ねえ、毛細魔力回路って覚えてるかな?
腕が、腹から引き抜かれていく。
「ごほっ……」
どぼどぼと血が流れていく感覚を感じながら、膝から崩れ落ちた。秒刻みに体の方が末端から冷えていき、暗い闇の中に落ちていくような感覚を感じる。
八神はやての家を出ていくつもの世界を周りそして、ようやく見つけた存在。オレの全てを奪った、殺戮兵器、ナハトヴァール。
白いフードに、覚えのある魔力、そして忘れるはずのない容姿。
自分の目に、自分が恋い焦がれ、オレが守ると誓った、彼女の姿が映り込む。
ヴィルフリッド・エレミア。
そして、オレの、罪の証。
「……もう、いいよ、エデル。お前の、技術は、全部取った。死んで、いい」
「カカ、随分辿々しい話し方だな、さながら幼子だ」
「……言い残すことは、それだけ?」
ナハトヴァールが、自分の戦闘服の襟首を掴み、そして宙に吊り上げた。自分にはもうそれに抗う力もなく、ただぼんやりと向かってくる死を眺める事しかできない。
フードの奥に
その色に突き動かされるように無理やり体を動かそうとする。しかし、それでも、体は動かない。
そして、ナハトヴァールの黒腕がゆっくりと自分に迫ってくる。遅々とした速さでしかし、確かなスピードで、自分の命の灯火を吹き消す為に、迫ってくる。
──まだ、オレは終われない
そんな思いとともに、何とか抗おうとして、突然自分を掴んでいた手が解放された。そして、重力に逆らわずそのまま自分の体は地面に落ちた。満身創痍、死に体の自分に受け身など取れるはずもなく、顔面から無様に。
「あ、ぐ……また、か……!」
崩れ落ちた地面でナハトヴァールの苦しむような呻きが聞こえる。見れば頭を抑えてふらふらどこかへ歩いて行っていた。
追うべきか、追わざるべきか。
その算段が脳内でつけられたが、死に体の自分に最早選択肢などあってないようなものだった。
「く、圏、きょう……」
無理やり絞り出すようにして圏境を発動させ、ナハトヴァールから逃げ始める。情けなく、惨めに。それでも、死ぬ事だけは許されない。
オレの無念、自分の誓い、その為に、無為に死んでいく事だけは避けなければならなかった。
「必ず、次は、終わらせる。リッドとの、約束の、為に……」
体が酷く痛む。
ナハトヴァールに貫かれた腹は未だ癒えず、警鐘を鳴らすように頻りに痛みを訴えている。さらに言えば、身体中のイレイザーによる裂傷は
其れでも、今日で全てを終わらせなければならない。
呼吸を読まれない為に、否、例え読まれたとしても、攻めさせない為、呼吸のタイミングをナハトヴァールと完璧に同一にする。そうして生じる呼吸の隙をナハトヴァールと完璧に同調させる。難しい技術だが、オレの記憶にはそれに関するものがあった。
それを応用しながら、ナハトヴァールと拳を合わせていく。
「──ク」
魔力の強化は充分にも関わらず、一瞬の関わりだけでナハトヴァールの黒腕は自分の拳に確かな痛みを与える。消耗戦になれば自分に利はない。
故に、ナハトヴァールの呼吸を敢えて外して、自分の呼吸の間をわざと読ませる。そしてわざと明確な隙を作り出し自分の狙った瞬間に攻撃させる。
呼吸が乱れ、ナハトヴァールがそれを察知するのを感じた。
かくして、ナハトヴァールが自分の狙い通り呼吸を読んで攻撃して来ようとする。そして、自分はその瞬間を狙いすまして震脚を行う。爆発したかの如き音が辺りに響かせながら、地面を強く踏みしめる。
「寸勁ッ!!」
震脚を行い生じた力を各関節を通して加速させながら、拳まで伝達してナハトヴァールの腹部向けて寸勁を放つ。完璧に誘い込み、そこに狙う打つような
「甘い」
ナハトヴァールが、体幹の力を使って体を限界までそらした。普通なら倒れるような角度で体を傾け、そして、そのまま拳を強く握りこんだ。視界の端で、黒い魔力が蠢くのが見える。
「ガイスト・クヴァール」
そして体を起こして返す刀の黒腕での拳撃。それに対し自分は体を沈み込ませそのまま手を地面につけ、そこを起点に足払い気味の蹴りを放ったが、ナハトヴァールはその蹴りに合わせて自分の
離れていったナハトヴァールに小さく舌を打った。
「この化け物が……」
「僕たちは、兵器。化け物では、ない」
「誰もそんな答え求めておらぬさ」
震脚を挟み、活歩の歩法と併用して、地面を滑るように駆けていくと、放たれる黒腕をかわしていく。
間に腰だめの冲垂を挟みながら牽制するが、ナハトヴァールは嘲笑うかのごとく、其れを危なげなく回避していく。
ならば、ともう一度呼吸を外してナハトヴァールを誘い込もうとして、ぬるりと呼吸の間に
「な、に──」
「シュペーア・ファウスト」
ナハトヴァールが、自分が呼吸を外すことを推理し、呼吸のタイミングが切り替える瞬間に、拳を合わせてきたのだ。
自分の驚愕ごと削り潰すように自分の胸部を黒腕が撃った。その完全な不意打ちに防御は間に合わず、胸筋を固めて威力を体の中で少しでも散らそうと試みる。
めしり、と骨の幾つが嫌な音を立てる。
ナハトヴァールの技量が高すぎる。
其の技量は自分やアインハルト、下手すれば『神髄』のエレミアすら上回り、良いところ本気の老師と互角であろうというところ。畳み掛けるように、無尽蔵とも言える魔力が付随している。
ならば、これ以上長引かせることは愚かな選択の筈だ。
次で、終わらせる。
────がしゃん。
金属質な音が響き、もともと薄かった余計な
相手の一挙一動に気を配り、聴勁を使ってナハトヴァールの
息を小さく吐くと、視界から色が一つ一つ抜け落ちていく。鮮やかだった世界が、モノクロに近づいていく。
初めは赤。己の血の色。
次に、黄、緑。遠くに見える守るべき人たち。次々と色が消えていく中、最後にナハトヴァールの瞳の色が残る。オレの見た、リッドの夜空の瞳。
そして、世界から黒と白以外の色が消えた。
「──────は」
──オレの拳は一撃必殺。
──必殺、ただ此れを極める。
敵は、ナハトヴァール。技量の差は大きく、魔力など及ぶはずもなく、ただそれでも倒すと誓った相手。
どんなに不利でも闘志は消えない。消してはならない。
負けることは許されない、そう己に言い聞かせる。
「──往くぞ」
自分が地を蹴って、今までのどの踏み込みよりも早くナハトヴァールの懐に潜り込もうとする。
「
だが、ナハトヴァールは其れまでも読んでいたかのように黒腕を自分に向けてきた。目の前に、黒の魔力の奔流が自分に襲い掛かる。
食らえばひとたまりもなく、間違いなく腕が吹き飛ぶであろう黒腕。そして、自分は其れを迷うことなく左手で受け止めた。
「何……?」
「あ、ぎ、ぐううううっ」
歯をくいしばる。ごりごりと肉が削れていく感覚に耐えながら、必死に己の誇りたる一撃の構えを作る。
──次は要らぬ。一つで決めろ。
地を強く踏みしめる。
足元から各関節を通して力を伝達していく。
──故に、其の八極に二の打要らず────
今までこの因縁を終わらせるために、全てを投げ打ってきたのだ。
親との関わりも、過ごすはずだった何気無い日々も、友人たちとの語らいも、当たり前のようにあるはずの
今までの日々は決して無駄ではない。オレの望みを叶えるに十分であると、そう証明するために、撃つ。
「 ────
『魔拳』の必殺が振るわれた。
其れは、
────届け。
自分の想いを乗せた拳が、あと数センチで到達する。
しかし、突如
「ーーー」
目を、疑う。
自分の无二打が、漆黒の握り拳ほどの大きさの盾により、ナハトヴァールの体の数センチ前で防がれた。
本来は鎧徹しの技術も含まれている其れは、空中で防がれた事により力を伝える先を失い、ただ空中に威力を霧散させる事になる。
拳を交える自分たちの一メートルもない空間に、不意に放たれた、音速に迫る勢いの无二打に対して、極小盾を合わせるという神業。
対象のリンカーコアを食らって魔力を溜め込み、肉体から戦闘技術を模倣することのできるナハトヴァールだからこそ可能な、超技術。
「残念」
驚愕に固まる自分の視界に、黒い閃光が走ったのは一瞬。そして、自分と、ナハトヴァールの決着となる一瞬だった。
ぞぶり、とナハトヴァールの貫手が、自分の胸を貫いていた。
ナハトヴァールの指は其のほとんどが自分の戦闘服の先の胸に沈んでおり、生温かい鮮血を迸らせている。
「…………がはっ、なは、と……」
「これで、決着」
手首が回され、傷口がほじくりかえされる。
そして、指が引き抜かれた。
胸から噴水のように血が吹き出していく。其れを視界に収めながら、自分が地面に崩れ落ちる。
「させない、もう、終わらせる」
其れよりも早くナハトヴァールが自分の首を掴んで吊り上げた。図らずも、一戦目の敗北と全く同じ形で。
遠くで、アインハルトとファビアが自分の名を呼んだ。アインハルトの方は満身創痍をおして自分の元に来ようとしたが、ナハトヴァールに黒い砲撃を撃たれて、吹き飛んだ。
ナハトヴァールが、自分を見つめる。リッドと同じ瞳の色は、どこか落胆したようなそんな雰囲気が見え隠れしている。
「随分、甘くなった、エデルは」
「変わらん、さ……オレは……」
「いいや、
「代わりなど、しない……オレは」
「ならば、どうして──」
ナハトヴァールが
「──どうして、
そんなはずが無い。女だから、殴らないなど、オレは、そんな事をする人間ではない。そんな事が、あっていいはずがない。
ナハトヴァールの目が、細まった。
「昔の、はじめのエデルは、顔を狙った。そして、僕の、言語機能と、融合機能に、大きなダメージを与えた。其れを、お前は知っているはず」
「そ、れは……」
「……驚き、だ。よもや、手を抜かれる、とは」
自分の首を絞める力が増した。女の細腕とは思えない力が首にかかり、骨がみしみしと軋む。脳に酸素が行き渡らず、自分の意識が遠のいていく。
「覇王、空、破断っ……」
旋風が此方へと走った。しかし、それは自分を締め上げるナハトヴァールには当たらず、大きく左へとそれていった。
「エデルを、離しなさい、ナハトヴァール……」
アインハルトが、拳を振り切ったまま睨んだ。ナハトヴァールは、其れを見て、めんどくさそうに高速砲撃を放つ。それは、ボロボロのアインハルトには到底かわせるものではなかった。
だが、黒の砲撃がアインハルトに命中する直前で、虹色の盾に防がれた。
「へ、へへ……セイクリッド・ディフェンダー」
未だ目が虚ろなヴィヴィオが手を上げて障壁を展開していた。その隣にはヴィヴィオを支える様にして立つファビアがいた。
「エデルを、返してもらうで、ナハトヴァール」
ふらり、と胸から血を流しながらエレミアが立ちあがる。
皆が、自分の為に立ち上がろうとしてくれていた。もう動けない程の負傷を負いながらも、それでも自分の為に命をかけようと。
ならば、諦められない。まだ、終われない。
まだ動く右腕の
ヴィルフリッド・エレミアの魔力を編んで作られた鉄腕が小さく軋んだ。
ナハトヴァールが驚いた様に自分を見た。
「この魔力の感じ、
「其れだけが、自慢でな」
にい、と唇の端を吊り上げてみせる。
通常は体の外に展開する魔法陣を、体の内に回路という形で展開する。
常時展開された其れは、神経の下に潜り込み、
つまり、毛細魔力回路を応用すればある程度は肉体の負傷を無視して体を動かせる。
ぎり、と鉄腕に込める力を増していく。
「……そうか、
そう呟くと、ナハトヴァールが初めて表情を浮かべた。
頰を吊り上げ、リッドの顔に全く似合わぬ邪悪な笑みを。
その笑みに、自分も、アインハルト達も全員が悪寒を感じた。それ程の、邪悪な、嫌悪感を催す様な笑み。
「ねェ、エデル、お前なら、
そう言って、ナハトヴァールが、自分の傷跡に手を触れて、体内に、否、体内と同化した
瞬間、ナハトヴァールが何をしようとしているかを理解した。
「
「やめ────」
「一生に一度の、
胸の傷口から、何かどす黒くて冷たいものが流れ込んできた。
明らかな異物。異常な嫌悪感。そして、感じる終焉の予感。
自分では到底作り出せない様な魔力が無理やり
巨大な塊が道を進もうとして、ついに耐えきれなかった様に、道がぶちぶちと千切れていく。
そして、今まで身体強化を制御していた術式が、曲がって、捻れて、砕けて、歪んで、魔力を本来の形ではなく、唯の熱と、爆発という物に変換する。
────ばつん。
頭の中で、何かの音が響いた。
そして、自分の体が投げ捨てられるのを感じた。
ふわふわと宙を飛びながら、体の奥から
足が、腕が、胸が、腹が、肉が、骨が、神経が、体の全てが、震えた。
そして、耐えきれなくなった
「え…………」
其れは、誰の声かは分からなかった。
もしかすると一人だったかもしれない。
もしかすると全員だったかもしれない。
でも、たしかにわかるのは、ナハトヴァールに投げ捨てられたエデルが、夥しい血を流して落ちてきたということ。
「……思ったより、弾けなかった。魔力が少ないから、毛細魔力回路の規模も小さかった……?」
ナハトヴァールが何事かを言ったが、其れも誰の耳にも入らない。
アインハルトが、腕で受け止めたエデルをぼんやりと見つめる。
何時もは不敵な笑みを浮かべているエデルの姿はそこになく、目、口、耳、鼻、体の穴という穴、そして名称のある体の部位全てから血を吹いた男が、腕に収まっている。
意識があるかなどではなく、生きているのかを確かめた方がいいような姿。
「…………エデル?」
思わず、エデルの名を呼びかける。
当然の如く、返事はなかった。
この瞬間、『魔拳』エデルは、文字通り
はい