雪の軌跡・リメイク 作:玻璃
ちりちりとした焦燥感。それをずっと抱えながら、リーシャはその日の公演に臨んでいた。何か取り返しのつかないことが起きそうな予感がするのだ。しかし、それを告げたところでイリアが止まる訳もなく、また待っている観客たちのためにも公演は中止したくなかった。たとえイリアもそれを感じ取っていたのだとしても、『ならなおさら公演はやらなくちゃ』と言うだけだ。
なぜなら――ここで、『リーシャ・マオの大切に思う人間が重傷を負わなければならない』のだから。
それを知ることもなく、いつものように《月の姫》を演じて。いつもよりも愁いを帯びた表情は皮肉にも観客たちを魅了し、興奮の渦に巻き込んでいく。そのリーシャの動きに引きずりあげられるようにイリアの動きもまた洗練されていく。破滅の前のひときわ明るい輝き、とでも称するべきなのか。それは失われるからこそ美しいともいえるのだろうか。それを知る者はまだいない。
リーシャの鋭敏な聴覚が外の不穏な音を拾う。それを伝えるべきか、リーシャは迷った。伝えれば中止して貰えるかも知れない。しかし、これだけの観客にどうやって納得して貰えば良いというのか。外で銃撃戦が始まっているから、公演を中止するなどという事情を。そんな非現実的なことを理解して貰えるとも思えない。それよりは安全なこの位置に留まってもらっていた方が安心できるのかもしれない。
その微妙な葛藤を、イリアは見抜く。
「……リーシャ?」
「イリアさん……あの」
迷いを顔に、言葉を口に。それだけの暇は、リーシャには与えられなかった。いつものように、舞台監督役がイリアに声をかけるからだ。
「《太陽の姫》出番です!」
「……後で聞かせなさい。その時まで、あんたはそれを表に出さないようにしとくのよ」
イリアの声に、リーシャははっと顔をあげた。それほどまでに分かりやすく葛藤していただろうか。それをいくら感受性が高いとはいえ一般人のイリアに指摘されるほどに。そう思って周囲を見回してみれば、皆も不安そうにリーシャを見ていた。どうやらそのまま顔に出してしまっていたらしい。心を落ち着け、皆を落ち着かせるために微笑んで。自身の出番に備え――
見てしまった。扉を開き、あの《赤い星座》の狂った少女が入ってくるのを。
彼女が入ってくると同時にイリアは袖にはけ、今度は《星の姫》役でシュリが舞台上に上がり。シュリは緊張していて、自身の演技にどれだけ魂を込められるかを念頭に置いているために気付かない。他の役者たちも、そんなシュリに見とれていて気づかない。そんな中に闖入してきたシャーリィに気付いた人間は、故にリーシャとイリアだけだった。
「――ッ!」
リーシャはシャーリィが入ってきたことに怯み。そのまままっすぐ走り込んできて、シュリが彼女に気付いて。そしてシャンデリアに飛び乗り、そのライフルブレードをその鎖に当てて。それが一体何を意味しているのかを理解した時、イリアは飛び出していた。あのままではシュリが危ない。シュリはシャーリィがやっていることの意味が分からなくて立ち尽くすことしか出来ていないからだ。
ただシュリのことだけを想って起こした行動は、故に成功する。
「シュリッッ!」
「イリアさ――」
イリアに突き飛ばされ、舞台袖まで飛ばされたシュリには全てが嫌に遅く見えた。自分を突き飛ばしたイリアが満足げに微笑む。その上に落ちてくる、様々なギミックのついた巨大なシャンデリア。そのまま走り抜けてくれればいいのに、イリアの身体はその場所でよりにもよって減速している。当然だ、シュリを突き飛ばすという形で加速度が減少しているのだから。
このままだと潰される。そう思ってシュリは限界まで目を見開き、声を漏らす。
「やめ――」
その目の前に、有り得ないほどの速度で突っ込んでくるナニカ。
「ちょっ、冗談キツイって!」
その声の主は、舞台の奥へと向かってイリアを投げ飛ばした。直後、シャンデリアがその影を押しつぶす。
「あ――い、や、あああああああああああああああああああああああああああああっ!」
誰かの悲鳴。それがいつも温厚なリーシャのものであると気付いた時、シュリは言い知れない怒りを感じた。そのシャンデリアを落とした奴は。そのシャンデリアをぶった切ったのは。目の前の、年も変わらないような少女。シュリは初めて、猛烈にこの手でその少女を殺してやりたいと思った。姉のように慕うリーシャにあんな悲痛な叫びを上げさせたから。
だから、というべきなのか。目の前でシャンデリアが動き始めた時、彼女の思考は停止した。
「……は?」
「痛いっちゅーの……あーもー、ふざけんのも大概にしてよホント……」
よろめきながらもその二本の足で立ったのは、シュリも見覚えのある女だ。《特務支援課》のアルシェム・シエル。彼女が顔をしかめながらシャンデリアを持ち上げて立っていた。この時あまりの衝撃に気を取られていて彼女は気づかなかったが、そのシャンデリアは一人では持ち上げられないような代物であることだけはここに追記しておく。
それを見て、シャーリィが獰猛に嗤った。
「あはっ、あははははは! ねえ、お姉さん、やっぱりサイッコーだよ!」
「生憎だけどこっちの気分はサイッテーだよ……いてて」
肩を抑えながらアルシェムはシャーリィを睨み据えた。まだやらなければならないことがあるというのに、まさかの『自分の意志ではない行動』で負傷するという体たらく。死ななかったからよかったものの、ここで死ねばすべてが台無しになるところだったのだ。アルシェムの、□□□の、ここに至るまでの全ての人間の行動が。たった一人の死によって無に帰すところだった。
その事態を想定して嘆息するアルシェムの隣に、リーシャが立った。この際誰に何と思われても良いと思ったのだ。今ここで彼女を守れなければ、リーシャが生きている意味はないと思うほどに。
「やめて……無茶、しないで。休んでて……私が戦うから……!」
震えるその声にアルシェムが返答する前に、シャーリィは隠し持っていた大剣をリーシャに投げつける。
「そう来なくっちゃ! ほらこれ、必要でしょ?」
それを受け取ったリーシャは、無言のままそれを受け取った。想定したくもなかったが、シャーリィの愉悦を浮かべた笑みはその想定を打ち消させてはくれない。そう――『リーシャと戦う為だけに、シャンデリアを落として誰かを傷つけたかった』などという想定を。事実、シャーリィはそこまで明確に考えていたわけではなかったがそれを期待していたのだ。
それを問い詰めなくてはならないと、リーシャが問う。
「……『そう来なくっちゃ』? 貴女は……まさか、そのために、こんなことを?」
「だって、そうしないと本気のリーシャとは戦えないじゃん?」
その言葉と共に笑みを浮かべたシャーリィを見て。リーシャは切れた。もう何がどうなっても良い。ただ、目の前の少女さえ屠れるのならば。他の何を喪ったって構わないと、思った。既に居場所はシャーリィによって半ば粉砕され、戻れない位置にまで来てしまっているような気がする。故にリーシャは戻れない道へと足を踏み出すのだ。
顔を俯かせ、大剣を握り直し。そして――
「……シャーリィ……ッ、オルランドォォォォォォッ!」
裂帛の気合を以て、シャーリィに襲い掛かる。そこにいたのは《月の姫》たる期待の新人リーシャ・マオではなかった。そして東方人街の魔人《銀》でもなかった。そこにいたのはただの修羅。『二度目』の家族を喪うかもしれないその事態に、恐怖して。それをもう一度起こさせないために全てをかなぐり捨てて敵を撃滅するための修羅となったのだ。
そして、その修羅は――目の前の敵を撃滅することに集中しすぎて、アルシェムがそこから消えていたことに気付かなかった。
❖
IBCでは、猟兵が動き出したのとほぼ同じ時間帯に既に避難が完了していた。マリアベルからの指示もあった上、そこに遊撃士が常駐していたからでもある。常駐していた遊撃士アガットは、状況がきな臭くなりすぎていると見るやティータを避難させにかかったのだ。そのついでとばかりにエプスタイン財団のロバーツ主任に声をかければ、速攻で避難を始めてくれたので助かったともいえるだろう。 もっとも――ロバーツが避難を決めたのは『とある神父』と密約があったからなのだが。
それはさておき、地下にティータを避難させ終えたアガットはIBCの正門前に陣取った。門も玄関も全開にしておき、屋上から侵入してきたとしても即座に中に突入できるように対策をする。そうして、そこで敵が来るのを待つのだ。もちろんのことながら依頼を受けている遊撃士としては『ティータの安全』が第一である。だが、それ以上にクロスベルに混乱を振りまく輩に対して妨害したいと思っている。
確かにアガットにとってアルシェムは気に喰わない後輩だった。それでも、本来であれば責任を負う必要などないことを押し付けられている年下に見える少女を放置することは出来なかった。たとえ彼女がニンゲンではないと知っていても。たとえ彼女がツクリモノであったのだとしても、彼女が築いてきた絆は決してツクリモノなどではないとティータが信じているから。
故に、本来であれば推奨されない『依頼人から離れての戦闘行為』を行おうとしているのである。
「……本気みたいだな。ったく、こんな馬鹿げた策をやらかすって推測できるアイツもアイツだが、やる方もやる方だぜ」
嘆息したアガットは重剣を片手に静かにその時を待つ。彼が守らならければならないのはティータだ。だが、遊撃士協会はそれを良しとしない。そして恐らくはアルシェムもそれを赦しはしないだろう。彼はその自覚はないが、既にアガット・クロスナーという遊撃士は遊撃士協会内でも最高峰の力を持つ遊撃士となっているのだから。
その遊撃士協会最高峰の戦力に対し、《赤い星座》は意図せず最高戦力をぶつけることとなった。依頼人からのオーダーでIBCを破壊しなければならないシグムント・オルランドが飛空艇でそこに向かっている。そしてその正門に続く道の前で二人は相対した。どちらも見事な赤毛を持つ男で、どちらも重い攻撃を得意とするタイプの戦士。その二人が向き合えば、どちらかが隙を見せるまで動くことはない。
そう――隙を、見せなければ。
「アガットさんから離れて下さいっ、じゃないと、こうなんだからあああああっ!」
それはくしくも彼女が元々力を持たなかった時と同じ叫びで。しかしその時とは全く違う結果を生み出した。その結果こそが、彼女がリベールを巡る陰謀に巻き込まれ、友人をつくり、友人に追いつきたいと願った成長の証だ。それは過たず彼女――ティータの声に唖然としてしまったシグムントの鳩尾に突き刺さる。衝撃を叩きつけ、魔獣を再起不能にするレベルの砲撃は、シグムントに確かに届いたのである。
そして、それに気を取られたのはアガットも同じだった。
「おい、ティータ何して――」
「アガットさんは黙っててくださいっ! いつもいつも、私に言わずに危険なところに突っ込んで行って……どれだけ私が心配してると思ってるんですか!」
涙目でティータがアガットに言葉を叩きつける。なおラブコメに発展しそうな雰囲気ではあるが、ティータの方にその自覚はあってもアガットの方にその自覚は全くない。手のかかる妹レベルにしか思っていないのである。それを打破するためにティータがナニをするのかは、まだずっと先の未来の話だ。少なくとも今のアガットにそのつもりは一切ない。
故に窘めるような言葉を出そうとする。
「ティータ、」
「こんなの、あの時に比べればぜんっぜん危なくないです! だって堕ちませんし! そこの危ないおじさんだってレオンハルトさんに比べたら全然怖くないもん!」
アガットの言葉をぶった切り、最後はほとんど自分に言い聞かせるレベルで啖呵を切ったティータは改めてシグムントに導力砲を向けた。そうだ。全然怖くないのだ。今のティータにとって一番怖いことはアガットを喪うことで、自分が死ぬことではないのだから。おぼろげながらもティータは既に悟っている。恐らく、アガットはティータにとって家族とはまた違う種類の感情を向ける相手だと。
だからこそ、ティータはアガットの敵に向けて叫べる。
「だから、私、あなたなんかけちょんけちょんにしてあげるんだからああああっ!」
「どこで覚えたそんな言葉……まあ良い、悪いがこっから先は絶対に通さねえぜ」
そう言ってティータの前で重剣を構えなおすアガット。それを援護するように導力砲を構えるティータ。それに対し、苛立たしげな表情をするシグムント。確かに先ほどの一撃は脅威だが、要は当たらなければ良いだけの話だ。目の前の男も危険だろうが、すぐに仕留めなければならないほどの脅威だとも思えない。遊撃士協会内では高い評価を得ているようだが、それは遊撃士としてのくくりで見た時の話だろう。シグムントは少なくともそう見ていた。
勿論それは希望的観測すぎるもので。
「……チッ、まだこんな猛者が遊撃士にいるとはな」
「いや、流石に買いかぶり過ぎだろ……他にもアリオスのオッサンとかよ……」
「ふざけんなこのリア充ニワトリがァ! テメェみたいな変態がごろごろしててたまるかァ!」
くわっ、と怒気をあらわに怒鳴ったシグムントに、アガットは冷静さを奪ったと判断して畳み掛ける。勿論狙ったゆさぶりではなかったが、狙えるのならば狙うべき隙だ。どう見ても演技などではなかった。そして、この一瞬さえあれば恐らく事足りると判断したため、決着を急いだのである。背後から聞こえるキーボードの音がその恐怖を助長する。
ティータがその作業を終えようとしているとき、彼女は不意に気付いた。このままでは威力が高すぎてアガットごと葬ってしまう可能性があることに。しかし今更威力の調整など出来るわけもない。彼女が行っているのは衛星のクラッキングだ。そして、そこから高出力の導力砲を放つのである。それをとどめの一撃として使うことに何のためらいもないはずだったのだが、クラッキングする相手を間違えたのである。後戻りは出来ない。
ならば彼女が使う方法はというと――
「アガットさん! 伏せて下さい!」
ギリギリまで引き付けさせておいての唐突な警告。同時にアーツでアガットに完全防護の膜を張り、彼が伏せたことを確認してその結果を見守った。もちろん自身にも完全防護の地属性アーツを掛けたうえで、だ。背後から迫りくる瓦礫はその膜が弾き飛ばしてくれる上に、目の前の脅威はあまりのことに愕然として慌てて伏せている始末だ。
故に――
「……あの、どうやったらこんな惨状が出来上がるんですか……?」
「知るか。ティータに聞け」
駆け付けたロイド達の目の前で重傷を負って力尽きかけているシグムントと、至極複雑な顔をしているアガットをみてそんな問いが出るのも必然だろう。アガットがそれに答えないのもまたいつものことだ。原理は確かに説明できないので知らないと主張することもまた間違ってはいないのだが、彼自身の忌まわしい記憶によって説明したくないというのもまた間違ってはいないのである。
衛星からの砲撃は本気で怖い。アガットはそれを身を以て知っていた――ラッセル家の面々から実験台に使われていたが故に。故に遠い目になるのは致し方ないことであり、その隙に『IBCを完膚なきまでに破壊する』という目的を果たしたシグムントが逃げ延びていくのもまた致し方ないことであった。