武を極めた。
其れ丈が今の我が身に許された事だった。
圏境という技術がある。
自分の息使いの他には、小鳥のさえずりしか聞こえぬ森で一心不乱に拳を振るう。
己が気を巡らせ、周囲の状況を把握し、不意打ちなどという戯けた手段を看破する。
それが本来の圏境である。
しかし、『オレ』はこれを極め、完全な体術によって気を支配して世界と一体化することで存在を消滅させる。
認識は不可、結界、魔法すらも無効。
本来は気配を読み取るだけの其れは『オレ』にのみ、はっきり言って無駄に高性能すぎる技術となった。
拳を振るう。
ごう、と風を切り裂く音が聞こえる。
今でこそ自分は八極拳継承者の末席を汚す者となったが未だ若輩の身。日々の鍛錬を怠らず、彼方にある『オレ』へと追いつかなければならない。
玉の様な汗が散る。脚を振り上げそのまま地を踏みしめる。それと同時に舞う砂塵が、自分の視界を狭める。
ゆっくりと瞼を下ろし、息を吐いた。
今日はここまでにしよう。
体から力を抜いて、ダウンを行うが、体の奥からじんじんとした熱が湧き出て、なかなか治りそうもない。
確か近くに水場があったはず、と思い立ちそこらに放ってあるタオルを拾って汗を拭う。
しばらく歩くと滝、というには烏滸がましいような小さな規模のものと水浴びに適していそうな水場を見つける。
今すぐそこに入ってしまいたい、という欲望を感じるが、ここは外。流石に迷いなく衣服を脱ぐのは少し憚れる。
しかし、一度浮き上がった欲望はなかなか収まろうとしない。
軽い圏境で辺りを念入りに探索し、周辺に特に不審な気配がないことを確認する。
一瞬、圏境の端の方に気になるものを感じたが、いつか何処かで感じたことのあるものであるし、問題ないだろう。
「問題なかろう」
そう判断して上着に手をかけた。汗を僅かに吸って通常よりもいくるか重さが増している。
上着を脱げば日々の鍛錬によって鍛え上げられた半身があらわとなる。その肉体には大小様々な傷が走っていて、その人生の壮絶さを表している。
肩を回してコリをほぐすとズボンに手をかけ降ろそうとする。
それとほぼ同時に背後で草木が擦れる音がした。
ぴたり、と服を脱ぐ手を止めた。耳を澄ませば、草木の擦れる音は止まることなく一定のリズムでこちらに近づいてくる。
圏境を使い、再び周辺の命の息吹を探知する。獣の小さく原始的なモノの中に一つだけ異様に大きく強烈な息吹がある。
何故先ほどの自分はこれに気付かなかったのか首をかしげる程に。
「まだまだ自分も未熟ということか」
溜息をつき警戒のレベルを引き上げる。突然の襲撃という訳ではなかろうが、それでも自分の圏境に引っかからなかったのだから相当の手練れであるのだろう。
自然に口角が上がるのがわかる。水面で確認するまでもない、今自分は笑みを浮かべている。
この通常では感じられない闘気を持つこの御仁にこの上ない喜びを感じている。
がさ、という一際大きい音が鳴った瞬間、地を蹴った。速度は一歩で最高速の一歩手前まで辿り着き、二歩目で己が最速へと至った。
拳を握る。
相手が自分を認識していないかもしれないとか、いきなり殴りかかるのは失礼だとか、そんなものはどうでもよかった。
唯、殴り合いたい。
「破ァッ!」
拳を振るう。
八極の技というより自分自身の拳、と言う方が似つかわしい一撃。殺すためでなく、様子見のための一撃。
それでも、内包した威力はそこいらの凡百の者には防げぬ一撃。
その拳は、
「な、なんやいきなり?!」
声を上げたのは、少女。長く艶やかな黒髪をツインテールに縛った自分と同じか少し下の少女であった。
が、関係ない。
弾き飛ばされた虚空で痺れの走る拳をぶらぶらと振った。少し違和感を感じはするが問題はないと判断する。
地に足が着くと体重が全て脚にかかりきる前に膝の力で跳び上がる。
そしてそのまま頭上の木を足場に今度は少女の頭上から脳天めがけて踵を落とす。
「くっ──!」
「羅ッ!」
少女は腕を頭上で十字に交差させ自分の踵を両腕で受ける。その拍子に少女の纏う黒いジャージが容易く裂けた。
ミシ、と少女の腕に圧がかかる。少女の地につけた足が地面に僅かに陥没していく。
これ以上は攻撃は通らないだろう。そう思考すると今度は少女の腕を足場に踵で力を反対に加え、宙返りを行う。
──途中で足を掴まれる。
「なんと」
今自分は中空で宙返りをしながら、少女に足を握られていた。あの自分が踵をはなし、移動に転じようとした数瞬で自分の足を────。
思考が終わるよりも少女の攻撃はずっと早かった。
「せあっ!」
自分を地に叩きつける。最近は測っていないが、ゆうに60キロを超える自分を癇癪を起こした子供が
「──がっ」
口から空気が漏れる。肺が潰され体から全ての空気が出たのでは、とすら錯覚する。
「ちょっと頭冷やしぃ!」
そのまま泉へと垂直に投げ捨てられる。体が野球ボールのように飛んでいき、二メートル程の水柱を立てて体が水に飛び込んだ。
開けたままだった口に冷たい水が流れ込んできて、喉からさらに奥へと入り込む。
「が、がはっ、げほ……」
ゆらりと幽鬼の如く水の中から立ち上がる。
──────強い。
「────は、はは」
思わず笑みがこぼれた。
視線を自分を投げ飛ばした少女へと向ける。
認める。彼女は強い。魔法を使っていないとはいえ自分を投げ飛ばし、攻撃を防ぎ続ける技量と筋力には舌をまかざるをえない。
「は、はは」
頭は物理的に冷えた。体の滲み出るような火照りも幾らかマシになった。その点では相手に感謝しよう。
再び少女の下へと翔ける。
此度は八極の技を持って相対する。
「ふっ──!」
足を踏みしめ、魔力を循環する。震脚、八極拳の
定まった型から力を拳へ伝達する。足から膝へ、膝から腰へ、腰から背骨を通して肩へ、肘へ、そして手首から拳の一点へ。
「寸勁!」
その拳は必殺で、必至。避けきれぬ一撃であり、かの『魔拳』。その拳に彼女は──
「シュペーア・ファウスト!」
ほとんど同威力の『鉄腕』で対抗する。その一撃はイレイザーと呼ばれる消滅の威力を孕んだモノ。
魔拳と鉄腕が交錯し、弾ける。
体が吹き飛ぶ。あまりの威力の互いの攻撃は拳だけでも容易く相手を吹き飛ばしたのだ。
その刹那、一秒よりも短い時間、少女にあり得るはずのない
再び体が泉の中へとぶちこまれる。それは相手の少女も一緒のようで反対側に水滴を滴らせながら立ち上がる少女を視認した。
水面を蹴る。水中にて幾らか速度は落ち、抵抗も強いが戦闘にさしたる影響はない。二メートル以上の距離を瞬時に詰めて、防御の姿勢をとろうとする少女へと狙いをつけた。
放つは寸勁。八極拳において近距離からの高威力の打撃技であり、『无二打』の原型ともされる技でもある。
本日は二度目となるがそれほど簡単に看破できるものでもない。
「──っ!」
にも関わらず、少女は防御の姿勢をといて瞬時に自分との距離を詰めた。それこそ息が触れ合う、と言えるほど近距離に。
「ちっ──」
距離が、近い。
いや、近いのはいい。遠、中距離などの魔法戦に持ち込まれれば自分はなす術はない。しかしこれは近すぎる。
武術にはそれが発揮するに最も良い距離と言うものが存在する。
拳士ならば手の届く範囲、剣士ならそれより幾らか長く、槍ならば一メートル、長くて二メートル。銃や魔法ならばさらに遠く。
それぞれ違った特徴と射程を持っているがこの全てに共通するものがある。
其れは、
剣ならば近すぎると唯の鉄塊に、槍ならば振るうこともままならず、銃や魔法など近づかれればなすすべもない。それは、拳も同じこと。
拳の有効距離は手の届く範囲、それも踏み込み、腕の振りができるという条件が付く。
余りにも近すぎる距離では寸勁は放てない。
ならば、攻撃ではなく、攻撃へと繋げるための布石を打とう。
態勢を落とし照準を少女へとつける。狙うは胸部、そこから全てを崩し倒す。
「
コレは言ってしまえば唯の体当たり。しかし、これはこの様な拳が満足に振るえぬ間に最高の効果を発揮する。
震脚にて加速し、左肩に力を込め硬度を鉄に比肩するまで引き上げる。
「ぐっ──!」
少女の胸部にぶち込まれた靠撃が鈍い音を立てて、防御ごと崩した。それと同時に少女の意外と豊満な胸の柔らかさが肩に伝わる。
ぐらり、と少女のふらついて水面に身を沈めそうになる。その寸前で黒いジャージの胸ぐらを掴み、背後の地面へと投げとばす。
「よっ、と」
少女を投げ飛ばした威力は殺さず、そのまま背後に降り立つ。そして、少女の腹部へと馬乗りになると足を絡めて外れない様にする。
「強いな」
はは、と零れ出る笑みを隠さずに話しかけた。息づかいは荒く、互いの息だけがハァハァと絶え間なく聞こえる。
「アンタは修羅みたいやな」
「武を極められるなら、いっそ修羅でも構わんさ」
そう、言葉を交わして、示し合わせた様に戦闘へ戻る。自分が少女の麗しい顔に拳骨を叩き込もうとする。すると、少女は自由な右手をまるで銃の様な形にすると自分の眉間へと照準を合わせた。
「しまっ──」
「ちょっと我慢してな」
指先から魔力弾が射出され自分の額へと炸裂した。
「ぐっ、が、がぁ……」
意識が昏倒する。少女を逃さぬ様に締めていた足は緩み、体が背後へと倒れていく。
少女が素早く自分から距離をとって再び鉄腕を構える。昏倒した頭でかろうじてそれだけを認識する。
ゆっくりと黒い魔力を纏った徒手が自分へと迫ってくる。今の昏倒した頭では回避は不可能。ただ滑稽に削られるのみ。
「ぐ、ぐがぁぁああああ!」
だから、殴った。
痛みで自分の意識を持ち直すために、殴った足が軋むほどに全力で。
痛みで意識を無理やりクリアにし、相手の攻撃を見極める。
迫る拳から目をそらさず、次にするべき一手を模索する。
迎撃、不可能。今の不利な体勢でイレイザーに打倒する拳は放てない。
回避、できなくもないが間に合わず追尾された二発目は避けれない。
ならば、この体で受けるのみ。
少女のイレイザーに素手でむかい、左右の手を開手にし掴みとる。しかし、勢いは衰えることなく自分の胸を貫かんと迫る。
耐えれば耐えるほど手の平が削れていく。高密度の魔力を収束したイレイザーは魔法維持強度ならば収束魔法に匹敵する。
「舐めるなぁ!」
だが、そんなこと知ったことではない。皮が裂け、肉が抉れ、痛みは常時脳内に
男なら、否、『オレ』ならばこのくらい逆転してみろ。
(きみもうこんなのやめへん?いくらきみでもこの一撃は防げへんやろ)
突然脳内に響く声があった。声の感じからして目の前の少女のものか。
原理はサッパリだが少女は自分に警告を発してるらしい。これ以上はやばいよ、と。
ハン、とそんな優しさからの警告を鼻で笑い切り捨てる。
元から痛みや危険程度で止まれるならとうの昔に足を止めた。
それでも歩き続けたのは、『オレ』の無念の、『自分』の願いのためだ。
だから……。
「オレの、邪魔をするなァア!」
右手を離し左手をこちら側に勢いよく引っ張る。今まで拳を振り抜くために体重全てをこちらに預けていた少女の体勢はこちらに傾いた。
ここだ、ここが正念場だ。
少女が瞬時に倒れた体を立て直すため空中で僅かな魔力の放出を行い体勢を元に戻す。
しかし、それより早く前に空いている右手で少女のジャージの胸ぐらをつかんだ。
「歯ァ食い縛れ」
「──っ!シュペー……」
「させんさ!」
自分の腰を起点に少女の胸ぐらと掴んでいる腕を背後にに叩きつける。背中を思い切り叩きつけると、少女が顔をしかめて僅かに怯んだ。
それを確認すると胸ぐらを掴んだ手は離さず瞬時に少女の腹へと馬乗りになる。
「女の子に馬乗りとは、感心せんよ……!」
「すまんな、麗しい女子と乳繰り合うより、拳を振るう方が好みでね」
ぐいっと少女の胸ぐらを掴みこちらに引き寄せる。その先に用意したのは、握りしめた左拳。
これは必至。避けることのできない少女の顔に炸裂し、勝負はあった。
そう、自分が判断した瞬間、事は起こった。
唐突に掴んでいたジャージが破れた。
「──む」
「ひ、ひゃあっ?!」
そうして現れたのは水に濡れすっかり透けてしまっている白いシャツに透けた先に見える黒の下着。
少女が乙女の声をあげると、自分に馬乗りになられながらも慌てて両手で胸を隠す。しかし、少女はなかなか豊満なモノをお持ちなようで両手では全てを隠しきれていない。
そんな様子を見つめながらぼんやりと頭を巡らせる。
少女の胸ぐらを掴んだのは……確か三度。しかし、その度に押したり引いたりしてたから弱くなっていたのかもしれない。
気まずい思いで頬を掻く。
己に組み伏せられている少女は真っ赤な顔をしてこちらを伺っている。
はぁ、と隠すつもりもなくため息をついた。
「着替え、貸してやろう」
ー ー ー ー ー ー
ぱち、と目の前で火の粉が爆ぜた。
「ほら、焼けたぞ」
目の前でむくれる少女に差し出すのはおにぎり。焚き火で軽く炙り、ショーユというものを軽く塗ってある。あの自分の通うレストランの店主がいうには『焼きおにぎり』とかいうものらしい。
最初は、米を焼いただけのものが何が美味いのかと思っていたが、食えばこれがなかなかイケる。自らで焼いて外で頬張るという風情が味に旨味を加えているのかもしれない。
「あんがと」
少女はそっぽを向きながらも片手で自分の差し出す焼きおにぎりを受け取ろうとする。先ほどまで己と殴り合っていたとは思えぬ白魚のような指だ。
「熱いぞ」
「わかっとるよ」
先ほどまで火で炙っていたのだわざわざ忠告するまでもなかったか。
そう思い少女に焼きおにぎりを手渡した瞬間、跳ねた。
「あっつい!」
何が跳ねたって、少女が何処ぞの道化師宜しく熱さに飛び上がった。その拍子におにぎりを取りこぼすが武で培った反射神経で地面に落ちる前に回収する。
「其方は何をやっているのだ」
呆れながらそう言って、おにぎりを頬張る。ショーユの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「だ、だってあんなに熱いと思わへんやんか!」
若干涙目で睨んでくる少女に密かに溜息をつく。
「自分は前もって忠告をしたはずだか?『熱いぞ』、と」
「したかもしれへんけど今のはあんまりや!想像の範疇をこえとったんよ!」
あんなに強いのに何処か抜けた少女だ。まあ、そんなところに好感を抱かないと言えば嘘になるが。
自分の手に息を吹きかける少女の服装を今一度注視してみる。
自分が
「ほら」
「……熱くあらへん?」
「今度は少し暖かい程度だ」
自分が差し出したおにぎりに恐る恐る手を伸ばし、頬張る。とたんに花が咲いたように笑った。
「美味いか」
「うん、きみ料理美味いんや」
えへへ、と満足そうに笑いながらそう言ってくる。
その笑顔が、一瞬ブレて何かと重なる。
「なした?」
「いや、何でもないさ。それよりこれの調理は簡単だぞ、其方でも五分でつくり方を覚えるさ」
「ほんま?!」
おにぎりを片手に勢いよく立ち上がり目を輝かせてこちらに詰め寄る。
その仕草が、また、ブレる。
(また、だ……。何だというのか、一体)
先ほどから少女が何かと重なる。先ほどので恐らく三度目。こうなんども繰り返していれば正体が分かりそうなものだが、その正体は要として知れない。
「今教えた方がいいか?」
意識を切り替えるためにも少女に問いかけた。すると、少女はしばらくうーん、と考えるような仕草を見せると静かに首を振った。
「いい提案やけど、それより今はきみの名前と何でウチに殴りかかってきたかが知りたいなぁ」
「むぅ……」
胸中を僅かばかりの申し訳なさが支配する。自分の『圏境』に感知されなかったということでいきなり殴りかかったが、自分がやった事はただの暴行だ。たとえ、自分にどんなに大層な理由があったとしても許されないだろう。
「自分はエデル、しがない八極拳士だ。其方をいきなり殴りかかった事については……申し訳ないと思う」
時期紹介をして二重の意味で頭を下げた。謝罪と、挨拶との二つの意味で。
「エデル?えと、ファミリーネームなんかな?」
「いや、生憎名字はなくてね。自分は、エデル。唯のエデルだ」
偽名ではない。自分はそういう家系に生まれている。だから、この名前に疑問を抱いた事はない。
「そっか、じゃあ今度はウチの番やね」
そう言うと少女は瞼を静かに閉じて、右手を胸に添える。先ほどまで鉄腕の魔法を展開し自分と殴り合っていたその拳を。
「ウチはジーク、ジークリンデ・
瞬間、頭に雷が走る。
「えれ、みあ……」
ずっと彼女に見覚えがある気がした。
──知らないはずなのに。
初めて見た魔法を『鉄腕』であると看破した。
──気付けば自然にそう呼んでいた。
忘れようとしてきた。
忘れられるはずがない。
忘れていいわけがない。
『オレ』の記憶の最も深くに居座る『彼女』の事を。
オレが、■した彼女の名を。
かくして『彼女』と『彼』は巡り会う。
ただ時だけを数百年隔てて。