雪の軌跡・リメイク 作:玻璃
男は最早計画が止められないところまで来たのを確信して笑みを漏らした。見る者を戦慄させるような、生理的嫌悪感を覚えさせる笑みだ。ただし、その顔を見る人間は彼のいる場所にはいない。いたとしても、その人物にすら何も出来なかっただろう。男は既に、《アルカンシェル》の舞台に気を取られる標的に向けてナイフを振り下ろそうとしているのだから。
思えば、彼――アーネスト・ライズがここまでこぎつけるにはかなりの手間と時間を掛けさせられた。主に警察権力やマフィアどもに対する牽制や裏工作、という意味で。そもそも普通に生きてさえいれば、彼にはそんなチャンスなど訪れはしなかったのだが、生憎アーネストは分かりやすく――といってもそれを外に見せないだけの気概はあった――権力に執着する男だった。それを見透かした――アーネスト風に言うのならば見出してくださった――男さえいなければ、ただの一議員にすらなれずに消えていただろう。そんな、よくある人間だった。
彼が一度目の転機を迎えたのは、マクダエル市長の秘書になってから数年後だった。さまざまな折衝を繰り返して精神的に参っていたアーネストは、比較的仲の良かった議員と共にカジノを訪れたのだ。スロットの回転を見ていればなんだか心が落ち着いたし、当たった時には人生というものすら軽視しかけたほどである。特にカード等のベットの積み上げでは、運さえよければ彼の一ヶ月分の給料などすぐに稼げてしまうのである。働くのも馬鹿らしいと思えてくるのも仕方がない。
だが、アーネストはギャンブルの誘惑からは逃げ切った。あくまでもその時はであるが、議員と行った次の夜にスッた金額を考えるだけで自分には向いていないと分かっていたのである。一度に稼げる分、失う分も多い。賭けという要素が加わるような稼ぎは安定しないどころか損の方が多いと理解したのだ。故に、その晩以降アーネストがカジノの門をくぐることはなかった――あの時までは。
あの時――アーネストが、マクダエル市長に叱責されるレベルの失敗をした時だ。丁度慰めてくれるエリィも留学でおらず、誰にも自分の気持ちを理解して貰えない状況が続いたことがあった。アーネストはそれを忘れるべく――そもそも糧に出来るようなものではない――べろんべろんになるまで呑み、安酒の缶を部屋のごみ箱に投げつけつつふと思い出したのである。――あの時のスロットは、楽しかったなと。
酔いつぶれたままでアーネストはカジノに出かけ、そして――大勝ちした。楽しかった。ギャンブラーとは、あのくそじじいに怒られながらする秘書よりも、何と楽しい職業だろう。その日最後の賭けの結果をわくわくしながら待っていると、目の前が真っ暗になってきて倒れてしまったが。カジノでも呑んでいたので急性アルコール中毒で倒れたのである。
そして、二度目の転機を迎えた。搬送された先で、アーネストは人生を狂わせる運命と出会ったのである。偉大なるあの方、とアーネストが呼ぶ男は、点滴と称して薄碧い薬をアーネストの体内に注入した。そして厳しい顔で彼と約束したのである。『賭けは一週間に一度、三十分まで』と。それさえ守っていれば、莫大な借金も返せるだろうと。
借金、という言葉を聞いてアーネストは訝しんだ。昨夜は随分と勝ったはずであり、今のアーネストの懐は温かすぎるくらいに儲かったはずなのだ。それなのに莫大な借金とは、どういうことだろうか。
そしてアーネストは知る。どこぞの市長も真っ青な借金を背負ってしまったことを。
最後の勝負。あの、最後の勝負で――アーネストは有り金どころか身銭まで全て使ってしまっていたのである。あの元手が何処から出たものなのかを思い出してさらに頭が痛くなった。あのミラは――そう、丁度その時その場所にあった通帳を元手にしたものだ。つまり、クロスベル市の予算だ。マクダエル市長から任されていたそれを、アーネストはこともあろうに全力で使いこんでしまっていたのである。
嘘だ、と思っても現実は覆らない。それは全て真実であり、アーネストの身を苛む現実だったのだから。アーネストは医師の処方した精神安定剤と思しき薬を飲みつつ必死に働いてミラを補填し始めた。だが、いくら補填しても借金は減らない。その理由を後にアーネストは知るのだが、当時はまだ必死に働くことしか出来なかったのである。
共和国で先物買いをし、帝国の賭場で荒稼ぎをし、次第にアーネストは壊れていった。このままミラを稼いでいたところで、アーネストがそれを返しきれるとはもう思えなかったのである。次第に増えていく精神安定剤をかみ砕きつつもアーネストはミラを荒稼ぎしていった。不思議と、医師の言葉を信じている限りはギャンブルでも常勝であったし政治的な折衝であってもいつでも上手く行った。
そうしてアーネストは次第にその医師に傾倒していったのである。アーネストがその医師を崇拝するまでに至ったところで、その医師は目的を明かした。アーネストをていの良い駒にするためだけに。そして、アーネストはその崇高なる目的に同意した。悪魔に魂を売りとばしたのである。
そして、アーネストはあの医師――偉大なるあの方のための駒として生きることを決めたのだ。偉大なるあの方がクロスベルで生きやすくするために。偉大なるあの方の目的を邪魔させないために、マクダエル市長を利用して。アーネストは今や、偉大なるあの方の一番忠実な部下と化していたのだ。あの方とやらがアーネストをそうみているかどうかは別にして。
偉大なるあの方の言いなりになることで、アーネストは無事に借金は返し終えた。だが、ギャンブル依存症は直らなかった。故にアーネストはクロスベル市の予算から横領を繰り返し、ギャンブルで使いこんで勝った分をあの方に納め、ばれないように補填しなおしていく。その作業も次第につまらなくなっていって、遂にアーネストは思ってしまったのだ。
マクダエル市長さえいなければ、クロスベル市の予算を使いこんでも誤魔化す必要はなくなるのに、と。
本格的にアーネストがマクダエル市長の後釜に収まれば、何でも出来る。豪遊だって夢ではないし、妹のように思っていた初恋の少女をも得ることができる。偉大なるあの方もマクダエル市長が邪魔だと零しているのを何度か聞いた。ならば、アーネストがやることは一つだった――マクダエル市長の暗殺という、最悪の手段。
犯罪に手を染めるということ自体には忌避感はなかった。既にアーネストはクロスベルの法を犯している。これ以上罪が重なったところで、偉大なるあの方のために働いたという勲章になりこそすれ罪悪感など湧くはずもない。故に、アーネストは協力者であると偉大なるあの方から紹介された超大物と共に動き始めたのだ。そう――クロスベル自治州で、ほぼトップに立っていると言っても過言ではない男と。
まず、アーネストはその男――ハルトマン議長からとある情報を仕入れた。共和国から暗殺者――《銀》がクロスベルに入国している可能性があるという噂だ。それを利用し、罪を被せられる人物を確保する。何かあっても《銀》という暗殺者のせいにすればアーネストはまず疑われない。そして、彼が狙っている人物をこれまた仕入れた情報からイリア・プラティエにする。こうすることで捜査の目を撹乱することにしたのだ。
後は何も出てこない場所を探る警察をせせら笑いながらエリィを手に入れる算段を付ければいい。実際、エリィに声を掛けた時には心が揺らいでいたようだし、そうでなくともマクダエル市長が死ねば嫌でも戻って来ざるを得ないだろう。彼女にはそれだけの才能があるのだから。
さあ、後は――このナイフを振り下ろすだけでその願いは叶う。他ならぬ自分の手で――! そう思いながら、アーネストはナイフを振り下ろそうとして。
「それが本当にあんたの意志なわけ? アーネスト・ライズ」
突如暗がりから伸びてきた手が、そのナイフをもぎ取っていた。アーネストは自分の聴覚がおかしくなったのかと言わんばかりに声がした方へと全力で振り向いた。そこにいたのは――無論のこと、アルシェムだった。
アーネストは動揺のあまり声を漏らす。
「バカな……動けるはずがない――!」
「うっせー男。まずは安全確保はいどーん」
彼女は何の感情も浮かばせない顔でアーネストの腕をつかんで、投げたようだと彼は感じた。というのも、気付いた時には既に背中から地面に叩きつけられていたからだ。息が詰まるが、すぐにアーネストは跳ね起きる。しかし、既に彼の目的の者はすぐには手の届かない場所にいた。アルシェムが指示を出したのか、警備員の後ろに避難させられていたのだ。
そして、その前でアルシェムは腰を軽く落として何らかの武術の構えと思しきものを取っていた。両足を軽く開き、微かに前傾姿勢を取っている。アーネストは己の直感を信じて、スーツに仕込んでいた大剣を持って突進した。
「おおっ!」
気合を入れるべく声をあげたアーネストを見て、アルシェムは即座に動いた。警備員に保護されていたマクダエル市長の目には見えなかったが、次の瞬間にはアーネストは弾き飛ばされている。
アルシェムはそれを追いながらアーネストに向けて告げた。
「こらこら、今演技中だってば。大声は禁止。逃げられなくなっちゃうよ?」
無論、警察官としてはあるまじき発言である。ある意味ではパニックを起こさないための発言なのだが、今の状態のアーネストとアルシェムの戦いが激化してしまうことを考えるとむしろ避難させた方がいい。それをあえて考えないようにしながらアルシェムは再びアーネストの鳩尾に拳を叩き込んだ。
「ガっ……容赦、ないね」
「すると思う方が間違ってるんじゃねーの? さて宣告しとこうかな。公金横領の疑いと殺人未遂の現行犯で逮捕するぞー」
「なっ……」
マクダエル市長が絶句しているが、アルシェムはそれを知ったことではないと切り捨ててアーネストに手錠をかけた。そしてアーネストはアルシェムに無理矢理立たされ、その場所から押し出されようとする。これで終わりなのか――そう思ったアーネストは、即座に嫌だ、という感情をはじき出した。当然である。今こんな場所で捕まってしまえば、あの方にどんな迷惑がかかることか。
故に、アーネストは思い切り腕を振り回して抵抗した。
「おああっ!」
その腕が、アルシェムの頭上を猛烈な勢いで薙いだ。アーネストは頭を殴り飛ばすつもりだったのだが、アルシェムがそれを察知して自らバランスを崩して背後に倒れ込んだのだ。しかし思いのほかアーネストの腕が早くて腕が額を撫でる。一瞬意識を飛ばしたアルシェムは、無意識のままに宙返りして元の体勢に戻る。その間にアーネストは猛烈な勢いで走り始めていた。仕切り直さなければならない。
扉を体当たりで跳ね開け、そこにいた人物をひっつかんでアーネストは走った。何だかとても柔らかい女性を掴んだ気がしてふと手を見れば、そこにいたのはエリィである。驚愕に目を見開くエリィもまた美しい。アーネストは一瞬見惚れ、次いで自らを見る嫌悪の色を感じる前にエリィを気絶させた。アーネストが欲しいのは従順で可愛らしいエリィだ。決して逆らう彼女ではない。
「エリィ!」
扉に突き飛ばされてたたらを踏んだロイドもエリィが連れ去られかけているのを見てすぐさまアーネストを追い始めた。自室で寝ていることになっていたはずのアルシェムが出歩いていることに眉を顰めていたが、今はそれどころの話ではない。アレを街中に解き放っては何が起きるか分からないからだ。牽制のための発砲も、今近くに市民がいないこの状況が望ましいはずだ。
そのことを、無論アーネストは分かっていて走っていた。一刻も早くこの直線を抜けなければ良い的である。いつまでたっても発砲されない状況に疑問を持つことなく廊下を曲がり、出口へと向かうアーネスト。無論エリィの柔らかさを堪能するのも忘れない。目が醒めていれば即座に叫ばれただろうが、気絶しているエリィには出来ないことだ。
アーネストを牽制するはずのアルシェム――今導力銃を持っていると思われるのは彼女しかいない――はしかし、導力銃を抜いていなかった。それどころか、装備すらしていない。先日《真なる叡智》風呂に落とされたときに浸水してからまだメンテナンスが終わっていないため、使うことすらできないのだ。故に今持っているのは狭い場所でも取り回しのきく剣のみ。その他の仕込み武器たちは精神的疲労と肉体的疲労を鑑みて置いて来てしまっているのだ。
これでやっと外に出れた。そう思ったアーネストは――
「おらあっ!」
「止まって下さい!」
ランディのスタンハルバードに押しつぶされ、ティオの魔導杖で薙がれていた。咄嗟にエリィを守ったが、すぐに彼女をもぎ取られてしまう。アーネストは今エリィを得ることを諦め、背中にのしかかっているランディを弾き飛ばして逃走を再開した。
「なっ……!」
「あーもうっ! こんな使い方したくないってこんちくしょー!」
弾き飛ばされ、唖然としていたランディは猛烈な勢いで飛んでいく剣とアルシェムをそのまま見送って我に返る。逃がすわけにはいかない。最早逃げられないだろうとも思うが、念のために動かなければならないのだ。たとえアーネストが――そのふくらはぎに剣を生やしていても。奇妙なのは、アーネストが剣を抜く素振りもせずに走り去ろうとしていることだ。普通あのままでは大怪我どころか後遺症も残りかねない。
そして、歓楽街を出ようとしたアーネストは、背後からの叫びに一瞬だけ気を取られた。
「働けツァイト!」
アーネストの耳にも、辛うじてその言葉は届いていた。アルシェムの叫びではない。それは――『御意』と応える渋い男の声だ。気配を感じて咄嗟に飛び退こうとするがもう遅い。荒々しい呼吸と共にアーネストは地面へと引き倒される。
その正体を見て、アーネストは愕然としたように叫んだ。
「なっ……警察犬――ッ!」
そう。そこにいたのは白い毛並みが特徴の犬だったのだ。最近とみに市民に人気の、特務支援課所属の警察犬である。もっとも、本人(狼)に言わせれば誇り高き神狼であり、決して犬などではないのだが。爪が食い込み、振りほどこうとすればぎらつく牙がアーネストの眼前に晒される。パニックを起こして暴れ出そうにも、それすらも許されない。
そこに追いついてきたアルシェムが、アーネストの足を縛ってから剣を抜いた。ついでに応急手当てを済ませるあたり、まだアーネストを死なせるつもりはないようである。先日の意趣返しのつもりなのか、ネクタイで手首を、アーネスト自身のベルトで足首を拘束する。
「はい、確保ぉー。ロイド、ランディ、移送よろしく。油断したら引きちぎって逃げかねないから本気で抑えこんでねー」
そう言ってひらひらと手を振ったアルシェムは、ロイド達と入れ替わりにアーネストから離れた。ロイド達はアーネストを抱え上げて移送するしかないのかと本気で悩んだのだが、そこはツァイトが働いてくれるようだ。おかげで、ロイドがアーネストの腕を、ランディが足の拘束を押さえつけたままツァイトが移動するという摩訶不思議な光景が出来上がってしまった。
アーネストは全身をよじらせ、なおも逃げようとして叫ぶ。
「何故邪魔をした! 何故あの方の偉大さが分からないっ! 貴様もそこに在ったのだろう! ならば何故――ッ!」
その絶叫には、誰も答えることはなかった。ただ一人だけ――ティオだけが、眉を顰めてアーネストを睨んでいた。
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その後。アーネスト・ライズは無事に逮捕され、拘禁され始めてからは自失状態となっているらしい。クロスベル警察は彼の主治医の指示のもと、投薬による治療が施され始めたという。彼がクロスベルに与えた混乱は、思ったよりも小さなものだった。そう――本来『アーネスト・ライズ』という男が引き起こすはずだった混乱よりも。
まず、ヘンリー・マクダエル。彼は気落ちこそしているものの、五体満足のまま事件の終結を迎えた。事件後の事情聴取の後は丸一日寝込んだものの、その後は見た目では元気に振る舞い、他人に心配を与えないように動いていた。当然、捻挫もしていなければがくっと気力が落ちるなどということもない。ただ、変化があるとすれば好きで飲んでいる青汁モドキの苦みが三割増し程度で増えたくらいか。それにしても、すぐに元に戻ったそうだが。
次に、エリィ・マクダエル。彼女もヘンリーが一日寝込んだときには看病に帰っていたものの、再び政治の道を志そうかと思うことはなかった。丁度都合よくアーネストの代わりが見つかったこともあるため、ヘンリーを何が何でも助けなければならないという思いには囚われなかったのである。物思いにふける日もあったようだが、そこまで深刻なものでもなかった。
クロスベル市もさほど混乱することはない。一般市民は、自らの生活に直接かかわらなければどうでも良いことなのだ。自分達を脅かさなければ、たとえ議員が総辞職したとしても何ら反応することはないだろう。
この結末に、満足したように首肯する少女がいた。傷つく人は最低限で良い。幸せになれる人たちが多ければ多いほど、良い。何よりも少女が大切に想う人たちが、最低限の苦しみと最大限の幸せを味わってくれるのならば、それでいいのだ。幸せな未来のために。満ち足りた余生を、送るために。
「そのために――私、頑張るよ、ロイド」
その呟きは、空に溶けて消えた。
次は閑話です。
では、また。