「チェックメイト」
「……僕の負けか」
スレイン操る白のキングは伊奈帆操る黒のクイーンに討ち取られた。
0勝96敗。盤上の戦いでも相手の手の内を読み、予測を超えてくる奇抜な戦法を使う伊奈帆にスレインは一度も勝利できてはいない。
終戦後から数ヶ月ほどたった現在、スレインと伊奈帆は日本の某所にある拘置所でチェスに興じていた。
「それにしても珍しいね」
チェスの相手__界塚が机の上に広げてある駒やボードを片付けながら僕に問いかけてくる。
「……なにがだ?」
「いや、君の方からチェスの勝負を持ちかけて来ることなんて今までなかったから」
そう言うと、界塚は片付けたチェスを一式まとめて恐らく自前であろうバックに入れると、先ほどと同じように向かい側にあるパイプ椅子に座った。
「……ただの気まぐれだ」
「そうか。話は変わるけど、最近の調子は?」
「いつも通りだ」
ぽつりとぽつりと他愛ない言葉を互いに交わす。
不思議なことだが、数ヶ月前までは殺したいほど憎んでいた筈なのに今はそのような気持ちはなぜか沸いてこない。
戦いから開放されたことによる心境の変化なのかは僕自身も分からないが、ただ一つ言えることは、目の前にいる界塚に以前のように殺意が沸いてくることは無いと言うことだ。
「さて、そろそろ面会時間も終わりだ。今日はこの辺りで失礼させてもらうよ」
椅子の横に置いてあるチェスセットとその他仕事に使うのだろう資料が詰まったバックを取ると、パイプ椅子から立ち上がり界塚はドアのある方へ向かっていく。
しかし、ドアの手前で何か思い出したのか、唐突にこちらを振り返る。
「最後に一つだけ聞かせてほしい。スレイン・トロイヤード、君はまだ死を望んでいるのか」
界塚は雑談する時と全く変わらない抑揚の薄い口調でそのような問いを投げかけてきた。なぜ突然そのような質問をしたのか。
その意図を探るため彼の眼帯に覆われていない方の目を見つめるが、その意図を図り知ることは僕にはできなかった。
この拘置所に入れられた当初、界塚伊奈帆の行動によって死に損なった僕は今度こそ己の罪を清算する為にあらゆる手段を用いて自殺を図ろうとした。
と言っても拘置所内で採れる手段など限られている、考えた末に道具などを必要としない栄養失調で死ぬことを選んだ。
行動を起こしてから数日後、食事を一切とらず着実に近づいてくる死を待つスレインの元に界塚伊奈帆は訪れた。
訪れた目的も話さず無駄な会話を続けようとする界塚に対して僕は何故あの時殺さなかったのかとの言葉を怒りと憎悪と共にぶつけた。
『セラムさんから頼まれたんだ。君を不幸の連鎖から救ってくれと』
界塚から返された言葉に僕は瞳から流れ落ちる熱い涙を止める事ができなかった。なぜあの時、涙が流れ落ちたのかは自分自身でもよく分からない。スレインにとって生きながらえ、拘置所で余生を今までの自分の所業を懺悔する事だけに使うと言うのは決して“救い”ではない。
だから、涙が流れ落ちたのは救われたと感じたからではなくて単純にあれだけの所業をした自分にアセイラム姫が慈悲を───生きろと言ってくれた事が嬉しかったからだろう。
アセイラム姫の騎士である事を誓ったスレインにとって主が生きろと望んだならば、その命に殉じる。
「いいや」
「そうか………聞くことができて良かった。じゃあ、また来るよ」
感情を余り表情に出さない彼にしては珍しく口元に笑みを浮かべた界塚はいつも去り際に残す言葉を言うとドアを開け、今度こそ面会室から出ていった。
面会が終わったことで、おのずと僕も自分の部屋に戻される。手錠を手首に嵌められ、部屋までの道のりを警備官に連れられながら歩いて行く。その途中、ふと通路の上に備えつけられている格子窓を見上げる。
前はそこから青空が見えたのだが、今日は曇り空しか見ることができなかった。
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「お待たせ、ユキ姉」
拘置所から、外に出てすぐの場所に止まっているジープのドアを開け中に乗る。僕が乗ったことを確認すると、前の座席に座っているユキ姉がアクセルを踏む。
今までいた拘置所を離れ、ジープは進む。向かう場所は僕たちが働いている場所__連合軍の基地だ。何をするでもなく窓から外の景色を見ていると、ふとユキ姉が声をかけてきた。
『ナオ君。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……いい?』
「聞きたいこと?別にいいけど……」
僕の了承を得たことで、早速姉は本題に切り込んでいく。
『前から気になってはいたんだけど、ナオ君はどうしてアイツの所へ行くの?』
“アイツ”の所だけ語気を強めていることに気づくが、それをわざわざ聞くような真似はしない。ユキ姉の言う“アイツ”とは間違いなくスレイン・トロイヤードのことだろう。
ユキ姉がスレインに対して悪感情を抱いていたことは知っていたが、その事についてユキ姉を責める事はできなかった。
両親を失い、唯一の肉親となった弟が殺されかけ左眼を奪われたのだ。その犯人に悪感情を抱かない人間はいないだろう。
『……ずっと考えてたの、なんで自分を殺そうとした相手に会いにくのかって』
『私にはどれだけ考えても分からなかった。だから、ナオ君自身の口から聞かせて』
普段の明るい口調とは打って変わって、真面目な口調だ。長年の経験から、こうなった姉から言い逃れはできないということは家族である自分が一番よく知っている。
「……アセイラム姫から頼まれたんだ。スレイン・トロイヤードを救ってほしいって」
「それが僕が拘置所に行く理由だよ」
断る選択肢も存在した。しかし大切な人からの頼みと言う事、そして僕自身もスレインへの悪感情よりも彼の境遇に同情を覚えた為に、アセイラム姫の彼を救って欲しいと言う望みを叶える事に決めた。
『………分かった』
どこか納得のいかない素振りを見せた姉だったが、どこか諦めの感情を浮かばせると肯定の言葉を発し、弟の行動を認めた。
それを見た伊奈帆はいつも姉に心配をかけている事に罪悪感を感じ、心の中で姉に対して謝罪の言葉を口にした。車内に降りた重い空気を払うかのように普段通りの調子で喋る姉と言葉を交わしながら、ジープは基地へと走る。
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そして終戦から数ヶ月たったある日の夜、ある二人の人物が忽然と姿を消した。
忽然と姿を消した二人の人物の名前は、
“スレイン・ザーツバルム・トロイヤード”と“界塚伊奈穂”
不可解な事に、この二人の行方を知る者は誰もおらず、現在も水面下で捜索が続けられている───────