そんな拓真のために何かしたくて焦る榛名。
思いだけでは越えられない現実に直面する二人。
少しでも調子が悪くなったら必ず連絡する事、その約束をはるなさんと交わし、俺はとにかく学校だけは行く。けれどバイトは休まざるを得ない。ちなみに俺は駅近くの居酒屋でバイトをしている。はるなさんと暮らし始めたばかりの頃もよく休んだ。引っ越ししてからはシフトを替えてもらって中番にした。そして今また連続休みの連絡だ。さすがに俺も気が重い…。
そして店長から冷ややかに『いい加減にしろ、自分の都合だけで世の中が動くと思うな』-そう言われ、あっさり俺はクビになった。
はぁ…。仕方ないな、これは。俺にも言い分があるし、ましてはるなさんをこのままにしてはおけない。でもそれらは全部俺の事情で、バイト先には関係のないことだ。甘えすぎてたな…。
はるなさんが体調を崩してから今日で5日目になる。
熱は上下を繰り返し、はるなさんはとても辛そうだ。食欲は最初の頃に比べ随分回復しているが、基本梅粥か卵粥。俺が食事を用意するたびに、はるなさんが辛そうな申し訳なさそうな顔をするのを見るが辛い。ちなみに『あ~ん』は初日だけです、はい。なんか…少し残念そうだね、はるなさん?
長くて2、3日で治ると思っていた。はるなさんに聞いても、こんな状態は初めてだというし。人間の病院でも行くべきだろうか…そう考えて、今さら愕然とした。
はるなさんは保険証がない。全額実費なら保険証なしでも病院にはかかれるが、どえらい金額になる。というかそもそも名字もないし、社会的な身分がない。こっちの社会で、本質的な所ではるなさんの存在を証明するもの、はるなさんを社会とつなぐものが何もない。俺達がごく当たり前にしている社会的な共通基盤から外れたところに、彼女は存在している。
幸い、1週間ほどで熱は完全に引いた。だが、この一件は俺の心に不安の影を残した。
◇
はいっ、榛名は元気ですっ! 熱も下がりましたし、食欲も普通にあります。1週間、拓真さんにはまた迷惑をかけて甘えちゃいました…。でも…拓真さん、あんなに榛名のことを気にかけてくれるなんて…感激ですっ! 拓真さんが学校やバイトでまた頑張れるよう、榛名も頑張りますっ!! …と言いながら、榛名、気がかりな事ができてしまいました。以前とは違い、拓真さんが毎晩おうちに早い時間に帰ってきてくれます。
もちろん、榛名としては…その…嬉しいですっ。でも、今までバイトが入っていた日も、おうちにいるのは…? 何回か聞きましたが、話を逸らされちゃいます。今日こそはハッキリ聞きたいと思います。
「あー………辞めたんだよ。今は新しいバイト先探しているところ」
気まずそうに目を逸らしながら、拓真さんはそう言いました。理由を聞いてもはっきりしません。それで唐突に気が付いてしまいました。
「………榛名の、せいですか?」
拓真さんはびっくりした顔で榛名を見ると、大慌てで手をぶんぶん顔の前で振り、違うと言います。
けれど、1週間、拓真さんはつきっきりで榛名の看病をしてくれました。初日の『あ~ん』は、熱でぼんやりしていたので、つい心のままに頷いてしまいました。今思い出すととても恥ずかしくて、でも、2日目からはそう言ってくれないのが残念で…あれ、何の話でしたでしょう? そうそう、拓真さんのバイトの話でした。つまり、榛名のためにバイトを休んでしまい、戦力外通告を受けたということでしょうね…想像に難くないです…。
なら、拓真さんのために榛名がやることは決まっていますっ!
「………分かりました、榛名がバイトしますっ!!」
椅子から勢いよく立ち上がり、ふんすと小さくガッツポーズを取る榛名を、拓真さんは唖然とした顔で見ています…どうしてでしょう? 確かに脱走中の榛名ですが、これだけの期間何も起きていません、きっと大丈夫ですっ! それに…榛名には拓真さんのお役に立ちたい気持ちがあふれていますっ!
「…えっと、はるなさん。バイトするには履歴書という書類を書く必要があります」
「はい」
「俺もバイト探しているんで、ここに白紙の履歴書があります。書いてみましょうか?」
「はい! 榛名、全力で頑張りますっ!」
◇
「拓真さん、この『姓』の欄、何を書けばよいでしょうか?」
「生年月日は…進水日の1913年12月14日でよいのでしょうか? 鎮守府への着任なら去年の12月14日です。偶然ってすごいですねっ」
「学歴は…榛名は学校に行ったことがありません ションボリ」
「職歴は『―鎮守府 第2艦隊第3戦隊』…とは書けませんよね、やっぱり…」
「資格はですね、榛名いっぱい持ってますっ! 軍用大型特殊船舶免許、クレーン運転免許、フォークリフト免許、ボイラー、危険物取扱者です。あ……確かどれも『鎮守府内または作戦活動中に限る』ってただし書がありました…」
拓真さんが頭を抱えています。むぅ…ひどいです、榛名、真剣なのに。顔を上げた拓真さんは、真面目な顔付きで、こっちの社会の仕組みについて教えてくれます。
そして榛名は理解しました。鎮守府を離れた今、自分には自分を証明する手立てが一切ないことに。そして、拓真さんが榛名を榛名と呼んでくれるから、榛名でいられることに…。
榛名のバイト計画は、始まる前に終わりそうです。ごめんなさい、拓真さん…。
◇
今日は駅前にお買い物に来ました。特別な用事があったわけではなく、ちょっと気分転換も兼ねてです。バイト計画が上手くいかなかったこと、そして、自分が何なのかという問いが、日を追うごとに心に重くのしかかってきます。
駅前でバスを降り、少しぶらぶらします。本屋さん、お菓子屋さん、美容室、雑貨屋さん、レストラン、カフェ…いろんなお店があり、いろんなところで求人があります。けれど、履歴書1つ用意できない榛名には…。しばらく本屋さんの前でぼんやりしていると、知らない男の人から声をかけられました。
-おぉっ、彼女、すげぇイケてるねー。どう? キャバのお仕事とか興味ない?
-求人ずっと見てたでしょ? そんなバイトよりウチなら儲かるよ
-ウチの店、最近オープンしたばかりでさ、目玉になるコが欲しいんだよねー。君なら速攻No.1狙えるから
…この、茶色い髪のへらへらした男の人は、いったい何を言ってるのでしょう? お仕事、ですか? でも榛名は…
-あー、ワケありなんだ ニヤリ。大丈夫、うちの店そういうの問題ないから。じゃぁちょっと詳しいこと話しようか。お金がいるならキャバより割のいい仕事も紹介できるよ?
…なんですか、なれなれしく肩を抱いてきて。背中がぞわぞわします。すごく嫌です、この人。でも、拓真さんのためにバイト…。