雪の軌跡・リメイク   作:玻璃

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 旧168話のリメイクです。


魔獣襲撃事件、終結

 今度こそ失敗は許されない。男はそう思った。前回の人員増強の失敗で会長マルコーニからはお小言と減給までされてしまった。今回失敗すれば――恐らく、男の命はないだろう。事故と称してトラックにひかれるか港湾区あたりで水死体になるかジオフロントに投げ込まれるか、そのあたりで処分されるだろう。二度もの失敗を見逃すほど《ルバーチェ》は甘くない。

 故に、この実験は必ず成功させなければならなかった。魔獣を完璧に操る実験を。そもそも魔獣を狗笛で使役するという技術はあるのだが、今回《ルバーチェ》はとある薬をそこに取り入れたのである。その薬は魔獣たちの能力を大幅に上げるという凶悪なものだと男は聞かされていた。当然、副作用もあるのだろうが男にそれは知らされてはいない。知る必要のないことであるからだ。

 被害者が出るだけならば何ら問題はない。だが、妨害が入るのならばそれは別である。前回の失敗の苦々しい記憶が男の脳裏によみがえった。忌々しい遊撃士の猿真似ども。それに、何故かおかしなところで仲のいい不良の頭たち。彼らさえ邪魔をしなければ、今頃彼は新人教育を任される幹部となっていたはずなのだ。使われる側から、使う側へ。それは男にとっての夢でもあった。

 今度こそその夢を叶えなければならない。さもなくば男には無意味な死が待っている。だというのに、今回もまるで成功する予感がしないというのは頂けない。昼間から潜伏していた場所で、男は目撃してしまっていたのだ。彼にとっての不幸の根源――特務支援課の面々を。しかもそのうちの一人とは目まで合ってしまった。男の野生のカンでは、このままだと失敗してしまう。

 だが、彼には魔獣を使ってマインツの町民を襲撃する以外に出来ることはなかった。いっそ特務支援課を狙えば良いとも思ったのだが、一応彼らは警察の人間である。真っ向から警察に楯ついて揉み消すといった形を、決して《ルバーチェ》は取らない。なりふり構ってはいられないというのに、彼らは成功する確率が一番高い方法をとれないのだ。

 魔獣の試用以外にも出来ることがあると思いついたのは男だった。魔獣の試用の成功だけでは使われる側から抜け出せないことは分かっていたからだ。だからこそ、魔獣の脅威から守るという札を使って聖ウルスラ医科大学とマインツの町長を脅した。資金源の獲得に口を挟めるようになれば大幹部も夢ではない。失敗する可能性もあるのだが、様々なリスクを考えたうえで男はそれを実行に移した。この大博打しか男には残されていないからだ。

「……ふぅ……」

 煙草を口にした男は大きく煙を吐き出す。大して美味しくもない代物であるが、男にとっては精神を落ち着けるためにはうってつけのものなのだ。魔獣はこの煙を嫌がることも分かっているが、どうしてもやめられなかった。仕事の成功よりも男は心の安定を取ったのだ。それを無意識に見ないようにして男は同じように魔獣の試用を任された同僚たちを見回す。

 一人一人を目に焼き付けて、男は告げた。

「……分かってるな。俺達に――次は、ない」

 この場にいる何人が生き残れるだろう。男はぼんやりとそんなことを考えた。ここにいるのは前回失敗した男達である。つまり、男と立場は全く同じなのだ。失敗すれば死ぬ。もしかすると死ぬよりもひどい目に遭わされる可能性もある。それでも栄達という光を求めて彼らは戦うしかないのだ。たとえそれが全く勝ち目のない戦いであったとしても。

 男は軽く目を閉じて、ゆっくりと開けた。――時間だ。今この時を持って彼らの運命を決定づける作戦が始まったのだ。失敗は許されない。《ルバーチェ》のためにも、彼ら自身のためにも。男が右手を開いて揺らし、親指から順に折っていく。指を折るたびに手を振ってタイミングを皆に伝え、そして折る指がなくなって――マインツに向けて人差し指を突き出した状態で止まった。

 その瞬間――甲高い音が響き渡る。人間の可聴域にぎりぎり引っかかる程度の笛の音。魔獣どもを操るための楽器。そして、男達にとっては唯一無二の武器。その音に従って魔獣どもがマインツへと突撃していく。魔獣どもは人間を襲撃して重傷を負わせるまで戻っては来ないだろう。そういう命令を出したし、そう仕込んだ。誰が死んだって男には関係ない。揉み消すのが大変だろうが、男の考えた策を実行するには好都合である。

 永遠の如く長い時間が過ぎた。後で思い返せば、本当に短い時間だったのだろう。だが、男にとっては永遠に感じた。成功してくれればいい。なのに、成功する予感が全くしない嫌な気分のまま過ぎる時間は長いのだ。早く戻ってきてくれればいい。だが、あまりに早く戻ってくると不安になってしまう。男は戦地に向かった恋人を待つ女の気分が分かった気がした。帰って来ようが来るまいが、万事うまく行ったと確信できるまでが長い。

 そして、男にはその万事うまく行ったという確信が訪れることはついぞなかった。何故なら――マインツから逃げ帰ってきた魔獣は、ボロボロだったのだから。男の本能が警鐘を鳴らす。これは危険の前兆であると。懸念要素――あの忌々しい遊撃士の猿真似にして、逮捕権を持ってしまっている警察のお荷物部署――が牙をむいたのだと。

 故に、男は叫ぶ。

「――撤退だ、今すぐにッ!」

 早く逃げなければならない。この場所から今すぐに。出来れば、《ルバーチェ》の手の届かない場所まで。国境を越え、不法移民として逃げ延びる以外に彼らに生き残る道は既に残されていないのだ。逃げなければ彼らは死んでしまう。人間として生きられなくなる。死ぬだけならばまだ良いかも知れない。男の脳裏には一番最悪な想像が浮かんでいた。

 

 有り得ない話ではない――魔獣を操るのに使う薬が、何故霊長の長たる人間に効かないことがあろうか、などという話は。

 

 故に、結果的には彼らの罪をクロスベル自治州内に知らしめるためにやってきた声は、彼らにとって死神と同義。まだ市長の孫や幼女の声ならば彼らは気にせず逃亡できたかもしれない。だが、彼らの耳朶を打ったのは特務支援課の最後の女の声だった。

「はっはっは、悪いね。折角の現行犯なんだしさー……そうみすみすと撤退なんてさせると思う?」

 ぞくり。彼らの背に戦慄が走る。彼女の――アルシェム・シエルとかいう女の声は、それほどまでに底冷えのした声だった。何の憐憫も感じられないその声に、仲間たちは思わず足を止めて戦闘態勢になってしまった。足を止めず、走り去っていたならばまだ生き残るチャンスはあったのかもしれないというのに。だが、現実には男も含めた全員が足を止めて彼女に向かい合っていた。

 ただ、その場にいたのはアルシェムだけではない。《ルバーチェ》にとって仇敵ともいえた男の弟ロイド・バニングスもランディ・オルランドも、とにかく全員が集結しているのだ。最早マインツ方面へと向かって逃亡する道はなくなった。男は唇を噛んで逃げ道の一つを潰した特務支援課の面々を睨みつける――鉱山町に逃げ込んだところで逃げ切れるわけでもないという冷静な部分のつぶやきを完全に無視して。

 にらみ合ったところで声を発したのは、リーダーとしての役割を果たしているらしいロイドだった。

「クロスベル警察、特務支援課だ! 大人しく投降しろ!」

 その瞳は義憤に燃えていて。それを見た男達はロイドを激しく憎悪した。光の当たる世界でだけ生きてきた彼は、これから男達が受けるであろう苦しみを絶対に理解出来ないからだ。たとえ闇に兄を殺されたのだとしても、ロイドは決して闇に堕ちることはない。自分達のように煉獄の釜で灼かれるような事態には決して陥らないのだ。それが何よりも憎らしい。男達の見当違いの憎しみは、せめて一人でも道連れにしてやろうという妄執にすり替わる。

 その妄執が、男達を狂わせた。

「……ふふ……」

「ははは……」

 全員が狂ったように嗤い始めて。男は手にしていた狗笛を吹き鳴らした。その際にティオ・プラトーが微かに顔をしかめたのを見ても彼の良心は痛まない。男はどうしても生き延びなければならないのだ。待っている家族は男にはいないけれど――それでも、たった一人。一目見た時から恋をしていた、あの女に告白するまでは。その想いが叶わないものだと知っていても。そうでなければ死んでも死にきれない。

 ――かかれ。狗笛でそういう意味の音の羅列を魔獣たちにたたきつけて、男達も特務支援課の面々に飛び掛かろうとして――出来なかった。

「出来ればそれ以上罪を重ねない方がいいと思うんだけどなー……ま、何となく末路は分かってるけど情けを掛けられるような立場じゃないし、ごめんね」

 顔を微かにしかめたアルシェムから発されるプレッシャーに、男達は耐えられない。彼らは知っていたのだ。下部構成員達のまとめ役にして元《西風の旅団》所属のガルシア・ロッシからよく敵対している組織の人間に向けられるそれと同質のプレッシャーを。しかも、アルシェムが発しているのはガルシアとは比べ物にならないくらい濃密な殺気。

 それでも辛うじて声を絞り出せたのは、奇跡に近いのかもしれない。一瞬だけ温まったかのような喉が、かすれ声でも指示を通せるほどの大きさで声を発せたのだから。ただし出た声は残念ながら全く以て事態を解決できるようなものではない。彼らの運命は、ここで捕縛されることになっているのだから。

 

「ふざけるなあッ!」

 

 だからこそ、それは魂の叫びだった。確かに情けを掛けられるほど落ちぶれているのだろう。後がない彼らにはそれも当然のことだと受け入れられる。だが、アルシェムが彼らの状態を把握しているのだとすれば、彼女もまた闇に属していた/属している人物なのだ。その人物が警察に所属していて、彼らを捕縛する。男にとってそれは悪夢と同然だった。

 しかし、アルシェムからかけられる声は最初彼らを引き留めた時とは違って憐憫に満ちている。

「ま、闇に堕ちたのが間違いだったってことだよ。たかがこの程度で失敗するようじゃーね。否応なしにここにいる人たちには申し訳ないけど――」

 その後のアルシェムの言葉は欺瞞に満ちていた。誰が受け入れられるだろうか。彼女から発された言葉を。どうせ畜生にも劣る扱いを受けるのならば、自分から人間を棄てろととった男達は激昂した。濃密な殺気のみちた場所でその殺気の主に逆らうなど愚の骨頂であると、自ら死の淵に近づくのと同義だと分かっていてなお彼らはその言葉に激昂するのだ。

 

 彼女は言った。出来ることなら、このまま狂ってしまえば良いよと。

 

 それは、今までのことを否定するのと同義だった。自らの成したことの因果を引き受けず、狂ってしまえば良いなどと。いい具合に狂えば確かに苦痛を苦痛だと感じなくなるかもしれない。畜生にも劣る扱いをされても何も思わないかもしれない。だが、彼らは失敗すれば人間として扱われないことを覚悟でここにいるのだ。恐怖はあれど、覚悟はしているはずなのだ。濃密な殺気の前にその覚悟が薄れていたとしても、それがなくなることだけは有り得ない。

 激昂した男達は、故に気付かなかった。目の前の女が自らの意志で彼らを踏みにじろうとしているわけではないことに。微かに震える左手が閃いて、導力銃から信号弾が放たれても、逃げ場はないとでも言うかのようにアリオス・マクレインの存在を明かしたとしても。彼女がその場から一歩も動かなかったことに、誰も気づくことはなかった。

 そうして――男達は捕縛された。悲壮な顔をした男達の中にすぐに釈放されるという楽観視をしている者は、いない。

 

『因果応報、だもん。□□□は悪くないもん』

 

 連行される最中、男達はそんな少女のつぶやきを聞いた気がした。

 

 ❖

 

 夜が明けてから、ロイド達はソーニャ達に戦車でクロスベル市まで送り届けられた。戦車の中では警備隊からの謝罪と感謝の言葉を受けとり、そのままクロスベル警察にご案内されたのである。本来ならば警察官たるロイド達に事情聴取の義務はなかったのだが、事情が事情だった。上からの圧力がかかったのだ。それに、何人か再起不能になった人物もいるとあっては事情聴取は免れなかった、というのもある。アルシェムの言葉で実際に発狂してしまった人がいたというのがネックだ。

 懇切丁寧に事情――ここで《ルバーチェ》に送還されるだろう犯人たちはこの先恐らく人間としての扱いを受けないだろうから、せめて狂っていればそれも乗り越えられるのではないだろうかと判断した――を説明したアルシェムは、次にやれば問答無用で懲戒免職にされることと減給六か月に処すという処分を受け入れた。自らの成したことの結果がそこにあった。

 正直に言って、アルシェムに当時の記憶はほとんどない。判断の内容すら後から咄嗟に出したものだ。彼女が自発的に動いていて覚えているのは、男達相手に軽く殺気をぶつけたところまで。それ以降はおぼろげにしか覚えていない。今までと違う現象に眉を顰めてはいたものの、やってしまったのはアルシェム自身である。その責任は、取らなければならなかった。

 故に、事情聴取が終わったのは夕方で。ほとんど精神的に力尽きかけた彼女の前に、とどめを刺す案件が出現した時点で彼女は遠くを眺めて一言つぶやいた。

 

「もげろ、クソガキ」

 

 ただしその言葉が誰かに届くことはない。大きく溜息をついたアルシェムは、そこに居座っていた大型魔獣――神狼ツァイトを放置して自室にこもってふて寝したのであった。

 

 ❖

 

「冗談じゃねえッ!」

 男は、それが夢だと思っていた。呆然としている彼の視線の先に映るのは男達のために怒り狂うガルシア・ロッシの姿。今度こそ見捨てられる。そう思っていたのはやはり間違いだったのだろう。制裁は十分に受けさせられたが、それ以上のことはされていない。せいぜい全身に打撲があるくらいだ。骨折もさせられていないし、その気になれば歩き回ることだって出来る。

 男達――魔獣襲撃事件の実行犯たち――の処分を、ただのリンチで済ませてくれたのはガルシアの温情である。マルコーニは彼らに薬物を盛って魔獣と同等の扱いをすればよいと判断していたにもかかわらず、ガルシアはそれを拒否したのだ。男達の全身に恐怖という名の制裁を植え付ける、という建前の元に。ガルシアはこの中で一番闇らしからぬ義理堅い男だったのだ。その義理堅い男が、卑怯な手段で部下たちに力を手に入れさせることを呑むはずがなかった。

 マルコーニが冷たい一瞥を男に投げかける。男はそれを見返すことが出来ない。何故なら、失敗したから。会わせる顔もないはずなのに、逃げることすらできなかったから。だが、ガルシアはそれを赦さなかった。彼の拳が唸り、男の頬を打ち据える。

 そして、襟元を掴んで男を吊し上げ、低い声で告げた。

「目を逸らすな。テメェのしたことくらい、テメェで受け入れろ。庇ってやれるのはこれっきりだ。分かったんなら――どうしたいのか態度で示せ」

 男は喉を震わせて、ガルシアにつるし上げられたままマルコーニの瞳を見た。まだぎりぎり男は折れてはいない。折角ガルシアが与えてくれたチャンスを不意にするわけにはいかないのだ。もう後戻りできないと思っていたのに、温情でここにいられる。ならばガルシアのために動かずしてどうしろというのか。男の瞳は獣の如くぎらついていた。

 そして、つるし上げられたまま男は告げる。

「次こそは――次こそは、絶対にお役にたってみせますッ!」

 そこにもし、などという言い訳は介在させない。何故なら、そんな問答は無意味だからだ。もしだなどと考える暇があるならば、男は自らを鍛え上げるのに使うべきなのだ。それが、男に出来る唯一の恩返しなのだから。彼はもはや《ルバーチェ》に仕えているわけではなかった。男はこの時この瞬間を以て『ガルシア・ロッシ』という個人に仕える忠実な部下となったのだ。

 野心にぎらつく眼をした男に、マルコーニは告げる。

「ふん。出来るものならな。だが、次失敗すれば――分かっているな?」

「はい」

 そうして、男はしばしの間生きながらえた。それが幸いだったのかどうかは――誰も、知らない。

 

 ❖

 

 ――それは悪夢だった。暗い劇場で魔都の将来を憂える老人が大剣に叩き切られ、それと折り重なるようにその孫娘が白濁に身を染めて倒れ伏している。その傍らには壁に縫い取られたまま血の涙を流す正義漢がこと切れており、必死に抜け出そうとした後なのか傷口が酷くゆがんでいた。その劇場の入り口では魔導杖ごと首を飛ばされた哀れな少女が大量の血しぶきを上げながら倒れ込んでおり、その惨状を作り出した男と相打つように鬼の形相をした男性が力尽きている。

 そこに、銀色の靄が襲いかかって全てを否定する。老人は多少のけがをしただけで生き残り、孫娘は純潔を奪われず、正義漢もそんな孫娘と共に犯人を追っている。出口で哀れな少女と男性が男を挟み撃ちにし、何事も起こらず取り押さえられる犯人。その犯人の姿すら銀色の靄がつつみかけて――止まった。犯人を消すわけにはいかないのだ。そんなことをすれば、□□□の大事な人が悲しむから。

「駄目、これじゃあ足りない。もっと、もっと――」

 その少女の声は欲に塗れていた。その欲を際限なく叶えるための術を彼女は持っていて、彼女はその力を振るうことに何のためらいもなかった。何故なら、その力は彼女自身の持つ力でもあったのだから。




 次は閑話です。

 では、また。

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