しかも久々の更新で内容は全く進んじゃいないまさかの仕様。
次の話は進むのは確定している。だから今回は外伝だと思ってくれると嬉しいぜ。
ちなみに時系軸的には描写のない春期大会1回戦を終えた直後の日曜日です。
ボクサー、篠原 佐京は夢に破れた男であった。
階級としてはライト級。日本人としては標準的な身長、体重で、
結局は厳しい道の中で、佐京は『天才』と呼ばれた程の逸材であった。高校2年の春から始めたボクシング。プロライセンスはその二月後に取得した。
プロデビュー戦は圧勝。相手は3戦3勝のホープであったが、佐京にとってはカモでしかなかった。元々負けん気が強く、その負けん気に比例して腕っぷしも強かった佐京は、デビュー時点で既に日本ランカーに匹敵する力があった。いくら期待の新人と言えど、所詮は4回戦のC級ライセンス。A級レベルの佐京の敵ではなく、1R32秒TKO。インファイト、アウトボックス。相手に合わせて両方をこなす佐京ではあったが、とりわけインファイトは鬼気迫るものがあった。ライト級最高クラスには及ばないものの、充分な破壊力を持つ拳。直線的な動きの速さは勿論、前後左右への自由自在な
順当に全日本新人王の座を手に入れた佐京は、同時に手に入れた日本ランキング10位の肩書きを有効に使い、みるみるとランキングを上げていき、初の日本タイトルマッチ。2R1分6秒でチャンピオンをマットに沈めた。この時、佐京は18才。ボクシング歴わずか一年半の快挙であった。
当時、王座変動の激しいライト級で、佐京が下した
佐京は
自分が、並ぶ者のない『天才』だとは思わなかった。そこまで現実を見れていなかった訳じゃない。
それでも、一般人が越えられない壁の向こう側の、『特別』の一人ではあると、心のうちでは思っていた。
自信は、すぐに砕かれた。
日本ライト級チャンピオンとして、2度目の王座防衛を果たした直後、タイトル返上。佐京の目に世界が映っているのは、誰の目にも明らかだった。
確かに、いくらなんでも早すぎる、との声も少なくなかった。2度目の防衛の時点で戦績は8戦8勝8KO。その全てが4R以内で終わらされていた事を踏まえて、スタミナや限界ギリギリでの精神力が不安視されていたのだ。
それでも、佐京陣営は世界に乗り込んだ。不安は確かにあった。しかし、自分が負ける姿が想像出来なかった。
世界ランカー達は確かに強かった。国内では既に敵なしの佐京だったが、ランキングが上がるにつれて次第に苦戦が当たり前になってゆく。あれほど簡単にマットに沈んでいった対戦相手が、まるで倒れやしない。判定。正直、危ないこともあった。
それでも、戦績は伸ばして13戦13勝10KO。自分は確かに『何か』を持っている。そう思えた。
思っていた。
実を言うと、その試合の記憶はまるでない。
覚えているのは、ただ1つ。入場の際に相手が腰に巻いていたベルト。鈍く、しかし何よりも輝く宝物。
気づいたら、佐京は控え室で横になっていた。目を開けて一番初めに写った光景は、デビュー時から二人三脚でやってきたトレーナーの、あまりに悲痛な顔だった。
意識を取り戻した佐京に、トレーナーは何度も大丈夫か、と問う。何の話か分からない佐京は、疑問を口にしようとして、口が言うことを聞かないことに気がついた。
下顎骨複雑骨折及び顎関節乖離。
ボクサーとして、致命的な怪我。アゴをやられてしまったボクサーは、二度と元の耐久力を取り戻せない。
ボクサー、篠原 佐京の生涯戦績は16戦13勝10KO。世界タイトルマッチ後、復帰戦に2回コケた佐京は、呆気なく引退した。この時、わずか20歳だった。
それから30年。佐京は自分の所属していたジムの会長になっていた。引退後、トレーナーとしてボクシングと関わっていた佐京に、事切れる間際の前会長から託されたものだ。
所属するプロボクサーは7人。日本ランカー3人、日本チャンピオン1人。立派なものだと自負している。
そんな盛杜ボクシングジムの中で、最も才能があるのは誰か。実のところ、ランカーの3人でもチャンピオンでもなく、まして佐京でもなかった。そもそも、プロボクサーではないのだ。
佐京は、遠くにやっていた意識を戻し、中央のリングに視線を戻す。今はランカーの一人、ジュニア・ライト級4位の高見と、
これは、本来ならばあり得ないことだ。スポーツ会員には、確かにボクシング技術を教えている。しかし、それはあくまでスポーツの範囲でのものだし、怪我などの観点からスパーリングは滅多に行わず、ましてプロとだなんて絶対にやらせない。
ボクサーの拳は人を殺せる。そんな事は佐京が身をもって知っているし、ボクシングを知らない者でも何となく理解している。ボクサーの拳は凶器そのものだと。
そんな凶器を、日本で階級別とはいえ五本の指にはいる位置にいる男が、素人相手に振り回している。言うまでもなく危険すぎる行為だ。しかし、佐京には止めるという選択肢はなかった。
リング上では、4位の高見がまるで子供扱いされているかのごとく、弄ばれているのだから。
高見は、実に器用な男であった。インファイト、アウトボックスを丁寧にこなし、終始落ち着いた試合展開で判定に持ち込む、玄人好みのボクサーとしてある程度の人気を誇ってもいる。云わば、全盛期の佐京のスケールダウン版。と言ったところだろうか。
スケールダウンとはいえ、それは高見にとってなんら恥じることではない。高見は佐京に憧れてこのジムの門を叩いたのだし、王座にこそ届かなかったが、比較相手は世界ランキング1位まで上り詰めた男なのだ。
その憧れの男と、遂に比較して貰える立場まで上ってきたのだ。高見は今、絶頂期であった。
ビィィィィイ!
アラームが鳴り響く。十数年間現役の、3分間カウントアラームだ。このジムでは佐京、トレーナー二人に次ぐ古株でもある。
「ありがとうございました、高見さん」
「...ハァ、ハァ...あ、ああ。こちら、こそ」
スパーを終えた二人はリングを降りる。どちらが優位だったか等と、試合を見るまでもない。試合後の今の様子が、何よりも内容を物語っている。
佐京からしても、高見は決して弱くない。全盛期の自分であれば確かにたいした敵ではないが、それでも国内なら最高クラス。現在の日本チャンピオンとやりあっても、勝機は充分存在する。
だからこそ、その高見相手に2Rを完封したスポーツ会員には、戦慄が走るのだ。
「...また、動きが善くなってますね。彼は」
いつの間にか佐京の隣にいた男が呟く。盛杜の看板選手、日本ライト級チャンピオン、宍戸 清隆その人であった。
「宍戸、次はお前がやるか?あいつ、まだまだ元気そうだぞ」
「はは、ご冗談を。防衛戦前に自信無くさせる気ですか?」
台詞こそ冗談めいているが、宍戸は本気で言っている。六連続防衛中のチャンピオンが、たかだかスポーツ会員を恐れている。笑い話にしては、最悪の出来だろう。あからさまに憂鬱そうにため息をつく佐京に、宍戸は何度目か分からない提案をする。
「...もう少し、具体的な話をしてみてはいかがですか?アレだけの逸材、遊ばせておくにはあまりにも...」
「だめだ」
何度目か分からない同じ回答。佐京は、彼を一度もプロに誘わない。宍戸はそれが不思議で仕方がなかった。
「何故です?会長、あなたは一番理解しているでしょう。彼の可能性を。日本のボクサーの夢の実現を」
経験豊富な宍戸は実は、世界ライト級チャンピオンとスパーの経験がある。アレは王座を初めて防衛した頃のこと。東洋王者であった日本人が、そのベルトを返上して挑んだ世界戦があった。
最初はチャンピオンのホームであるアメリカでの試合になるはずであったが、チャンピオンは妙に親日家らしく、挑戦者が日本人ということを知り、急遽会場を日本で、と言ってきた。挑戦者サイドも、チャンピオンの物見遊山的な態度に腹を立てたが、ホームでやれるメリットは充分過ぎるほど骨身に染みていたため、断ることはなかったのだ。
となれば、チャンピオンにはスパーリング相手が必要。それも、生半可なレベルではいけない。宍戸に白羽の矢が刺さるのは無理のない話だった。
実は宍戸と挑戦者は知り合いであった。宍戸が駆け出しのころ、日本チャンピオンとして頂点に君臨していたのは他ならぬ挑戦者だったのだ。
当時はまだ、宍戸が自らの地位を脅かす程の存在ではなかったこともあったのだろうが、挑戦者が居合わせた試合についてはよくアドバイスを貰ったものだった。
世界チャンピオンとのスパーリング。宍戸個人にとってもこれ以上ない経験になるだろうし、チャンピオンの癖か何かを見つければ、挑戦者への恩返しになるとも思ったのだ。
しかし、チャンピオンは、強すぎた。当時の宍戸では、まるで歯が立たなかったのだ。いや、きっと今でも到底及ばないだろう。何せ、いまだに奴は15回連続防衛中の化け物なのだ。世界ランキング9位の宍戸がいまだに本腰を入れて世界へ足を踏み入れない最大の理由でもあった。
才能。いやでも思い知る、可能性の限界。佐京も、宍戸もぶち当たった、どうしようもなく理不尽な絶対の真理。
そしてそれを、高見を圧倒した青年からも感じていた。
「あいつは、プロじゃ危険すぎるんだよ」
佐京の口から放たれたそれは、意外すぎる一言だった。宍戸は心底驚いた表情で問う。
「そんな事はないでしょ。確かに技術は覚えることがまだ山ほどありますが、隔絶した身体能力でその穴を完全に埋めています。既に国内レベルじゃあ最高クラスの実力がありますよ?」
「そういう話じゃ無いんだ」
「.....?」
では、何だと言うのか?
「...あいつには決定的にプロボクサーには向かない点がある。『人』で在りたいなら絶対に必要なものが」
「......」
「聞くが、宍戸。もし、アイツと公式の場で試合するとなったとして、アイツに負けるイメージが湧くか?」
「それは...」
確かに。宍戸ですら彼とのスパーリングは決して楽なものではない。恐らく今の段階でも、互いが全力のパフォーマンスで臨んだスパーリングでは、『勝ち』は難しいだろう。技術に関しては大きな差があるというのに。それほどに、彼の能力は飛び抜けている。
しかし、『負け』てしまうか、と問われればそうでもない。プロでない彼との試合結果を夢想するほど意味のないことはないかもしれないが、明確に負けるイメージは湧かないのだ。
「...あいつは本当に親父にそっくりだよ。容貌もさることながら、その超人的な身体能力。だけど、心に棲まわせているモノは全く違う」
「確か、彼の父親は...」
「鷲尾
その事件は宍戸も覚えている。日本人としては異例の陸上十種競技で金。その座を未練なく捨て、何を思ったのかプロボクサーになり、とんでもない早さで王座まで上り詰めた男。そんな日本の、いや世界の宝を喪ったニュースは、当時大きな騒動を起こした。もう15年にもなるのか。
「父親に比べて、アイツが劣っているとか、そういう話じゃあない。むしろ、素材としては親父すら越えるものを持っているかもしれん...。しかし、『人』としてはあまりにも未熟。アイツがキレたらどうなるか。少なくとも、今のアイツは父親には到底及ばないさ」
普段は明るく、可愛いげのある笑顔でジムでも人気者の少年に対する評価としては、あまりにも厳しいモノであった。
「鷹南」
水道で顔を洗っていた俺の耳に、いつもより低いトーンの声が届く。どうせ、しかめっ面してるんだろうなぁ。声でわかる。
「...ぶはっ。...何ですか?会長」
佐京さんは、俺がお世話になっているボクシングジムの会長。現役時代は、それはそれは素晴らしいボクサーだったと聞く。本人は否定しているが当時のビデオを見る限り、『天才』に近い人物だと思っている。一度の敗戦で、自尊心を折られてしまったようだが、恐らく相手は相当の『天才』だったのだろう。その巡り合わせは不幸としか言いようがない。何かの手違いさえあれば、会長はきっと栄光を掴んでいたのだろうから。
「...野球の大会が始まったと
ああ、やっぱりバレたか。...ま、そりゃそうか。母さん、家に帰ってこないくせに俺や貴子の近況については何故か滅茶苦茶詳しいし。
「黙ってたのはすみません。一応、今日を区切りにする気はあったんです」
「それがいい。一度、ボクシングのことは忘れて「それはあり得ませんよ」...鷹南」
「約束ですから、暫くは通うのはやめます。でも、必ず戻ってきますよ。
俺は、まだ
お疲れさまです、と鷹南は話を切り上げて地下のロッカールームに降りて行く。恐らく、周囲の目につかぬように裏口から帰って行くのだろう。いつも彼はそうなのだ。
「...すまんなぁ。俺が不甲斐ないばかりに、アイツの孤独感は募るばかりだよ。記憶にもほとんど残っていない亡き父親が、自身の追い求める唯一の偶像だなんて。不毛だよなぁ、彪真」
一人ごちた佐京はチラッと廊下に掛けられた写真に目を向ける。
そこには、今よりいくらか若い様子の佐京と、腰に大きなベルトを巻いて、はにかむようにその美しい顔を寄せている『愛川 鷹南』にそっくりな男、そしてその男の腕に抱かれた、歯も生え揃っていない幼児がリングの上で肩を寄せあって写っていた。
愛川
愛川 鷹南の実母、藤原 貴子の義母。歳は不明。藤原父と再婚するまでは鷲尾の名を名乗っていた。再婚相手の弁護士事務所に所属する立派な弁護士。
近々登場予定。詳細は後のち。