雪の軌跡・リメイク   作:玻璃

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閑話・歴史の影で蠢くモノ3

 協力せよ。集合せよ。皆が集まりさえすれば、怖いものなど何もない。必要なものはたくさんある。ミラを司る経済大臣。外交を司る外交官。善悪を裁く裁判官に、政治のトップを飾るべき人物。勿論軍隊も必要だ。その場に彼女が必要なわけではない。ならばどうする。自身は象徴になれば良い。絶対不変の象徴。どうせ一度『死』ねば、その後生きられるのならば生き続けて未来永劫そのままだ。

 人間ではない、とそしる者もいるだろう。それでもかまわない。ここが自身の故郷で、ここが骨を埋めるべき場所だ。埋められるようになれるかどうかはまた別の話であるが。それでもここは守るべき場所。そこさえ守れば理不尽なまま殺されるだけの人生だったということにはならない。『クロスベルを守るため』ならば、生きられる。

 そもそも『クロスベルを守るために必要なくなる』から『死ぬ』のだ。ならば、『クロスベルにとって必要不可欠なモノ』になれる要素があるのならば辛うじて『生きられる』可能性もあるのではないか。あまりにも分の悪い賭け。それでも、彼女はその賭けに自らの全てをつぎ込む必要があった。どれだけ自身が罪深かろうが、それでも望むことがないわけではない。

 全てのニンゲンが望む、本能的な願い。『生きたい』。その願いを叶えるために、今日も彼女は動く。既に治安関係は掌握した。警察関係者とも面識を持ち、警備隊とも連携が取れるようにしている。政治面でも、必要な人材を引き抜く準備は終わっている。今現在のクロスベルの政治を担う男とは面会が終わっている。ただ、政治関係はまだ弱い。何故なら、その男はもう高齢だからだ。

 故に――

 

 ❖

 

 たった一人でカフェに座るエリィ・マクダエルは、クロスベル市内の微妙な空気の変遷を感じ取っていた。このままだと何かが起きる。それに手出しできないというのは歯がゆいのだが、《特務支援課》として働きたいと望んだのは自分自身だ。それを覆してまで政治の世界に戻ったところで、経験すら積めていないエリィが役立てることなど何もなかった。

 それでも、空気だけは何となくわかるというだけエリィという女性は政治家に向いているのかもしれない。その空気すら読めない人間はスキャンダルの餌食になって破滅するしかなくなるだから。《教団》に関わってしまった帝国系議員たちがいい例だ。彼らのように即座に民衆の噂になり、何も出来ないままに泥沼から抜け出せなくなるだろう。

 それが、自身が潔白であったのだとしても同じことだ。後ろ暗いことをしていた、と言われるだけで致命的なのだから。民衆は好き勝手にそれらを虚飾し、誇張し、そこに立つ人間を引きずり落としていく。それが政治の世界だ。地位を持ったところで引きずりおろされるまでの時間が長くなるだけのこと。いずれは泥沼にはまることに変わりはないのである。

 とはいえ、政治を行う人間がいなければ国が成り立たないのは当然のことで。エリィはカップに入った苦いエスプレッソを飲み下し、遠くの雲を見つめた。それが嫌で母は帝国に、父は共和国に去って行った。エリィもまたそれを嫌う日が来るのかもしれない。そんな日は来ないのかもしれないし、そこまでクロスベルが存在しているかどうかすら保障されていない。

 そこまで思考したところで、エリィはうめくように声を漏らした。

「そんなこと、有り得るはずがないじゃない。……でも、このままじゃ危うい気がする……」

「それは、クロスベルが、ですか? お嬢さん」

 唐突に掛けられた声にエリィはびくりと体を震わせる。いつの間にか目の前には初老の男性が座っていて、紅茶を飲んでいたからだ。その男性を今まで生きてきた中で見たことのなかったエリィは、まさかナンパではないだろうと思いつつも警戒して距離を取る。どう見ても戦闘能力のなさそうな男性だが、クロスベルの外から来た人間を警戒しておくのはもはやエリィの癖にまで昇華されていた。

 それを知ってか知らずか、彼は苦笑してエリィに声をかけた。

「済みませんな、お嬢さん。席が空いていなかったもので……相席をお願いした時には頷いてくださったと思うのだが」

「す、済みません、ぼうっとしていて……」

「ほっほっほ、良いんですよ。こんな素敵なレディと相席させて貰おうだなんていうのが虫のよすぎる話でした」

 すぐに立ち上がろうとした男性だったが、エリィはそれをあえて引き留めた。聞きたいことがあったからだ。聞きたい、というよりも確認したいことだろうか。先ほどの言葉は、まるでエリィの思考を読んだかのような発言だった。それを確認しなければならない。つい最近なのだ。そういう第六感を引き上げる《グノーシス》が外見上撲滅されたのは。この男性が持っていないとは限らない。

 エリィは表面上は穏やかに男性に告げた。

「いえ、どうぞ座って下さい。ぼうっとしていた私が悪いんですから」

「そうですか? ……では、お言葉に甘えて」

 そうして座りなおした男性は、一見普通の男性に見えた。だが、エリィの警鐘はまだ鳴ったままだ。このまま放置するわけにもいかない。だからこそ、時間を稼ぐためにエリィは先ほどの会話を使うことにした。無論男性には見えない位置で《ENIGMAⅡ》を操作し、ロイドに1コール入れてからである。こうしておけば万が一があったとしても彼ならばエリィに何かあったのだと気付いてくれるだろう。

 

 もっとも、その発信が男性に悟られていないことなどなく、ロイド・バニングスはエリィ・マクダエルからの着信があったことなど知らないのだが。

 

 無論のことながらこの男性は彼ではなく『彼女』である。『彼女』は昔《怪盗紳士》から習った変装を駆使し、全く自身とはかけ離れた人物を演じているのだ。そうすることで万が一にも自身の正体をバラさないようにしている。ここでエリィに自身の正体がばれれば面倒なことになる。それ以上に、これからともに職務をこなすうえで気まずいことこの上ないだろう。

 《ENIGMAⅡ》からロイドへの発信を防いだのはただのクラッキングだ。回線に割り込み、無理矢理その着信先を変更しただけの話である。ここにティオがいればそれに気付いたかもしれないが、生憎まだ彼女はクロスベルに戻ってきていないのである。クラッキングを見破れる人物が今ここにいないというのは『彼女』にとって幸いでしかない。

 口火を切ったのは、エリィの方だった。

「それで、先ほどのことなのですが」

「おや、何でしょうか?」

「……どうして私がクロスベルを危ういと思っていると思われたんですか?」

 飄々としたそのつかみどころのない感じに、エリィは不信感を強めた。しかし今ここにいるその『男性』はエリィを騙そうとする気など一切ないのである。今この情勢で、ヘンリー・マクダエルの孫エリィ・マクダエルが『危うい』と漏らすのならば何のことなのか。それを考えるのは容易だった。その『男性』が昔《グノーシス》漬けになっていなくともわかる。

 それをあえてぼかすように男性は答えた。

「実際、今ここにいる方で危ういと洩らすのならばクロスベルしかないかと思いましてね」

「……それは」

「漠然としたもの、と言いたいんでしょう? でも、そのカンは大切にした方が良いですよ。年寄りからの忠告です」

 つかみどころがなくとも、エリィにはそれが本心から言われたものだと分かってしまった。この男性も同じことを感じているのだと、何となく察したのである。このままだとクロスベルが危ない。その言いようのない不安を、言い知れない危機感を共有できる人間は、今のエリィの周囲にはいない。無論ロイドも、ノエルも、ランディも、アルシェムも感じてはいるだろう。何か漠然とした不安は。ただ、エリィと彼らとではその不安の方向が共有できないだけだ。

 そして、この男性はその不安を共有できそうだった。故にエリィは零してしまう。

「……なら、聞きたいことがあるんです」

「何なりと、お嬢さん」

 そうおどけて言う男性に、エリィはゆっくりと不安を言語化した。

「今のクロスベルは……何か、上手くいきすぎていませんか? あっ、勿論うまくいくこと自体はいいことだと思うんですけど、でも、何というか……」

「あまりにもクロスベルに都合が良すぎる、と。そう言いたいんですよね?」

 分かります、とその男性が言ったことでエリィはすっかりその男性への不信感を拭い去ってしまった。それが見て取れたので微妙に表情を動かした『男性』だったが、それ以上を悟らせることはない。政治家を目指すにしてはまだ純粋無垢すぎるその少女に、現実を教えてやらなければならないだろう。それも、遠くから見る形ではなく実感する形で。

 政治の世界は生き馬の目を抜くような世界だ。それを知っているのに、エリィの警戒心の薄さは敢えてそうなるように仕向けたとはいえ看過できない。『男性』はいずれエリィ・マクダエルを政治のトップに仕立て上げるつもりなのだから。このままであってもらっては困る。だからこそ、その警戒心を引き上げるべく語ることにした。

 『男性』はにこやかにそれを語ったが、しかしその内容はエリィにとっては受け入れがたいものだった。

 

 ❖

 

 そうだね、お嬢さん。語ってあげよう。このままだとクロスベルがどうなるのかを、ね。ただの妄想だと言わないでほしいな。……そう、年寄りの今までの経験から語れることだよ。わたしはまだ五十くらいだけれども、ね。ああ、もっとも、それが本当に起きることなのかどうか、というのは流石に保障しかねるから。十分注意して聞いてくれたまえ。

 まず、つい最近行われることになった国際会議があるね? そう。西ゼムリア通商会議さ。あれに参加する国はクロスベルに関係のある国とそうでない国とがある。エレボニア、カルバード、リベール、レミフェリア、後は来ないって言われてるけど一応アルテリア。クロスベルの二つの宗主国が参加する時点で物騒だ。その上、ここ数年でいくつか変な商会がクロスベル入りしただろう? 絶対に何かが起きるに違いないよ。きな臭いことがね。

 こういう会議とかで多いのは暗殺騒ぎだ。クロスベルで暗殺騒ぎを起こして得をするのは誰だい? ……そうだ。クロスベルを併合したい国。エレボニアとカルバードだね。その二つの国で標的になりそうな人は? そうだ。ロックスミス大統領、《鉄血宰相》、《放蕩皇子》だ。その内、《放蕩皇子》は放置しても良いだろうね。かの皇子はエレボニアの中ではほとんど実権を持っていないんだ。今では悪あがきなのかトールズ士官学院で《Ⅶ組》などという取り組みをしているそうだがね。

 さて、お嬢さんは――おっと、そうかい。エリィ君がたとえばロックスミス大統領だとしよう。彼がこの機会を利用してクロスベルを併合しようとするとしたら、どうする? 手段は問わないよ。手持ちの札には《銀》、《黒月》、《飛燕紅児》だ。……何、《飛燕紅児》を知らないのかい? 彼女は――ああ、彼女なんだよ。《泰斗流》の師範代だ。そんじょそこらの男性では手に負えない女性でね。頭も切れる、武にも優れるの文武両道なんだよ。

 ……成程。君の答えは『《銀》を使ってロックスミス大統領を殺させようとし、それを《飛燕紅児》が護衛として守護する』か。興味深いね。因みにわたしの答えは『《黒月》と《銀》を護衛に配置したうえで別の犯罪組織を誘導し、最後には《飛燕紅児》の情報操作で全てをクロスベルとエレボニアのせいにする』だ。どちらも有り得そうなことじゃないか。

 ん? どうしてロックスミス大統領が《黒月》に渡りをつけられるって考えられるのかって? 表向きは商会なんだ。そこに使いとミラをやれば出来ないことなんて何もないだろう? 政治の世界と一緒さ。ミラは天下の周りものってね。そういう手段を使ってくる可能性だってないわけじゃないだろう。クロスベルに手を出すだけの余裕がない状態を作っているのがカルバードならばそうなるだろうね。お姉さん、紅茶のお代わりだ。ポットで、ダージリンで頼むよ。

 逆に《鉄血宰相》の立場になって考えてみよう。エリィ君、君が《鉄血宰相》なら――どうする? ……そう。さっきの置き換えで十分できるだろうね。『《赤い星座》を使って』――おや、違うのかい? それはまたどうして。成程、『もったいない』、ね。確かに猟兵の兵力を正規軍に取り込めるのだとすればもったいない話だろう。ただ、彼らを取り込もうとすれば莫大なミラが必要になるだろうね。他にメリットがあるなら別だけど。

 ふむ。『《赤い星座》を護衛に置いたうえで、たとえば今一番活発な《帝国解放戦線》を唆させ、最後には子飼いの《鉄血の子供達》に情報操作をさせる』、か。それもまた一理あるだろうね。……ただ、エリィ君。ここまで考えておいてなんだけど、わたしはちょっと恐ろしいことに気付いてしまったよ? 君はどうだい、何か感じなかったかい?

 そうだよ。目的が、同じなんだ。彼らの目的は『クロスベル併合』。それ以外にだって面倒な話はあるかも知れないけど、彼らが望むのはクロスベルの甘い汁を吸うことだ。それを手に入れるためにだったらそんなことまでできるかもしれない。それに……気付いているだろう、エリィ君。他でもない君達が携わったことだよ。てっとり早くクロスベルをこき下ろせるだけの失態は既にあるんだ。

 まさか忘れたとは言わせないよ、エリィ君。君達は数か月前、誰と戦った。クロスベルを守るべき警備隊の人間と戦ったんじゃなかったかな? それが薬の影響だったとはいえ、その誘惑に負けた人物がいたからこそそうなったわけだ。第二、第三のその人物が現れないとは限らないわけだよ。あの時彼らがそこに付け込んでクロスベルから防衛力を奪わなかったのは偶然だとしか言いようがない。

 ……ん? 何だいエリィ君。そんな真っ青になって。……成程。確かに一理あるよ。『二国が手を取り合ってクロスベルから勢いをそぐ』――そんなことになったら、クロスベルは終わりかもしれないね。徐々に力を奪われていって、最後には戦争になるだろう。クロスベルを取り合うための戦争だ。でも、考えてみよう。そんなことになるかも知れないのに君のおじいさまが何もせず座っていられるかな?

 何と、その前に立ち上がるかも知れない人がいると。ああ、クロイス市長、か。彼が立ち上がって何か突拍子もないことを言う可能性は無きにしも非ずだね。実際に彼はそうやってIBCを盛り立ててきたわけだからね。目新しいこと、革新的なことをやってここまでのし上がってきた実績がある。だからこそ周囲の信頼も厚いし、彼なら何かを変えてくれそうな気がする、という期待がある。

 そうだね、たとえば彼がその場で『クロスベルを独立させる』だなんて言ってしまえば――戦争が起きるね。クロスベルを取り合うための戦いじゃなくて、クロスベルを潰すための戦いだ。誰も助けてはくれない。エレボニアからは『列車砲』が向けられ、カルバードに逃げようにもそこからも兵士がわんさかやって来る。リベールとレミフェリア、それにアルテリアは静観だろうね。

 おいおい、エリィ君。それは楽観視しすぎているよ。『いくらディーターおじさまでもそこまではしない』だなんて。君の知っている『ディーター・クロイス』はIBC総裁だった時の彼だろう? 君は知っているはずじゃないか、政治と権力はいとも簡単に人を変えると。本当に変わっていないかどうかを確かめる方法なんて、一体どこにあるっていうんだい?

 ああ、済まない。怒らせてしまったようだね。でも、敢えて君のために言っておきたかったんだ。絶対に変わらない人間なんていないんだよ。いたらそいつは人間じゃない。変わっていくことができるからこそ人間なんだ。まあ、それがどういう方向に向くかは別の話なんだけどね。君だって変わっただろう? 《特務支援課》に入る前と、今とでは。そういうことを言いたいんだよ。

 いつまでも変わらないように見える人間だって確かにいるよ。でもね、エリィ君。君は本当にそいつが人間じゃないって思うかい? ……そいつが人間じゃないなんてことはないんだ。変わらないように心に誓っていたとしてもだ。少しずつ、少しずつ変わっているんだ。それがどういう方向であってもね。それを人は成長と呼ぶんだ。まあ、悪化と呼ぶこともあるがね。

 誰からどう見ても、自分から見ても変わっていない奴のことはね、エリィ君。人形と呼ぶんだ。そうならざるを得なかった奴だっているだろう。それを強制された奴だっているだろう。でも、そいつは人形だ。自分の足で歩くことを放棄しているんだ。自分で考えることを放棄しているんだ。そんな奴が社会に出られるかい? でられないだろう? だから、自分の全てを投げ出して、他人に全てを委ねるようになってはいけないんだ。

 っと、話が逸れたね。お姉さん、彼女にはイチゴパフェを。わたしにはコーヒーゼリーをくれたまえ。きちんとシロップもつけてくれたまえよ? さもないととてもおいしそうな写真だというのに、完食できないからね? そんなもったいないことはしたくないのだよ。だから微妙に気を使ってさっきから砂糖を出してくれていないのは分かるけど、くれたまえ。

 

 ❖

 

 エリィは放心していた。それでも、男性は話を続ける。

「まあ、ここまで頭を使ったからね。次に君に会う時までの宿題にしよう、エリィ君」

「何を、ですか?」

「君は、この事態に対してどうしたいのか。それを聞かせてくれたまえ」

 ウィンクした男性は、注文したコーヒーゼリーをテイクアウトに変えて貰うと、そのまま立ち上がった。エリィは彼をそのまま行かせるわけにはいかず、本能的に問いを発する。

「貴方は、誰……ですか」

「そうだね、誰、と言われると少し困ってしまうかな。だから、こう名乗っておこう」

 その名前をエリィが思い出すのは、ずいぶん後になってからになる。その時にはすべてが手遅れで、その名を聞いても半信半疑だった。それを信じられたのはかなり後のことだ。年単位で後のことになる。信じられるはずがなかったのだ。まさかこの男性が『彼女』であったことなど。自分がこの時、そそのかされていたことなど、信じたくなかったのである。

 ただ、特筆するならば――

「珍しいわね……アルがコーヒーだなんて。……いや、まさかね。そんなことなんてあるはずないじゃない」

 彼女が支援課ビルに帰った時、珍しくアルシェムが居間にいて珍しくコーヒーゼリーを食べていた、ということくらいだろうか。


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