それではどうぞ!
平塚静は教師である。
担当科目である現国の教え方と、それに加え生徒の悩みに対しての態度が真摯であるということもあって生徒からの評判は決して悪いとは言わない。教師からの評判は賛否両論ではあるが。
しかし、平塚静にとっての良い教師像とは常に達観して公平に救済をするものではないのかと考える。救済という程でもないかもしれないが。
聖職者として特定の誰かに入れ込むのは間違いであるはず。彼女はそう思う。
平等に扱えるからこその聖職者ではないのだろうかと。
だから彼女はそんな評判を耳にしても決して有頂天になどなりはしない。
自分にとっての間違いが他人にとっての正解であってもそれは何ら意味を持たない。自分にとってのでなければ。
そんな自分にとっての間違い、誰かに入れ込むことを続けるのはきっとあの少年のせいだろう。
自分が世界にとって間違っているのだと理解しつつも、それが自身にとっての正解だからと、愚行とも呼ばれてもおかしくない自己犠牲による解決を繰り返す人。
あの腐った目を見た時から決めていた。その濁りを溶かして美しいものを見せると。
彼にとって汚く塗り固められたこの世界を。
正しくある者が救われない悲劇ばかり。
そんな間違っている世界で、救いを続ける彼はきっと正しいのだろう。
だからこそ家族以外で最も近いとも言えた彼女らから拒絶された。状況を正しく理解出来ているかはわからないが、それでも少年がニヒルな笑みを浮かべながらサナトリウムと言ったあの部屋が、少年の、少女達の拠り所であるべきはずの場所がいま瓦解しようもしているのだけは理解している。
以前彼が言ったのを私は忘れない。
変わらないことを望むやつだっている、と。それは彼が自身の孤独に対して指摘を受けた際に言ったことでもある。
確かに彼は変わることを望んでいないのかもしれない。それでも今の状況だけはどうしても見過ごすことが出来なかった。
このままではきっと彼自身が嫌った嘘に自分を塗り固められてしまうから。
だからこうして間違いを貫き続けることを心に誓ったのだ。
平塚静の朝は平均的な女性の朝の早さに比べやや遅い。
それは身支度に時間が掛からないためか、食事が適当であるかはいまは話すべきところではない。
起き抜けの頭を醒ます為に冷たい外の空気を窓から取り入れる。
冬の朝の空気は冷め冷めとしていて美しく澄んでいる。
女性らしい起伏に富んだ体を一杯に反らせて深呼吸。脳から爪先の全身に至るまでが取り入れた空気によって段々とではなく一気に醒めていく。
醒めれば、キッチンへと赴き朝食を作り始める。あまり料理が得意でない彼女の朝は本当に適当ではっきりいって女性らしさが皆無である。
食材があまり無いため、カップ麺に。お湯を注ぎしばらく待って食べ始める。無類のラーメン好きである彼女の琴線に触れたこのカップ麺はカップ麺の中で唯一のお気に入りであるようだ。
食べ終え、身支度を済ませ机上に置かれた煙草を手に取る。
部屋の中ではヤニが付き汚れるため吸わない彼女は外に設置されたベランダで吸うよう心がけている。
慣れた手つきで煙草に火をつけ肺いっぱい空気を吸う。そして口から紫煙を味わう様に吐き出す。
虚空を揺蕩う紫煙はゆらゆらと陽炎に似た不安定さがあった。
確かな像が見えず揺らぎ続ける。けれどそこには隠しきれない熱が伴っているのは誰もが知るところ。
ひとえに彼、比企谷八幡もきっとあの部屋の中に何かを求めたのだろう。明確な形を知らずとも求め続けるその姿勢。
彼が何を求めているのかはわからないがきっとその何かは得ることで世界を変えるはずだ。
汚泥に塗り固められた世界を打ち壊し、澄み切った世界へと変貌させる。
彼を更生させると彼女は言った。
けれど彼に果して更生など必要なのだろうか。
由比ヶ浜結衣の一件で知った、捻くれた思考の中に生き続ける確かな優しさ。
この世界では持ち得るものが珍しくなった今、彼の様な人間はどれほどいるのだろうか。稀有な存在であることは間違いない。
そして彼の優しさに救われた者が何人もいる。悪しき方法、外法であってもそれが彼なりの優しさの表し方。
雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣。
自分すら知り得ない彼なりの優しさで、二人を庇って今に至るのではないだろうか。そう思う。
正しい者が救われない今。
優しい者が損をする今。
我が道を貫く者が辛い今。
今を生きることに苦難するから三者にが一堂に会したあの暖かな部屋。
あの部屋を守りたい。自分の中での理想に背いても。
そして彼らを見守ることが教師としての仕事であると。
再び煙草を口にくわえ、胸の深くまで達するよう息を吸う。それに伴いやってくる熱と少しの煙たさを、確かな誓いと共に噛み締める様に呑み込んだ。そして吐く。喉を鋭さが駆け抜けても、それを歯牙にすらかけずまた紫煙を虚空へ、空の彼方へと深く深く吐き出した。
吐き出た紫煙はどこまでも空高く駆け上る。
そして、数度風に揺られ儚く消え去るのを彼女は凛とした瞳で見据えていた。
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「お兄ちゃん朝だよー!」
愛しの妹の声により意識を眠りの底から浮かび上がらせる。
急浮上に耐えられない意識は再び底へ底へと堕ちようと、未だ身体を覆う布団を求める。
時計を見ればいつもの朝。どうやら今日は遅刻せずに済んだらしい。それも当然、妹に起こしてもらっているのだから。
「おはよう小町」
部屋のドアから顔を覗かせる妹に朝の挨拶をして布団を抜け出す。
「おはようお兄ちゃん!」
朝から元気な妹である。
朝の寒さに身を震わせつつも妹と共にリビングへと赴き、妹の作る美味しい朝食を食べる。
これが比企谷家にとって、確かな日常と言える一日の始まりだ。
「しっかり掴まっとけよ」
「お兄ちゃんこそ事故るのはやめてね?」
自転車のペダルを力強く踏みしめると力量に比例してそれだけの距離を進める。
道中小町と色々な話をしながら学校へ向かう。
やはり朝は冷えるな、と思って身を縮ませていると背中から何か暖かさが伝わってくる。
「どうした」
俺の背中にその華奢な、確かな熱を持つ体を預けながら、
「寒そうにしてたからさ、あっためてあげようかなーって。今の小町的にちょっとポイント高い?」
「はいはい超高い。まじ俺の妹超妹だわ」
おざなりな返しをしつつも、どこか感謝していた。
「へっへーん」
後ろの小町の頬が緩んでいるのがその声で理解出来る。
「ありがとな」
「なにがー?」
ここぞとばかりにとぼける妹の態度に辟易しつつも、俺はそれ以上なにも言わない。
きっと分かっているから。15年という長い月日を共に過ごした肉親。それは最も近い他人とも言える存在であっても、言葉を交わさずとも互いの意を理解できる境地へ至る。
無償の愛を無限に提供し合うこの関係。
そんな関係こそがきっと兄妹の、家族のあり方だろう。まさに俺たちは兄妹の鏡とも言えるわけだ。俺の中だけだけど。
「頑張ってね」
優しさという名の温もりが込められた言葉を送られる。
寒さ染み入るこの季節、この胸には確かな熱を伴う炎がゆらゆらと煌めいて俺に温もりを与えているような気がした。
「いってきまーす!」
こちらへ手を振る小町に手を振り返し、その姿が見えなくなると再度自転車を漕ぎ始める。人一人分の重量を失った自転車のペダルは段違いに軽く思える。
俺は始める。
自分に対する答えを出すために。
一人の願いを叶えるために。
妹にかけられた言葉を胸に、寒々しい冬の空の下。
風になるように学校までの道を自転車と共に疾駆した。
辺りにはタイヤの回る音が何処までも木霊する。
学校の廊下は暖房がついてなくとも人が集まっているせいか外よりも幾分暖かい。
他人の目に触れぬよう足早に教室を目指す。
「おはようございます。比企谷先輩」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには今登校したのか、鞄を肩に担いだ水島の姿があった。
「おう。今日は遅刻しなかったのか」
昨日を思い出し、茶化す様にそう言った。
「するわけないですー!」
水島もおどけるようにそう返す。
「今日昼休み時間ありますか?」
声が真剣味を帯びる。依頼についての事だろうか。
受けると言った以上俺には果たすべき義務が発生する。問題を解決へと導く義務が。
キャパシティにあった仕事を受けるのが基本だが、こればかりは断ることが出来なかった。
どうしても見てみたい。その優しさの、強さの理由を。
きっと事態が進むにつれて明らかになるその理由。それが彼女を優しさ、強さたらしめるものならばそれは如何なるものなのだろうか。
「大丈夫だ。いつも1人で飯食ってるしな」
心無し水島の視線に慈しみが含まれたような気がする。
「おい待て、何だその目は。やめろ、そんな目で見るな」
「私が友達になりましょうか?」
「必要ない」
「本当ですか?」
顔に笑みを張り付かせた 水島がしつこく聞き返す。
返すことすら億劫になった俺はスタスタと、
「購買の裏」
場所だけ言って、足早にその場をあとにした。
午前の授業を終え、ベストプレイスへ。
購買でパンを買って向かう。
続く扉を開くと、水島が既に自分のであろう弁当を広げ、食べ始めていた。
「うす」
「どうも」
それ以上の言葉はなく、俺も自分のパンを食べ始める。
食べ終わり手持ち無沙汰になって来た頃、
「では始めましょうか」
いつの間にか食べ終えた水島が話し始める。
「以来の内容は、お前の友達が生徒会長になるのを阻止すればいいんだよな?」
「ええ、そうです」
「そのお前の友達を嫌う奴らが勝手に推薦人名簿を集めて、推薦した、と」
「まったくですね」
「こんなこと言っちゃ悪いんだがそんなに嫌われてんの?お前のお友達」
「ええ、そりゃあもう。なんせジャグラーばりにそれなりの男をとっかえひっかえ手玉にとっては、ポイですからね」
なんだそれ。恨まれて当然じゃないんですかねそのお友達。
だが、こいつがそこまで本気になるということはきっとなにか助けて貰ったとか、そこらへんの事情があるのだろう。きっと優しいはずだ!八幡信じてる!これで三浦みたいなギャルだったら助けるのやめるわ。絶対バカにされるし。
「マジか……それ助ける必要あるの?」
無粋だとわかっても聞き返した。
「ありますよ!違う人から見れば確かに悪女ですけど、私の友達です!助けるに決まってます!」
押し付けがましい熱い友情。
どこか虚ろな空っぽな関係。けれどそれを大事に思うやつだっているはずだ。現に身近にも一人いた。そんなものを大切にするやつが。
「そうか。まあそれは置いといてだな。具体的な方法がいまいちわからん」
「そこなんですよね……なんせ私も生徒会とかに立候補した経験が無いんで、ほんとお願いした側なのにすいません」
目に見えて落ち込む水島を他所に、思考を回転させ答えを導き始める。
まずは依頼内容。生徒会長になるのを阻止。現状では立候補者が他にいなくこのままでは信任投票になるのがほぼ確定らしい。
まず方法としてだが、一つはほかの立候補者の擁立。これは正直いってほとんど無理に近い方法だ。もしも興味のあるものが他にいればもう立候補は済ませているはずだ。なんせ期日は数えるほどしか残っていないのでこれより後に立候補者が出てくる可能性は極めて低いだろう。なので却下。
二つ目は応援演説での候補者の心証の悪化。
応援演説で出鱈目を垂れ流し、心証を悪化させ、信任させずして候補者への投票を阻止する。
これが今のところの最善だろうか。演説の際の話す内容はともかく、
「やるやつなんだよな……」
はっきりいってこんな悪役を水島にやらせるわけには行かない。仮にも依頼人。以前の奉仕部であれば水島自体を動かすことを考えるだろうが、今は俺個人。余計な事情を、奉仕の精神とやらを挟まずに進められる。
「どうしたんですか?」
俺の呟きに反応して小首をかしげる水島へ、
「お前は本当にその友達を助けたいか」
方法を導き出すために問う。
きっと俺の顔は今までにないほど真剣な面持ちをしているだろう。それもそのはず。
相手が真剣であるなら、俺も真剣を持って返すのが道理だ。
「助けたいです」
――方法は決まった。
「悪いがお前の友達には少しだけ恥をかいてもらうが、気にするなって言っといてくれ」
言葉の意図を掴めない水島を横目に俺は立ち上がると、
「用事があるからもう行くわ」
それだけ言ってベストプレイスを後にした。
昼休みの喧騒が鳴り響く廊下を歩く。向かうは生徒会室。
方法が確定して残すは実行のみだ。
今回は期間がある。
練るに練った内容で、今回こそ俺は望む結果へと導いてみせる。
「失礼します」
「あれ?比企谷君 だ。どうしたの?」
心が音を立てて癒されていくような錯覚を受ける。いつ見ても癒される。
目の前の人と話していると自分の汚いところが綺麗に洗い流されてしまうようだ。この人もしかしてマイナスイオンでも吐いてるのだろうか。
馬鹿な考えを抱きつつ、 向き合う人の瞳を見据える。穏やかさが伺える。こんな立場の俺にそんな目をしてくれる人はあまりいないだろう。以前最低と言われても未だ接してくれる。そんな優しさともこれでお別れだ。
深呼吸して、心を落ち着かせる。感情の漣は未だ立たず、じっとその時を待っている。
俺は話を切り出した。
「城廻先輩。……応援演説の件で話があるんですけど」
「ん?応援演説?」
―――今回こそは絶対に掴み取ってみせる。
頑張ると決めたから。
頑張れと言われたから。
目指すものへと手を伸ばし続ける。
たとえその姿が大衆に滑稽だと笑われようとも。
「はい」
カツカツと硬さのある音が廊下に広がる。
昼食を終え、残る仕事を片付けようと生徒会室へ向かう途中、平塚静は偶然比企谷八幡の姿を見かける。
遠目から見ても真剣だとわかる表情からはなにかの覚悟の表れが見える。
「まさか……」
そういえば、一度友人を名乗る少女が訪ねてきたことがあった。そしてその際に言ったのだ、本当に助けたいのなら彼のところへ行くといい、と。
少女は何かを抱えている。それを目を見て理解した私はそう言ってしまったのだった。
今回の問題はあの二人には荷が重い。
奉仕部の勝負の今の状況はもはや比企谷の一人勝ちになりつつある。
雪ノ下も、由比ヶ浜も確かに解決へと導いているのだが、どうしても対応しきれない。文化祭の時では雪ノ下は体調を崩してしまうこととなった。そして相模の件を比企谷へと。
奉仕部へ行くように促した私の責任だ。
今回も同じだ。良かれと思い問題を押し付けてしまったからこそこうなってしまったのだと遅く気づくのだ。
自分の間の悪さを呪う。
比企谷へ再び目を向けると、道からして生徒会室へと向かうのがわかった。
そして同時に考えが及んだ。
彼はきっと繰り返す。
その身で絶対悪となり、すべてをひとりで背負うつもりだ。
―――君が傷つくのを悲しむ人だっている。
私は彼にそう言った。傷ついて欲しくないから。育ってほしいけれど、傷付くのは悲しい。
彼はきっと私の想いを理解している。聡明な彼だから、理解はしているが、事態が事態なだけに見過ごすことが出来なかったのだろう。彼はどこまでも優しいから。
もう彼は傷つくべきではない。
傷付いた分だけ救われるべきだ。
柄にもなくそう思う自分がいた。
比企谷に気づかれぬよう歩を進め、彼が生徒会室に入るのを合図に、部屋へと近寄り耳を側立てて、声を聞いた。
望まぬ未来へ導かぬために。
彼女は動くのだ。
お読み頂きありがとうございました!
平塚先生多めとなった今回の話は如何だったでしょうか!
ではまた次回!