【完結】島村卯月「もういいです、私、アイドル辞めます」 作:ラジラルク
プロデューサーと喫茶店で話をした日曜日。
それから次の一週間、私はひたすらプロデューサーと話した日曜日のことを思い出しては頭を悩ませていた。
『もう一度だけあの頃に戻ってみませんか?』
プロデューサーと別れた後も、そう言ってアイドル復帰を持ちかけたプロデューサーの言葉がずっと頭の中をグルグルと渦巻いていた。
私がアイドルに復帰する――……。辞めてからの四年半の時間の中で、どれだけアイドル活動をしていた頃に未練や後悔があっても一度たりとも復帰するという選択肢は考えたことがなかった。
その理由もなんとなくだが分かっている。『戻ったところでトップアイドルになんて私はなれない』、そういった自信のない自分が心の何処かで復帰するという選択肢を隠し続けていたのだ。
だから私は楽しい思い出もあったあの半年間の時間を引きずりながら生きていた。
どれだけ後悔や未練があっても復帰したいとは思わない。よく考えればおかしな話だ。
ようはこの四年半もの間、私を苦しめてきた過去への後悔や未練はアイドル活動へ復帰したいというのものではなく、ただ単に認めたくない、受け入れたくない今の現実から逃げるために自分が一番輝いていた過去の栄光に浸るというただの現実逃避に過ぎなかったのだ。
そんな気持ちでアイドルに戻ったところで結果はたかが知れている。私はまたすぐに逃げ出してしまうだろう。
「やっぱり私には無理だろうなぁ」
何度もそう思い、そう思う度にスマートフォンを手に取って連絡先からプロデューサーに電話をかけようとした。だけど私はこの一週間で一度もプロデューサーに電話を掛けることはできなかった。「ごめんなさい、私にはやっぱり無理です」そう伝えるだけなのに、何度も決心してスマートフォンを握っても発信のボタンを押すことができなかったのだ。
私を踏み止まらせて居たのは、おそらくこれが正真正銘の人生で最後のプロデューサーが差し出してくれたチャンスなのだと、分かっていたからだ。
本当にここでアイドルに戻らなくて後悔しないのか。この先も長く続く人生の中で私はこの選択が正しかったと胸を張って言えるくらいのアイドル以上に夢中になれる何かを見出すことができるのか。
そう私は何度も自問自答を繰り返した。その迷いが最後の発信ボタンを押すという行為に躊躇いを生んでいたのだ。
☆☆☆☆
プロデューサーが私に与えてくれた一週間という猶予は考えるには十分な時間だと思っていた。だがこうして過ぎてしまうとあっという間に感じてしまう。
アイドルに復帰するべきか否か、このことで頭が一杯だった私は派遣のバイトにも身が入らなかった。あれだけ毎日憑りつかれたかのように吸っていたタバコも今週は全く吸う気にならず、私のベッド横には先週の土曜日に空になったタバコの箱がそのままになって置いてある。
机のスタンド電気だけが付いた薄暗い自分の部屋で私はスマートフォンの画面をチラッと見た。ロック画面のデジタル時計は『23:45』の数字を表示しておりその隣のカッコ内には『土』の文字。
あと十五分で日付が変わろうとしていた。明日はプロデューサーと約束した日曜日であり、私がアイドルに復帰するかどうかを決めなければならない日だ。
考え込んでいたせいか眠気が全く来なかった私は少し夜風に当たることにした。ゆっくりと足を踏み入れた玄関の外の世界は大きな月と無数の星が闇を照らしている。
そんな月明かりの下、私は大きく溜息を付いた。結局この一週間、私は答えを出すことができなかったのだ。
今の現実から目を背けるようにしてアイドル活動をしていた過去に逃げていたのにアイドル活動に戻る勇気もない。中途半端で言い訳ばかりして受け入れられない現実から逃げ続けながら過ごしたこの四年半。そんな四年半もの時間がありながら私は一体何をしていたのだろう、痛感させられる時の流れとその時間を無駄に過ごしてしまった自分に無性に腹が立ってしまう。
――あの時、もしアイドルを辞めていなかったら今はどんな日常を生きていたのかな。
後悔や未練ではなく、単純な疑問だった。
もしあのままアイドルを続けていたとしたら今の私はどうなっていたのだろうか。シンデレラプロジェクトが解散したとしても凛ちゃんや李衣菜ちゃんのように何処かでソロでもアイドル活動を続けていたのかもしれない、もしくは未央ちゃんやきらりちゃんのように違う世界に飛び込んでいたかもしれない。
こればかりは分からなかった。ただ、一つだけ分かったことがある。
それは例えソロでアイドル活動を続けることになっても、女優やモデルに転向したとしても、恐らく今のように過去の栄光にしがみつくような生き方はしていないということ。
間違いなく今私が過ごしている日常よりはキラキラした日常を送っていただろう。これだけは確信をもって言えることができる。
それくらい、今の自分は惨めで情けなくてカッコ悪く見えて仕方がなかったのだ。
暫く歩いたがどうにも家に帰る気にはなれなかった。家とは真逆の方へと、無意識に足を進める。
どのくらいの時間を歩いたか分からないくらい歩いた頃、私は止まらず動かし続けていた足を止めた。目の前には懐かしい見覚えのある景色。夜のせいで少しだけ思い出の景色とは違って見えるが、それでもその景色は私の思い出にしっかりと焼き付いている景色だった。
「……懐かしいなぁ」
思わず声に出してしまう。
私の眼に映っているのは私がシンデレラプロジェクトに参加する前、およそ二年もの間通っていた養成所だった。
この養成所でアイドルを夢見て毎日レッスンを受けていた過去の私。アイドルになる夢を諦め、次々と同期の子たちが辞めていく中、私は一人でもレッスンを受け続けていた。あの頃は『アイドルを諦める』、なんてことは一度も考えたこともなく、『こうして毎日頑張ればいつの日かアイドルになれる』とそう信じ込んで努力を続けていた。よく言えば夢に真っすぐで、悪く言えば夢見がちな女の子――……、だったのだ。
「そう言えばプロデューサーさんと初めて出会ったのもここだったんだよね」
当たり前だが電気が消え、闇に包まれている養成所。私が立っている道路からは真っ暗なトレーニングルームしか見えない。
ここで私はプロデューサーに魔法をかけてもらった。それはシンデレラプロジェクトのオーディションを受け、落選の結果を知った数日後の話だ。
欠員が出てたらしくその繰り上げ合格。それでも私は嬉しかった。繰り上げ合格でも長年の夢であったアイドルになれたのだから。
あまりに嬉しくて家に帰るまで我慢できず帰り道にママに電話で合格が決まったことを話したこと、凛ちゃんのお店で自分の合格祝いの花を買って帰ったこと、そんなあの日の思い出が一気に蘇ってくる。
そして次に頭に浮かんできた光景は夕暮れ時、私が養成所で一人でレッスンをしている光景だった。
鏡に映る自分を見つめながら何度も笑顔を取り繕って踊る私。暫くして踊るのを辞め、鏡を背に体育座りのような格好で蹲る私。
それは魔法が解ける数日前の私だった。
この養成所は私の夢が始まった思い出の場所であり、私の夢が終わった苦い思い出のある場所でもあるのだ。
アイドルを辞めたあの日から通る機会のなかったこの場所。純粋に夢に向かって頑張っていた昔の私がいたこの場所に、四年半の月日が流れ、夢を諦め心が荒んだ私は立っている。
懐かしいような、息苦しいような、言葉では言い表せない感情がこみ上げてきた。
暫くの間、私は闇に包まれた養成所を見ては静かに佇んでいた。
☆☆☆☆
養成所を後にした私はおそらく真逆の家から何キロも離れた場所へと足を運んだ。
私が足を止めたのは何本もの街灯が照らしてはいるが人気がなく静寂に包まれた公園――……、プロデューサーに連れられ初めて凛ちゃんと出会った場所であり、アイドルを辞める前日に凛ちゃんと未央ちゃんの二人と話をした場所だった。
ここで私は認めたくない現実を認めてしまった。『自分には何もない』という、アイドルとして過ごす時間のいつの日からか薄々と気づいてはいたが気付かないように無視していた現実を。
『プロデューサーさんは私の良いところは笑顔だって。だけど……、笑顔なんて、笑うなんて誰でもできるもん……!』
凛ちゃんと未央ちゃんの目の前でそう叫び泣き崩れた私。
プロジェクトクローネとしても活動を始めた凛ちゃんに、舞台女優としての挑戦を始めた未央ちゃん、そんなどんどん先に進んでいく二人に対し私は頑張っていたはずなのに何も変わることができず、いつの日からか劣等感を抱えるようになった。
その劣等感が徐々に私を追い詰めると、『もしかしたら私には才能がないのではないか』といった一番認めたくない真実が次第に現実味を帯びてき始めていたのだ。
『誰でも出来るなんて言わないでよ……。踏み出したんだよ、自分も輝けるかもって。あの時の卯月の笑顔が、キラキラで眩しかったから……』
『ごめんね、気づけなくて……。私たちさ、もう一回友達になろうよ』
凛ちゃんと未央ちゃんのセリフ。
私はあの日、ここで何を思って何を言われたのか、四年半経った今でも鮮明に覚えていた。
ニュージェネレーションズとして活動を始め、初めて本音をぶつけあった日でもあった。だがその本音を私はずっと言いたくなかった。口に出してしまうとそれを認めてしまうことになってしまうから――……。
だから私はみんなに心配をかけさせないよう、何より自分に言い聞かせるように『頑張ります』と言い続けたのだ。頑張り続ければいつか私だってアイドルになれる。そう信じていた養成所時代のように。
でも半年でも本物のアイドルの世界に立って私は色んなものを見てしまった。努力じゃ越えることのできない壁、本物のトップアイドルとの埋まらない差、見たくないものをたくさん見てしまったのだ。
次第に目を背けることの出来ないほどまでに迫っていた現実に私は震えながらアイドル活動を続けた。楽しかったはずのアイドル活動が、あれほどまでに夢に見て憧れていたはずのアイドル活動が、日に日に私を苦しめ始める。その苦しみに私は精神を擦り切らしそうになりながら耐え続けていた。
もしかしたらこれが『大人になる』ということなのかもしれない。
子供の頃からの夢を叶えきれた大人は一体どのくらいいるのだろうか。殆どの人が子供の頃に憧れていた大人とは違う姿の大人になり生活している。誰しも私がアイドルに憧れていたのと同じように強く願った夢があったはずなのに――……。
でもそれが現実なのだ。大人になるにつれ知りたくない、見たくない現実に嫌でも直面し、その中で大半の人が夢を諦め現実を生きようとする。いつまでも子供の頃のように憧れを抱くだけでは生きていくことはできないのだ。それこそプロデューサーが私にかけてくれた魔法が解けたあの日のように。
だから私が経験したことはもしかしたら誰でも経験する挫折なのかもしれない。
でも私は大半の人とは違い、魔法が解けた世界――……、現実を生きることができなかった。現実に向き合うことが出来ず、だからと言ってもう一度夢に挑戦する勇気もなく私は四年半もの時間を過ごしてしまった。
この公園にも先ほど立ち寄った養成所にもしっかりと魔法の痕跡が残っていた。次々とフラッシュバックするアイドル時代の私――……、私が人生で一番輝いていた時間の思い出が詰まった場所なのだ。
その場所に四年半もの月日を過ごし、変わり果てた私が立っている。プロデューサーとの約束の時間はゆっくりと、だが確実に迫っていた。
☆☆☆☆
家に帰ったのは四時だった。ほんの少しの散歩のはずが養成所に立ちより公園に立ち寄り、思いのほか時間がかかってしまった。
真上にあった月も位置を変え、空の黒味は少しばかり薄れ始めている。窓から見える外の世界をぼんやりと眺めていた私はカーテンを閉めるとオレンジ色の光を灯している電気スタンドが飾られた机へと視線を移した。電気スタンドの灯りに照らされている机の上、その机の上には先週の日曜日に受け取った封筒が置かれている。
プロデューサーが私のために作ってくれた曲、『S(mile)ING!』。この一週間で何度も何度も読み直した。その度に思う。「ホントに良い歌詞だな」と。
私をイメージして作ったと言っていた通り、この曲には私の心に響くフレーズが幾つも散りばめられていた。
でもこんな曲を今の荒んだ私が歌うことができるのだろうか――……。
私には勿体ないほどの曲だったのだ。
どんなに良い歌詞の曲だったとしても心を込めて歌わなければ名曲にはならない。それは半年だけもアイドルを経験した私でも十分に理解していた。
もし少なくとも私が夢に向かって真っすぐだった頃の気持ちがまだ残っていたら、歌えていたのかもしれない。だが今の私にはあの頃の気持ちなど、一かけらも残っていなかった。
やっぱり断ろう。そう思いプロデューサーから受け取った封筒を机の中の引き出しに入れようとした時だった。私は引き出しを開いた手を止めて固まってしまった。
私が開けた引き出しの中に入っていたもの――……、それは透明なクリアファイルに入った一枚の紙だった。
アイドルを辞めた時から何度も捨てようと思った。でも捨てきれなかった、私の一番の宝物――……。
あの時人生で初めて受け取ったオーディションの合格通知証。私が魔法にかけられた瞬間だった。
クリアファイルから取り出して手に取ってみる。たったそれだけで私は初めてこれを受け取った時と同じ感覚に誘われた。
『もしもし、ママ! 私、本当にデビューが決まったの!』
『自分用なんですけど……。でも私にとって記念日なんです!』
『笑顔だけは自信があります!』
『ずっと待ってました……。キラキラしたなにかになれる日が、きっと私にも来るって。そしたら、プロデューサーさんが声をかけてくれたんです。プロデューサーさんは私を見つけてくれたから! 私はこれから、夢を叶えられるんだって……それが嬉しくて』
次々とフラッシュバックするあの頃の私。
ようやく努力が実を結んだんだ、もしかしたら本当に夢が叶うかもしれない、ずっと絵空事のように考えていた生活が現実になった瞬間だった。
あの時の高揚感、私は何処へだって飛んでいける、そう信じてやまなかった純粋な気持ちが蘇ってくる。
合格通知証が入っていたクリアファイルには写真が何枚も入っていた。
養成所で知り合った仲間たちと一緒に写った写真。夢が現実となった次の日にママが作ってくれた『CDデビューおめでとう』と書かれたプレートが乗ったケーキの写真。シンデレラプロジェクトのメンバーたちに初めて出会った日にみんなで撮った写真。そしてアイドルフェスが終わった後にみんなと、そしてプロデューサーと撮った写真――……。
私はあの頃の思い出を何一つ忘れていなかった。
――忘れたくない、やっぱりこのままは嫌だ。
一枚一枚大事に手に取って眺める。
それはどんなに大人になっても、どんなに心が荒んでも、絶対に忘れたくない私の大切な時間だった。
――もし今からでもこの頃のように輝ける時間に戻れるのなら……。
私は拳を握り締める。
それは私の覚悟が決まった瞬間だった。
目覚まし時計のデジタル時計はもう五時を回ろうとしている。
外の世界の闇が終わりを告げるかのように、そして私の心を長年苦しめていた闇が晴れたかのように、窓から見える外の世界は鮮やかなグラデーションを描き始めていた。