さおりんが、学校を休んだ。
戦車道全国高校生大会の決勝戦をひかえたある日のことである。
武部沙織。通称さおりん。
大洗女子学園普通一科の二年生。
言わずと知れたあんこうチームの通信手にして、花の十六歳。
自称、恋愛の達人。
座学と空論をなにより重視し、イメージトレーニングに全精力を傾けた結果、この若さにして「戦わずして勝つ」の極意にたどりつき、一部の下級生から、畏怖と尊敬と親しみを込めて、武部流モテ道開祖の名をたてまつられた大物にして重鎮である。
通信手――
本来それは、戦車が連携を取るには、なくてはならない役目。
だが、戦車道の試合では、車長は咽頭式マイクをつけるのが通例。
通信手を介さなくても通話ができる。
そのせいで、いてもいなくてもたいして変わらないんじゃと言われたりもする。
少々気の毒な役回りなのである。
「武部殿がお休みとはめずらしいですねぇ」
そう言ったのは秋山優花里。
もふもふ広がった髪が特徴的な、あんこうチームの装填手である。
「もしかして、失恋のショックで寝込んでいるとか……」
五十鈴華が、おっとりとほおに手を当てる。
「ええ!? 武部殿にそんなお相手がいたんですか!?」
「いいえ。でも、沙織さんなら、相手がいなくても失恋するくらいはできそうな気がして……」
横で聞いていた西住みほが小さく苦笑する。
「麻子さんはなにか聞いてないの?」
「家庭の事情だと言っていたが」
冷泉麻子が眠そうに答える。
いまは昼休み。
四人は格納庫に集まって、これからⅣ号戦車の上で昼食をとるところだ。
「え~? 武部せんぱい、いないんですか~?」
下からとろけるような声を出したのは、短い黒髪の下級生。
ウサギさんチームの宇津木優季だ。
「どうしよう、あや」
呼びかけられた大野あやが、困ったように首をかしげる。
眼鏡をかけたツインテールの子。
優季と同じ一年生である。
「武部さんに用事?」
みほが尋ねる。
Ⅳ号戦車のそばに立ったふたりが、困ったように顔を見合せる。
「用事っていうか……」と、あや。
「用事っていえば用事なんですけど……」と、優季。
「ああ、恋愛講座ですか」
ゆかりが察する。
武部沙織の恋愛講座――
恋愛については一家言あると自称してはばからない沙織が、休み時間や放課後に一年生を聴衆にくりひろげる、学校非公認の私設講座である。
実際的なご利益はあまりない、とされる。
だが、日常のどんなささいなテーマでも恋愛に結びつけ、複雑なモテの連立方程式をあざやかに切り開いて、理想の相手との運命的な出会いから、結婚までの綿密なデートプラン、披露宴のお色直しの回数、二次会の幹事の選定、家族構成、自宅の間取り、ローンの返済方法から霊園の立地にいたるまで、すらりと解を導き出してみせる大胆かつアクロバティックな理論構成は、聞く者に感銘を与えずにはおかない。
話しているあいだの沙織のふるまいが非常に面白いというので、ごく一部のマニアックなファンから、大道芸の一種として深く愛されているのである。
下級生ふたりの反応は、ところが、歯切れが悪い。
「そっちじゃなくて……」と、優季。
「そっちもあるんですけど、それだけじゃないっていうか……」と、あや。
「どうする? 別のせんぱいに頼もうか?」
「でも――」
Ⅳ号の上で、みほとゆかりが顔を見合わせる。
「西住、西住はいるか」
格納庫の扉の近くで声がする。
声の主は、首にチョーカーのようにリボンを巻いた、片眼鏡の三年生。
河嶋桃。
カメさんチームの一員にして、生徒会の広報担当である。
「あ、はい――」
みほがふり返る。
「悪いが、頼まれてくれるか。忙しいなら、ほかの者でもかまわないが―― そうだな、武部はいるか?」
「沙織さんはお休みですけど」と、華。
「そうか。ではやはり西住だな」
「あれぇ、西住は先約ついちゃった?」
反対側から、のんびりした声。
だぼっとした黄色いつなぎを着て、片手にレンチをもった、短い髪の三年生。
自動車部の中嶋悟子である。
「戦車道のレギュレーションについて、聞きたいことがあるんだけど」
「すまないが、こちらが先だ。またにしてくれ」
河嶋が横目で中嶋を見やる。
「でも、試合に関わることだから。直前の検査でハネられたりしたら困るから、ルールの細かいところを確認しておきたいんだよ」
中嶋も簡単には引き下がらない。
「秋山がいるだろう。こいつも戦車にはくわしいぞ」
「うーん。でもなぁ。そっちはほんとーに西住じゃなきゃダメな用事なのかい?」
「当然だ。生徒会の仕事だぞ?」
三年同士の静かな力競べである。
「あの、わたしなら大丈夫です。一方を終わらせてから、もう一方に」
「いえ、西住殿。それには及びません。不肖秋山、いつでもお手伝いを」
戦車の上から、みほとゆかりがおそるおそる呼びかけたとき――
また、別の声がする。
「やあグデーリアン、約束だぞ。今日こそ東部戦線について語り明かそうじゃないか」
短い黒髪に、古代ローマのトーガのように巻いた赤いマフラー。
カバさんチームのカエサルこと鈴木貴子だ。
「西住隊長、冷泉先輩、助けてください!」
「武部先輩か五十鈴先輩でもかまいません!」
「バレー部存続の危機なんです!」
そこに走り込んできたのは、赤と白のユニフォームを着た長身の下級生たち。
赤のはちまきをしめているのが近藤妙子。
長い金髪をヘアバンドでまとめて、背中のあたりで結んでいるのが佐々木あけび。
アヒルさんチームに所属するバレー部のふたりだ。
「武部は休みだそうだぞ」と、桃ちゃん。
「じゃあ、冷泉先輩、お願いします!」
「ピンチなんです! マッチポイントを先取されちゃったんです!」
「ゲームセット寸前なんです!」
そこへ――
「ちょっと、冷泉さん! 反省文の提出がまだなんだけど!」
黒のおかっぱに、変な声。
そど子こと、風紀委員の園みどり子までやって来た。
その光景を物陰からのぞきながら、アリクイさんチームのねこにゃーがため息をつく。
「ああ、今日こそは三式中戦車の主砲の操作を教えてもらおうと思っていたのに…… こんなに人がいっぱいじゃ話しかけられないよ…… やっぱりダメなボク……」
足までとどく超ロングの金髪にぐるぐる眼鏡、そして猫耳カチューシャ。
どこからどう見ても立派なイロモノである。
ねこにゃーの背後から、ももがーとぴよたんが顔を出す。
「メールでアポをとるのはどうだモ?」
「そうだっちゃ! われらネトゲチームは、ネットの世界でならいくらでも饒舌になれるはず!」
かたや、オールバックのもさもさ髪にヘアバンド、ヘソ出し制服にロングブーツ。
かたや、無造作な銀髪ひとつ結びにそばかす。
こっちのふたりも、どこからどう見ても立派なイロモノである。
「そ、それだ……!」
いったんは表情を輝かせたねこにゃー氏が、携帯電話を取りだしたところで、背中を丸めてがっくりとうなだれる。
「だ、だめだ。ボク、西住さんのメアド知らなかった。西住さんだけじゃなくて、同じクラスにメアドを知ってる子がひとりもいなかったよ……」
「ああっ、しっかりするなり!」
「予想外の方面からダメージを受けてるぴよ!!」
さっきまで静かだった格納庫は、いつの間にやら大騒ぎだ。
「今日こそは覚悟してもらうから!」
そど子が下から麻子の片腕をつかむ。
「待ってください! 私たちも冷泉先輩に用事が!」
バレー部のふたりが、麻子のもういっぽうの腕を引っぱる。
「なに、あなたたち! 風紀委員の仕事の邪魔をするつもり!?」
「でも、冷泉先輩がいちばん向いてるんです!」
「冷泉先輩じゃなきゃ困るんです!」
どちらもとった腕を放さない。
「の゛びる゛」
左右から引っぱられて、麻子が困り顔で抗議する。
「なんだかわからないが――」
カエサルが不思議そうに見回しながら言う。
「行こう、グデーリアン。エルヴィンたちが待っているぞ」
中嶋が呼び止める。
「ああ、待って。秋山を連れていかれると困るんだ」
「では、西住は私がもらっていっていいんだな?」と、桃ちゃん。
「それも困るなぁ。西住か秋山、どっちかは置いてってほしいんだ。頼むよ」
横からウサギさんチームのふたりが割って入る。
「あの、わたしたちも西住せんぱいか、秋山せんぱいがいいんですけど。あ、五十鈴せんぱいや冷泉せんぱいがだめっていうんじゃなくて、話を聞いてもらえるなら――」
「なんだ。誰でもいいんじゃないか」と、桃ちゃん。
「それは、その」と、あや。
「いいって言うか、よくないって言うか」と、優季。
「五十鈴に頼んだらどうだ。手が空いているようだぞ」
「わたくしでしたら、いつでも……」
Ⅳ号の上で、華がにっこりする。
それを聞いてあわてたのが、アリクイさんチームのねこにゃー。
格納扉から一歩進み出て、声をふりしぼる。
「あああのっ…… あの…… あのっ!!」
ふだん声を張ることの少ないオタクならではの、痛々しい大声。
全員が言葉を止めてふり返る。
そんな針のむしろのような状況から、即座に逃げ出さなかっただけたいしたもの。
合わせた両手の人差し指をもじもじ回しながら、ねこにゃーが訴える。
「あの、三式の操作について、聞きたいことがあるっていうか…… だからその、五十鈴さんに話を聞かせてもらえると、うれしいかなって。あの…… それだけです……」
自嘲の笑みを、ふひひ……と唇の端にこびりつかせたまま、ねこにゃーはまた扉の陰に隠れようとする。
桃ちゃんがため息をつく。
「しかたないな。五十鈴、行ってやれ」
「ええっ、じゃあ、わたしたちは~?!」と、優季。
「河嶋せんぱい、ひどいですー!」と、あや。
「早合点するな。おまえたちの話もちゃんと聞いてやる」
「じゃあ、西住はもらっていっていいんだね?」中嶋がⅣ号に登ろうとする。
「待て、そうは言っていない!」桃ちゃんがあわてる。
「行こう、グデーリアン。昼休みが終わってしまう」と、カエサル。
「ああ、待って。いま行かれたら困っちゃう」と、中嶋。
「わたしたちも、やっぱり秋山せんぱいがいいっていうか――」と、あや。
「ああっ、どうしましょう」ゆかりがもじゃもじゃ頭をこね回す。「まさかこの秋山優花里が、みなさんからこんなにモテモテになる日が来ようとは! うれしい悲鳴です! 連合軍のパリ入場のようですぅ!!」
「とにかく、冷泉さんは渡さないから! 私のだから!」
どさくさにまぎれて、そど子が麻子の腕を抱きかかえる。
「いつ私がお前のものになった、そど子」麻子が抗議する。
「そうです! 冷泉さんは誰のものでもありません!」
「みんなの共有財産です! ひとりでも多くの人のために役立てるべきなんです!」
バレー部のふたりも抗議に加わる。
「それならわたしも冷泉せんぱいがほしーいなぁ~。引っぱっちゃお、えいっ☆」
優季が横から麻子の腕をとる。
「ちょっと、下級生!?」そど子が狼狽する。
「ああ…… あの、あのっっ! れ…… 冷泉さんの話も聞けたらうれしいなって、うちのももがーが……」
「お、おお、お願いしますモモ!」
「ピヨ!!」
扉のそばで、アリクイさんチームの三人が頭を下げる。
「私が!」
「こっちが!」
「助けてください!!」
「お願いします!!!」
「西住!」
「秋山!!」
「冷泉さん!?」
「五十鈴せんぱい!」
「ええい! このままではらちがあかん!」桃ちゃんが眉をつり上げる。「とりあえず、この場は生徒会にまかせてもらう! みんな、それでいいな!」
「待ってったら。それじゃ公平にならないよ」と、中嶋。
「そうです! 風紀委員の意見だって聞くべきです!」と、そど子。
「なにか競技をして決めるのはどうでしょう! たとえばバレーとか!!」
「じゃんけん!」
「あみだ!」
「棒倒し!」
「ね、ネトゲもいいと思うな、ボク……」
格納庫の混乱が極限に達したとき――
「みなさん、落ち着いてください」
おだやかな声が、それを静かに裁ち切った。