【完結】島村卯月「もういいです、私、アイドル辞めます」 作:ラジラルク
「どうしよう……」
バイトの休憩中、古びた更衣室のベンチで私は溜息交じりにそう呟いた。右手には数日前にみくちゃんから受け取ったメモ用紙が握り締められている。
そのメモ用紙に書かれたプロデューサーの電話番号を私はぼーっと眺めていた。
プロデューサーに直接会って話をすることが出来れば払拭することが出来るかもしれない。あの日から私の心を苦しめ続けていた後悔と未練を。
確かにこのメモ用紙を受け取った時はそう思った。それは間違いないのだが、いざ連絡するとなるとどういった風に連絡すれば良いのか分からないのだ。
何回も何回も、私を連れ戻すために、私を救うために、毎日のように家に通っては私を説得しようとしてくれたプロデューサー。そのプロデューサーの差し伸べてくれた手を私は全て無視しして、挙げ句の果てにはスマートフォンを解約してまで一方的に連絡を遮断した。
あんな酷いことをして、どのような顔をして会えば良いのだろうか。
もしかしたら今度は私の方が拒絶されるかもしれない。そういった類の恐怖のせいで私はなかなか行動に移せずにいたのだ。
「で、プロデューサーには連絡取れたの?」
「ううん、まだ連絡してない」
どうすれば良いのか分からず、バイトの帰り道になんとなく立ち寄ったみくちゃんが働いているコンビニ。
私のセリフにレジを挟んで向こう側に立つみくちゃんは呆れたような表情を浮かべている。
「なんて言えば良いのか分からなくて……」
私がアイドルを辞めてから四年と半年ほどの時間が流れていた。
決して良いとは言えない別れ方をしてしまった上にこれだけの月日が流れてしまっている。
今更どのような言葉を並べて切り出せば良いのか分からないのだ。
「まぁね……。そうだ、良いこと思い付いた!」
突然手をポンと叩いたみくちゃん。
私はその仕草に首を傾げる。
「電話じゃなくてメッセージを送ってみたら? それなら電話で話すより簡単でしょ?」
確かにみくちゃんの言う通りだ。
いきなり電話をかけて話をするより、文字にしてメッセージを送る方が簡単に思える。しかもプロデューサーは私の新しいスマートフォンを番号を知らないはずだからいきなり電話をかけてもビックリするだろう。
みくちゃんは得意げに腕を組んでいる。まさに名案だった。
「それなら私にも出来るかも」
「でしょ? そうと決まれば早く送りなよ! こういうのは勢いも大切なんだって」
そう急かされ、私はポケットからスマートフォンと数日前にみくちゃんから受け取ったメモ用紙を取り出した。
送信先の欄にプロデューサーの番号を打ち、本文欄へと移る。頭の中で何度も考えた文章をとりあえず打ってみたが一度読み直し、送信ボタンは押さずに全て消してしまった。そして再び空欄になった本文欄を見て思わずスマートフォンの画面をタッチしていた指を止めてしまう。
――やっぱり怖いかも。
そんな不安が生まれると同時に反射的にみくちゃんの顔を見てしまう。
「卯月ちゃん、逃げたらダメだよ」
みくちゃんの眼は真っ直ぐに私を捉えていた。
その眼は私もよく知ってる、アイドル活動に真摯に取り組んでいたみくちゃんの眼だ。
デビューが決まらず不安なってストライキを行った時、李衣菜ちゃんと音楽の方向性の違いが原因で喧嘩をした時、そして自分を助けてくれたプロデューサーのためにも何とかして声優として再び華を咲かせようと努力をしている今でも変わらないであろう、みくちゃんの夢や現実から逃げずに立ち向かっている真っ直ぐな眼だった。
その眼に私は背中を押される。私も逃げたらダメなんだ、そう心の中で呟くと私は震える指を再び動かしはじめた。
『突然すみません。昔、お世話になりました島村卯月です。お話ししたいことがあります、いつでも良いのでお時間ある時に直接会ってお話しできないでしょうか?』
返事が来たのはみくちゃんと別れ、ちょうど家に着いた頃だった。
『島村さん、お久しぶりです。ご連絡ありがとうございます。では、今週の日曜はいかがでしょうか?』
たった数行のこのメッセージを見るだけで私は懐かしい気持ちになった。
間違いない、この人はあの武内プロデューサーなんだ。
口下手で不器用、無表情で一見強面に見えるけど、誰よりもアイドルたちの事を親身になって考え、そして誰よりも情熱を持って接してくれた。
そしてアイドルを夢見ていた何の個性もない私を見つけ出してくれて素敵な魔法をかけてくれた大切な大切な私のプロデューサーーー……。
私は一度だけ深呼吸をすると、『日曜日で大丈夫です』とメッセージを打ち送信ボタンをクリックした。
☆☆☆☆
懐かしい夢を見た。
高校の頃の制服を着て、凛ちゃんのお店で買った華を大事そうに両手で抱えている私。そんな私の前に『デビューおめでとう』と書かれたプレートが乗ったケーキを持って満面の笑みを浮かべるママ、その両隣には未央ちゃんと凛ちゃんが「おめでとう」と言いながら拍手をしている。
そしてその三人より少し離れたところでプロデューサーが立って私を見つめていた。拍手もしていないし「おめでとう」とも言っていないが、その表情は私を祝福している様子を物語っている。
間違いなく私の人生で一番輝いていた時間だった。
同じ目標を持って毎日一緒に努力をする大好きな友達がいて、そしてただ夢を見ることしかできなかった私に魔法をかけてくれて夢のような世界を次から次へと経験させてくれるプロデューサーがいて。
毎日がキラキラと輝いていた、そんなダイヤモンドのような日々。純粋に夢に向かってひた向きに頑張れていた純粋無垢な日常。
叶うのならば、こんな夢のような時間が永遠に続けば良いのに。そう思って止まないほど、私にとっては大切でかけがえのない時間だった。
「夢……、か」
意識を取り戻した私の視界に入ってきたのは見慣れた自分の部屋の天井。
私は制服を着てもいないし華も抱えていない、当然だが未央ちゃんも凛ちゃんも――……、魔法をかけてくれたプロデューサーもいない。
私の傍にあるのは最近銘柄を変えたタバコとコンビニで買った安物のライター。あまりにも夢の中で見た過去の自分の生活とかけ離れた現実に思わずげんなりとしてしまう。
丁度そのタイミングでベッド脇の机からジリジリといった音が鳴り響いた。五月蠅いくらいに鳴り響く目覚まし時計を止めるとデジタルの画面には数字の七が表示されている。その横には『Sun』の三文字。
「そっか、日曜日か……」
だからあんな懐かしい夢を見たのか。思わず苦笑いをしながら納得してしまう。
未だにぼんやりとしたままの意識。私は無理矢理にでも寝ぼけた意識を起こすかのように髪を掻き上げた。
今日は四年半ぶりにプロデューサーと会う約束をした日曜日だった。
☆☆☆☆
待ち合わせの喫茶店に到着したのは予定より三十分も早い時間だった。少し早く着いちゃったかな、と店内を見渡して思わず呟く。まだオープンしたばかりの店内には一番隅に座っている私以外にカウンター席でマスターと仲良さそうに話す老夫婦の姿しか見えず、静かな店内にゆったりとしたジャスが響き渡っていた。
久しぶりにプロデューサーに会うせいか、朝から落ち着きがなかった私は部屋の中でいつもより念入りに化粧をしては何度も鏡の前に立っては鏡に映る自分の姿を眺めていた。前髪の細かな流れ、化粧に違和感はないか、など普段は全く気にもしないことが今日に限って気になって仕方がないのだ。
そんなことを繰り返してたら埒が明かない、そう思って予定より早く家を出たのにこうしてプロデューサーを待っている今でも私は何度も鞄から手鏡を取り出しては前髪を触っている。
プロデューサーを待つ今の私の心は、久しぶりに会えることへの期待が二割で残りの八割は不安や恐怖が埋め尽くしていた。
本当はプロデューサーは私に怒ってるのではないのだろうか。差し伸べてくれた手を一方的に無視したことを。そしてこうして四年半の月日が流れた今になって突然会いたいのだと自分勝手な事を言い出したことを。
プロデューサーと会う約束をしてからというもの、そういった嫌なイメージが何度も何度も頭の中をグルグルと回っては私を苦しめていた。その度に逃げ出したい気持ちに駆られてしまう。
でも何度逃げ出したいと思っても、その度に浮かんでくるみくちゃんの顔を思い出した。絶対に逃げてはいけないのだ、頭の中に浮かんでくるみくちゃんは私にそう言い続けてくれる。
それに私も今のままは嫌だったのだ。変わりたい、今までのように心にポッカリと空いた穴を抱え込みながら苦しんで生きたくない。
そういった思いが何とか私を紙一重のところで踏み止まらせていた。
チラッと腕時計へと目をやる。約束の十時まではあと十五分。マメなプロデューサーのことだ、時間より早く来るに違いない。
そう思った時だった。静かなジャズが流れていた店内に小さな鈴の音が鳴り響く。薄暗い店内に開いたドアから明るい光が差し込み、その逆光の中に一人の男が立っていた。その男が店内を見渡すように首を振っているとカウンターで老夫婦とお喋りをしていたマスターが声を掛ける。
「いらっしゃい、お一人かね?」
「いや、ここで待ち合わせを……」
そこまで言って男の声は途切れた。それと同時に薄暗い店内に眩しいまでの光が差し込んでいたドアがバタンと音を立てて閉まる。
スーツを着た男は私の方をじっと見つめていた。私を見つめている男は間違いなく、私に魔法をかけてくれた武内プロデューサーだった。一気に私の鼓動が音を立てて加速していく。
暫く私を見つめたまま立ち尽くしていたプロデューサー。私も何も言えずただただ立ち尽くすプロデューサーを見つめていた。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。プロデューサーは金縛りが解けたかのように突然動き出すとゆっくりと店内の隅の席に座っていた私の元へと向かってくる。
そして私の横に立つとプロデューサーは強面の表情を崩すようにして頬を緩めた。
「島村さん、お久しぶりですね」
四年半ぶりに聞いたプロデューサーの声に私の目頭は思わず熱くなってしまった。