「そろそろ、半分くらい経ったかな……」
西門付近に生えている樹の枝葉に紛れてじっと身を小さくしているバニラが、ぽつりと呟いた。枝葉の向こう側に見え隠れしている太陽は、演習が始まった頃よりも明らかに高い位置にいる。
バニラの憶測通り、ちょうど演習開始から1時間が経過しようとしていた。そしてその間、彼女はここから1歩も動いていなかった。当然ながら、彼女の懐にある袋にはメダルは1枚も入っていない。
しかし、それで充分だった。彼女の目標はとにかく“怪我をしないで無事に演習を終えること”なのである。おそらく成績に響くだろうが、背に腹は代えられなかった。
――仕方ない……。自分の実力を考えたら、これは仕方ないことなんだから……。
頭の中で自分にそう言い聞かせていると、ふいにアルの顔が脳裏を過ぎった。
「……アルちゃんは、大丈夫かな」
バニラは一瞬だけ表情を曇らせて、すぐに気を取り直した。リーゼンドとの一戦で、アルの強さは散々目の当たりにした。教師相手にあれだけ堂々と立ち回っていた彼女のことだ、そうそう他の生徒達に後れを取ることは無いだろう。
――でもあのときは1対1だったし、もし大勢に囲まれたりしたら……。
元来思考が後ろ向きなバニラは、何回もアルが生徒達にやられる想像をしては、その度にぶんぶんと首を横に振ってそれを振り払っていた。
そのとき、
「――――」
「っ!」
誰かの声が微かにだが聞こえ、バニラは息を呑んだ。音をたてないように細心の注意を払いながら、恐る恐る下へと目を凝らす。
そこにいたのは、長い金髪を大きな赤いリボンで後ろに縛る女子生徒。
――えぇっ、ダイアっ!
その少女は、バニラが演習中に顔を合わせたくない生徒ランキングで、ぶっちぎりの1位に入るダイアだった。彼女は後ろの髪をゆらゆらと揺らしながら、何かを探すように忙しなくあちこちに顔を向けている。
いったい彼女は、何を探しているのだろうか。
――メダルを探してるのかな……? でももうこの時間になったら、大体のメダルは取り終わってるはずだし……。
だとしたら、メダルを奪い取る相手を探しているのだろうか。とはいえ、こんな演習場の端っこを探すよりも中心へ行った方が、少しは出会う確率が高くなりそうなものだが。
バニラが疑問に思っていると、ダイアがふいに口を開いた。
「まったく、バニラの奴、全然いないじゃないの……」
「――――!」
思わず声を出しそうになって、バニラは両手で自分の口を押さえた。
「せっかくの良い機会だから、魔術師なんてできなくなるくらいボコボコにしてやろうと思ってたのに、どっかに隠れてるのかしら……」
バニラが見つめる中、ダイアはそう呟いてにぃと嗤ってみせた。これからしようとしていることを思い描いて浮かべたその笑みは、まるでアリを潰して遊ぶ子供のような、無邪気でありながらとても残酷なものだった。
――ど、どうしよう……。
本当なら今すぐにでも逃げ出してしまいたいが、今出ていけば確実にダイアにばれてしまう。
バニラは自然と両手を握りしめて、目を固くつぶって祈っていた。その様子は傍から見たら思わず引いてしまうほどに鬼気迫るものだったが、幸いなことに傍から見る者はここにはいなかった。
「……ふん、ここにはいないみたいね。他を探そうかしら」
バニラがしばらくそうしていると、まるで“念ずれば通ず”を体現するかのように、ダイアは踵を返してその場から立ち去ろうとした。
バニラが、ほっと胸を撫で下ろす。
「――なぁんちゃって」
ダイアはぽつりと呟くと、懐から杖を取り出し、それを或る方向へと向けた。
それは寸分違わず、バニラが潜伏していた樹の枝の方向だった。
杖の先端で風が巻き起こり、まっすぐそこへと向かっていく。
「いっ――!」
そして風がバニラの周辺を通り過ぎた瞬間、彼女の体中に熱の籠もった激痛が走った。それと同時に、彼女の周りに張り巡らされていた細い枝葉が、まるで鋭利な刃物で切り刻まれたかのようにバラバラになった。
細かくなった枝葉と共に、バニラは樹の枝から落下し、地面に強かに叩きつけられた。「がっ!」という悲鳴と共に、肺の中の空気がむりやり吐き出される。
バニラは大きく咳き込みながら地面に手をついて立ち上がると、自分の体に目を遣った。彼女の制服の至るところがすっぱりと裂け、そこから覗く彼女の肌に幾つもの紅い線が刻まれているのが見えた。
バニラの背筋が、さぁっと寒くなる。
「あらぁ、バニラ。偶然じゃなぁい?」
にやにやといやらしい笑みを携えながら、ダイアがバニラに近づいてきた。その右手にはしっかりと杖が握りしめられている。
恐怖心を抑えつけるように大きく深呼吸をしながら、バニラはダイアを鋭く睨みつけた。
* * *
「出でよ、《グラウンド・ドール》!」
少年が杖を下に向けてそう叫ぶと、彼の足元の地面がぼこぼこと沸騰するように盛り上がった。そしてその山から腕のようなものが突き出し、“それ”が地面からゆっくりと這い出てくる。
地面に埋まった石や岩を土で繋ぎ合わせて作られたそれは、成人男性よりも頭二つ分くらい大きな、卵形の胴体に短い手足が生えたゴーレム(操り人形)だった。
緑魔術は岩石や金属を作り出すだけではなく、それらを素にゴーレムを生成して使役することができる。
そうして作られたゴーレムには、大きく分けて2種類が存在する。
1つは、自らが操るタイプ。手間も掛からないし魔力の消費も少なくて済むのだが、自分で操作するために術者が無防備になるのが欠点だ。
もう1つは、ゴーレム自身が意思を持っているタイプ。つまり術者の命令に従って、自分で判断して動くのである。単純に兵力が増えて術者も自由に動ける強みがあるが、その分魔力の消費も激しくなってしまうし、何より難易度が高い。
そんな中、先程の少年が生み出したゴーレムは、後者のタイプだった。顔と思われる部分には赤い宝石のような目が2つついており、何かを探すようにキョロキョロと動かしている。
これだけの大きさで意思を持つゴーレムを作り出すのは、それなりに実力が無ければできないことだ。実際、彼は特進クラスの生徒であり、今まで3人の生徒を脱落させてきた。
「さあゴーレムよ、あのクソ生意気な乞食を握り潰してしまえ!」
びしっ! と音がつきそうな勢いで少年が杖を前へ向けると、ゴーレムは拳を握りしめて空へと突き上げた。口が無いため何も言葉も発しないが、興奮で雄叫びをあげているようにも見えた。
一方、そんなゴーレムを目の当たりにしたクソ生意気な乞食・アルは、ゴーレムが作り出されるまでの間、何もせずただじっとその様子を眺めていた。
とはいえ、ゴーレムの迫力に圧倒されたとかいうことはまったくなかった。何かの舞台を観るように呑気に拍手を送っていることから、むしろこの状況を楽しんでいるようにも見て取れる。
そうこうしている内に、ゴーレムが動き出した。短い脚を懸命に振ってアルとの距離を詰めると、岩石で構成されたその太い右腕を振り上げて、アルに向かって勢いよく振り下ろしてきた。
生身の人間ならば、その頑丈さと力に為す術も無く倒されてしまうだろう。
しかしこのゴーレムには、アルと相対するにはあまりにも決定的な弱点があった。
「おっそ」
アルは実に落ち着いた動作で、体1つ分だけ右にずれた。たったそれだけのことで、ゴーレムの腕の軌道上からアルが消えた。
そしてそれに反応できなかったゴーレムは、その勢いのまま地面を殴りつけた。何かが爆発したような衝撃に地面が少し揺れ、周囲の空気にびりびりとした振動が響き渡る。
しかし地面が揺れたとき、アルはすでに地上にはいなかった。
彼女はゴーレムの腕を避けた直後に跳び上がっていた。そしてゴーレムよりも高い位置に到達すると、力を振り絞るように右膝を折り曲げ、そして鋭く突き出した。
その先にあるのは、ゴーレムの額。
アルの右脚は寸分違わずゴーレムの眉間を蹴りつけ、先程にも負けず劣らず大きな音を周囲に響かせた。
びしびしびし、とゴーレムの眉間に亀裂が入った。最初はごくごく小さかったそれもあっという間に放射状に広がり、ゴーレムの上半分にまで侵食していった。
ぐらり、とゴーレムの体が傾いた。そしてそのまま地面に倒れると、地面とぶつかった箇所(ちょうど尻にあたる部分)にヒビが入った。そのヒビはすぐさま放射状に広がり、先程アルが入れた亀裂と合流する。
そしてそれらの亀裂を起点に、ゴーレムは粉々に砕け散っていった。意思を持って動いていた岩のゴーレムが、ただの岩に成り果てた。
「――へ?」
そしてゴーレムを作り出した張本人である少年はというと、目の前の光景が信じられずに、口をあんぐりと開けたまま呆然としていた。
なので、アルが自分に向かって走ってきていることにすら気づけなかった。
どすっ。
「う――」
アルの拳が、少年のみぞおちに深くめり込んだ。少年は小さく呻き声をあげると、ぐりん、と視線を明後日の方向へ向け、そのまま地面に倒れ伏した。
そして彼は、そのまま動かなくなった。
「さーてと」
アルは気絶した少年をごろんと転がして仰向けにすると、懐をまさぐり始めた。少しして、アルはにやりと笑ってその手を引き抜いた。
彼女の手には、メダルをしまうための小さな布袋が握られていた。袋の口を開けて、その中身を確認する。
メダルが4枚入っていた。
「えっと、これで37枚か……」
残り時間が半分となった時点で、アルは実に全体の3割以上にもなる数のメダルを集めていた。1人が集めた数にしては驚異的な数字だが、やはり最初の30分に比べるとペースが落ちてしまっている。
「時間的にも、もう枝にぶら下がってるメダルは全部取られちゃってるかな……」
もしそうだとすると、自分のメダルを増やすには、他の生徒からメダルを奪うしか方法が無いということになる。
しかしアルはその結論に至ると、面倒臭そうに大きく溜息をついた。彼女の性格ならばむしろ喜びそうな展開に思えるが、生憎今の彼女はそういう気分ではなかった。
生徒達との戦いが、思ったよりも歯応えが無いからである。
こちらが魔術を使えないというだけで油断して嘗めてかかり、抵抗らしい抵抗もできずにあっさりと倒される。そんなことが5回も続けば、さすがのアルもうんざりするというものである。
さらに残念なことに、せっかく倒しても手に入るメダルの数が少なすぎるのも、アルのやる気を削ぐ原因となっている。多くて3枚、下手をすれば1枚も持っていないという体たらくは、他人事とはいえ思わず心配してしまう。
「なんかつまんないし、時間が来るまでどっかに隠れてよっかな……」
あくび混じりにそんなことを呟いてしまうほどに、今のアルは退屈していた。
そのとき、
「――ん?」
消え入りそうなほどに微かな音が、アルの耳を撫でた。何となしに、アルは音の聞こえた空へと視線をやった。
空高く、澄んだ蒼に浮かぶ雲に紛れて飛ぶ、1つの影があった。目を凝らさないと見えないほどに小さいそれは、トカゲに翼が生えたような奇妙な形をしていた。
「……何だ?」
不思議そうに、アルは首をかしげた。
* * *
「……見つかったか。これ以上は危険かな」
樹の枝葉に紛れてじっと静かに息を殺していたルークが、感心したようにぽつりと呟いた。その手には杖が握られており、両目は軽く閉ざされている。
とはいっても、彼は休憩をとっていたわけではない。
彼は今まさに、魔術を使っている真っ最中なのである。
その魔術の名は《シェア・センス》。使い魔と感覚を共有する白魔術だ。共有している間は無防備になるため、安全な場所に隠れていたというわけである。
発信源は、演習場上空を旋回している彼の使い魔。受信するのは、彼の両目。現在彼の視界には、使い魔の視覚を介して、空高くから演習場を見下ろした光景が広がっているのである。
そして彼の使い魔は、恐ろしいほどに視力が高い。一目で演習場全体が見渡せるほどに高い場所にいるにも拘わらず、使い魔の視覚は森の中を歩く生徒の姿をはっきりと捉えているのである。
そう。例えそれが、緑色の髪をもつ少女だとしても。
「ブラント、もう良いよ。指示があるまでその場で待機してて」
ルークが使い魔に指示を出す。離れたところにいる使い魔に指示が届くのは、使い魔の契約を結ぶことで自然にできる芸当である。
ルークは使い魔の視界を左目だけに移すと、右目だけを開けた状態で枝の上から飛び下りた。魔術によって風を上手く調整し、彼は難なく無音で着地した。
左目に使い魔の視界、右目に自分の視界という状況で、ルークは森の中を進んでいく。