雪の軌跡・リメイク 作:玻璃
――もう囚われの姫君は卒業だ。自分の意志で歩き始めよう。そうしなければならない。これは、あったかもしれない数分前の出来事。巻き戻されて否定された、彼女が本来辿るべきだった軌跡。彼女に同情も、心配も、憐憫も与えられる必要がないからこそその過去/未来は否定された。起こり得る出来事。決して、起こってはならないと□□□が判断した出来事。
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ロイド・バニングスたち特務支援課一同とエステル・ブライト及びヨシュア・ブライトがその場に辿り着いた時、前方に倒れ伏す女がいた。服は薄汚れ、何度か攻撃を受けたようにも見受けられる。口の端からは血を流し、まさにぼろぼろと言って差し支えないほどに痛めつけられた女は、ロイド達の同僚にして得体のしれない女アルシェム・シエルだった。
「アルッ!」
レンがアルシェムを見間違うことなど有り得ない。これは過去、現在、未来において確定された事実だ。レンはアルシェムに駆け寄り、それよりも早く駆けつけたロイドがアルシェムを抱き起こす。ロイドが息を詰めて彼女の顔を見れば、そこにはいつになく力なさげな色が浮かんでいる。かなり消耗している。そう判断したレンはアーツをアルシェムに掛けようとして、彼女の口が動くのを見た。
「……レ、ン……とめ」
それは本当に囁き程度の音量で。故にレンは耳をアルシェムの口元に寄せていて――だからこそ、反応が一瞬だけ遅れた。いつの間にか握られていたナイフがレンの首筋めがけて振るわれようとして。そのままレンは姉のように想うアルシェムによって反応も出来ないままに殺される。そういう予定だった。少なくとも、当時のアルシェムを操っていた人物にとっては。
彼にとって誤算だったのは、アルシェムに有り得ないほどの《グノーシス》耐性があったからだ。故に彼女はレンに対して警告を口に出来た。振るわれる右手の動きを少しでも遅らせることが出来た。レンを切り裂く前に――左手で、レンを押しのけることが出来た。故にそのナイフは誰にも傷をつけることなく空を切る。レンはそれを見て未だ操られた状態が続いていることを見て取った。
それを認識した瞬間、レンは激昂する。
「ふざっけるんじゃないわよッ!」
それと同時に打ちあわされるナイフと鎌。本来であれば拮抗するはずのないその二つが押し合い、材質的に無理のあるはずのアルシェムのナイフが鎌を押し込む。このまま押し込めばナイフが破壊されてレンの鎌がアルシェムを引き裂くだろう。それが分かっていて、レンは焦りと共にアルシェムの顔を見た。そこに浮かぶ表情は――ない。
それでも、アルシェムの唇だけは動いた。
「……ぃ、ゃ……も、ぅ……」
もう嫌だ。レンにはそう言いたいのだと感じられた。何度も何度も繰り返し『もう嫌だ』と。実際に彼女がどう思っているのかはレンには分からない。それでも、アルシェムを止めるのはレンの役目だ。何故なら――『このまま放置すればクロスベルに害をなす可能性がある』上に『ロイド・バニングス及び特務支援課一同に危害を加える可能性がある』から。
故にレンの口から零れ落ちるのは『特務支援課の誰か』を傷つけさせないための言葉。
「……ロイドお兄さんたちはヨアヒム・ギュンターを探しなさい。レンは、アルを止めるから」
「……分かった」
ロイド達がヨアヒムを探しに動き、レンともう一人その場に残った人物がアルシェムの気を引いて――そして、残ったその人物にすら見切れないスピードでアルシェムが襲ってきた。打ち合わされるナイフと鎌。援護のためにアーツを唱えることしか出来ないエステル。一直線に祭壇に向かおうとして、アーツの発動に邪魔されつつも進む特務支援課一行とヨシュア。
ヨシュアによってヨアヒムが引きずり出されても、彼は抵抗をやめなかった。アルシェムを巻き込む範囲での幻属性高位アーツ。それで傷一つつかないアルシェムにいぶかしげな顔をし、次いで何かを悟ったような顔をしたレン。ヨアヒムを止めるのにはスピードではダメだと判断したヨシュアとエステルが入れ替わり、レンとヨシュアがアルシェムに挑む。
執行者最速のヨシュアと、それに追随するレベルの速度を誇るレン。その二人に挟まれても、普通ならアルシェムは傷一つ追わず平然と躱して見せる。だが、今の彼女は違う。何故なら操っているのはヨアヒムであり、その反応速度について行けるほど脳の処理が追いついていないからだ。肉体的には全てがハイスペック。そうなるように造られた彼女に、ヨアヒムごときが敵うわけがないのだ。
故にレンにだって付け入る隙は出来る。
「戻ってきなさい、アル!」
返事なんてしなくともいい。それで、アルシェムを取り戻せるのならば。そう思ってアルシェムに掛けられる声はヨアヒムによって穢される。それはレンの想いを踏みにじる行為。更にレンを怒らせ、完全にレンから敵対視されるための行為だ。その返答がアルシェムからのものでないことだけは、レンにも分かっている。何故なら――
「……助、けて……レン」
アルシェムは、こういう大変な時にレンにそう懇願することなどないからだ。大体一人で抱え込んで、ボロボロになってでも一人で解決する。それが嫌で、レンは強くなったといっても過言ではない。だがレンが強くなればなるほどアルシェムは更に強くなっていた。その理由をアルシェムが知ることも無ければレンが知ることもない。
結果的には自力で《グノーシス》の呪縛を解いたアルシェムが、レンを殺す寸前で思いとどまって止められる。ただ、それだけのこと。だがこれでレンは心に深い傷を負った。二度とアルシェムを喪いたくないと思うほどに。故に――
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「そんなの、認めない。ただのお人形さんの分際で私の駒に執着されるなんて」
そうして世界は否定される――
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「……正直に言って、あんたは道化として育ちすぎたんだとわたしは思う。だからさーあ? 取り敢えず一回身動き取れない実験体の気分を味わってもらおうかな、ヨアヒム・ギュンターッ!」
若干《グノーシス》が抜けたことにより呪縛から抜け出したアルシェムの叫びに、一同はようやく人心地着いた気分になった。ようやく仲間が揃ったという実感ではなく、敵対するアルシェムの攻撃にさらされずに済むという意味で。正直に言ってこれ以上連戦するのはロイド達には辛いものがある。たとえ前衛をエステルとヨシュアが頑張っていてくれていたとしてもだ。それだけの経験をロイド達は積み損ねたのだ。アルシェムに手配魔獣を回したツケがここで来た。
だからこそここでアルシェムが出張るのだ。名目はある。恨みもある。憎しみも、怒りも、全てをその男に。感情の全てがヨアヒム・ギュンターに死を求めていて。だがアルシェムは一応今のところは警察官で、立場のために警察を辞めるわけにもいかなくて。だからバラバラになりそうな感情をまとめて束ねてヨアヒムに叩きつけることしか出来ないのだ。
その手に氷の剣を構えて、アルシェムは無言のままヨアヒムに迫る。その速度は、彼がアルシェムを操っていた時の速度とは比べ物にならない。否――本当はむしろ遅いのだ。ただ、誰にも認識できないよう徹底的に自分を『殺して』いるだけで。アルシェムにとって、『自分を殺す』などということはもはや何の苦にもならない。むしろ死ねばいいとさえ思っている。気配を殺し、自分を更に『殺す』ことでほとんどの人間から認識できなくなったアルシェムから逃れる術はない。
ヨシュアはヨアヒムが殺される、と思った。
「アルッ!!!!」
その叫びを聞いてもアルシェムは止まらなかった。ヨシュアには分かる。だが、ヨシュアは自身の予想が外れたことを知った。ヨアヒムが普通に立ったままでいたからだ。ヨアヒムは例外だったのだ。確かにアルシェムから逃れることは出来なくとも、来ると分かってさえいれば防げる。本人にその技量がなくとも、ヨアヒムにはその『声』が聞こえていたのだから。
他の誰にも聞こえない、早口に指示を出す声。
『右手斬撃。頭部打撃。腹部刺突』
その声は幼い少女の声で。彼のよく知る少女のもので。だからこそ、ヨアヒムは勘違いした。□□□はヨアヒムこそを求めているのだと。ある意味ほとんどの攻撃が一撃必殺の威力を持っているのにヨアヒムが切り刻まれずかすり傷で済んでいるのは□□□のお蔭なのだ。たとえ□□□がヨアヒムを死ぬほど憎んでいて、散々痛めつけられたうえで死んでほしいと願っているとしても。
そう。今の□□□は自由にこの盤面を動かせる。今ここでヨアヒムを自害させることとて可能だ。アルシェムを自害させることも、両者を相打たせて葬ることさえ可能だ。むしろそれを望んでいると言っても良い。それでもその望み通りに進まない理由が□□□には理解出来ない。純粋に□□□の力を超える干渉などあってはならないのだ。誰にも自分の運命を決めさせないために□□□は力を手に入れたというのに。
苛立つ□□□とは裏腹に、ヨアヒムはアルシェムを煽るように口を開いた。
「《グノーシス》を破ったというのにその程度かい? 期待外れにも程があるよシエル・――」
「黙れこのロリショタコン変態野郎が。大方○○○に血液集めすぎたせいで白髪になったんだろこの変態」
「そんな訳ないだろう? ほら、こんな傷なんて《グノーシス》さえあれば簡単に治るんだよ。諦めたまえ」
アルシェムがおおよそ女子の発言ではない下劣な発言をかましたがヨアヒムは怯むことなく対応した。《グノーシス》をこれ見よがしに呑む余裕さえ見せて煽る。それでもアルシェムは攻撃をやめない。止められないという方が本当は正しいのだが、そもそも手を止める気など毛頭なかった。赦す気はない。特に、レンとティオが見ている前では。
それに、アルシェムが今狙っているのはヨアヒムに重傷を負わせることよりも先ほどちらりと見えた瓶の中身だ。飲むつもりは毛頭ないが、ヨアヒムに呑まれると厄介だ。不自然に紅い色をしたその錠剤は間違いなく《グノーシス》。その進化版だと言っても過言ではないことを、アルシェムは□□□の囁きによって知っていた。干渉が強まっている。その自覚が、アルシェムに勝負を急がせる。
だからこそ、アルシェムは失策を犯す。
「とっ――」
「何だ、これが欲しかったのか。……差し出すわけがないだろう? この《紅の叡智》を」
アルシェムの剣によって跳ね上げられた瓶は、口が開いて偶然にも全てヨアヒムの口の中に入った。質量的に無理があるが、ヨアヒムも中世の錬金術師の末裔の一族だ。中身を霊子化して取り込むことなど造作もないのである。そしてそれを取り込んだヨアヒムは――異形化した。不完全な人間の殻を棄て、異形と化してまで欲する者のために。紅の巨体が地面にめり込んでいく。
だが、ヨアヒムはそれをすべきではなかった。何故なら、それこそが彼が唯一『駒』から『操り手』になるための手段だったのだから。
そこでヨアヒムは全てを知った。全てが□□□の掌の上だということも。本当は□□□がヨアヒムを拷問の末に殺したいほど憎んでいることまで。ロイド達特務支援課やエステル達遊撃士は『名前付きの駒』で、そこにいる女の形をした人形こそが一番重要な『捨て駒』なのだと。ヨアヒムなど踏みしだかれる小石程度の扱いでしかない。
それを知ったヨアヒムは――自分の人生に何ら意味がなかったことに気付いた。故に彼は全てを台無しにし、終わらせるべく行動を始める。もう、キーアを手に入れるのは止めだ。そんなことにはもう意味などない。全てに意味がないのなら、腹いせに人生の終わりに全てを壊したキーパーソンどもをぶち殺してやる。そう思って彼らを絞め殺すべく根を伸ばす。
しかし、それを止めるのが人形の役割。
「全員下がって!」
そう言いながら一同に向けてクラフトを発動したアルシェムは、その挙動故に根に囚われた。このままアルシェムを絞め殺しても何の意味もない。彼女はどうせこんなことでは死にはしないし、どんな状態になっても生かされるだろうから。それよりもヨアヒムが殺したいのはロイド達だ。アルシェムの声と挙動で逃げられたのは関係のないレンと、どう考えても強さ的に絞め殺すのに無理があるランディ――ランドルフ・オルランド、それにヨシュアと彼に助け出されたエステル。
それならば気兼ねなく絞め殺してやる。そう思った矢先――人形が叫んだ。
「離せ」
その言葉はヨアヒムを操った。即座に根をほどかされ、復讐心を根こそぎ奪い去られた。そのことに恨みを持ったとしても、その恨みすら奪われる。その強引な簒奪はヨアヒムに畏敬を植え付け、ただ人形を貶めるためだけの傀儡と化す。この時点でヨアヒムは自我を喪っていた。最早死に至るのみだ。そうしたのは□□□で、このまま人形ともども葬り去るための苦肉の策。
そのまま□□□はヨアヒムの口を借りて言葉を吐きだした。
「貴女様ノ仰セニ従イマショウ。我等ガ神ヨ……」
誰もが息を呑んだ。その言葉の意味をとらえかねて。その意味が分かったのはアルシェム本人と、様々なヒントを与えられていたレンのみ。類推だけならばティオにも出来た。だが、この言葉だけは想定外だったのである。
ヨアヒムはなおも語り続けた。
「キーア等贋物……貴女様コソガ、我等ガ神。コレマデノ事ハ全テ貴女様ノ為ニ成シタ事……ドウカ我等ヲ導イテ下サイ……」
そして、ヨアヒムはその巨体を苦労しながら跪かせた。それは完全なる服従のポーズ。この件に関しての黒幕をアルシェムに押し付けるためだけの演技だ。そうなって特務支援課から離れて行ってくれればいい。そう思って――しかしそれは覆される。
□□□は見誤っていたのだ。アルシェム・シエルという駒を。否――『アルシェム・シエル=□□□□□□』を。
ヨアヒムを操って言わせた言葉は、完全にアルシェムの琴線に触れていた。
「ふざけんな。あんたらなんか知ったこっちゃない。あんたらがどれだけ見当違いなことをやろうが、それがわたしに関係あるもんか。あんたらが勝手に勘違いして、勝手に別のものを崇拝して、勝手にたくさんの罪なき子供達を穢したんだ――ティオも、レンも、それ以外の全ての被害者たちもッ!」
ぎしり、と心臓が軋んだ。全身にも圧力がかかり、今にも押しつぶされそうになって――それでも、アルシェムはそれらをはねのけた。怒りと共に。全ての見捨てられた子供達のために。自らの、全てを賭けて。その怒りは、□□□の干渉を一瞬であったとしてもはねのけた。今にも自分を殺さんと干渉してくる全てを、無に帰して。
「高みの見物してるだけのあんたとは違って、わたし達はどれだけ穢れた道だろうが全力で足掻いて生きてるんだ! それを、全部否定すんな!」
その叫びと共に、アルシェムは地面を砕いた。もうもうと立ち込める土煙に誰もが目を覆って――それを狙って、アルシェムは一気にヨアヒムに接近した。そして囁き声で全てを知ってしまったヨアヒムと、彼の身体を乗っ取っている□□□に対する反逆ののろしを上げる。
「我が深淵にて煌めく蒼銀の刻印よ。我が忌まわしき真実を彼らよりここへ。全てを凍てつかせ、滅せよ」
それは半ば消極的で、それでも今の彼女に出来た精一杯。どうせその内知られてしまう真実であったとしても、今はまだ時期的に早過ぎるから。これからまだまだ動かなくてはならないというのにここで消されてしまってはたまらないから。だからこそ、アルシェムは自らの真実についてを凍結し、破壊した。誰にも知られないように。
そして、そのままアルシェムは分け身だけを残してその場を去った。
そうして――ヨアヒム・ギュンターはその長い人生に幕を下ろした。