引っ張られた服の裾を見て、日向はやや驚いた表情になった。その日向を見るユイの目は何故だかどこか寂しそう。やがて、日向の顔がユイの方を向き、二人は見つめあうような形となった。どちらも何も言葉を交わさない。まるでこの時間が壊れ物のようで、それを壊さないようにしているかのように。
また、明日も会えるのに。
そうは思っても、ユイの心は何故か日向を求めていた。こんなの生まれて初めてだった。それに日向の表情も今まで見たことないほど優しかった。そんな日向の顔がユイに近づく。ユイはこれから先何をされるのかわからなかったが、何となく何かを期待していた。
やがて日向の前髪がユイの顔に触れる位置まで来た。ここまで来るのに何十分もかかったような気がするが、本当はものの数秒。互いの鼻がこすれる。緊張が高まった。
こつん。
「だー、暑くてバテそうだぜ...」
「ふぇっ」
日向の頭部はユイの肩に落ちた。ふっと気が抜けてしまった。
「あー、外出て部屋戻んないとな!階段とエレベーターだとどっちが近いと思うか?」
「あ...先輩だと、階段じゃないですか...」
「そうだよな、この時間だとエレベーターは主婦のもんだ。んじゃな、ユイ!」
「は、はいっ。また...」
「おう!」
ばたん、とユイの部屋のドアが閉まる音がした。その音の後、徐々に己の頬が赤く染まってきた。クッション代わりにしていた枕に顔を埋める。
な、何期待してたんだろう。ユイ、ばっかみたい。
突如駆け巡る羞恥心。バクバクと心臓が鳴りやまない。
本当は、わかっている。そう思い、ユイは先ほどまで日向がいた辺りを眺める。初めてだけど、何となくわかっている。ずっと憧れていた、ドラマの世界がするようなものーーー恋を今、していることなんて。
日向が好きだ。あの明るい性格、明るい笑顔、そして何より、彼の思いやりに惹かれた。身体が不自由ということを気にして生きてきたユイとは正反対の。
日向と一緒にいたら、楽しい。安心できる。彼はユイの身体のことなんか全く気にせず、何不自由ない人のように接してくれる。だから日向の隣にいれば、自分が車椅子なしでは生きられないことを忘れてしまうのだ。
「---さっきの、キス、できたのかな...なんちゃって」
ぎゅう、と枕を抱く力を強める。日向の顔があんなに近くて、それに初めて見る顔していて...もしかしたら、日向もユイにキスしたい、と思ったのかもしれない。そう思うと、また火照りだす頬。
でも。
日向はしなかった。自分だけが期待していたみたいだった。日向は平然としていた。
日向はユイなんかーーー
その事実が己の心臓を突き刺す。これが現実だ。いくら仲良くなっても日向の心はユイには動いたりなんかしない。そう確信してしまった。
「アホひなっち先輩...大っ嫌い...」
これまた初めて痛感する胸の痛みに、思わず涙が溢れ出す。その涙の止め方を、ユイはまだ知らない。
***
「あら、日向君。お帰りになりますか?」
「あ、ああ。はい!お邪魔しました!」
「そんな、毎日毎日無理しなくても大丈夫ですよ」
「いやいや、俺がしたくてしてるんですから!むしろ毎日毎日うるさくてすいません」
「いえ、あの子がやっと楽しみを見つけたんですから...日向君には本当に感謝してます」
「そんな、大げさですよ。じゃ、お邪魔しました」
「はい、今日もありがとうございました」
ユイの母に会釈して玄関のドアを開いた。振り向くとあちらも微笑し、会釈した。その顔にやや罪悪感を覚えながらドアを閉めた。
「くっそ...」
ずるずるとその場にしゃがみ込む。そして髪を思いっきりぐしゃぐしゃにする。自分の気が済むまで手を動かし、ゆっくりとその手を頭部から離した。
「...あいつ、なんて顔してんだよ...」ため息まじりに呟く。
ユイに裾を引っ張られ、胸が高鳴った。そして...恥ずかしいことに理性が飛びそうになってしまった。あの紅潮した顔、潤んだ瞳、あんなのを前に何もするな、なんて男には酷な話だ。---まして、好きな相手なら、なおさら。
うまくごまかせただろうか。ユイを怖がらせてはいないだろうか。それがとても気がかりだ。
「俺、この調子で前みたく接してやれる自信なんかねぇっての...」