【完結】島村卯月「もういいです、私、アイドル辞めます」 作:ラジラルク
こんな拙い文章を沢山の人が読んでくれているみたいでホントに感謝の気持ちでいっぱいです。
物語もこのep10も含め残り5話です。
残り少なくなってきましたが、よろしければ最後までお付き合いくださいませ。
「はい、今日はここまで!今日ミスしたところはちゃんと練習しといてね!」
トレーナーさんの手を叩く音が響き渡る。
私は両膝に手を付けながら乱れた呼吸をどうにか整えると、なんとか首を縦に振った。本当は口でちゃんと「はい」と返事をしたいのに、疲れ切った今の私にはそんな単純なことすら出来る元気が残ってなかった。
まさかここまで身体が鈍っていたとは――……。アイドルに復帰して一週間が経とうとしている今、何よりもその事実が一番の驚きだった。
四年半ものブランクは思ってた以上に長かった、その事実を私は毎回のように痛感させられる。こんなにハードな練習を昔は毎日のようにこなしていたなんて。四年半前の自分が信じられないほどだ。
「お疲れさま。どう、調子は?」
声のした方へと振り向くと最近になってようやくスーツ姿が見慣れてきた美嘉さんが壁にもたれかかって私の方を見ていた。いつから見ていたのだろうか。重い身体を動かすことに必死になり過ぎていて美嘉さんが来たことにすら私は気付かなかったようだ。
私は疲弊してなかなか言うことを聞いてくれない身体で一礼した、つもりだが思うように身体が動かなかったのか壊れたロボットのような一礼になってしまう。
その様子を見て美嘉さんは声を上げて笑うと壁から離れ私の方へとやってくる。美嘉さんが鞄からスポーツドリンクを取り出しすとそれを受け取り、私は乾いた喉に思いっきり流し込んだ。
「まだまだですね、思うように身体が動かなくて……」
喉に透き通る冷たいスポーツドリンク。私の頬を流れ落ちる汗を強引に腕で拭う。
鈍っているのもあるのだろうけど、一番の問題は肺活量だった。
アイドルを辞めてからの四年半、まるで何かに憑りつかれたかのように吸い続けたタバコのせいで心肺機能が想像以上に低下していたのだ。
なんでタバコなんか吸っちゃったのかなぁ、今更になってそう後悔したところで何もならないのに思わずそう思わざるを得ない。
「まぁブランクもあるからね。無理しないで自分のペースで戻していくといいわ。それより今日は今から時間ある?」
チラッと壁に掛けられた時計を見る。
今日は午前中にボイストレーニングがあって午後からダンスのレッスンがあるだけだった。そのダンスのレッスンも今終わり、これからは何も予定はない。
時計の針もまだ十五時を指していて微妙な時間だった。帰っても特に用事はないし――……。
「大丈夫です!」
「オッケー、それなら何処かでお茶でもしようか」
美嘉さんがそう言った時だった。突然勢いよくトレーニングルームのドアが開かれる。
私も美嘉さんもトレーナーさんも、皆が一斉に振り向いた先には二人の女の子が立っていた。綺麗な金髪の髪を両耳の横で結んでいる紺のブレザー姿の女の子と、肩くらいまでの長さの黒いセーラー服を纏った黒髪の女の子。少し幼さも感じるが歳は高校生くらいだろうか。そして開かれたドアの前に立つ二人の女の子は美嘉さんでもトレーナーさんでもなく私だけを凝視している。
静まり返るトレーニングルーム。暫く続いた沈黙を破ったのは金髪の女の子だった。
「卯月ちゃん……?」
確認するかのように私の名前を呟いた。
「莉嘉、いつもノックしてから入りなさいって言ってるでしょ」
「あ、お姉ちゃ……、城ヶ崎プロデューサー、ごめんなさい」
腕を組んで呆れたように溜息をつく美嘉さん。
美嘉さんのことを「お姉ちゃん」と呼ぼうとし、慌てて言い直した莉嘉と呼ばれる金髪の女の子。ということは……。
「莉嘉ちゃんとみりあちゃん!?」
「わー、覚えててくれたんだ!卯月ちゃん、ホント久しぶりだね!」
「卯月ちゃーん、会いたかったよ!」
涙交じりの声で駆け寄ってくる二人を私は汗だくのジャージのまま抱きしめた。
忘れるわけない、あの頃は毎日のように顔を合わせ一緒に夢を追い掛け努力をした大切な仲間なのだから。あの頃は莉嘉ちゃんはまだ中学生、みりあちゃんは小学生だったのに――……。二人とも四年半目の記憶とはかけ離れるほどに立派に成長していた。
「二人とも大きくなったね。見間違えるほど可愛くなってて誰だか分からなかったよ」
四年半の時間が流れ、莉嘉ちゃんは高校生に、みりあちゃんは中学生になっていた。
お姉さんである美嘉さんに憧れ、少しでも近づこうと背伸びをしていたあの頃の莉嘉ちゃん。今では憧れだった美嘉さんに全く見劣りしないほどに綺麗な女性になっている。
社交的で明るく、純粋無垢だったみりあちゃんもあの頃の面影を僅かに残しながらもしっかりと大人の女性になっていた。それでいてあの頃の汚れを知らない純粋な雰囲気がまだ残っていて、それがなんだか嬉しく感じてしまう。
「卯月ちゃんが戻って来たってホントだったんだ!」
きっと姉である美嘉さんから聞いたのだろう、莉嘉ちゃんが私の胸で鼻声ながらもそう叫んだ。
誰にも何も言わず一方的に逃げるようにしてみんなの元を去り、四年半も経過した今更になって戻って来た私をこうして温かく迎えてくれる二人の優しさに私も思わず目頭が熱くなってしまう。心の何処かで私が今更になって戻ってきたことをよく思わないメンバーもいるのではないかという不安もあったのだから。
それでもそんな素振りを全く見せず、二人は私を迎えてくれてあの頃と全く同じように接してくれた。
――この懐かしい感じ、やっぱりここは私にとって大切な場所なんだな。
四年半も時間が経って当たり前だが小さかった二人も大きくなって、それでもこうして四年半前と同じ雰囲気を感じることができて私は本当に嬉しかった。それと同時にこの雰囲気がどれだけ自分にとって大切なものだったのかを実感する。
その時ふと思い出したがみくちゃんから聞いた話ではシンデレラプロジェクト解散後、346に残ったのは他の部署に移った莉嘉ちゃんとみりあちゃんの二人。そしてもう一人、アイドル活動を辞め346の社員として働くことになった――……。
「あー、杏ちゃん!ほら、卯月ちゃんだよ!卯月ちゃんが帰って来たんだよ!」
丁度そのタイミングで開いたままになっているドアの前を走って通り過ぎようとした一人の女性をみりあちゃんが大声で呼び止めた。
みりあちゃんと莉嘉ちゃんよりも更に小さい小柄な女性。小さな身体が纏うスーツが失礼だが違和感を感じさせている。
呼び止められた女性は気怠そうに私たちの方に視線を向けた。そして私を見るや否や、一瞬だけ細い眼を大きく見開いた。
「おー、いつの間に帰って来てたんだ~」
「杏ちゃーん、久しぶりです~!」
その声を聞いて私の眼から再び涙が溢れてくる。泣きながら抱き着いた私を杏ちゃんは小さな身体でギュッと抱き締めてくれた。
見間違えるほど綺麗に成長したみりあちゃんと莉嘉ちゃんと違い、杏ちゃんは何も変わっていなかった。よく小学生と間違われるほど小柄な体系をしている杏ちゃんだったがシンデレラプロジェクトのメンバーの中では誰よりも大人だった。仕事も常にやる気がなくてアイドルを始めた理由も「印税生活を送りたいから」という不純な動機だったが、誰よりもシンデレラプロジェクトのメンバーたちに気遣いが出来て目立つことなくみんなを陰ながら支えていた。
言動や振る舞いがまるで私と歳が一つしか離れていないと思えないくらい大人なのだ。
「よくまたアイドルなんかやる気になったよね~。歌うのも踊るのもキツイし、杏にはもう無理だよ」
「あはは……。杏ちゃんは相変わらずですね。でもそう言いながらもちゃんと働いてるじゃないですか」
「給料良かったしアイドルよりラクかと思ったから社員になったんだけどね~。ホントブラックだよ、残業多いし休日出勤だってあるし……。早く養ってくれる金持ち探さなきゃ」
私たちは声をあげて笑った。杏ちゃんもみりあちゃんも莉嘉ちゃんも、変わってしまったのは外見だけで肝心な内面は何一つ変わってなかったのだ。
移り変わる時間の中で変わらないであり続けることがどれだけ難しい事か――。この事を私は身を以って体感していた。アイドルを辞めて未成年ながらタバコを始め毎日のように学校をサボっては夜遊びに明け暮れて、アイドルをしていた頃からは想像できないような変わり果てた生活を送っていた私。そんな自分を過去の自分と照らし合わせては、その度に嫌悪していた。もう昔の自分には戻れないのだと思い込んでいた。
でも今はこうして私の一番大切な時間を一緒に過ごした仲間と再会して、思い出の中の感覚が現実になり始めて、少しずつだが昔の私に戻り始めているような気がするのだ。夢に真っすぐで無邪気で純粋だったあの頃、もちろん完全にあの頃に戻ることは不可能かもしれない。この四年半で色々と知りたくなかった現実、見たくなかった現実を見てしまったのだから――……。
それでもこうして大好きな仲間たちとくだらない話をして笑って、そんな私にとってかけがえのない時間は荒んだ私の心を少しずつ解いては私をあの頃に誘ってくれる。そしてそのかけがえのない時間は思い出させてくれるのだ。あの頃の私を、そして消えかけていた情熱を――……。
「あー!双葉さん、こんなとこにいたんですか!」
突然大声で叫ぶと開いたドアから杏ちゃんに指をさしたスーツの男。
男の声に杏ちゃんはドキッと身体を反応させると恐る恐る男の方へと振り向いた。男は腰に手を当てて呆れたように杏ちゃんを見ている。
「定時までまだ二時間もあるんですよ?それまでに明日提出の意見書終わらせてくださいよ」
「定時って言ったって、絶対定時に帰れないだろ~」
「それは双葉さんがこうして仕事をサボってるからですよ。ほら、早く戻って今日こそ定時に帰りましょう」
ちぇ、そう呟くと杏ちゃんは肩をガックリと落として男に連行されて行ってしまった。
その背中を見て、残された私たちは三人とも思わず笑ってしまう。杏ちゃんはそんな私たちを恨めしそうに一度だけ見ては、大きな溜息だけを残し部屋を後にした。
☆☆☆☆
杏ちゃんが連行された後、みりあちゃんと莉嘉ちゃんはレッスンがあるため別れることになったのだが、二人はまるで今生の別れになるかのように最後まで大袈裟に別れを惜しんでいた。
「莉嘉もみりあちゃんも大袈裟よね。部署が違うだけで同じ会社なんだからいつでも会えるのに」
二人との大袈裟な別れを済ませた後、美嘉さんに連れられ立ち寄った会社近くの小さな喫茶店。目の前でコーヒーを飲む美嘉さんは呆れたように苦笑いを浮かべそう呟いた。
「まぁそれほど卯月ちゃんに会えたのが嬉しかったのよ、二人とも」
美嘉さんの言葉に私は黙って頷く。
莉嘉ちゃんにみりあちゃんの気持ちは言葉にせずとも理解していた。そしてそう思われることがどれだけ幸せなことかも。
「でも二人ともホント綺麗になりましたよね。杏ちゃんは相変わらずだったけど……」
「そうね……。でもそれが杏ちゃんの良いところなんじゃない?仕事に真面目な杏ちゃんなんて考えられないでしょ?」
「た、確かに……」
私は思わず苦笑いを浮かべる。
みりあちゃんも莉嘉ちゃんも杏ちゃんも、それぞれが違った四年半もの時間を過ごしたが皆自分らしさは失っていなかった。私は自分らしさも見失って変わってしまったのかもしれない。それでもあの三人を見てるとあの頃失った自分らしさを今更ながら取り戻せそうな気がしてきた。
――みくちゃん、そして今日再会した三人、残りのシンデレラプロジェクトのメンバーたちは九人。その九人は今どうしてるのだろうか。三人と変わらず自分らしさを失わずに頑張っているのだろうか。
そう思うと無性に会いたくなった。
みんながみんな、今はバラバラの場所で頑張っているとみくちゃんが教えてくれた。他社へと移籍したメンバーもいれば女子アナやモデルに転向したメンバーもいる。みんなそれぞれがそれぞれの仕事をしており、もう昔のように簡単には集まることができないだろう。
それでも――……、私はみんなに会いたかった。もしかしたらあの頃から変わってしまったメンバーもいるかもしれないが、それでもあの頃共に夢見て頑張っていたみんなが今どうしているのか、直接会って知りたかった。
そうは思っても容易に集まることが出来ないのが現状だ。
私は自分で自分を納得させるように目の前に置かれたカフェオレを未だに乾きが残っている口の中へと流し込む。
「……ねぇ卯月ちゃん。みんなに会いたくない?」
思わず吹き出しそうになってしまった。まるで私がカフェオレを飲むタイミングを見計らったかのようにそれまで口を開かず私を見つめていた美嘉さんが呟いたのだ。まるで私の心の中を完全に見透かしているかのような美嘉さんの言葉。
思わずカフェオレが入ったグラスを私は机に戻してしまう。美嘉さんは「全てお見通しよ」と言わんばかりの表情で私を真っすぐに見ていた。
「会わせてあげるわよ。残りの九人にも」
そう言うと美嘉さんは鞄からクリアファイルを取り出した。
私の前に置かれた透明なクリアファイルに入った書類。透明なクリアファイル越しに見える文字列を見て私は思わず目を見開いてしまった。その文字列が信じられず、私はそして見開いた目を強引に擦り、もう一度見る。だが私の目に映る文字列は何も変わっていなった。
「『一夜限りのシンデレラプロジェクト復活ライブ』……」
何度目を擦っても変わらない文字列がそれが現実だということを私に証明してくれた。
思わずクリアファイルごと手に取って口に出して読み上げる。読み上げた瞬間、私の鼓動が一気に早まるのを感じたのと同時に胸の奥が急激に熱を帯び始めた。
「まだ企画段階だけどね、でもほぼ決まりよ。九十九パーセント決まりと言っても過言ではないわ」
「……すごい、凄いです!ホントにみんなに会えるんですね!」
私の反応が予想以上だったのか、美嘉さんは私を見て思わず苦笑いを浮かべていた。
それでも私は興奮を抑えきれなかった。私がアイドルを辞めてシンデレラプロジェクトが解散になって、もうあの十四人では二度と集まれないだろうと思っていたのに――……。まさかまた全員でステージに立てる日が来るなんて。本当にあと一回だけでも良い、あの十四人でステージに立てたらなぁ、それはアイドルを辞めた四年半の時間の中でも心の何処かで眠っていた私の願望だった。
もしあの時アイドルを辞めていなかったとしても、あの十四人全員がいつまで揃ってずっと活動できることはないのだと当時から薄々は感じていた。舞踏会に向けて部署存続のためにそれぞれが活躍の場を広げ始めた頃から、遅かれ早かれ皆バラバラの道を歩んでいくのだろうと実感はしていたのだ。
それでも私にとって大切な時間を共に過ごした大切なメンバーたちだったから。だからこそ、もう一度だけでもみんなで集まってあの頃のような時間を過ごせたら。あわよくばみんなで歌うことができたら――……。
アイドルに復帰してからの一週間で何度も何度も考えていた絵空事。それが今美嘉さんが差し出した書類によって現実味を増し始めている。
「ただこれには色々と問題があってね……」
問題ですか?そう言いながら私は首を傾げると美嘉さんは困ったように右手で頭を掻く。
「みんな所属してる会社が別々でしょ?その中にはウチとはあまり関係の良くない会社もあってね……」
「どういうことですか?」
「一応、全員の参加許可は個人にも会社にもアポは取れてるのよ。ただその会社同士の問題ってのがあってねー……、まぁ俗にいう大人の事情ってやつよ」
そこまで言われてもイマイチピンと来なかった。
参加は出来るのに大人の事情?どういったことなのだろうか。
変わらず頭の上にクエスチョンマークを浮かべる私。美嘉さんは一度周囲を確認するかのように首を振るとそんな私の為に小声で説明をしてくれた。
「例えばの話よ。ファッションモデルのアーニャちゃんと千葉でアナウンサーをやってる美波ちゃん。この二人はそれぞれ会社が違っても会社同士はそこまで仲が悪くないからラブライカとしてステージに立たせても大丈夫なのよ」
「はい」
「でも李衣菜ちゃんが今所属してる会社とみくちゃんが今通っている声優の養成所ってのはめちゃくちゃ仲が悪いのよね。だからこの二人はアスタリスクとしてはステージに立たせることができないの。お互いソロで別々にステージに立たせるだけ、ってのでしか許可が取れなかったわ」
「……なるほど」
特にアイドルを抱える会社というのは何処もお互いをライバル視しているとこが多いらしく、他社のアイドルとの競演をよく思わないらしい。
事情はそれぞれあるらしいが私にはあまり理解の出来ないことばかりだった。ただそれはもう何年も昔から続いている因果のようなものらしくて、今更どうにも改善できるような容易なものではないのだと美嘉さんが教えてくれた。
これが俗にいう「大人の事情」というやつらしい。
「だからね、卯月ちゃんには申し訳ないけどニュージェネレーションズも三人揃ってはステージに立てないのよ」
「そう、なんですね……」
もしかしたらまた三人で揃って歌えるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていただけに私は思わず肩を落としてしまう。
それから美嘉さんはこのライブの詳細を教えてくれた。開催日は二か月後の日曜日でタイトル通り『一夜限定』の復活ライブでユニットとしてステージに立つことが出来るのは凸レーションとラブライカだけ、残りのメンバーはソロでステージに上がりそれぞれのソロ曲を歌うことになる。ライブの最後にもしかしたら十四人全員でステージに立つことはできるかもしれないが、それも今はまだ検討中だそうだ。ただ残りのニュージェネレーションズ、アスタリスク、キャンディアイランドはユニットとしてステージに立てる可能性は完全にゼロらしい。
正直ニュージェネレーションズとしてステージに立てないという事実は私にとってショックだった。
でも、それでもこうして十四人全員が揃ってまたステージに立てるだけでも良しとしなければ。私はそう自分に言い聞かせ自分を納得させた。
「卯月ちゃんには先日武内プロデューサーから受け取ったS(mile)ING!を歌ってもらうわ。だからライブまでの二ヶ月で徹底的にこの曲をマスターしなさい」
「分かりました」
ライブの詳細を聞き、抑えきれない高揚感が私の中に生まれたのは間違いなかった。
だけどそれと同時に緊張と不安も同じように生まれていた。四年半ぶり、しかも最後はライブから逃げ出してアイドルを辞めた私はちゃんとステージに立てるのだろうか。あの頃はまだマイナーなユニットでそこまで知名度がなかったニュージェネレーションズだが、おそらく復活ライブに来るお客さんの中には私がニュージェネレーションズとして活動していた頃から応援してくれている人もいるはずだ。そんなお客さんが私を見てどう思うのだろうか。
一度芽生え始めた不安の種が次第に私の心の中を覆いつくすように大きくなっていく。
「……大丈夫。卯月ちゃんなら大丈夫よ」
「美嘉さん……」
優しい美嘉さんの声。
美嘉さんに私は完全に見透かされていた。不安と緊張で最後に逃げ出した四年前の私を思い出してしまいそうになっている私を勇気づけてくれた美嘉さんは自分でも気付かないうちに震えていたクリアファイルを握り締めた右手をゆっくりと両手で包み込んでくれる。
「S(maile)INg!の歌詞、見せてもらったわ。良い曲じゃない、あれは卯月ちゃんにしか歌えない曲よ。大丈夫、飾ろうとしないでありのままの自分で歌いなさい。そうすれば絶対お客さんに卯月ちゃんの気持ちは届くから」
そう言うと温かい両手で右手をギュッと握り締めてくれた。そのまま優しい眼で私を見つめると黙って頷く。
お客さんに、シンデレラプロジェクトのメンバーたちに受け入れてもらえなかったらどうしよう。大勢のお客さんが集まるであろう復活ライブで失敗したらどうしよう。そういった類の不安が次から次へと私に襲い掛かった。今までソロとしてステージに立ったことは一度もないし、いつも常に未央ちゃんと凛ちゃんが傍にいてステージで歌っていた。それが次は一人で誰に頼ることなく大勢の観客の前で歌わなければならない。
そのプレッシャーに私は耐えれるのだろうか。
「……ありがとうございます。島村卯月、頑張ります!」
昔アイドル活動をしていた時によく言っていたこのセリフ。自分に大丈夫だと言い聞かせるように何度も何度も口にしていた。四年半ぶりに口にしたそのセリフは微かに震えていた。
だがもう逃げたらダメなのだ。目の前の恐怖から、自分の夢からもう逃げないと誓ってアイドルに戻る道を選んだのだから。逃げ続けたってその先には何もない、寧ろそれ以上の苦しみが待っているだけなのだ。
「よし、その意気よ!卯月ちゃんなら絶対大丈夫だから!」
私の右手を握っていた手をパッと開くとそう笑って美嘉さんは言ってくれる。
美嘉さんのためにも、そして私を何度も救ってくれた武内プロデューサーのためにも、私はここで不安や恐怖に負けるわけにはいかないのだ。
「まぁ今の段階で決まってるのはそれくらいかなー。他、何か質問とかある?」
美嘉さんにそう問われ、私は再び書類に目を通した。
何度も上から下まで目を通すとそのまま「何もないです」という言葉と共にクリアファイルを美嘉さんに返す。
クリアファイルを受け取った美嘉さんはコーヒーを飲みながらクリアファイルに挟まれた書類をぼんやりと眺めていた。
「それにしても奇跡よ奇跡。あんだけバラバラになった十四人を一晩だけでも集めたなんて。さすがあの人よ、ホントに考えられないようなことしてくれるわ」
「あの人……?」
思わずきょとんとする私。
美嘉さんはそんな私を見ると左手に握っていたコーヒーカップを皿の上へと戻した。
「武内プロデューサーよ、武内プロデューサー」
「え、これって武内プロデューサーが企画したんですか!?」
「今まで気付いてなかったの?こんなことできるのあの人しかいないじゃない」
当然のようにそう言い放った美嘉さんは驚きのあまり少しだけ声のボリュームが上がってしまった私を呆れたような表情で見つめている。
「表向きに名前は出てないけどね、裏では一から十まで全部あの人の仕業よ」
「へ、へぇ~……。そうだったんですね」
「昔からめちゃくちゃなことする人だとは思ってたけど、まさかこんなことまでやってしまとはねぇ……」
溜息交じりにそう呟いた美嘉さんは再びコーヒーカップを握ると口元へと運んだ。
そう言えば美嘉さんと武内プロデューサーはどういった関係なのだろうか。ずっと気になっていた疑問がさっきの美嘉さんのセリフでまた私の中に蘇ってくる。
武内プロデューサーがシンデレラプロジェクトを担当していた頃からちょくちょくと顔を出していた美嘉さん。妙に仲が良かったりズバズバと意見を言っていた様子を見て武内プロデューサーとは他人ではないということは薄々勘付ていたが、私は何も二人の関係性を知らなかった。
聞いても良いのだろうか。チラッと美嘉さんを見ると私は思わずそんなことを考えてしまう。
「ん?どうしたの?」
どうやら隠れてみていたつもりが美嘉さんにはバレバレだったらしい。コーヒーを片手に書類をぼんやりと見ている美嘉さんは目線を書類のままにそう呟いた。
「いや、美嘉さんと武内プロデューサーってどういう関係なのかな~って思いまして……」
「私とあの人?私がアイドル活動していた時の担当プロデューサーだっただけよ」
「……え?」
そう呟く美嘉さんの目線は相変わらず書類に向けられている。
まるでどうでも良いことを話す時のような雰囲気で美嘉さんは話してくれたが、それは決してどうでも良いようなことではなかった。
美嘉さんの担当プロデューサーが武内プロデューサーだったなんて……。今更になって知った事実に私は思わずフリーズしてしまう。そんな私にようやく気付いたのか、美嘉さんは書類を追っていた目線を私に向けると驚いたような表情を浮かべた。
「え、話してなかったっけ?」
「まったくですよ、初めて聞きました!」
「そうだっけ……。私も楓さんも美穂ちゃんも、あと瑞樹さんも。昔は武内プロデューサーが担当プロデューサーだったのよ」
「え、ええぇぇ!?」
思わず大きくなってしまった私の声。今初めて知った事実に私は無意識に机に両手を付いて前かがみになってしまう。
私の前にあるグラスに入ったアイスカフェオレが小さく波打っていた。