見える。遅い。
キィィィィンンン。
「おし。おっけ」
ワァァァァ!
「相変わらずの化けモンかよ...」
ベンチで自分の打順迄回るかどうか微妙なところかと、プロテクターを外すか否か考えていた御幸は思い改める。
春の都大会、三回戦の相手は、秋大で準々決勝で敗北を喫した市大三高。青道、稲実と並ぶ西東京三強の1つ。打線も強打の青道に匹敵する力を持ち、エースである真中の高速スライダーは既に高校レベルを越えているとすら言われている。
その真中のスライダーを、初球から完璧にセンター前にもっていく、我が青道高校の
(あ~あ。真中さん、可哀想に。初球のウイニングショット打たれちゃ、投げる球ねえだろ)
マウンド上で呼吸も忘れたかのように呆然としている真中とは違う意味で、一塁上のニコリともしないあの男にとっては、そこまで評価に値する球ではなかったのだろうか。
「...やはり真中は本調子では無いようだ。愛川が初級を叩いている」
仏頂面の片岡監督が妙に響く声で言う。それが、初級から狙っていけという指示だということに、気がつかない
本来であればクリーンナップを打つはずの投手である鷹南が、負担のかかる1番に置かれているのは、そのゲームメイク力故である。相手ピッチャーの能力、調子を測り、どうすれば最も効果的か。それを確実に実行できる力。
あの鷹南が初球から打ちにいったのは、調子が出ていない内に叩いてしまえ、という意味である。
倉持という関東屈指の走塁の名手を抑えて一番に座るのは、伊達ではない。
(つってもまあ...)
目線の先の鷹南は既に2塁上にいた。塁に出た2球目、小湊のインローへのスライダーを走ったのだ。結果として、キャッチャーは投げることも許されずに2塁を盗まれる。
(足だけ見ても、倉持に勝るとも劣らないわけで...。ホントに人間か?)
普段はおちゃらけた先輩だが、その能力は本物中の本物。天才だ、なんだと自分を持ち上げるミーハーどもに教えてやりたい。自分なんかとは比べることも烏滸がましいことだと。
「ま、一丁やってみますか」
鷹南程の力はなくとも、今日の真中なら打てない相手ではない。プロテクターを外しながら御幸は狙い球を絞ることに頭をフル回転させていた。
「うわぁ~!すごい、すごいです!」
「春乃は初めてウチの試合を観るんだよね。強いでしょ?」
「はい!テレビとかでは観てましたけど、自分のチームが強いって言うのは、こんな気分なんですね!」
一方、スタンドの応援席では、二軍、三軍選手たちとマネージャーたちが観戦していた。
スコアは3回終わって、11対1の圧倒的大差。正直、勝ちは見え透いている。
「市大三高って、センバツベスト8のチームなんですよね!先輩たち、強すぎませんか!」
三高のスタメンはセンバツとなんら変わり無い。詰まるところ、全力のメンバー。それを相手に、ここまでの試合展開ができることは、青道の強さを意味していた。
「まあ、この大量得点は相手ピッチャーの不調に付け入ったところがあるけどね。それを差し引いても、ウチの打線は全国でもトップクラスと言われているわ」
興奮が止まらない1年生マネージャー、吉川 春乃とは対称に馴れたものだとばかりに落ち着いている三年生マネージャー、藤原 貴子。汗臭い男ばかりの集団の中を彩る、数少ない可憐な蕾たち。実際に先程から、スタンドの通路を横切る客たちの視線を浴びている。
「春乃は誰が一番印象的?」
「え?え、え~と...。初回にホームランを打った御幸先輩や、オーラみたいなのが見える結城キャプテンもすごいですけど...。一番は、愛川先輩、かな?」
2年の夏川 唯からの問いに真剣に悩んだ春乃は、苦しみながら答えを出す。その答えを聞いた貴子の眉が、ピクッと動いたことは、誰も気がつかなかった。
「へぇ。春乃も意外とミーハーね。そりゃあ顔が良くて、プレイヤーとしても超一級品だけど」
同じく2年の梅本 幸子がスコアブックをつけながら、春乃を茶化す。ご丁寧に、意地の悪そうな笑顔を浮かべている。
「え?ち、違いますよぉ~!そんなアレじゃなくてですね。...ただ、派手なことしてる訳じゃないのに、存在感?て言うのかな...。オーラがありますよね!」
春乃の目線の先には、マウンドに立つ鷹南の姿があった。4回の裏、一死無塁。ここまで13人の打者相手に、2安打、1四球、1失点、1三振。これといって取り立てる部分が有るわけではないが、強打の三高相手に『普通』の投球ができるということがどれ程難しいことか、解るものには解るのだ。
ギン。
鈍い音をたてた打球は、打者の目の前で弾んだ。ピッチャーゴロ。鷹南は危なげなく処理する。
ツーアウト!
ダイヤモンドに木霊する掛け声。声のトーンは限りなく明るい。このトーンというものは、何よりも明確に選手たちの心境を現す。コレが明るいことは、チームが何よりもいい環境であることを意味しているのだ。
「...ま、愛川君は特別よ。今日はこのまま勝てるわ」
どこか確信をもって語る貴子に、後輩たちは顔を見合わせ、首を傾げるのだった。
結果として、貴子の予感は半分ほど当たっていた。マウンドを降りた真中の後を引き継いだ2番手投手が奮闘し、五回から七回までの3回を2失点に食い止める。対する鷹南は連打を浴び、六回までに5失点。スコアは七回の表終わって14対5となっていた。七回コールドゲームのペースである。
七回の裏。先頭打者をピッチャーゴロで抑えた鷹南は、続く打者に四球を出してしまう。
市大三高の監督、田原 利彦は、どこか余裕のありそうな顔で、マウンドに集まる青道の内野陣に囲まれた鷹南を見る。
(愛川ボーイ...。残念ながら今日の試合は我々の敗けだ。真中ボーイの初球のスライダーを打たれてしまったときに、このゲームのウィナーは決まってしまったのだ。...しかし、収穫はあった。それは...)
カキィィン。
放たれた打球は、鷹南の頭を越えて行く。センターのグラブに2バウンドで収まった。
これで一死一二塁である。
(愛川ボーイの本来の力には到底及ばない投球内容。ウチの打線では、彼から5点も奪うのは奇跡に近い。調子を崩しているのはウチの真中ボーイだけではなさそうだ。これは大きい)
昨年の秋大。自らが率いる三高が青道に勝利することが出来たのは、鷹南が投げなかったからだと、田原は正しく認識していた。
愛川 鷹南という比類なき絶対エースの存在ゆえ、青道には投手層の厚みがない。秋大で投げていたのはサイドスローの1年生だった。コントロールには目を見張るものがあったが、所詮は1年生の球威。青道の打線の奮闘虚しく、9対6という結果で終わった。
(愛川ボーイは
打順は四番。決して怪物級の評価はないが、頼れる四番。決して青道の結城に劣るとは思わない。ここぞといった勝負時に滅法強い男だ。センバツベスト8の原動力。
(打てる。ユーなら打てるぞ、大前!)
2ストライク、2ボール。5球目。ベルトの高さのストレート。大前の最も得意とする球だ。
田原は大前の特大の当たりを幻視した。
パァァァン!
快音は響かず。沸く観客と、守備陣。驚愕に震えるのは、大前でも田原でもなく、意外なことに御幸であった。
(..はは、鷹南さん。喪った試合の投球勘を養うって、五回コールドを避けるために敢えて5点も与えといて。こんな球投げちゃあ、手ェ抜いてたの、バレバレじゃないですか)
やれやれ。鷹南の完全復活は喜ばしいことではあるが、このハチャメチャな男のコントロールに頭を悩ませることになるのかと、御幸は痛む眉間を目を瞑ることで刺激した。
唖然とする球場の空気。バックネット裏の某高校偵察部隊の構えるスピードガンには、今のストレートの速度が表示されていた。
『156km/h
━━━━━
154km/h 』
最後の二段表示は初速と終速の数字です。ちょっと現実的ではない数字にしちゃったんだぜ。多目に見てください。