送り出すのはテレサの役目で、立派に育ててあげたいと思っている。それを知っていて――しかも、立派に巣立ってくれるための土壌も用意してくれている。ここまでの厚意を、果たして受け取って良いものかと。
確かに嬉しい。だが、本当に自分達がこれを受けてしまって良いのかと――ただそれだけが、テレサの心にあった。
そこで、口を挟んだのはクローゼだった。呆然としていたクローゼは、ようやく事態を呑みこめたのだ。これはチャンスだ。クローゼが、大切なものを失わないための。だからこそクローゼはテレサにこう告げた。
「先生……どうか、受けてもらえませんか」
「クローゼ……?」
テレサは、久し振りに不安定なクローゼを見た。先ほどまではいつも通りだったのに、この話になってからのクローゼはずっと不安定だったようだ。それすらも見えていなかったことに、テレサは愕然とした。
クローゼはテレサに向けてこう告げた。
「お願いします……ジョセフおじさんとの思い出のためにも……ハーブ畑のためにも……子供達のためにも、わ、私のためにも……」
声を震わせながら、涙をぼろぼろとこぼして。クローゼの言葉は、確かにテレサに届いた。――もっとも、テレサがこのままこれを受け取らずに王都へ行くと言ってしまえば、クローゼは壊れてしまうだろう。だからこそ受けるのだ。たとえあと数年で『クローゼ』がいなくなってしまうことを知っていても、今『クローゼ』が壊れるのを何よりもテレサが見たくなかったから。
「――分かりました。学園長……この話を、受けさせてください」
「ああ、勿論だとも。いずれ君の子供達がこのジェニス王立学園の門を正式にくぐるのを、楽しみにしているよ」
そうして、その場は涙に包まれた。哀しいのではない。悲しいのではない。悔しいのではなく、辛いのでもない。ただ皆が嬉しくて――そして、そのこみあげるものに、皆が涙した。
しばらく皆は泣き続け、そしてジル達が我に返ったのは、学園祭の終了を告げなくてはならないチャイムが鳴ってしまったからであった。ジルはヨシュアを引っ立て、テレサたちに断りを入れてから放送室に駆け込む。
アルシェムはその場に残り、学園長と孤児院のメンバーたちの目の前で閉会を告げること、とジルに念を押されたのでアルシェムはその場に残ったが。
「えっと、一体何が……」
「閉会の挨拶ですよ。今年に限り、こういう形になるそーです。……笑わないで下さいね?」
そうして――ジルが閉会を告げ。そして、ヨシュアの吹く澄んだハーモニカの音色が校内に響き渡る。一節を聞き終わった生徒達は、片付けの配置につきながら口ずさみ始めた。ヨシュアの吹くその歌の、歌詞を。――星の在り処、と題された歌を。
アルシェムはテレサたちの前でその歌声を披露した。お世辞にも上手いとは言えないが、気持ちだけは籠っていた。アルシェムにとってもこの曲は、この詩は思い出深いもの。過去に置き去りにした小さな自分から、唯一遺せたもの。物心ついたころの故郷と、義姉と、義兄と、義弟とともに、置き去りにする予定だったもの。
こうして――ジェニス王立学園の学園祭は、ハプニングもあったものの無事に閉幕した。
原作よりもちょっとばかし子供っぽくなったクローゼさんでした。
寄付金の端数っぽい50万ミラの説明は次回で。
では、また。