現実とするには不確かで夢とするには切ない。
真夏の夜にはるなに訪れた不思議な時間。
拓真さんの部屋と自分の部屋を仕切っている引き戸をすっと開けます。
「…どうでしょうか、拓真さん」
髪をアップにした浴衣姿…普段と違う格好を見せるのはちょっと照れちゃいますね。白地に淡い青や紫で描かれた桔梗の柄です。花言葉は…永遠の愛。…拓真さん、気付いてくれるでしょうか…?
拓真さんは真っ赤な顔をして、可愛いって言ってくれました…嬉しいです♪
商店街から山の方へ続く細い道をしばらく進み、長く続く石段を登ってゆくと神社があります。今日は二人で、この神社で夏の終わりに行われる
さすがに108段も石段を上ると、少し汗ばんできます。あ、拓真さん、ちょっと待っててもらえますか? この神社の縁起が書かれた案内板があります。かつての戦艦『榛名』は、榛名神社の祭神、
…なるほど、
「はるなさん、こっちだよ。もうすぐ始まるみたいだ」
お参りをすませ、薪能の会場へと向かいます。横を歩く拓真さんの顔をちらっと見ます。…神様に何をお願いしてたんでしょう? はるなは…会えるなら、いつか私たちの子供に会いたいです、そうお願いしました。でも…。
薪能が催される会場では、多くの見物客が開演を待っています。あ、拓真さん、あそこが空いてますっ。裾を気にしながら、少しだけ小走りで比較的空いているその場所へと向かいます。
さぁ、始まりました。能管の音が鳴り、ワキの播州室の神官が、賀茂社に参拝するところから能が始まります。前段が進み、小鼓の乾いた音が響きます。規則正しく打たれる鼓の音は、はるなの頭の中でも残響し、その音にしか意識が行かなくなり、ぼんやりしてきました。遠くで誰かの声が聞こえます…。
-無垢ナル
◇
はっと気づくと、縁日にいました。多くの屋台が連なるように並び、遠くから聞こえる祭囃子と石畳に響く軽やかな下駄の音色、行き交う人たちの喧騒が、祭の雰囲気を高めてくれます。
「あれっ、縁日は明日だったのでは? でも、すごく楽しそうですね、拓真さんっ」
振り返った先には行き交う人の流れがあるだけで、拓真さんはいませんでした。………はぐれた?
慌てて左手にもった巾着からケータイを取り出します。圏外…何で? …見ればそれほど広い縁日でもないみたいです。仕方ありません、取りあえず回って見ましょう。
………ここは一体…? 拓真さん、どこですか?
不安になり、何度もケータイをチェックしますが、依然として圏外のままです。よそ見をしながら歩いていたら、前を行く人にぶつかってしまいました。
「ぁあの、すみませんっ。よそ見をしていたもので」
思わず深々と頭を下げます。
「いたぁーい。もう、気を付けてよぉ」
幼い声がして、思わず顔を上げると、朝顔柄の浴衣を着た、4、5歳の女の子が尻餅を付いていました。慌てて手を差しだして、立ち上がるのを助けようとします。
「ひとりでたてるもんっ!」
とても利発そうな表情に、きらきらした瞳。下せば肩より長そうな髪をアップにした、一言で言えばとっても可愛い女の子です。…なぜでしょう、はるなの顔をじっと見ています。
「行こうっ」
急にはるなの手を取って走り出そうとします。
「え、え、ちょっと待って。どこに行くの?」
「パパが向こうに行っちゃった。急いで追いかけなきゃ」
あぁ、はるながぶつかったせいで、ご家族とはぐれそうになっているのですね。その子を抱っこし、視線を高くして探しやすくしてあげます。…可愛いですねぇ、子供って。はるなも…いつか拓真さんの赤ちゃんを抱っこしたいです…。
「………あ、いたっ! パパーッ、待って! 急ごう、
急にそんな風に言われてドギマギしちゃいました。その子のいう方向へ、人波を縫いながら急ぎます。
「見-つけたっ」
女の子ははるなの腕から降りると、その男性に駆け寄ります。
「パパが向こうで待ってるよっ! 早く早くー!」
そう言って、はるなを急かします。訳が分からず、その子の行き先をぼんやり見ていると、浴衣姿の男性の膝に抱き付きました。
その顔は、拓真さん…いいえ、拓真さんがもっと年を取ったらそうなるだろう、という顔です。そしてその横にいるのは…えぇっ!? 私?
女の子は、その女性と私をきょろきょろと見て混乱しています。そういえば、女の子の瞳は、
「「はるなさん―――」」
はっとしました。拓真さんが心配そうにはるなを見ています。
「大丈夫、なんかぼんやりしていたけど? 」
見渡すと目の前には篝火に照らされる能舞台が見え、能は続いています。隣にいる拓真さんの顔と言わず腕と言わず胸板と言わずぺたぺた触ります。うん、本物の拓真さんです。ならあれは…夢?
「え…あの、縁日は…? いえそれよりもあの女の子は?」
拓真さんはちょっと困ったような顔をしながら、そっとはるなのおでこに手を当てます。
「人も多いしちょっと暑いし、のぼせちゃったかな?」
拓真さんは涼しい所で少し休憩しようと言い、はるなの手を取ると見物客の間を抜け、薪能の会場を離れます。
歩きながら体験したことを拓真さんに説明しますが、どうしても信じてもらえません。いつの日かの将来、あの女の子が私たちの元に…それを神様が教えてくださったんです、そう思えてなりません。
あれを現実とするにはあまりにも不確かですが、けれど夢とするならあまりにも切なすぎます。
拓真さんは悲しそうな表情で、研究で成果を出せるよう頑張るから、そう言います。違うんです、拓真さんを責めてる訳じゃないんですっ。
「拓真さんだけが頑張ることじゃないですっ。今から二人で頑張りましょうっ!」
拓真さんはぽかーんとした顔をしたかと思うと、夜目にも分かるくらい照れてます。瞬間、拓真さんがどんな意味ではるなの言葉を受け取ったのか理解しました。子供を授かるのに必要な頑張り…。
「あっ…そういう意味ではなくって。…いえ、やっぱりそういう意味というか…そっちも拓真さんに頑張って欲しいというか」
何を言ってるんでしょう、はるなは。自分でも顔が熱いのが分かります。でも、少し心が軽くなったような気がします。
夏の終わりにちょっと不思議な話を書きたくなりました。この章はここまでとなり、物語はいよいよ閉幕に向かいます。