教授には失ったものに辿り着けぬまま終わりが近づく。
そして彼らにとって拓真はどんな存在なのか。
第44話 居酒屋 鳳翔
それは教授が病院から姿を消した後、ある夜の出来事。
「いらっしゃいませ…あらっ、退院されたんですか!? こんな雨の中ありがとうございます。カウンターでよろしいですか?」
居酒屋『宝生』改め『鳳翔』が、前と同じ場所に再オープンした。突然の閉店を残念に思った馴染客も多く、客足はすぐに元通りになった。だが今日は横殴りの雨が降り、『今日は開店休業ですね』と鳳翔夫妻が諦めていたところに、閉店時間にほど近い頃になって、教授がふらりと現れた。
「おお、いらっしゃい。…おい、今日はもう店じまいだ。こんな天気だ、どうせ誰も来やしない」
大将が鳳翔に向かい声をかけ、暖簾を仕舞う様に言う。
「教授には何と言ってお礼をしていいのか…。教授は永遠に亭主勘定で構わんよ、何でも好きなものを頼んでくれ」
「ふむ…この店だと和食になるか。つまみは任せる、酒は…そうだな、出羽桜 桜花をもらいたい」
◇
大将はカウンター越しに、鳳翔は教授の隣に座り、さながら3人の宴席のようになり、四方山の話で静かに盛り上がる。
「その後体調はどうなのだ、二人とも?」
その中でのこの問いかけは、この街が深海棲艦の艦載機による空襲を受けた日まで遡る―――。
市の中心部が猛爆撃を受け、難を免れた市民と負傷者でごった返す市の南部に位置する総合病院に、教授の姿もあった。彼が避難民だったわけではなく、所用で訪れた病院がたまたま避難場所になっていたというのが正しい。
「む?」
屋上から飛立つ零戦53型、ややあってそれに続く九九式艦爆と九七式艦攻。こんな所に何故艦娘がいるのか-? 教授は屋上へと向かい歩を進める。
「きゃぁっ…す、すみませんっ。…あ、あなたは…」
教授は小柄な女性と出会い頭にぶつかりそうになった。
「誰かと思えば…久しいな、鳳翔」
◇
「なるほど…その病状では長くないだろうな」
病室に移動した二人。鳳翔は大将のすぐ脇にある丸椅子に腰かけ、教授は壁に凭れるようにして立っている。拓真とはるなのために、鳳翔は自らの存在が知られるのを承知で、軍と繋がりのある教授の助力を得るために助け舟を出したことがあった。
万が一軍に感づかれることを恐れ街を出ようとしたが、大将が体調不良を訴えたことでこの街に留まらざるを得なくなった。そして余命宣告を受けた大将は生まれ故郷での最期を願い、鳳翔もそれを受け入れた。
「ふむ…あまり時間が残されていないようだな。鳳翔、これは実験でさえない、単なる賭けだが乗ってみるか? その男に持ってこいの方法がある。アポトーシスの誘導により…いや、細かいことはよいだろう、重要なのはその男が今より長く生きられる可能性があるということだ。
そういえば、お前には借りがあったな。よかろう、お前の生体機能を設定した時期に機能停止するよう試みる。環境要因にも左右されるため安定性を欠くが、それでも10年以内にはお前の時間を止めることが出来るだろう。…そうか、乗るか」
後日実験棟で行われたその作業ー大将は長く、鳳翔は短く、二人の時間を揃えるーは無事終了した。経過観察のため実験棟を訪れた鳳翔夫妻の目の前で教授は倒れ、急きょ病院に運ばれた。
自宅で最期を迎えると退院したはずの患者はなぜか回復し、その代わりに別な患者を運びこんできたのだから、総合病院側の驚きは並大抵のものではなかった。
◇
杯を重ねる大将と教授。2人よりはゆっくりしたペースで鳳翔も杯を重ねる。
「にしてもやせ過ぎじゃねぇか? …本当に退院なんかして大丈夫なのか?」
大将が魚を捌きながら教授の体調に疑問を投げかける。鳳翔もこくりと頷く。
「…なに、どうということもない」
事もなげに答え、教授はくいっと酒をあおる。今さら体調のことなどを話しても意味はない。
「まぁ教授なら、俺を助けてくれた最先端の技術で何とかできるか。安心していいんだよな?」
むしろそうであってほしい、自分の願望を込めて大将がわざと気軽な感じで教授に問う。それに対し教授はいつも通りの冷笑を浮かべながら答える。
「…自分で自分を遺伝子レベルで操作出来るわけがないだろう。あれは世界で私しかできないものだ。私を誰だと思っている?」
現代医学では治癒不能、さりとて彼の持つ技術は余人では再現できない。それが分かってしまった大将は、再び問うこともなく、太刀魚のお造りを無言で差し出す。教授は再び杯をあおりながら、渋く笑う。
「…あと20年あれば、穴吹は私に追いつき超えるかも知れないが、まだまだ先は長い。良いものを持っているが、今はただの甘ったれだ」
それでもどこか嬉しそうな表情で杯を重ねる教授。
「そうは言っても随分可愛がってるようじゃないか?
からかうように質問を重ねる大将。
「私と言うよりは深海棲艦がな。連中の空襲のおかげで市役所は全焼し、この街の住民の戸籍統合システムも紙で保存されている改製原戸籍も全て灰になった。法務省のサブシステムと照合が取れない今、
合法的ね、と鸚鵡返しにしながら苦笑を浮かべる大将と、それを見てほほ笑む鳳翔。
「いずれにせよ、はるなと一緒にいることで穴吹は大きく成長できるだろう」
「あなたにとっての五月雨ちゃんのようにですか?」
酔ったのか、頬をほんのり赤く染めながら鳳翔が唐突に投げかける名前。
「…彼女をあんな状態で戦地に戻すのを止められなかったのは他でもない私だからな、そんなことを言う資格はないさ。
私も年老いたのだろうか、荒唐無稽な夢を見るのだよ、鳳翔。もし私と五月雨の間に子供でもいたら、穴吹のように育ったのではないか、と。おそらく大将と鳳翔も同じように考えていたのではないか? 彼が今後はるなのために取り組むのは、まさにそれだよ。
結局五月雨は死んだのか、それとも今もどこかで…。私はな、もし五月雨に今会えるなら、あの時言えなかった事が言えるような気がしているのさ。
大将は上を向いて涙がこぼれるのを堪えているようにも見える。鳳翔は堪えられなかったようで、頬には涙が伝った跡がある。
「…これから、どうされるのですか?」
鳳翔は教授の杯に酒を注ぎながら尋ねる。杯をあおり、教授がぼんやりと答える。
「軍に利用されるのもそろそろ飽きてきたな…いや、何でもない。どうも酔ったようだ、どうでもいいことを喋りすぎた。…そろそろ帰るよ」
言葉とは裏腹に、しっかりとした足取りで店を出る教授の背中を、大将と鳳翔はその姿が見えなくなるまでいつまでも見送っていた。
ほどなく大学には、教授から体調不良を理由とする退任届が提出された。その深夜、大学で火災が起き、教授の研究棟と実験棟が全焼した。見事なまでに全ての物が灰となり、数多の知的財産や研究設備が失われることとなった。
今回から最終章となります。これまで物語にお付き合い下さいました皆さま、よろしければ最後まで見届けて頂けますと嬉しく思います。